第6話 祈り

「いい加減分かりなよ」

「……」


 黙っているだけなのか。言葉が喋れないのか。僕には分からないけれども、まるで身の中に渦巻くナニかを吐き出したいとばかりに僕は言葉を続ける。


「きみって馬鹿なの? その純潔を無残に散らされて、気紛れにその身体を無理やり開かされて、普通の人間なら死んでいても可笑しくない激痛や怪我を負って。それでもどうして……きみはそんなことを願うのさ」


 僕の問い掛けに彼女は死んでいるようにただ虚空を見つめるだけで。

 苛立って苛立って仕方がない。

 けれど、どうして僕はこんな小娘如きに言葉をかけているのだろう。反応なんてないのは分かりきっているのに。

 でも、だって。気になるんだ。


「祈りの願いを言葉に籠めるなんて、馬鹿らしくて無駄なことだよ? きみだって本当は分かっているんでしょ?」


 苛立ちを紛らわせるように肩を竦めて、僕は契約者である魔女、ジゼ・ガゼットを見た。

 月が夜空で一番上を飾っているその間、『禁忌の魔女』である少女達は少しばかりの休息を許される。

 だからこそ、本来神に身を捧げた人間が禁止されている無体を、青目の悪魔の魔女も強いられていたのだけれども。

 昼間は戦わされ、夜は地獄のような時間を送るだなんて、可哀想だよね。

 まあ、そんなこと僕には興味なんてなかったけれども。

 今興味があるのは彼女だけ。

 僕の言葉に何も返さずピクリとも動かないジゼ・ガゼットだけだ。

 苛立ちを感じながら言葉だけは止まらない。


 だって、ねぇ? 馬鹿らしいよ。


 焼かれる程の悪魔が出るくらい、悪魔から見ても少女達は酷いことをされているのに。人間としての自尊心を奪われているというのに。

 無理やり連れ去られ、足を開かされ、いつか出会う筈だった好いた男以外に純潔を散らされて。

 周りの少女達は高潔な魂を持ちながらも、虚ろな表情で『魔女』らしく人間をただ言われるがままに呪っているというのに。


「絶望してるんでしょ? 復讐したいくらい憎んでるんでしょ? きみをこんなおぞましい『魔女』に変えてしまったあの男達や、きみを見捨てた僕を引き裂いてやりたいって、本当はそう思ってるんでしょ?」


 そうだと言ってよ。そうじゃなきゃ嫌だ。

 そんな駄々を捏ねる子供のようなことを言う。

 だって、人間は自分勝手な生き物じゃないか。祈りとは呪いに変わりやすいように出来ているじゃないか。


「どうしてきみは……その原因さえも幸せあれと願うのさ」


 ジゼ・ガゼットは呪いの言葉を吐くその瞬間、ほんの少しだけ自我を保って祈りの感情を乗せている。虚ろな、死にかけの心だろうに感情を維持していること自体、物凄い精神力だ。

