第37話 繋ぐ手

 カフェテリアはざわめいている。

「発表見たか?今度の研修のリーダーに日本人がいる。」

「日本人について行かなきゃならないのか?」

数日前からこの騒ぎだ。

「優秀だって話だ。日本の医師免許を持ってる」

「意外にあっちの方も優秀だったりして。」

席を立った。気分が悪い。

いくら多様性と個人の権利を謳っていても、どの国にも差別はある。

彼らから見れば、自分だってなにかと言われる存在だ。元避難民、褐色の肌。

子供の頃から慣れっこではあるが、あからさまに見聞きするのは、あまり気分の良いものではない。


 日本の提携大学から編入したトウコは、日本の医師免許を持って研修コースに留学してきて、すぐにトップのレベルに立った。

医学部はフランス人学生でも難関だ。

素直に賞賛する人多いが、くちさがない奴らにとってはやっかみが加速する。

麻酔医であり、救命救急医療を専攻している彼女は臨床経験も有るらしい。

日本は地震による災害が多いと聞く。

彼女はそのために救命救急を学ぶのだろうか。

ほんの少し、彼女に興味が湧いた。


 この日も遅くまで図書館で調べ物をしていた。

新年からの研修まえのこの試験を、パスしておきたい。これで全ての科目が終われば医師試験に進める。

もちろん一発でパスを目指している。

臨床での経験を早く積みたいのだ。


 大学のエントランスを出ると、雪がかなり積もっている。コートのボタンを閉めて、きつめにマフラーを巻いた。そういえば今期一番の寒波が来ていると言っていたな。

街の人出は少ない。

近道をしようと公園を突っ切ることにした。

この公園は、夜はいかがわしい客引きや薬の密売人が多いが、彼らもこの雪では商売にならないだろう。

足元では雪が踏みしめられる音がする。

背中のリュックにも雪が積もる。

家に行ったら風呂にはいろう。風邪をひいてスケジュールが乱れるのは困る。

とにかく寒い。

足速に進んだ。


 公園の真ん中に来たところで、茂みに手袋が落ちていた。

こんな日に手袋を落とすなんて、残念な人が居たものだ。

足を止める。手袋ではなく人の手だった。

『ホームレスか?』

周りには誰も居ない。

死んでいるなら仕方がない。死体の面倒まではさすがにみれない。

足先で突くと指先がピクリと動いた。

しゃがみ込んで、手を引っ張ってみる。

ムッとするほど酒臭い。

意識は朦朧としているようだが、とりあえず生きている。とすれば、置いてはいけない。

「おい、立てるか?このままじゃ死ぬぞ。」

一瞬薄目を開きかけて、すぐに閉じてしまった。

脈は割としっかりしている。

衣類は汚れてぼろぼろだが、若い男のようだ。

動けないのか、その気がないのか。

仕方がない。

引きずるように公園を出てタクシーを捕まえると市民病院に連れて行った。

ここには知り合いがいる。

点滴をしてもらっている間、廊下で問題集をやっていると友人がやってきた、

「とんでもないの連れてきたなあ。こんな雪の中で呑んで倒れてるってアルコール依存症みたいだぞ?かなり栄養状態悪いし、これからどうする?」

「うーん、まあ、とりあえず僕のアパートメントに連れて行くよ。」

「相変わらずだな。試験もあるってのに。

アル中は治すのに時間がかかるぞ?

