彼女が海にとけていく
有海ゆう
序章 彼女が海にとけていく
彼女が海に溶けていくのを、僕はただ砂浜から見ていることしかできなかった。
白波が足先をさらう度にゆっくりと彼女は損なわれていった。痛みは感じないらしく、彼女は膝まで海に浸かりながら、まるでその足先がはじめからそこに存在していなかったかのように、自然に振舞っている。
彼女は振り返り、砂浜の僕を見て優しく微笑んだ。この人は自分の身に起きている出来事を知らないのではないかと思うほど、その笑顔は穏やかなものだった。薄く開いた切れ長の目と、ほんの少し口角の上がった赤い唇。きめの細かい陶器のような白い肌と、卸したてのような真っ白いワンピース。僕がはじめて彼女と出会った時の姿だ。どれだけ彼女が損なわれても、小さく溶けてなくなりつつあっても、彼女は完璧で、美しかった。
「こんな寒い日にワンピースを着るなんて」
僕はそう言ったけれど、彼女はいいのよ、と答えた。
「ねえ、今日はとても空気が澄んでいて綺麗ね」
彼女の言葉を聞いて、僕は彼女の後ろに広がる景色に目を向けた。群青の海に粟立つ白波、目が覚めるような青い空にざらりと濡れた浅黒い砂浜。他には何もない。山も、建物も、車や船も。ここには僕と、溶けていく彼女と海だけだ。
「綺麗だね」
でしょう、と彼女は微笑む。
「でも、君はいなくなるんだろ」
彼女の身体は、もう太腿の半ばまで損なわれていた。ワンピースが波に揺れ、砂で汚れていく。しかし、それでも彼女はただ、僕に向かってずっと微笑みかけている。
「降秋くん、私がいなくなったら、寂しい?」
「寂しいに決まっているよ」
僕の答えに、彼女は首を振り、そしてまるで聞き分けのない子供を諭すかのような口調で僕に言った。
「いつか来る別れが今だった。それだけのことなのよ」
やがて、彼女は水面に向かって歩み始める。損なわれた身体のまま器用に。指先が触れると共に、彼女の人差し指もまた、海に攫われてとけていく。
「でも、僕はできるなら、もっと君といたい」
僕の言葉に彼女は振り向く。彼女は困ったような顔のまま口元に笑みを浮かべていた。
「嬉しいけど、残念。私たちは、ここで互いに損なうって、ずっと前から決まっていたの」
「君は、どこへ行くの」
僕は尋ねる。ワンピースが白波と共に水面で揺れる。
「降秋くんの知らないところ。でも貴方はきっと、私を見つけ出すのでしょうね。なんとなく、そんな気がするの」
とぷん、と水の跳ねる音が聞こえた。
小さな水しぶきはやがて潮騒に呑み込まれ、もぬけの殻になったワンピースだけが水面に揺れていた。僕は波打ち際へ歩み寄り、屈んてそのワンピースを拾い上げる。ワンピースにはまだ、彼女の残り香があった。この匂いもやがてとけて、海の匂いに変わってしまうだろう。
僕はもう誰もいなくなった海を遠く仰ぎ見て、彼女の名前を囁いた。
返事は、潮騒だけ。
当たり前だ。彼女はもう、僕の知らないところへ行ってしまったのだから。
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