第39話 あれからとこれから

 春の山を2人で登っていく。

今日は休暇で、クロエがこっちに来てくれた。

前から行ってみたいと思っていた山に付き合ってくれたのだ。


 街からは離れていて、多少の不便さはあるものの、ここまで登れば空気は澄んで、深呼吸をしたくなる爽やかさだ。

背中のリュックには、作ってきた味噌おにぎりとお茶が入っている。

それに麓の町で買ったチーズとソーセージ、それにチョコレートも持ってきた。

「山に行ったらチョコレートだ。」

登山のたびに父さんに言われて、かなり刷り込まれている。

でも、父さんの場合はそれ以外にも、疲れたら。落ち込んだら。嬉しかったら、幸せだったら。

全てがチョコレートになる。

実際、父さんのポケットには、いつでもチョコレートが入っていて時々、ポイと口に放り込まれるのだった。


 僕がゆっくり歩いて、クロエは頑張ってついて来る。手をひこうと言ったら、自分で歩くと断られた。汗いっぱいで、真っ赤な顔をしている癖に。こういうところが彼女のいいところだ。

「これくらい街からは離れていたら、そうそう人は来ないね。」

小さくなった後ろの街並みを見て、元気な声をあげた。

「父さんが聞いた話だと、街の人が必要なの物を届けにきてたらしいよ。」

「そうね。体調が悪くて、この標高と道のりは大変だと思う。でも静かでいいところね。誘ってくれてありがとう。」

「帰国する前に来ておきたかったんだ。君と。」

「隆から話を聞いた時、私も来てみたかった。日本からよりはずっと近いし。それで、あなたのママはここに来ることはあったの?」

「その時間はなかった。怪我の前は任務で忙しくて、それからすぐに父さんと結婚して。」

「結婚して4年、だよね。パパに写真見せてもらった。ママも会えなかったって。ママは手紙の筆跡しか知らない。」

「どんなふうに見えた?写真の母さん」

「そうね、綾女と比べるとベビーフェイスかな。でも、なんていうか凛としている?みたいな人。たぶん一度見たら忘れない感じ。」

「そう。僕は皆から父さんとのコメディとして聞くことが多かったから、君の意見は新鮮だよ。

父さんは真面目に話さないし。まぁ、話しても褒めちぎるのが、わかるから。可愛くて優しくて賢くてってね。」

「親ってそうかも。私もパパのことはふざけた親父に見える。」

「そうかな。世界的な宝石商で鑑定士なのに?」

「だって、ママといつも恋人みたいにしてるし、未だに私のこと、プリンセスなんていうのよ?文句を言うのも疲れちゃった。」

「僕のプリンセスでもあるけどね。」

クロエがあははと笑う。

「そういうの、バカップルっていうんでしょ?」

「綾女おばさんだろう?そんなこと教えるのは。前は父さんと母さんで。今は僕らしい。」

「あたり!綾女がバカップルは遺伝と感染性があるって。」 

「感染性?」

「パパとママよ。あなたのママに接触したから2人は結婚したけど、手紙から感染したんだって。綾女と匠は早くから被曝したから抗体があるって。」

「そこそこ症状が出てるけどね。あの2人も。」

僕の周りには、いつもバカップルの話で溢れている。

それはなかなか幸せなことだ。


綾女おばさんによると、筆頭は父さんと母さんなのだそうだ。

というか特に父さんは、バカップルの教科書なのだと。

父さんは母さんの話を真面目にしないことが多い。ちょっとふざけてはぐらかす事が多いけど、でも、愛しくて仕方がないみたいな感じはいつでも伝わった。

昔は父さんのそんな一面は認めたくないような、変な気がしたけど、今は少しわかる気がする。

大切な人ができたから。


 僕は母さんと会っていない。この世に来てからは。

僕には不思議な記憶があって(人によっては、夢だったり胎内記憶というらしいが) 母さんのことはよく覚えていた。

「来てくれたね。ありがとう。」

そんな声を聞いていた気がする。

1番鮮烈に聞こえたのは「ごめんね。」

叫ぶみたいに聞こえて、もうここには居られない。行かなくちゃ。そう悟った。僕が外に出る間際、母さんは父さんを呼んでいた。

その後から声の頻度はどんどん減って、ごくたまに。今はもう全く聞こえない。

記憶を探っても姿は見えない。

でも声だけで母さんだと思った。

僕はコテージの薪の音を聞いているから。

ふたりの暖かい満たされた思いに惹かれていたから。

 

