第一話 バターの匂い②
「やあ、おはよう、羽美ちゃん」
「羽美ちゃん、おはよう」
「遥ちゃん、佳波多くん、おはよう。どうしたの、こんな朝から」
「その前に、佳波多がいるのにその服装はどうなの、羽美ちゃん」
「まあいいじゃない。大したものは持ち合わせてないから」
そう言いながらも私はキャミソールの襟をそっと上に寄せる。大して意味のない行為に遙ちゃんはまた呆れ、佳波多くんは苦笑する。
「羽美ちゃんが例え構わないとしても、俺は困るよ」
「ああ、ごめんね。朝からバタバタしてたから」
「バタバタしててもシャワーは欠かさないよね」
「死んじゃうよ、シャワーがないと」
当たり前だ。遥ちゃんくらいの年頃ならそこまで気にしなかったと思う。でも、それが通用するのは高校生までの話だ。一度化粧と酒が解禁されると人は朝のシャワーがとても尊いことに気がつき、そして同時に酒が狂わせた生活バランスが毒のように後から効いてくることを悟るのだ。
彼女もいずれ、そのことに気がつく日が来るだろう。
「それで、私とても急いでるんだけどどうかしたの?」
私が二人に尋ねると、遥ちゃんと佳波多くんは顔を合わせ、いたずらっぽく笑うとそっくりな顔をこちらに向けた。
「今日は土曜日だよ」
ああ、そういうこと。私は合図もなくぴったり同時に言われた二人の言葉を聞いて肩を落とす。何故自分が夜遅くまでキャンバスの前で粘っていられたのか。目が覚めた時点での自分の状況を考えていれば、すぐに行き着けた答えだ。
「羽美ちゃん、間違って出勤しちゃうんじゃないかって話をしててね、やっぱりだった」
「言われてなかったら出かけてたよ。もう、最悪」
「貴重な休日を朝から満喫できると思えば良いじゃん。四、五時間くらい得したね」
「午前中はいつも寝てるみたいな言い方しないでよ」
「だいたいそうでしょ」
否定はできないけど、そういうだらしない面はできれば露呈せずにおきたい。
ちょっとした虚勢を見破られ、私はわざとらしく下唇を噛みながら佳波多くんをじっと睨む。休みだと気がついた安堵感と、折角の休みにこんな早く起きてしまった勿体さが合わさって、なんだか心がもやもやする。手持ち無沙汰な気持ちを乾かしきれていない髪をまとめることに使いながら、私は深くため息をついた。
まだ愉快そうな双子に目を細めていると、また香ばしい香りが漂ってきた。恐らくこの匂いは上の三階からだろう。私の視線に気がついた佳波多くんは頷いて階段を指さす。
「降秋さん、今はお菓子作ってるよ」
「挨拶行った?」
「いい匂いがし始めたから、さっき行ってきたよ」
私は奥の階段に目を向けた。
最上階である三階へと続く小さな踊り場に取り付けられた小さな窓から、曇り一つない青い空が見える。私も身なりを整えたら挨拶に行こうか。でも、昨日の夜だって私は降秋さんの部屋にお邪魔していたし、連日のようにお邪魔するのも迷惑ではないだろうか。
「昨日の夜も、聞いてたの?」
「え、何を?」
「海の話」
私の表情を見て、遥ちゃんは返答を聞くまでもなく察したようだった。
「実は降秋さんから伝言を受けたの。昨日の今日で来づらいかもしれないけど、もし暇だったら、羽美ちゃんもどうかって」
「二人も?」
二人は頷く。
「私も、佳波多も一緒」
なら、いいか。二人がいる時に海の話や私に与えられた【課題】の話はほとんど出ない。いや、出ないというよりは「出さない」のほうが正しいか。
「じゃあ、お言葉に甘えて行こうかな」
やった、と遥ちゃんと佳波多くんは顔を綻ばせる。年相応の喜び方をする二人を見ていると、私も不思議と心が和らいだ。
「二人とも、よかったらお菓子ができるまでうちで待つ?」
始めからそのつもりだったのだろう。言い終わるとほぼ同時くらいに、ぴったり同じタイミングで二人は頷いた。私肩を竦めて笑い、二人を部屋に招く。
遥ちゃんと佳波多くんは、学校の事情で一時的に二人暮らしをしている高校生だった。実家から登校が困難な私立校を志望した為だという。
家族での引っ越しも考えたそうだが、建てたばかりの一軒家を引き払うわけにもいかず、結局、近くに住む叔父の降秋さんが持つこの三部屋しかないアパートの一番下の階を間借りすることになったという。時々降秋さんや私と食事を取っているが、金銭を除いた普段の生活は二人でうまくやりくりしているそうだから、普通の高校生に比べたら十分立派だと思う。
双子と降秋さんに挟まれた二階のこの部屋も、私が住むまでたくさんの人たちに貸し出され、男女年齢問わず住んでいた。けどその住人のほとんどは三ヶ月、良くて半年ですぐに引き払ってここを出て行ってしまうらしい。
皆、降秋さんから提出された【課題】にうまく応えられず、力不足を感じて出て行く。
そして丁度、私はその部屋に住み始めて三ヶ月目を迎えた。
【課題】はさして難しいものではない。降秋さんから細かい要望があるわけでもないし、【課題】への回答方法も様々。体裁もジャンルも自由だ。更に言えば〆切も設けられていない。
降秋さんは回答に辿り着けなくても「別にそのままずっと住み続けても構わない」と言うそうだ。だが、これまで【課題】は提出されたことがなく、この部屋に住み続けようと思う人もいなかった。
降秋さんの事情と要望に真正面から向き合った時、誰もが理解してしまうのだという。
自分には、彼は救えないということを。
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