第四話 冷めきったスープ②
「皆瀬さん、どうしましたか?」
給水塔とアンテナと、物干し台以外何もない空間で、降秋さんは自分の胸くらいまである柵に寄りかかっていた。
「少し、気分転換がしたくて。降秋さん、てっきり今日は帰らないと思ってました」
「私は外泊が苦手です」
そう言って彼ははにかんだ。
「私も一杯飲もうかな。よければその缶を開けるのを、少し待って頂いてもいいですか?」
いいですよ、と答えると降秋さんは屋上を出ていった。私はおあずけされたビール缶の水滴を指先でなぞるように拭う。
少しして、降秋さんはお酒を持って戻ってきた。桃味の缶チューハイだった。可愛らしいパッケージと降秋さんの組み合わせがなんだかおかしくて、私は思わず笑ってしまう。降秋さんは不思議そうに見ていたので私はごめんなさい、と謝り、でもちょっとイメージが合わなくて、と弁解した。
彼は特に気にする様子もなく缶を開ける。互いの缶の心地いい開封音が夜の静寂に響く。
「たまにはいいですね、外で飲むのも」
「降秋さんに鍵を貰ってから、実はたまにこうして屋上で飲んでるんです。ひどく落ち込んだ時とか、整理がつかなくなった時とかにこうしていると、気持ちがうまくリセットできるので」
双子には持たせていないが、二階の居住者には屋上の鍵も持たされている。何か行き詰った時のリフレッシュにもなるからと降秋さんは契約の時に言っていた。もしかすると、私以外ともこうして会話していたことがあったのかもしれない。
「降秋さんは、甘いお酒が好きなんですか」
私がそう尋ねると、彼は自分のパッケージを見て、最近はこれしか飲んでいません、と答えた。柵により掛かるようにして、降秋さんはまだ明かりの点在する街中を眺めながら、一口飲む。
「桃がとても好きだったんです。私とお酒を飲む時も、サワーとか、桃味のお酒を見つけると好んで飲んでいました。その中でも特にこの缶チューハイが好みだったんですよ」
それは、奥さんの話だった。
「軽いものしか飲みませんでしたが、それでも随分と飲みましたし、強かったですね。結局酔っ払って介抱されるのは私でした」
彼の話を頷きながら聞いていく。手にしたビールを一口飲むと、喉越しの良さに気分が晴れていくのを感じた。年頃が屋上で缶ビールなんて、と今の私の姿を職場の人間や、家族が見たら呆れ果てることだろう。幸江くらいだろうか。軽口を叩きながら付き合ってくれるのは。
「遥ちゃんと佳波多くんを、どうして預かろうと思ったんですか」
手すりに寄りかかると、ひんやりとした冷たさが心地よかった。ふと、塗装が禿げて鉄さびの浮いた箇所を見つけて、私はそこを指先で撫でた。ざらりとした感触が指に残る。
「私は、利己的なんです。自分にとって一番プラスになるものにしか興味がありません」
ほんの少し、手にしていたビール缶がへこむ。
「彼の望む道は素晴らしいものです。感受性も豊かで技術もある。この先きっと立派になっていくでしょう」
「あの潮騒を再現できるような、ですか?」
私の言葉に、彼は黙る。彼の横顔に目を向けると、彼は笑うことも泣くこともなく、ただ、じっと手すりの先に広がる夜景を見つめていた。
やがて彼は缶チューハイを一気に飲み下すと深く息を吐いた。
「そろそろ私は寝ることにします。皆瀬さんも明日はお仕事でしょうし、あまり遅くならないようにしてください」
「私が終わらせますから」
お酒で少し酔って、気持ちが大きくなっているのかもしれない。でも、頭はとてもスッキリしていたし、声も震えなかった。脳裏で、未だ形にならない没のラフ画の山が舞い散っていく。
「あの子たちは、先に進むために歩いています。それは、過去を閉じ込めるために使っていいものじゃないと思うんです」
「皆瀬さんも、先に進みたいのでは?」
「私がまず見つめるべきは、歩いてきた道のほうですから」
ビールを飲み干して、私は降秋さんに向けて笑いかける。
「過去を求める同士、仲良くやりましょう」
うまく笑えただろうか。
降秋さんとの会話から、潮騒の音が次第に私の中に広がり、やがてそれはイメージとなって私の視界いっぱいに広がっていく。