 この世の中ではじめて握ったのは、たぶん父さんの手。少し震えていたのを覚えている。

母さんの手に抱かれることはなかったけれど、父さんが抱きしめてくれるたびに、母さんの気配を知ることができた。

こんなこと、そうそう他人には言えない。

小さな頃はともかく、大人になった今では。

クロエは、下手をすると頭がおかしいと思うような僕の記憶を不思議なほどあっさりと信じてくれた。


 僕は、中学に上がるタイミングでスイスの全寮制の学校に入った。

まずは高校卒業まで。

父さんが居なくても平気だと、子どもじゃないと見せたかったし、小さな島国から出てみたかった。

父さんは反対しなかったが、出発前の空港で言った。

「今いる世界を広くするのも狭くするのも、航次第だ。他の誰かと比べるのではなく、自分が大きくなって帰ってこい。」

この頃の僕は反抗期で、父さんに抱きしめられるのが恥ずかしくて嫌だった。父さんはいつも抱きしめるから。

でもこの日、父さんは握手した。

両手でギュッと。

初めてだった。

肩透かしを食らった以上に寂しかった。その手は今まで思っていたよりずっとずっと大きかった。

ヨーロッパにはよく来る父さんは、その度に時間を作って会いに来る。

はじめの頃はまた抱きしめられると警戒していたけど、あの日から抱きしめられる機会は減った。

父さんなりの大人扱いだったかもしれない。

密かにホームシックになった僕は、やっぱりまだ子どもだった。口では嫌だと言いながら、父さんが寄ってくれるのを待っていたのだから。


 大学は日本の匠おじさんの学校に通った。

父さんと同じ法学部。国際法学を学びたかったから、久坂部学院大学は最適だった。

これからの仕事には必要だ。


 大学のふたつ上には薫がいた。千桜はアメリカに留学していて。

ひとつ下の学年にはつばきがいて、兄弟みたいに育ったメンバーは、少しずつ将来を決めていた。

薫は家を継ぐと決めたらしい。

神崎の家が守ってきた病院を引き継ぐという。

千桜はどうするのかな。

確か専攻は考古学だったけど、卒後はどこかで遺跡掘りでもするのかもしれない。

父さんたちの若い頃なら、考古学なんて言い出したら大騒ぎになっただろう。

「千桜は奔放なのよね。たくちゃんのところのつばきちゃんも。2人とも天然の奔放さ。」

よく秋華伯母さんが、つばきと千桜は似ていると笑っている。

僕から見ると、2人の根元はかなりしっかりしている。


 父さんたちの代でかなり分家が減った。

それは四つの家の歴史消滅に近くて、中には抵抗した家もあった。

抵抗するなら、長子を警護任務の訓練に出すように総代達が伝えると、どの家も意外なくらい静かに引き下がった。

自分達が痛みを抱えることはいやなのだ。


 月嶋家では父さんが事業を整理している。

警察の後ろで動くような仕事は減らして、実績は実績として公表している。

父さんたちがたどった、二十歳のデビュー戦は廃止されていた。

それが良いのかどうかわからない。

秋華伯母さんの力が大きかったと聞いている。

だから二十歳のデビュー戦なんて漫画みたいなことを父さんまで体験していたとは、おじいちゃんに聞くまで知らなかった。

父さんたちは二十歳だからと、否応なく命をかけるのはおかしいと匠おじさんと話していた。

母さんだって、昔からのやり様に巻き込まれたのだと。

子どもの頃はよく知りもせず、父さんたちの仕事がカッコいいと思っていた。

時期的にも戦いとかそんなものに、憧れてもいたし。

「お前の中に、まだ戦いに憧れる気持ちが少しでもあるなら、確かめるといい。戦いの後の人の姿を見るのも良いだろう。」