隣の薬局でこれもらって行ってくれ。」

「わかった。まあ、出来ることまでは。」

なんとかフラフラと立った男を連れて帰宅した。

「臭いから、風呂入ってくれ。」

「嫌だ。臭いなら追い出せばいい。」

呂律の回らない口調の屁理屈野郎を引きずって、風呂に放り込んだ。

すぐに窓を開けた。食欲が失せるような匂いだ。

しばらく音もしなかったが、諦めたのだろう。シャワーを使う音が聞こえてきた。

鼻をクンクンさせて換気ができたことを確かめる。

さて、とりあえず何か食べよう。冷蔵庫を空けて簡単なスープを作る。それとパンもあるし。


「何か着るものを貸してもらえないかな?」

振り返ると屁理屈が風呂から上がっていた。

なんだ?この美形は。

黒い髪に緑の瞳。

その上、左の手が肘から無い。

最近の損失ではなさそうだ。腕の先端は綺麗に処置が施されていた。。

トレーナーとズボンを渡した。

僕の視線に気づいたのか、ニヤリと笑って

「merci 珍しいだろ?美形の腕なしだ。」

先のない腕をひらひらと見せた。

「とりあえず食べてくれ。臭くなくなって助かった。」

「酒はないのかな?」

「無い!」

パンとスープを目の前にガチャンと置いた。

自分が食べ始めると、屁理屈も食べ始めた。

お互いに何も喋らないで皿は空になった。

食べ方を見ていると、おそらく良い育ちじゃないかなと察しがついた。

ボサボサの黒い髪は長い。

手入れをしていたら綺麗だろうに。

ここには余分なベッドルームはない。

寝袋を床にひくとベッドがいいとか言う、無視して目を閉じた。

明日になったらいなくなってるかもしれない。


朝、ベッドには屁理屈が隣にいた。

床の寝袋を被って寝ている。

なんてヤツだ。


 こっちは今忙しい。

コーヒーを淹れてテーブルに参考書を広げる。

過去の問題を見ても、かなり細かい事が取り上げられている。

金をかけて専門の塾でも行ければいいが、残念ながら余裕はない。

とにかく早く臨床に出たいのだ。

昼ごろまで参考書を片手にして、疲れてきた。

妹のコレットから電話が来た。

「お兄ちゃん、メール見てくれた?クリスマスは帰ってこれる?」

相変わらず元気な声が聞こえてくる。

「今年は新年から研修なんだ。夏には医師試験があるし。」

「そう。わかった。体に気をつけてね!」

「何かプレゼントを送るよ。」

「気にしないで。でも大晦日には電話で一緒にお祝いしようね!」

少し歳の離れた妹は甘えん坊だ。そうだプレゼントも買いに行かないと。

「酒、ある?」

屁理屈が起きてきた。首をボリボリ掻いている。

「酒はない。試験が終わるまで飲まない。」

昨日見た感じよりも、少し若い気がする。

水でも飲んでくれ。ペットボトルを差し出した。

「医者の卵って訳か?だから助けた?」

「それとは関係ない。あのままじゃ凍死してた。」

「死んだ方が良かった。」

ポツリと呟く。

「それは残念だったな。だけどここにいる以上、それは絶対にだめだ。」

パンを買いに行くから、そう言って外に出た。

雪はまだ続いていて、路面は凍っている。

焼きたてのパン、鶏肉、豆、野菜を少し。それと新聞を買って帰宅する。

屁理屈は窓辺に座ってぼんやりしていた。

「酒は買ってきてくれないよな?」

「だから、酒はない。諦めろ。それとも更生施設に行くか?身分を明かすものがあればだけど」

黙ってしまった。

パンと鶏肉のシチューを作って机に置く。

「食べろよ。」

「食べたくない。」

「勝手にどうぞ。ところで何歳?」

「30とかそのあたり」

「昨日はもっと年上に見えた。」

シチューを食べていると、屁理屈もテーブルに来てパンをちぎっている。

薬局から出された薬を前に置いた。

「飲んだら、もう少し休んだ方がいい」

時間をかけてシチューを食べながら、参考書を開いているのを眺めている。

食べ終わると寝室に引き上げて行った。

更生施設は嫌なんだな。

身分証も無いのだろう。

なんでアル中なんてなったんだろう。育ちが良さそうで美形なのに。いや、美形は関係ないか。

どちらかと言うと、あの腕が絡んでいるのかもしれない。

昨夜の自虐的な顔を思い出していた。

腕をひけらかして、嫌な顔をするのを期待するような。

残念ながら医者の卵なんでね。処置済みの腕なんて、どんな縫合がされたか程度にしか興味がない。

そもそも、そんな顔をするのは元の彼を知っている人間だけだろうに。


 自分が起きると屁理屈もぼんやり起きてくる。この繰り返しを続けて一週間だ。

「名前...」

「え?」

参考書から目を上げた。

「君の名前」

「リアム。であなたは?」

「アンドレア」

名前を聞いても話が進む事はなかった。

酒がないと暴れるわけでも無いが、気分は落ち込んでいくようだ。

比較的軽い依存症って訳だな。

暴れるならともかく、我慢していられるならその方がいい。

自分の試験が終わるまでは、持ち堪えてほしい。


 試験は大丈夫だと言う自信があった。

やっと夏には医師試験に行ける。

受かれば、秋には医師として経験を積めるのだ。

ワインでも買ってと思ったが、やめた。

アンドレアがあれから酒と言わないから、このまま外した方がいい。

今日は肉を焼こう。

最近、アンドレアは帰宅すると皿を洗ってくれていることがある。

外に出ることはないが、彼なりに変わりたいのかもしれない。

「ただいま」

気配がない。外に行ったのか?