それは、夜の星が水平線いっぱいにまで輝く海辺だった。輝く空に対して、夜の海原は暗く、重たく、孤独で、目の前の彼は暗い波打ち際に立って、度々来る白波に踝を濡らす。
孤独の中で、潮騒だけが変わらず軽快に鳴っている。
「終わらせてください」
夜の海はもうどこにもなかった。硬いコンクリートの床と、塗装の禿げた手すりと、静寂の町並み、そして、飲み干された缶ビール。彼の声で、私の視界は現実に戻る。
「少し、寒くなってきましたね。戻りましょう」
そう言って私は降秋さんの背に触れる。彼は冷たかった。こんなにも穏やかで元気でいるのに、すっかり冷めきったスープみたいに寂しい気持ちが上澄みで揺れている。
「おやすみなさい、降秋さん」
「ええ、皆瀬さん、おやすみ」
「その、できればで、いいんですけど」
そう言って見上げるように降秋さんの顔を覗く。彼は不思議そうに首を傾げて私を見下ろす。
「せっかくだから、遥ちゃんや佳波多くんと同じように、名前で」
変な要望だろうか。呆れられるだろうか。互いに見つめ合ったまま沈黙が続く。
「あなたは、不思議な人ですね」
「そうですか?」
彼は頷く。
「ええ、不思議です」
降秋さんはそう言って、背中に触れていた私の手を取る。あんなにも冷たい身体なのに、その大きな手だけは温かかった。
「羽美さん、貴方が再びキャンバスと向き合えるようになること、私は楽しみにしています。そしてどうか、私の望む絵を仕上げてみせてください」
――羽美さん。
初めて呼んでもらったその響きがくすぐったくて、私は顔を伏せてしまう。低くて、お腹の底から安心できるその声は、とても心地が良かった。
「では改めて、おやすみなさい、羽美さん」
「はい、おやすみなさい、降秋さん」
そう言って私たちは別れた。
部屋に戻り、ミネラルウォーターをコップ一杯分飲み干して、私はベッドに横になった。たった一缶だけのアルコールのせいだろうか、彼が初めて口にした私の名前。その響きを思い出すとなんだか落ち着かない。ただ名前で呼ばれただけなのに、不思議な気分だった。
朝、出かけるところで遥ちゃんと鉢合わせた。
制服とスクールバッグを手にした彼女と、白のブラウスと黒のパンツでまとめた仕事着にショルダーバッグをかけた私。いつもと違う二人の身なりが少し不思議で、私たちは互いに恥ずかしそうに笑ってしまった。
「駅まで一緒にどうですか」
遥ちゃんの誘いに応じて、私たちは二人並んでアパートを出た。
「降秋さんは、ずっと奥さんのことだけだよ」
早朝の通りは学生や通勤する人々で溢れている。決まった道を、決まった方向に流れるように進んでいく。私も遥ちゃんも、その流れに逆らうことなく歩いていく。
「大丈夫、そういうのじゃないよ」
昨日の屋上でのやりとりを思い出しながら、私は肩を竦める。
「佳波多くんは?」
「起きたらいませんでした」
「よかったら、そういう日は私の部屋に来てみない」
私の提案に、遥ちゃんはぱっちりと目を開けて、私のことを見た。大したことじゃないの、と続ける。
「遥ちゃんに、見ていてもらえたらって思うの。私がこれからどうなるか」
「羽美ちゃんが、どうなるか……」
「佳波多くんとか、降秋さんとか、私を見て、遥ちゃんはどうなりたいかを決めればいいんじゃないかな」
幸いここには、進み方の違う人たちが三人もいるのだから。
「私の不安、なくなるのかな」
「それは難しいかな。私たちも不安はずっとあるから。大事なのは、不安との付き合い方だと思う」
遥ちゃんは少し考えるように俯く。
「あの、羽美ちゃん」
何、と尋ねると、彼女は言った。
「私を描いてって言ったら、描いてくれる?」
そう言った遥ちゃんの顔を見ると、ほんの少し薄く乗った唇の紅がきゅっと締まっていた。学生相応の薄い化粧が乗った顔は、まだあどけなくて、可愛らしい。
いいよ、と答えると、彼女は嬉しそうに笑った。やがて駅に辿り着いて、私たちは別れた。
彼女は上り、私は下り。滑り込んできた満員電車に乗り込み、鞄を抱いて吊革を握る。遥ちゃんは座れただろうか、そんなことを思いながら、車内の液晶に表示されるニュースをぼんやりと眺めていた。
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