父さんにそう言われて決めたこと。

大学を卒業してスイス軍隊に研修とは言え、入隊できたすることができたのは、アンディの伝手だ。

「この歳になって、軍の奴に連絡するとは思わなかった。」

ぼやいていたが、彼から声をかけてみようと言ってくれたのだ。

怪我をして辞めざるを得なかった場所に連絡するのは嫌だったのではないだろうか。そう聞いてみるといつもの人懐っこい笑顔で

「まあ、ヤッホーって感じじゃけど、ずいぶん時間が経っているし、当時よくしてくれた奴だよ。調べたら出世しているから。」

たしかに彼は大尉になっていて、僕の希望を受け入れてくれた。

リュック一つで赴いた軍は、規律に則った生活で日々訓練に明け暮れる。

ここで3年やってみたい。

万が一、実戦が有ればそれも厭わない。

そのつもりだった。

はじめは変人扱いで、保守的なメンバーに嫌がらせを受けることも多かった。

無視しているとそのうちにそれもなくなった。

差別なんてどこにでもあった。

研修生という形で良かったのは、あちこちをつぶさに見られたことだ。

兵器も、兵士も、戦いの後の土地も、人も。


 中等部の休暇でパリに行った時、商談で来ていたアンディと会った。

クロエがそっちに行くよ。

スイスの同じ学校に2年年下で。

アンディとエリスは、仕事で日本とフランスを一年に半分ずつくらいで行き来していたから、僕の面倒も見てくれて、クロエともよく話した。

大学で日本に戻った時に、どちらからともなくメールや電話をよくするようになって、軍に入隊した頃から付き合う様になった。

もちろんアンディもエリスも公認だ。

この夏、除隊して日本に帰ったら結婚する事になっている。


 クロエはいつも元気だ。

黒い髪と緑の瞳はアンディに似ている。

コロコロと変わる表情の端々に、エリスに似てると思うことが最近多くなってきた。

結婚を申し込んだ時、クロエはふと表情を硬くして不安そうだった。

「航と一緒に生きていけるならすごく嬉しい。

でも、あなたの家や綾女たちは私を受け入れるかしら?あなたのいる場所で、私はたぶん呑気な職業よ?」

そう言われて、自分のいる世界がまだ狭いと自覚した。

だから父さんは自分で見てこいと言ったんだ。

親たちは今の環境を壊したがっている。

しかし、周囲に影響を受けてきた者たちは、つい家を優先に自分の進む道を選んでしまう。

誰も強要しなくても。

僕だってそうだった。

他の職業との選択で、悩むことなんてなかったから。

長い慣習を壊すのは難しい。

形はすぐに壊せても、人の心と歴史の後ろにある既得権益を得たい分家や組織は多くて。

彼らには四つ家が「今のまま」でいてくれた方がいいのだ。

だから父さんは頑張っている。

会社の仕事以外に、ずっと四家の在り方を変えようとしている。


 大学に入学した直後、父さんはオフィスで倒れた。

大動脈乖離。

橙子おばさんのいる医療センターで緊急手術をした。

原因ははっきりしていない。

高血圧でもなかった。常に鍛えていたはずだ。

あの歳で腹筋が割れるくらいに。

橙子おばさんにもリアムおじさんにも、散々無理をするなと言われるのに、父さんの生活はあまり変わらない。

父さんが僕達にのしかかろうとする家や慣習を壊していくのは、とても大きな事業なのだ。

警護部門では実質筆頭を務めてきた月嶋の家に、風当たりは強い。

国も警察も、これまで家を使ってうまい具合に危険は避け、手柄は手に入れているのだ。

四つの家はいつまでも影のままで。

