第一話 バターの匂い④
「おはよう、皆瀬さん。二人をありがとう」
「降秋さん、おはようございます」
大柄でがっちりとした体格に似合わない可愛らしいデニムのエプロンを身につけて、降秋さんは柔和な笑みを浮かべていた。綺麗に剃られた顎を無骨な指で撫でながら靴を脱いで私の傍までやってくると、アトリエの二人を覗き込む。
「二人とも、進捗はどうです?」
「ねえ、どうかな?」
積極的に見せにいく佳波多くんに対して、遥ちゃんは恥ずかしそうにスケッチブックを閉じて胸に抱いていた。また、納得できる絵になっていないのだろう。降秋さんはそんな遥ちゃんにウインクを一つすると、佳波多くんの絵に興味を向ける。
「私にはあまり知識がありませんが、いい絵だと思いますよ。感情が出ている。流石はピアニストといったところかな」
降秋さんは大きな手で佳波多のスケッチブックを手に取るとそう答え、片手てピアノを弾くジェスチャーをする。佳波多くんは彼の評価を嬉しそうに笑って受け取った。
それから降秋さんは視線を私に向ける。とても力強い眼差しだ。この目を向けられる度、お腹の奥がグッと押されてかあっと熱い気分になる。。
「皆瀬さんの絵も楽しみにしていますよ」
「あの、はい……」
上手い返事が見つからなくて、私は俯く。
私の不安を感じ取ったのか、降秋さんは目元を優しく細めて微笑むと私の肩に手を置いた。とても大きくて、しっかりして、手の温かさが私の体にじわりと染み込んでいく。
「焦らせてしまったならすみません。本当にゆっくりとでいいんです。私はもう、かれこれ数十年待ち続けています。今更急ぐつもりはありません」
「ありがとう、ございます」
目を逸してしまう自分に嫌気がさす。でも、仕方がない。私には、彼の目をまっすぐに見て期待に応えられるようなことを、まだ何もしていないのだから。ただ条件に甘え、環境に甘え、温い生活に身を落としているだけの堕落者に過ぎない。
「さて、皆瀬さんも構わなければ、上でお茶にしませんか。色々と準備をしましたし、折角なら多い人数で食べたほうが楽しいですから」
「羽美ちゃんも来てくれるって」
「そうですか、それは良かった」
降秋さんは両手を合わせて声を弾ませる。
では、上で待っていますね、と彼は部屋から一足先に出ていく。スツールから立ち上がった遥ちゃんは傍にやってくると「羽美ちゃん行こう」と言って腕をぎゅっと抱き締め、ぴったりと身体を寄せる。猫のような無邪気な彼女の頭に触れると、柔らかなシャンプーの匂いがした。
双子を連れて三階へ向かうと、バターの香りの他にも沢山の空腹を誘う香りがどんどん漂ってきた。開け放しのドアを一応二、三度ノックしてから足を踏み入れる。
部屋の中央には長方形のテーブルと椅子が四脚用意され、クロスと食器でセッティングされたテーブルにはすでに人数分のスープと、作りたてのパンケーキがカットして置かれていた。私たちが椅子に腰掛けると、降秋さんは三人それぞれにケーキを配膳していく。遥ちゃんは少なめ、佳波多くんは多めに。私に取り分ける時は「このくらいは食べれますか?」と確認して。
「実は焼き菓子も作っていてね、もう少しで焼けるでしょう。さあ、頂きましょうか」
彼の作ったお菓子を振る舞われながら、私は部屋の片隅に目を向ける。
立派な写真立ての中で降秋さんと奥さんが笑っている。つばの広い麦わら帽子と薄い水色のワンピースを身につけ、その背後には海が広がっている。
二十年近く前に行方を晦まし、死亡認定を受けた彼女のことを、降秋さんはまだ想い続けている。どれだけ慰められても、どれだけ励まされても、他の女性を紹介されても。彼はたった一人消えた妻の姿を追い求め続けている。
降秋さんは契約時、これまでと同様に私に一つの入居条件を付けた。入居している間、自分の為に一つ作品を作って欲しいという【課題】を。
これまでも様々な芸術家にそのテーマを提案したが、結局彼の望むものは生まれず、今もこの住居は人を入れ替え続けている。
果たして彼の望む絵を生み出せるかは分からない。ただ、少なくとも彼の話を聞いて、とても興味が湧いた。今まで失っていた「描いてみたい」という感情の火が、心の隅で点くのを私は感じたのだ。
『海辺でとけて消えた妻の話』
夢心地のような体験を、降秋さんは今も信じ続けている。
あの日、妻は確かに海へとけていったのだと。死亡宣告を受けても尚、彼はその話を真実として語り続けている。私は、そうして選ばれてきた人たちの流れを受け継いでやってきた、何番目かの住人だ。学生時代に描いた絵をきっかけに誘われ、今に至る。
ただ、この条件を達成する為には一つ、私が抱える心の欠点を克服する必要があった。降秋さんにも既に告白していて、同時に私はこの病を治すことも目的の一つとして、ここに住んでいる。
私は、最後の一筆が入れられない。絵を描き終われなくなってしまったのだ。
どこまで塗っても終わりが見えない。それでもと塗り続けてみたこともあったが、結果は惨憺たるものだった。次々と足された色はやがて元あった輪郭を壊し、色彩を壊し、最後には私も壊れた。
「そんな私でも、契約は可能ですか?」
そう尋ねると、降秋さんは笑いながら頷き、そして一言「構いません」と口にした。貴方に描いてみて欲しいと言ってくれた。
「羽美さん、お口に合いましたか?」
我に返った私は、彼を見て大きく頷く。
「とても美味しかったです」
降秋さんは穏やかな笑みを浮かべ、次の焼き菓子の用意に取り掛かり始める。双子たちはすでにパンケーキを食べ終えて紅茶を飲みながらゆったりと談笑している。
私はパンケーキにナイフを入れる。
私に彼の望むものが描けるのかは、正直分からない。ただ、一度挫折した自分がまた描けるようになって、その自分の描いた絵が誰かの役に立てるのなら、やってみたいと思った。
そして、何よりもあの潮騒の音に惹かれている自分がいる。
降秋さんのあの話を、絵にしてみたい。彼女が海にとけていく光景を、私の手でかたちにしてみたい。それが、私の救済にも繋がっていると思うのだ。
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