第一話 バターの匂い③
遥ちゃんと佳波多くんに初めて会った時まず言われたのが「なるべく長くいてね」という言葉だった。とりあえず最短記録を更新する羽目にはならずに済んだが、それでもこのままいけば私も、彼らと同じようにここを去ることになるだろう。
仕事先に着ていくつもりだった白いブラウスを羽織り、デニムのパンツを履いて簡単な化粧をする。二人にコーヒーを淹れる準備をして二人に目を向けると、遥ちゃんはベッドに寝転がり、佳波多くんはアトリエに入って画材を漁っていた。まったく遠慮なしだ。別に気にしないけれど。
「ねえ、羽美ちゃん、できればずっといてね」
「どうして?」
湯気をたっぷり吐き出すマグカップを運びながら私は尋ねる。佳波多くんは受け取ったコーヒーにママレード・ジャムを足して嬉しそうに飲んでいる。遥ちゃんはそれを見て顔をしかめながら、何も足さずブラックのまま飲みはじめた。
「コーヒーにママレードっておかしいと思うんだけど」
「コクが出て美味くなるから、遥もやってみなよ」
「やらない」
私の「どうして」という問いかけは、すっかり忘れ去られてしまったらしい。
二人のやり取りを横目に私はテレビを点けた。チャンネルを回す度、新鮮な情報が私の需要とは関係なく流れてくる。別段面白い番組もなくて切ろうかとも思ったが、今も耳に残る潮騒の音をどうにか今は忘れたくて、私はリモコンをテーブルに置いた。
私は一体、何に怯えているのだろう。
「毎日、似たような事件が続くね」
「数え切れないくらい起きてるからね。もし大したことが起きてなくても、それでかさ増しくらいはできるよ」
「もやしみたい」
「もやしのほうが良いよ。食べられるだけ」
二人の会話を聞き流しながら、私は昨日の【課題】の話を思い出す。
【奥さんが海に溶けていく話】
何度聞いても不思議な話だった。本当に突然、人が目の前から消えてしまうことなんてあるのだろうか。いや、そんなことはありえない。ここは現実で、そんな魔法みたいなことが起きるわけない。
ただ、人の想像力は果てしなくて、降秋さんの話を何度も聞いているうちに、やけに現実味のある【課題】の話を夢見るようになった。
砂浜の感触。じりじりと焼けるような強い日差し。風の生ぬるさ、潮のにおい、それから潮騒。その何もかもが鮮明に、現実と見紛うような夢だ。
その夢で、私は降秋さんになっている。追体験のように私は何度もそこで彼女が溶けていく姿を見た。海の中に消えていく彼女の姿は、降秋さんの語る通りとても綺麗だった。
「羽美ちゃん」
ハッとして顔を上げると、二人が私を見ていた。
「やっぱり聞いてなかったね。降秋さんが来るまで時間あるから、この間の続きをしたいの」
「この間の」
少し考えて、私は察する。先日から始めた似顔絵のことだ。
「いいよ、やろうか」
私の言葉に遥ちゃんは表情を明るくし、さっきまで私が眠り込んでいたスツールに飛ぶように座って準備を始める。そういえば、まだキャンバスを片付けていなかった。まあいずれにせよキャンパスはまだ真っ白なのだからそのまま使って貰えばいいだろう。
仮設アトリエに敷き詰めた遮光用のブルーカーテンから微かに差し込む光が、中央にポツンと置かれたイーゼルの足元を舐めるように照らしている。ふと見ると、壁際のデスクに置かれたパソコンが付けっ放しだ。確か、そう。海の画像を調べていたんだ。
遥ちゃんはイーゼルに置かれた真っ白いキャンバスと、それから足元のバケツに落ちた絵筆を見た。せめてバケツだけでも隠しておくべきだっただろうか。私は普段と変わらない顔をしてイーゼルに立ち寄ると、「水、流してくるね」と足元のバケツを拾い上げた。
「絵は、まだ駄目?」
「うーん、どうだろうね」
それくらいしか答えようがなかった。
「羽美ちゃん、はじめていい?」
佳波多くんは部屋を漁ってこの間使ったスケッチブックをもう見つけて遙ちゃんの向かいにもう一つ椅子を出して座っていた。
「いいよ、私はこっちにいるから。分からないことがあったら声かけて」
仮設アトリエの中心に双子たちは向かい合うように座った。きちんと削られた鉛筆を持って、少し照れ臭そうにしながら互いを見つめ、やがて鉛筆の走る音が聞こえ始める。
鉛筆の芯が紙上を走る音を聞きながら、二人の姿をベッドに腰掛けて眺める。
ここに引っ越してきてからすっかり二人の絵描き場になってしまった。
本当なら、ここで絵を描かなくてはいけないのは私だ。美術画でもイラストでも、なんでも良い。降秋さんの【課題】に取り組まなければいけないのに。いや、そもそもの私が抱えている問題を解決しなければ、仮に描き始めることができたとしても最終的に行き詰まってしまうわけだが。
結局、三ヶ月経った今も私は当たり前のように平日を仕事に忙殺され、休日は専ら友人と遊びに出かけたり双子たちや降秋さんと過ごしている。住居が少し不思議なだけで、至って変わらない日常だ。
二人が楽しげに似顔絵を描く姿を眺めるのは好きだった。私は彼らの描く行為に特に何もしないし、指摘もしない。聞かれたら答えるくらいで、自由だ。だって彼らはまだ、ただ描くことが楽しい時期なのだから。上手くいかないというもどかしさも、完結しないことへの苦しみもない。そこに何か苦しみをトッピングする必要が果たしてあるだろうか。
「ねえ、羽美ちゃんこれどう?」
佳波多くんが描いた絵は、相手の特徴を捉えていて面白い。少し誇張しすぎな印象もあるけれど、そこには独特で豊かな感性が秘められている。真面目に、そこにある輪郭を丁寧に描き出そうとする遥ちゃんに対して、彼は大枠から欲しい要素を取り出してキャンバスを埋めていく。そっくりでも、二人の感じ方や好みは180度違う。二人を見ていて飽きないのは、そういうところだ。
私は頷きながら佳波多くんに微笑みかける。
「うん、良いんじゃないかな」
「羽美ちゃんそれしか言わない」
「本気で指摘したら佳波多、きっと泣いちゃうよ」
「流石に泣きはしないよ。遥じゃあるまいし」
二人のやりとりを笑いながら眺めていると、ノックの音がした。
玄関に目を向けると、そこに降秋さんの姿があった。
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