 彼女は呪いたくないと。人々よ幸せであれと。

 何もしてくれない神に祈るように、擦り切れた心を更にすり減らしてでも祈りを込めている。

 そんな感情、ここに居る『禁忌の魔女』の発する呪いに打ち消されて終わりだっていうのに。

 どうしてきみは。きみだけは。


「……ふのかんじょうは、じぞくしないの」

「え?」


 ジゼ・ガゼットが不意に言葉を発した。

 呪い以外の本当の声を聞いたのは、彼女が僕に助けを求めた時以来だと思う。


「にくいけど、ころしてやりたいけど、でも、つかれてしまった。もう、おわってほしい。ただ、それだけ」


 今まで何を言っても、何をされても、黙って聞いているだけだったジゼ・ガゼットは虚空に向けていた瞳を緩慢な動作で僕に向けて、ゆるりと喋った。

 それだけでも僕は驚いた。何せその瞳は死んではいないのだ。生きていると、そう表現した方が良いくらい。

 その瞳が綺麗で。あまりに綺麗で、思わず見惚れた、なんて。

 そんな悪魔らしくない感情を抱いてしまった。


「あなたが、わたしをみすてたとき、あきらめはしたけれど、きぼうはすてたくなかった」


 ゆるりと拙く喋るのは長らく会話という行為を許されていなかった為か。

 けれど僕が気になったのは、拙い喋り方ではなく、その言葉。

 見捨てた。と、彼女はそう言った。

 そう、そうだよ。僕は彼女を、ジゼ・ガゼットをあの日、見捨てたんだ。

 ジゼ・ガゼットという人間が『禁忌の魔女』にされるその瞬間を一部始終見て愉しんでいた。長く続く時の中で、少しばかりは良い暇つぶしが出来たと、確かに喜んでいた。


 ――それはつまるところ。


(彼女を犯して魔女にしたあの醜悪な人間達と僕は……同じなのかな?)


 まだ何か言いたげな彼女に僕は耳を傾ける。拙い喋り方は少しだけ聞き取りづらかったけれども、その内容の方が気になって、そんな些細な事は気にならなかった。


「わたしは、わたしのださんで、いのりをこめるの」


 かみさまのもとにはいけない、このけがされた、からだと……こころで。


「ひにくよね」


 本来なら月の光のような銀色だろうに、今は煤けた長い睫毛を震わせてぱちりと瞬きをした彼女は力無く、本当に微かに、微笑んだ。

 憎しみの対象のひとつである僕に。何の衒いもなく。何の負の感情もなく。


 ――ただ、微笑んだんだ。


 その笑みの暖かさは『魔女』のモノでも、『人間』が出来るモノでもない。

 穢らわしき白を纏い、楽園から自ら追放した筈の『イヴ』を求め続けている狂い神を思い出して吐き気すらした。


(――嗚呼、なのに、)


 その瞳が濁らないことに心が苛立って堪らない。

 決して死なないその瞳は濁りを知らない。

 悪魔のしもべとしても、眷属としても、絶対に相応しくない。

 初めて彼女を見た時の神聖さを帯びた紫の瞳が僕を力なく見つめる。

 縦に割れた瞳孔を持っていても、彼女の魂は清らか過ぎる程に清廉だから、彼女が知らないだけでジゼ・ガゼットの魂は神の元に逝ける。

 それを彼女が知ったらどう思うだろうか?

 今すぐ殺してくれと乞うのか。舌を噛み千切ってでも自ら命を絶つのか。

 それとも、……それとも、僕を責めるのか。


「嗚呼、それは嫌だなぁ……」


 ぽつりと思わず零れていた言葉。

 彼女の瞳は何度も、何度見ても綺麗で、まるで本物の宝石のよう。

 甘くとろける蜜のようで、見つめていると強い酒を飲んだ時の心地好い酩酊感を感じる。


(まさか、見惚れるなんて……)