それからしばらく待っていた。

帰ってこないのかも。そんな気もして来る。

暗くなってもアンドレアは返ってこない。

勝手にしろと探しに行こうが、メトロノームのように胸の中を行ったり来たりしている。

仕方ない。一度は助けたんだ、面倒は見ないと。

コートを着て外に出た。

うちに来た頃「死んだ方がよかった」とも言っていた。

鬱状態から、川に飛び込んだりしてないだろうな。橋を一つずつ見て歩く。

クリスマス用にライトアップされた橋はカップルで賑わっている。

この雰囲気では、川にとは思わないだろう。

人気のない場所を探した。

結局、大きな通りの大聖堂まで来てしまった。

ひと休みも兼ねて中に入る。

外から来るとずいぶん暖かくて、少し埃っぽい特有の匂いもする。

たぶん息が切れていたとおもう。

薄暗い中を見回した。

この時間でも、そこそこ人が来ている。

黒い髪、黒い髪。

「ハンサムな隻腕さんを探してるの?」

後から声をかけられた。

振り向くとトウコが立っていた。ダウンコートを着て、大きなスーツケースを持っている。

「ああ、君は大学の。」

「うん、あなたの事知ってるわ。私たち割と学部では目立っているでしょ?」

「そうだね。あまりいい意味ではないけど。ところでさっきの」

「あの人を探していたんじゃない?」

トウコが指さしている。

聖堂の奥まったピエタ像の前にいるのは、アンドレアだ。

雪で濡れた黒い髪が見えた。

欠損した腕を抱え、茫洋とした目で像を見つめている。

トウコはなぜアンドレアを探しているとわかったのだろう。

「彼の知り合い?」

トウコに聞いた。

「全然。ずっとあそこに居たから。きっとなにか願いがあるのよね。

あ、バスの時間だ。じゃあ、わたしは行くね。」

ニットの帽子を被り直すと軽く手を振って、トウコは出て行った。日本に行くのかな。

そうか、トウコもここに居たのだ。それなら、彼女にも願いがあるのだろう。 

アンドレアの隣に座る。アルコールの匂いが漂う

「探した。」

「....前はね、気に入っていたんだ。」

「ピエタを?」

「僕は片手を失くして...抱きしめることもできなくなった。この像のように打ちひしがれた人を抱いてやるもできない。」

「そうだな。それは無理だ。だけど...誰かの手を繋いでやる事はできるだろ。アルコールさえ抜ければ、真っ直ぐ歩く事だって可能だ。」

「手を繋ぐ...か。考えなかった。」

「飲み過ぎは脳の活動性を低下させる。脳の萎縮だって酒の量と相関する。だからだ。とにかく帰ろう。」

「医者みたいなことを言う。」

皮肉っぽく笑う。

「医者だよ。まだ卵だけど。いま殻を割っているところだ。」

アンドレアは立ち上がった。


買ってきた肉を焼いて、コーヒーを淹れた。

テーブルに並べるとアンドレアに向かって言った。

「助けた、食わせた、探した。これだけ有れば十分理由を聞く立場にあると思う。」

しばらく黙ったのち、アンドレアは腕を無くしてからのことを話し始めた。

「腕を無くしてから全て変わってしまった。」知人たちは見向きもしなくなった。

たまにそうでない者もいたが、嘲笑うか憐れむか。外に出るのが嫌になった。

彼女とは別れてしまった。

憐れまれているとしか、感じられなくなっていた。

父親は嘆いくばかりだ。この家名を持ちながら、そう言った。父にとっては片腕になるより、死んでしまった方が楽だった。殉死として讃えられるから。

悔しくて、悲しくてなにが大事か見えないんだ。

「だろうね。実際、前腕切断ほどの怪我なら悲しいだろう。

とりあえず友人は、もどきだったとしか言えないな。

それに今までしてきた事が、人には返ってくるんだ。仏教ではそう言うよ。

だけど、それを今後悔したって何の解決にもならない。これからを考えないか?

