第一話 バターの匂い①

 バターの焼ける匂いは偉大だ。どれだけ眠気を抱えていてもあの匂いがひとたび鼻先を掠めると途端に意識が覚醒するのだから。花より団子とはよく言ったものだが、睡眠欲よりも食欲が勝つ日が来るとは思っていなかった。

 私は周囲を見回す。まったく、よくもまあこんな状態で眠れたものだ。床一面にブルーシートを敷いただけの簡素なアトリエ・ルーム。その中央にはイーゼルとスツールが佇み、部屋の隅には引っ張り出してそのまま使わなかった画材が散らばっている。

 私はその画材たちと、イーゼルに立てかけられた真っ白なままの手付かずのイーゼルを見て、ようやく自分が一体どのような状況で眠りに落ちたのかを理解した。


 私は、また描けなかったのだ。


 簡素なアトリエから隣のリビングダイニングを覗き込むと、壁掛け時計が七時を示しているのが見えた。私を起こしたあのバターの香りはおそらく三階に住む家主のものだ。

 この住居の家主である降秋さんは、寝覚めが良かったり気分が良いと何か作り出す癖がある。今日もおそらく夢の中で彼女に会えたのだろう。

 一度大きく伸びてから全身を一つ一つほぐしていく。冷たく固い床で寝ると全身が石にでもなったみたいに凝り固まるし、正直あまり寝た気にならない。それにしても、私はまたなにも描けないまま眠ってしまったのか。取り落とした絵筆は用意してあったバケツに浸っていた。バケツに足を引っ掛けて汚れた水に浸ったまま寝ていた時よりはマシかもしれない。

 いくらほぐしても凝り固まったままの肩を何度か回し、私はリビングに移ってカーテンを開ける。リビングの中央に置かれた簡素なローテーブに、無造作に放られていた袋から食パンを一枚取り出すと傍のトースターに押し込み、部屋の隅に置かれた電気ケトルに水を注いでスイッチを押す。

 パンが焼けるまでに熱いシャワーを浴びたい。突如脳裏で湧き上がった欲求のまま私は浴室へ向かう。なんとかしてこの凝り固まった気怠い感覚を流し去りたい。


––ざあ、ざあ。


 浴室へ向かう途中、何度か耳を塞いだり側頭部を軽く叩いてみたが、未だにあの音が頭に残っているように感じる。いつも降秋さんから【あの話】を聞くと耳の奥で潮騒が鳴っているような気分になるのだ。悪くないけれど、同時に何か責め立てられているようにも感じて、複雑な気分だ。

 衣服を洗濯機に投げ込んで浴室に入る。シャワーを浴びるだけで少しは気持ちが楽になるだろう。熱湯が冷えた体をじわりと解していく。たっぷりと湯気が充満し、雨音のように床を叩くシャワーの音の中で、私は目を閉じて耳をすます。


––ざざあ、ざざあ。


 ああ、洗い流そうとしてもこの潮騒の音はまだ消えてくれないようだ。



 新しい住居に引っ越して、三ヶ月経った。

 降秋さんから度々聞く【あの話】のせいで、寝ても覚めても潮騒の音が聴こえる。いや、潮騒だけではなく、今では夢も見るようになった。私が実際にそこにいた事実はないはずなのに、私は降秋さんの目線から【あの話】を想像し、彼女が実際に溶けて消えていく瞬間を夢の中で見ることができる。

 シャワーを終え、タオルを被ったまま洗面所の鏡に目を向ける。曖昧な輪郭だ。特に目元なんてすっかり落ち窪んで沈んでいる。疲れていますって顔を出かける時間までにどうにか誤魔化せるだろうか。とりあえず、いつもより厚めに化粧を塗ろう。

 下着姿のまま浴室から戻ると、トーストがこんがりと焼けた顔をひょっこり覗かせている。火照ったケトルをマグカップに粉末タイプのインスタントコーヒーを淹れ、焼き立てのトーストにママレード・ジャムとマーガリンを塗る。ベッドとローテーブルの隙間に収まるように体を丸め、もそもそ食べるのが私のいつもの朝食の風景だ。

 この食べ方で美味しくなるかといえば、別にそういうわけではない。仕事の日はとにかく、何かなんでも食べておかなくちゃ動けないからと無理矢理に押し込むように食べていた当時、それでも喉が通らない時があり、なら体も隙間に押し込んでみたらいいと窮屈な食べ方をして、それが今も常態化しているだけだ。食欲のない時でも体の奥にぐりぐりと無理矢理入っていく様な感覚がして、今では癖のように体を縮めるようになってしまった。

 窓から差し込む光に目を向け、そういえば洗濯物をまだ干していないことに気がついた。昨日の夜にたっぷり詰め込んでタイマーを設定したからもう干される準備はできているはずだ。さっき寝ぼけて寝巻きを放り込んでしまったが、今取り出せばなんとかなるだろう。しかし残念なことに今の私には悠長にできる時間はない。食事を終えたら着替えて、髪を整えて、化粧を厚く塗らないといけない。特にこの厚く化粧を塗る作業にはとにかく時間が掛かる。日常に溶け込む準備をするにはあまりにも余裕がない。ごめんね洗濯物たち、帰ったらまた手入れをする、恨むならゆっくりと過ごせない平日の朝を呪ってくれ、と洗面所に無言の視線を投げかけ、手元のインスタントコーヒーをぐっと飲み干した。

 コーヒーを飲み干すのとほぼ同じくらいのタイミングでノックの音がした。パン屑を手で軽く払い、そばのキャミソールを被って玄関に向かう。来訪者の予想はなんとなくついている。

 玄関扉を開けると、そっくりな顔だちをした男女がにこにことそこに立っていた。どちらも細長い綺麗な目元とまつ毛をしている。顔立ちもそっくりなのだが、特に目元が似ている。少年は私を見て口元に笑みを浮かべ、隣の少女は緑フチの眼鏡越し呆れた視線を私に向けた。


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