ひとりで立ち向かう癖に、父さんは他には何も言わない。

苦しいと言えば、僕が負うものが増えると思っているのだろう。

大学生活を父さんの傍で送り、手伝いと思う様になっていた。


 大木が倒れていて、クロエに手を貸した。

「ありがとう!」

登った木からピョンと飛び降りた。

「もう着くよ。あの丘のすぐ先のはずだから。」

「それなら、ほら!早く行こう」

クロエがそのまま手を引っ張ると、走るみたいにして丘を越えた。


 石造りの家が見えた。

麓の町で見た家とあまり変わらない。

かなり痛んでいるが、橙子おばさんのアルバムで見た家だ。

「長く住む家ではないから、暖が取れればいいと言うくらいの家」なのだそうだ。

母さんは、ここに生後半年から4歳の終わり頃までいた。

秋華おばさんと遥おじさんは、結婚してからここにきている。

おばあちゃんが静養場所としてこの場所を選んだのは、秋華おばさんの希望に沿ったからだ。

急な代替わりと結婚。併せておばあちゃんの出国。

遥おじさんは、結婚してからおばあちゃんと会ったという。

おばあちゃんの体調を分家に知られてはいけなかったから、顔合わせをするにはこうするしかなかった。

もちろん部屋数はなくて、2泊だけだったらしい。

「壁一つは向こうには、義理のママと妹が寝てるんだぞ?新婚の若者にはキツいだろ?」

なんて笑って、秋華おばさんに叱られていた。


 借りてきた鍵でドアを開けると、中は考えていたよりも綺麗に管理されていた。

壁には当たり前のように、大きなヒーターが備え付けられている。冬の寒さを考えれば当然だ。

家の面積から比べると、台所は広く年代物のオープンがついていた。

ここでよくパンを焼いたのだそうだ。

「何もかも古いね。航のおばあちゃんはお料理したのかしら。」

クロエがオーブンをあけて見ている。

「上手だったらしい。パンとかお菓子を母さんと作る事がよくあったって。これは父さん情報」

「きっと得意だったのね。ほらお鍋とかよく使い込まれてる。」

「はは、秋華おばさんは全く話にならないのにね。あ...」

台所の片隅に、木の踏み台がちょこんと置いてあった。

薄い黄色で、台の脚には塗装のハゲかかったクマの絵がついている。

もしかして、小さな母さんはここに乗って手伝いをしたのかな。手にとって眺めた。

台の裏側に平仮名で「かや」と子どもの字が書かれていた。

やっぱり。


不意に涙が溢れた。


「ここ」は母さんが無邪気でいられた場所。

甘えん坊でいられた場所。

おばあちゃんとの大切な場所だった。


「どうしたの?航、悲しい?」

慌てた様子でクロエが後ろから抱きしめた。

彼女の手に手を重ねる。

「ごめん。違うよ、なんだか嬉しいんだ...」

母さんの思い出が見られたから。

正面に周ったクロエが、踏み台の表面をそっと撫でている。

「可愛い台ね。名前よね?これ。

きっと航のお母さんが自分で書いたんだ。

子どもの字だもの。」

「うん、そうだね。ここでは、おばあちゃんに日本語教えてもらっていたらしいから。」

まだ涙が止まらない。

クロエが微笑んでいる。

父さんやみんなが話す母さんの思い出は、日本に来てからがほとんどだったから。

母さんがどんな子ども時代を過ごしたか、知りたかった。

ここでの写真は、おばさん達が持っている数少ないものしかなかったし。

いつか橙子おばさんと話した時、こんなふうに言っていた。

「一緒に暮らしたわけでじゃないでしょ?

夏夜は私たちが行くと、少し距離を置いていたの。

ほら、動物って慣れるまであんまり近づいてこないじゃない?

