第二話 心残り②


 紅茶を飲み終えて店を出ると、街中の雑踏はまるで私たちを急かすかのように鳴っていた。急ぐつもりはなくても、ただなんとなく私たちはこの場所にいると急ぎ足になる。都心のビルが立ち並ぶ街を一刻も早く出ようと、駅改札へ向かう。

 幸江といつか行った個展の会場はとても静かで良かった。郊外の小さな商店街の中にある小さな二階建ての木造住宅で、一階は個人経営の古本屋が入っている場所だ。隣接する建物と本屋の境にある狭い通路を通り抜けると、二階への玄関と木製の階段が現れる。

 よくある二世帯住宅をリフォームし、下は店舗に、上はそのまま貸し部屋にしたもので、入ると随所に生活の痕跡があった。掛け物のシルエットがぼんやり残る打ちっぱなしのコンクリート壁。踏み抜いてしまいそうで不安になるとても軋む階段。サビの浮いたネジ式の窓鍵と汚れた窓ガラス。

 時間の経過を感じさせるそれらを眺めていると、不思議なことにとても落ち着いた。私はその空間をとても気に入っていた。あの時の個展は確か、私と同じ水彩画を好んで描いている人のものだったと思う。

 自主制作でまとめたイラスト集と一緒に、部屋の隅で製作者がぽつんと座っていたのをよく覚えている。とても穏やかそうな印象を私は抱いた。けれども彼女の描く世界は感情的だった。アクリルの強い色彩を用いたその絵は、今でも私の胸に深く残っている。

 こじんまりとした木造住宅のひっそりとした個展だったけれど、少なくともあの場所と空間は、私にとっては完璧な空間だった。芸術と、色と、感情と熱と。そこには確かに一人の人間が息づいていた。

 いつか、やってみたいよね、と幸江は言った。私も同じ想いだった。結局その夢は、実現することなく終わってしまったけれど。

 どうして私は、もう五年以上も前の話を思い出しているのだろう。ふと我に返ると、雑踏のざわめきが戻ってきた。無言の幸江の背中が目の前にあるのを見て、何か、とにかく何か声をかけたくなった。

 けれど、結局私は改札に着くまで幸江に一言も声をかけることができずに終わった。

 自分の絵のように、拭えない不足感を抱いたまま電車に乗った。扉が閉まって、電車が発車した途端、突然胸が苦しくて息ができなくなった。誰かが声をかけてくれたが、それすら反応ができないくらい、ひどい窒息感に一人席に丸くなって耐えていた。

 今度またヨルベさんに会ってみたら。

 別れ際、幸江は私にそれだけ言った。降秋さんに部屋の仲介を一任されている女性だ。私も引っ越す際に会って会話をした。どこかミステリアスな女性で、なぜ不動産の営業をしているのか少し不思議な人だった。少なくとも彼女は私の事情を知っているだから、何か解決手段を見出してくれるかもしれない。

 でも、それでいいのだろうか。誰かをあてにして、私の中身の問題は解決するのだろうか。ただただ他人を巻き込んで、結局何も変わらなくて、幸江みたいに苛立たせてしまいはしないだろうか。

 ネガティブになるな。ネガティブになるな。何かプラスなことを考えろ。

 必死に自分に言い聞かせるのだが、久しぶりにやってきたパニック状態を抑えることができない。


「羽美ちゃん」


 ノイズみたいな窒息感の中で、その声だけはっきりと聞こえた。私が顔を上げると、そこに佳波多くんがいた。深緑のブレザージャケットに赤いネクタイを結んだ彼の姿は、普段よりも少し若く見える。普段より少し身なりの整った彼の姿の中で、唯一変わらないのはその綺麗な目元くらいだった。

 誰、と同じ制服姿の少年に尋ねられている。クラスメイトだろうか、少し明るく染めた髪が初々しい。普段降秋さんといる時に見せる、彼の奔放ながらどこか達観している姿を見ているからだろうか。今の二人の姿を眺めていると、彼がちゃんと年相応の少年をしていることにホッとした。


「やっぱり羽美ちゃんだ。大丈夫?」


 気がつくと、胸の痛みも窒息感も消えていた。私は一度深く呼吸をしてから、微笑みと一緒に「大丈夫」と答えた。もう大丈夫。


「佳波多くんこそどうしたの、今日休みでしょ、稽古は?」

「これからだよ。でもまさか羽美ちゃんとばったり会うとは思わなかったな」


 そう言って彼ははにかむように笑った。


「でも、制服だよね。学校?」


 彼が答える前に、隣の少年が割り込むように彼の前に躍り出ると、健康的な白い歯を見せて笑う。


「佳波多、今度の合唱で伴奏やるんですよ。あ、俺リョウって言います。はじめまして」


 リョウくんは得意げにそう言うと、佳波多くんの肩に手を回す。佳波多くんは少し照れくさそうだ。


「お姉さんは、佳波多の親戚とかですか?」

 