本当にしたいのは、父親との和解?それとも彼女とよりを戻すこと?」

アンドレアは俯いた。

「どっちも出来ない。今はひとりで生きれるようになりたい。酒を飲まなくても居られるように。脳の萎縮は悲惨そうだ。」

「なら、まずは酒だな。ここに来てしばらく飲まずにいられたんだ。医者を紹介するから。 アル中の脳萎縮は本当に悲惨だよ。認知症みたいになる。最後には錯乱してヨダレを垂らして失禁だ。」

明日、必ず行けというと頷いた。


 医師試験にはパスできた。

アンドレアは定期的に受診をしているが、まだうちに転がり込んだままだ。

アンドレアくらいの依存症なら、生活から切り離さない方がいいと思えた。紹介した専門医と相談し、毎日のルーティンとして家事をしてもらっている。

皿洗い、ベッドメイク、掃除。

片手でもどうやったらできるか考えるんだ。ゆっくりでいい。

新年の研修チームの説明会でトウコにあった。

「教会では教えてくれて助かった」

そう言うと

「彼氏は元気?」

と笑って返された。

大きな誤解がある。早く訂正しておかないと。


 その日アパートメントに戻ると、中年の男が入り口を困ったように見上げている。

すり抜けて部屋に入ろうとすると、声をかけられた。

「このアパートメントにアンドレア・デュポアはいませんか。黒髪、片腕が特徴です。」

「該当する人物はいますが、あなたは?」

「彼の叔父です。」

金髪で茶色の目をした男は、アンドレアとは似ていない。

「実家から消えたと聞いて探しています。この辺りで見かけたというと情報があって来てみたんですが、呼んでもらえませんか?」

「本人に聞かないと会わせられない。ここにいてください。」

部屋に戻ってアンドレアに男のことを話す。

アンドレアは額を抑えて迷っている。

「本当に叔父さんなら、とりあえず会えば?

探してくれたんだから。」

ひとつ大きなため息をして、アンドレアは外に出て行った。

窓から下を見るとアンドレアを抱きしめている男が見えた。

しばらくするとアンドレアだけが戻って来た。

「叔父だった。昔から僕を可愛がってくれた。父とは合わないみたいで、早くに家を出たんだ。宝石商をしている。それで...店に誘ってくれた。宝石の鑑定やデザインなら今の体でもできるだろうって。」

「いい話じゃないか?やってみるといい。

それが嫌いじゃないなら続けられる。何より心配してくれる人がいるのは幸いだ。」

「探してくれる人がいたなんて。だけどまだ..なにもお礼ができていない。君に。」

「お礼をしろと言っていない。それよりも誤解を解くためにも、早く出て行ってほしいな。

けど、かなり手擦ったから...そうだな、仕事が上手く行ったら、僕が結婚指輪を買う時には、安くしてくれ。」

「相手がいたのか。長居してしまったな。」

少し困ったように呟いた。

「いや、居ないよ。いつかの話しだ。」

「喜んで」

肩をすくめると気取ってお辞儀をする。

二人で大笑いした。

こんな風にして意外にあっさりと、アンドレアは去っていった。

 