 僕の悪魔としての感情が揺れていることには気付かず、僕なんかには構わず、彼女は続ける。


「わたしは、はやく、ぜんぶおわるように、いのるだけ」


 けがれたわたしができるのは、おわりをまつ、それだけだから。


「いつか、あなたにたましいをあげるとき、わたしはほんとうのいみで、かいほうされるの」

「解放?」


 疑問の言葉には答えられず、ジゼはそれだけを言うと疲れたのだろう。眠ってしまった。

 あれだけ酷使されたにも関わらず穏やかな寝息が聞こえてきた。

 当然か。悪魔と契約しているから回復も早いのだろう。

 嗚呼、いや。そんなことはどうでも良くて。僕の心はそれどころではない。

 ジゼの言葉が羅列となって脳内を駆け周り、混乱で思考が上手く回らない。

 けれど今の言葉が彼女の魔法で強制的に言わされていない紛れもなく本当の言葉だと認識したらたまらなくて。


「……くそっ! くそっ!」


 地面を蹴りつけながら僕は叫んだ。

 ジリジリと心臓が焼け付くように痛む。

 ああ、たまらない。たまらない。たまらなく、コレが欲しい。

 神から見たら穢れた悪魔である僕の心臓が、穢された魔女の魂によって確かに焼かれた瞬間だった。

 もうきっと、僕は彼女を嗤えない。彼女を苦しめる存在を僕はもう二度と許せない。……自分も含めて。


「……あーあ」


 最初はただ遊んでいただけだったのに。この女はただの暇潰しの玩具だった筈なのに。とんだ誤算をしたものだ。

 嗚呼、嗚呼。でも。


「――奪われた」


 そう、奪われたんだ。この魔女に。僕の心臓も、感情も、身体も。すべて。

 憎悪の感情など最初から無かったかのように消し去り、呪いに祈りの感情を交え捧げるような、こんな馬鹿で――いとおしい僕の魔女に。

 僕の焼け焦げた魂は神が悪魔に課した罰を受けた。

 『愛』を知り『愛』を感じた時にのみ発動するその罰により、僕の魂は焼かれてしまった。

 自身の衣服を寛がせて見た身体には、眷属となる筈だった『魔女』たるジゼ・ガゼットに僕の方が囚われた、その証である黒い薔薇の紋印が心臓の上にしっかりと焼くように刻まれていた。


「きっときみは堕落なんてしないね」


 どれだけ辱しめられても、どれだけ屈辱を味わわされても、僕や人間や他の悪魔が何をしようとも。

 悪魔にも人間にも、そうして神の手の中にすら絶対に堕ちてきてはくれないだろう。

 この高潔で純粋な魂はまるで聖母のようだ、なんて言ったなら、どう思われるだろうか。

 ジゼを捕らえている要因。枷たる契約を今すぐ破棄することはあの青目の悪魔同様簡単だし、可能だ。

 けれど契約破棄なんて低級の悪魔がするような、あの青目の悪魔がしたようなことを、執事付きである高位の悪魔としての僕の自尊心が許さない。

 いや、いや。そんなのはただの言い訳で。


「完敗だね」


 はあ、やれやれと首を振る。

 これ以上彼女の心も身体も死なせたくはない。傷付けたくはない。

 そんな悪魔らしからぬ感情を抱いてしまった。

 胸糞悪いあの狂い神が住む、暖かなモノが心臓にドクンドクンと濁流のように流れてくる。そのことに嫌悪すら湧かないなんて、悪魔失格だね。


「――上等だよ、まったく」


 悪魔の魂を焼いた代償はきみがちゃんと責任を持って払うんだよ?

 なんて、穏やかな顔で眠るジゼの頬をソッと撫でながらそう言えば、彼女は擽ったそうに身体を微かに動かす。そういえば初めてジゼに……いや、人間に触れたような気がするなぁ。

 そうか。人間というのはこんなにも暖かいんだ。


「ジゼ、だからなのかな?」


 人間なんて基本的に餌か玩具だとしか思ったことがないから、分からないけれども。

 ついさっきまではなんてこと無かったその仕草が、急に愛しくて、可愛らしくて。

 そう思ってしまえるのだから、笑ってしまう。

 人の苦しむ様を見る事が好きだった。それが僕の娯楽でもあった筈だ。

 けれど今は、ジゼが苦しむ姿は見たくないなんて思うんだ。

 可笑しいだろう? 大声で笑ってしまいたい気分だ。


「ね、ジゼ? 責任取って。僕と契約して?」


 羊皮紙に書かれた契約書なんかじゃ決して破れない。

 永久すらも約束する、彼女の魂が消滅するまで続く、僕達魔族にとって最上級の契約を交わそう? 破れば即座に魂の消滅が行われる程重い、その誓約を。

 ジゼの血の気の失せた真白い左手を取り、同じだけ真っ白な薬指に口付けをする。すると薬指に黒い薔薇が咲いた。僕の胸の紋印と同じ模様をしている。

 そのことに僕は満足して、煤けた銀髪を優しく撫でていた時、背後から声がかかる。

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