 そう尋ねられて、どう答えたものか少し悩んだが、シンプルにお隣さん、と答えることにした。


「彼のおじさんが住んでるビルの一室を借りてるの。佳波多くんが一階で、私は二階」


 リョウくんはへえ、と目を細めて隣の彼に目を向ける。年頃の子だし、そういった話題に興味が湧くのだろう。


「じゃあ、俺はここで退散しておこうかな。ピアノの先生ってお前んちの近くだろ、良かったじゃん」


 やめろよ、と佳波多くんは彼を振り払おうとしたが、その前にリョウくんが距離を取り、そのままぺろりと舌を出して笑うと下車する人々の雑踏の中に消えていった。彼の跳ねる茶髪姿を見送った佳波多くんはため息と共に肩を落としていた。そんな彼の仕草を見て私は少し気が楽になる。


「佳波多くんも、ちゃんと高校生やってるんだね」

「どういうこと?」

「いや、いつもはもうちょっと大人っぽく見えるから」


 大人っぽいという言葉は満更でもないらしい。彼はむすっとした顔を浮かべながら体を揺らしている。照れ臭い感情を誤魔化していることはすぐに分かった。彼の時折見せるこういう姿を見ると、とても落ち着いた。


「稽古先まで、ついていこうかな」

「ほんと?」

「たまには、ね」


 私の言葉に、佳波多くんは嬉しそうに頷いた。



 私たちがいつも降りる駅は山と住宅街しかない。散歩する老人の談笑や、買い物袋片手の主婦がママチャリを漕ぐ音が目立つくらいに閑散としている。


「伴奏なんてよく引き受けたね。佳波多くん、そういうのあまりやりたがらないじゃない」

「本当は断るつもりだったんだけど、ちょっとした恩返しの気持ちでね」

「恩返し?」


 佳波多くんはそこで口を閉じた。どう伝えたものか、少し悩んでいるようだった。

 彼は幼い頃からピアノの虜になっている。

 実家を離れ、降秋さんの家に二人暮らしを決めた理由も、尊敬しているピアノの先生の都合に合わせたものだった。可能な限り先生に教わりたいという熱意と、丁度近所に降秋さんが住んでいたことを理由に両親を説き伏せたのだという。将来はやっぱりピアニストになりたいのだろうか。彼の突き進む姿勢を見ながら私は勝手にそう思っている。


「気紛れっていうか、いつも我儘させてもらってるお返しっていうか……。僕の部屋にはピアノはないから、いつでも練習できるわけじゃない。だから学校の音楽室をよく使わせてもらってるんだ。やりたいことの為に学校でも結構我儘させてもらっていてね。だから、こういうことでそれに報いておかないと、将来バチが辺りそうな気がしてさ」

「だから、その恩返しに伴奏を」


 佳波多くんは頷く。


「これまで誰かと一緒にっていうこともなかったから、実はちょっとワクワクもしてる。たまにリョウが聴きに来て寝てたりとかするけど、基本はずっと一人で鍵盤と向き合ってるだけだったから」


 照れ隠しに笑う彼の横顔はとても楽しそうだった。佳波多くんは、今楽しくてしょうがないんだろうなと思う。それが、羨ましかった。


「佳波多くんは、ピアノ、楽しい?」

「楽しいよ。すごく楽しい。ずっと弾いていたくなるくらい楽しい」


 彼の言葉は気持ちが良いくらい素直なものだった。

 私は、いつまで楽しいという気持ちで絵を描いていただろう。彼と同じような気持ちで真っ白な紙と向き合っていた時期が、あったはずなのに、もうよく思い出せない。

 ただ鉛筆を走らせることに心躍らせていたあの頃の熱量は、どこへ行ってしまったのだろう。


「羽美ちゃんは、楽しくないの?」

「楽しかった、のかな」

「微妙?」


 その問いかけに、私はうまく答えられなかった。

 線路沿いの道を二人で歩いていると、金網越しに電車が走り去っていく。ものすごい風と音を携えて線路をリズミカルに転がり、やがて私たちを通り越し、決まった道の先へと真っ直ぐ駆け抜けて、消えた。


「好きとか、嫌いとか、もうそういう感じではなくなっちゃったのかも」


 ただ、描く。

 少なくとも、描くことで私は私たり得ていた。

 生み出すことが自分の全てだと思っていた。描けなくなるまではずっと。


「ねえ、今日の曲は難しいの?」

「ミスが多くても笑わないでね」

「うん、分かってる」


 私の言葉を受けて、佳波多くんは歩調を早めて私の少し前を歩く。

 力の入った両肩を見ながら、人に聴かせることへの緊張を感じて、私は思わず自分の手を見る。

 彼の姿を、私は知っている。

 線路の先に消えていった電車は、今どこまで行っただろうか。

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