第三話 ヨルベミチコ①
鍵盤をゆっくり押し込んだ時の、コトンという打刻音が聞こえた気がした。目を覚まして間もない私がその音が本当はノックの音であることに気がつくまで、少しかかった。この間聴いた佳波多くんの音が、まだ耳に残っていたからだろう。
繊細で、時々思い切りが良い彼のピアノは聴くと元気がもらえた。彼のレッスンに時々同行させてもらうようになったのは、私がここに引っ越してきて二、三ヶ月ほど経った頃だった。降秋さんの為に絵を描かなくてはいけない。そんな思いで特に切羽詰まっていた時期で、真っ白いキャンパスの前に凍り付いたまま、ただストレスだけを抱えていた私を見た彼は、「レッスンを見に来ないか」と私を半ば強引に引っ張っていった。
「将来を有望されている少年が通うレッスン」という点に少し興味もあったのだろう。期待と共に訪れた場所は、しかしなんてことない住宅街の一軒家で、特別さのかけらも感じられなかった。
「なんだか、思ったよりも普通だね」
そう言った私に、佳波多くんは首を傾げていた。
「もっとすごいところを想像してた?」私が頷くのを見て彼は笑った。「まあ、わざわざピアノの為にこっちに引っ越してきたなんて話を聞いたら、そう思うよね。でも残念、ここには何も特別なものはないよ」
でも、と彼は呟く。
「でも、ここに出したい音があるんだ」
そう答える彼の横顔は、とても誇らしげだった。
再び、ノックの音がした。私はようやくその音の正体を認識し、玄関に向かうと、そこに降秋さんの姿があった。
「すみません、まだ寝ていましたか」
「いえ、大丈夫ですよ。どうかしましたか?」
今日の降秋さんは身だしなみが完璧だ。白髪混じりの髪は整髪料と櫛でしっかりと固められ、ストライプのボタンダウン・シャツにグレーのジャケットを羽織り、足元にはよく磨かれた革靴を履いている。普段から品の良さを感じさせる彼だが、今日はいつも以上だ。
「どこか、行かれるんですか?」
彼の身なりを見て私が尋ねると、降秋さんは柔和な笑みを見せて頷いた。
「少し出かけます。ただ、実は今日別に訪ねてくる方がいまして、できれば皆瀬さんに代理で対応をお願いしたいのですが、今日のご予定はいかがですか」
もちろんご迷惑でなければ、と彼は丁寧に私にお辞儀をする。頭を下げる姿勢すら完璧だ。
「そんな気にしないでください。今日はただのお休みですし、出かける予定もありませんから。むしろ私なんかが対応してもいいんですか?」
「ええ、皆瀬さんも何度か顔を見ている方ですし、彼女も様子を見に来るだけなので問題ありません。もし何か面倒があれば、私に連絡をいただければ、都合を見て戻りますから」
「何度か会っている、ですか?」
「ヨルベさんです」
彼の言葉に私はああ、と納得がいった。
「昼過ぎくらいに訪ねてくると思います。恐らくすぐに帰るでしょう。私の部屋の鍵を開けておきます」
「それはいいですけど……」
「もしもの時はキッチンの二段目に紅茶缶がありますから、自由に使ってください。彼女の好みをちゃんと揃えてあります」
そう言い終え、降秋さんは出かけてしまった。
あっという間に私は一人になった。一階の双子も出かけているようだし、どうしようかしばらく悩んだ末、折角だから彼が勧めてくれたお茶でも飲みながら、彼の部屋でヨルベさんの訪問を待つことにした。
来客の準備は完璧に整っていた。中央テーブルにお菓子が用意され、丁寧に空のティーポットと羊のもこもこした可愛らしい保温カバーが置かれている。キッチンには薬缶、食器棚を開けると一つひとつ綺麗な字で特徴の書き添えられた付箋つきの紅茶缶が規則正しく並ぶ。サービスの行き届いた三つ星ホテルのような完璧ぶりだ。
私は椅子に座り、部屋をぐるりと眺める。部屋の隅にテレビとラグ・カーペットが置かれ、向かいの壁にはモスグリーンのソファ。パステルブルーのカーテンが日差しを淡く染める。特別なものは何もない。一見すると完璧だが、悪い言い方をすれば生活の痕跡がまるで見当たらない。微かな吐息ですら拭い取られ、降秋さんが普段どこで何をしているのかまるで想像がつかない。