姉様が訪ねる時は、母様と家のことや仕事の話が多くて、ほとんど構ってあげられなかったって言ってたし。

秋姉様よりはいくらか会う機会が多かったから、私にはまだマシだったけどね。

秋姉様、悩んでた。

怖がられているようだって。

でもね、夏夜は夏夜でお姉さんなんて意味、あんまりわからなかったと思うの。

ほとんどの時間、母様としかいなかったんだから。

それに、母様だってホントは日本に戻りたかったでしょうに。」

橙子おばさんは、少しだけ寂しそうに笑った。

おばさん達だって母さんと過ごしたかった筈だ。

小さな母さん1人に、おばあちゃんを見送らせた後悔もあっただろう。

秋華おばさんは厳しいけれど、とても優しい人だから。


 母さんの25年にも満たない時間の中で、6分の1を占めた場所を知りたかった。

だから、この国を離れる前に一度来たのだ。

なかなか時間を作ることができなかったけれど、クロエとの結婚が決まったし、良いタイミングだと思った。

家は老朽化が進んでいる。

元々、使い込まれた建物で今は空き家だ。

当たり前か。

僕はもう、母さんが生きた年齢を五つも超えてしまった。

家は誰も住んでいないと痛む。

これだけ古いと借主はいないらしい。このまま寂れていくのだろうか。

いつまであるかわからない。もしかして、母さんの思い出が少しだけでもあるかもしれない。

そう思っていた。


踏み台の幼い字がとても嬉しかった。

母さんはここに確かに居た。

おばあちゃんの隣でちょこまかと走り回って、踏み台で一緒にパンを作っている、小さな母さんが見えた気がした。

それだけで満足だった。


「腹減ったな。お昼にしようか?」

「いいね。外で食べようよ」

外はまだ日が高くて暖かい。

のんびりするにもちょうどいい。

クロエは、早速草の上に座って、携帯用カップに紅茶を注いでいる。

隣に座ると、彼女の口にポイとチョコレートを一欠片、放り込んだ。

「もう!すぐそれなんだから。でもあまーい!美味しい。」

「だろ?疲れた後はチョコレート。」

自分でもチョコレートを放り込んだ。

「文句を言うけど、隆のする事と一緒だね。」

クロエが笑う。

「うん、ホントだ。洗脳だな。子どもの頃から何かあると、チョコレートが口に放り込まれる。今は疲れたから」

リュックから出したおにぎりとチーズ、ソーセージを広げた。

「あ、ミソオニギリ!これ大好き。」

母さんがよく作ったという味噌おにぎりは、月嶋の家のお手伝いの春江さんに、母さんが習ったように僕も教えてもらった。

僕が小さい頃、春江さんはまだ食事だけ手伝いに来ていたから。

「夏夜さんがこれを気に入られて、よく一緒に作ったんですよ。」

少しだけ甘い味噌が山登りには最高なんだ。

何度かクロエ一家にも披露した。

おにぎりを頬張って紅茶を飲みながら、周りを見渡してみる。

麓の街はおもちゃのように小さく見える。

またここに来れるのだろうか。

今度は父さんも来れるといいけど、あの心臓では厳しいかな。

「お母さんの踏み台、連れて帰っちゃいけないかしら?」

「荷物にならないか?これから山をおりてパリに戻るけど。」

「そうだけど重いものじゃないでしょ?私が預かるから。それに...」

「うん?」

「さっき、とても嬉しかったんでしょ?涙が出るくらい。変な言い方だけど、私、あの台も喜んでいるような気がしてるの。」

「そうかな。」

「うん、私と一緒に日本にいくの!

航のお母さんがそばに居てくれるみたいで、安心する。きっと。」


昼食を終えると鍵をかけて下山した。

僕のリュックの上には踏み台が載せてある。

家主に踏み台のことを話すと、快く承諾してくれた。

麓の駅からパリに向かう。

クロエを送り、そのまま僕は軍の寮に戻った。


 ひと月後、除隊式を経て帰国した。

結局、あの踏み台も一足先にきた。父さんに見せようと思ったから。

父さんは嬉しそうに目に潤ませていた。

母さんのものを見ると泣けるなんて、やっぱり綾女おばさんの言う通りだ。

僕が泣いたことはナイショなのだ。

日本に戻ってからは、父さんの仕事の引き継ぎに追われた。

まだまだではあるが、後は僕がやっていくしかない。

父さんは、最近ずいぶん具合が悪そうだ。

長年通ったジムにも行っていない。

相変わらず口調だけはご機嫌で、よくチョコを渡される。

父さんの時間が多くはないのは、なんとなく肌で感じた。

「航、お前は大丈夫だよ。遥さんが証人だ。母さん譲りの才能だってな。

それに俺に似てかっこいい。

でもな、苦しい時は苦しいってちゃんと言うんだ。

そこは似なくていい。無視すると皆んなに俺が叱られる。」

こんな冗談ばかりだ。

年が明ければ、クロエとの結婚式が迫っている。

そんな折、父は静かに逝った。

心臓の発作だった。

遺言書には、結婚の時期をずらさないように。

一年の間にクロエに新しい彼氏ができてしまったら、俺は夏夜に地獄に落とされる。

後は仕事と相続の手筈が済んでいる事が一緒に記してあった。

最期の最後まで父さんらしい。

父さんと母さんが一緒なら、地獄はバカップル感染が広がって役にたたなくなる。

そう思うと可笑しくて笑えてくる。

葬儀の日、「最期までバカなんだから」綾女おばさんもそう言って、笑って泣いていた。


 クロエの来日を待って結婚式だ。

ささやかに、でも身近な人たちと。

指輪は義父になったアンディが誂えてくれた。

指輪のクッションはあの踏み台の上に載せた。

クロエがそうしたいと言ってくれたから。



 踏み台には小さな足がとっかえはひっかえ載っている。台所に立つクロエのそばで。

僕のポケットにはいつでもチョコレート。

クロエにも小さな口々にも、ポイと入れるのが僕の楽しみだ。

母さん、きっと見ているね。父さんと一緒にチョコレート食べながら。


 いいことばかりじゃないけれど、僕らはかなり幸せにやっている。

そして、これからも、ひとつひとつ乗り越えていける。

僕らは、自分の将来を自分達で選んでいけるのだから。

天国があるとすれば、きっとチョコレートの甘い香りに満たされているに違いない。


庭には梔子が咲き誇って、夏が来たことを知らせていた。

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夏の雪冬の花 鷺 奈帆 @saginaho

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