 研修に無事参加したが、トウコの厳しさにはチームの皆が泣くような思いをした。

研修中の三ヶ月は寝る暇がないほど、質問責めだった。

もう、カフェテリアでの不愉快な噂は誰もしない。遠慮なくガンガン質問するくせに、明るくて物おじしない性格に惹きつけられるのだ。

トウコは夏休みを利用して、NGOの活動に従事するという。

恋人として付き合い始めたのは、アンドレアの誤解を解くために誘ったのがきっかけだ。

研修の最終日、帰ろうとするトウコをカフェに誘った。僕への誤解があるみたいだと。

アンドレアとの経緯を説明した。

「だから君が思っている関係じゃない。」

「ふうん。じゃあ、恋愛対象は女性なの?」

カフェで頬杖をついて真っ直ぐに見ている。

「幸か不幸か、まだ運命の男に会った事は無いな。」

トウコがあははと笑う。

「私も運命の女性にはまだ会ってないな。

私ね、こっちに来てあなたの噂をカフェテリアて聞いたの。だから少し気になってた。

彼がいるんだって、意外にショック受けてたのよ?だから少し希望が持てた。」

「僕もだ。きっと誤解してると思ったから、そのまま敬遠されるかと思った。ほら、僕はフランス人でもちょっと違うから」

そう言うと、トウコはクルリと瞳を動かして、ため息をついた。

「肌とか文化とか、どこの世界でも国でもあるのよね。ちょっとした違いなのに。

人類全体が雑種なんだって気がついていない。だって、遺伝子学的には12人の母親なのよ?」

なんだか似ていること考えているように感じた。

「雑種」には笑えたが。


 アンドレアを探した教会で、彼女は母親の平穏を祈っていたのだと知った。

幼い妹がいる事もこの時に聞いた。

母も妹も可哀想。そう言った。

パリを拠点に、あちこちで経験を積む彼女とは、一緒にいる時間はそう多くはなかったけれど、彼女のバイタリティにはいつも驚かされたし、いつでも明るくて、周囲を巻き込んでいく彼女を尊敬していた。

とりあえず僕は日本語の勉強をはじめた。

一緒に暮らす話が出た矢先、隣国で療養していた母親が亡くなった。


 連絡があった夜。

トウコは明かりもつけず、部屋の隅っこに座っていて駆けつけた僕に「ありがとう」とだけ言った。

「泣いていいと思うけど?お母さんと仲良くなかった?」

「ううん、大好きよ、昔も今も。ずっと母のようになりたかった。憧れ続けてる。

でも、今も姉は日本できっと泣かずにいるから。私だけが泣くことはできないの。」

隣に腰を下ろした。

「そうか。いろんな事情があるんだね。それなら姉さんと二人で泣いたらいいよ。母親が亡くなって悲しむ事は少しも変じゃないんだから。涙は心を洗ってくれる。」

「...二人で泣くって、いいね。」

一晩中手を握っていた。

膝を抱えて唇を噛んでいる彼女は、とても悲しかった。

橙子も姉も、こんな思いをしながら生きていくのだろうか。

翌日、橙子は母の葬儀に旅立った。


 帰宅した橙子は日本に帰ると言う。

日本を拠点に経験を積みたいのだと。

止められなかった。

彼女には彼女の思いがあったから。

橙子もついて来いとは言わなかった。

お互いに言い出せないものを抱えて、僕らは離れた。

それでも、橙子がパリに来た時は必ず会う。

僕の中では、橙子が運命の人だという確信になった。

どうしたら二人で生きていけるのだろう。

自分のやれることの経験を積むしかなかった。

経験になるところにはどこにでも出かけた。

それこそ、橙子が行ったNGOにも。 

そこでは脳神経外科が専門だから、なんて通用しなかった。

とにかく目の前の人を助ける。それだけだったが、物資がないところで動く事、出来ることは学べた。

派遣先では、あまりにも簡単に人が死んでいく。

命の重さは国によって変わる事も知った。

祖父の話はまだ続いていて、こんなにも近くにあったなんて。

数ヶ月従事してパリに戻り、脳神経外科医として学ぶ。NGOから依頼が来れば、また必要とされる所へ行った。

毎年あちこちを行き来する。

橙子と知り合ってから10年が経とうとしていた。

僕は結婚はしないかもしれない。いいじゃないか。運命の人と会える時間がある。


 あなたの力を貸してほしい。

橙子から日本の病院への誘いが来て、その上プロポーズまでされた。

彼女が院長を務める病院は少しだけ特殊だ。

あまり患者は多いわけではない。ただし、一度入院すると重篤で高度な医療と選択を迫られるのだという。

「あのね、リアム。私、やっぱりあなたと生きていきたい。だから日本に来てほしいっていうのは、あなたの家族に酷いこと?」

難民としてパリに来た祖父や家族の話をよくしていたせいだろう。

橙子は切なそうな目をして、見つめていた。

一緒に生きたい。それは同じ思いだ。

しかし、苦労してパリに根付き、大学まで面倒を見てくれた家族を考えると、日本行きは迷った。

何しろ遠い。

僕は家族を置いて行けるだろうか。

見捨てることになりはしないか。


 僕の迷いをよそに、家族は喜んでくれた。

「私も日本に行くことが出来るようになるのね!お姉さんができたんだもの。

橙子たちも、いつでもパリに来られるのね!

家族があるんだもの。」

コレットはそう言って、元気に笑った。

そうか。それは考えなかったな。


パリにも日本にも家族がいて。

人類全体が雑種で家族なら、それも悪くない。

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