ため息をついてテーブルに突っ伏する。唇に触れた髪先を見て、自分の髪が長くなったことに気がつく。こんなことにも気がつかないなんて。以前は手入れが面倒でショートにしていた。ちょっとした願掛けも含まれているのかもしれない。
突っ伏したテーブルの上で、ふと指先を跳ねさせてみる。ことん、と音がして、私はまた佳波多くんのピアノを頭に浮かべる。
レッスン中、課題曲に懸命に向かう彼の横顔はとても充実感に溢れていて素敵だった。彼が師事する【ピアノの先生】は、時折彼が集中の外側へ行った瞬間を見極めては的確にミスを突いた。佳波多くんは譜面をさらうのは上手いが、自己流の解釈から感情的になり過ぎるきらいがあるらしい。気持ちが乗ってくる度にその点を指摘し、彼に理性と感情を使い分ける感覚を覚えさせていた。
彼らはそこに芸術を作っていた。表現を生み出そうとしていた。既存の曲の全てを味わい、その上で我を乗せる。表現者ということばの中で、彼らと私は同じ立ち位置にいる。私も、かつてはあんな風に若いままに絵を描いていた。だからこそ、彼がどれだけ音にのめり込んでいるのか、楽しんでいるのかがよく分かった。
それから、二人の音の表現で面白いのは、彼ら二人の間には必ず「生活音」があることだ。彼の通う教室は、幼い生徒から中高生くらいの生徒まで幅広く、中には習い事というよりも遊びに来ているような子だっていた。グランドピアノが置かれた部屋は勿論区分けされてはいるが、それでも防音は完璧ではない。様々な談笑や、ゲームをする音、時にはレッスンを受けている二人を探す声も聞こえた。私がやってきたことでそれをもてはやすような声もあった。
とにかく自由な空間だ。なのに彼らはまるでそれすら音の一部であるかのように扱っている。
【ピアノの先生】はよく話し合った結果だと言っていた。目覚ましい勢いで上達する彼にスタジオでのレッスンをしきりに勧めたが、佳波多くんは頑なに今の環境でのレッスンを希望したそうだ。先生がいつも弾いている環境で弾きたいと。
勿論先生だって自分の為に弾くことがある。一人篭って作業する時だってあるだろう。だが、佳波多くんは「生活の中で鳴る音」を求めた。それが私にはとても不思議に感じて、それが、彼に興味を抱くきっかけにもなっていた。
「皆瀬さん」
顔を上げると、扉の前にヨルベさんがいた。私は慌てて立ち上がり、お辞儀をした。
「鍵、開いてたから勝手に入っちゃった。降秋さんは?」
「用事だそうです」
彼女は肩を竦め、肩提げポーチと身に付けていたレモンイエローのカーディガンをソファに置いた。青い花をあしらった白のノースリーブ・ワンピース姿になると、彼女は大きく伸びをして私の向かいに座る。
「ワンピースとカーディガンはまだちょっと早かったかしら」
「もうすぐ夏ですし、いいんじゃないですか。暖かくもなってきましたし」
ヨルベさんはリモコンを手に取り、適当なチャンネルを点ける。昼下がりのワイドショーで毒にも薬にもならないような題目をコメンテーターたちが熱く語り合っている。
「紅茶、淹れてもらえる?」
そう言って彼女は私に微笑みかける。アーモンド型の目が細くなると、綺麗な瞳も相まって彼女は少し妖しくなる。相変わらず魔女みたいな人だ。
キッチンの食器棚を開け、付箋つきの紅茶缶を手に取る。流石降秋さんだ。コメントの中に「ヨルベさんにおすすめ」と書かれているものがあったのでそれを取り出す。私や、双子たちの名前も見えた。多分、いつも遊びに来た時に入れてくれる紅茶だろう。
薬缶に火をかけている間、ティーポットの茶漉しに茶葉を適量入れておく。シュンシュンと薬缶の口の笛が、長距離走選手みたいに荒い息を吐き始める。ヨルベさんはその音を心地よさそうに聞いていた。
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