第36話 遥
檜山から電話が来た。
老眼が進む自分達には、メールより電話の方が早い。
神崎の新総代が決まり、連れ合いを探したいという。
「津島と一緒に行ってもらえないか?私は今動けん。」
急な総代の交代に神崎家はてんやわんやだ。
仕切るべき鹿乃子は出産直後の上に大きな病気が見つかったばかりだ。
月嶋家の方は後継の奥井がいるし、こっちは彼に任せられる。
津島はすでにかなりの情報を集めていた。
条件は一つ。秋華を支え守る能力がある男だ。
数日ぶりに外に出た。
太陽の光が目に痛いくらいだ。
両手は後ろに括られていて、刺すような陽を手で防ぐこともできない。
「早く歩け!」
後ろから急かされるが、満足に食べていない身体は思うように動かない。
蹴り上げられて睨み返すと、すぐに耳の辺りに痛みが走った。
「やめろ、話ができなくなる。」
そう言ったのは二人組の男だ。年配の方が後ろの男のゴツい手を捻り上げた。
粗末な小屋で手錠は外された。
「ひどい扱いだな。ここに来てどのくらいだ?」
さっき手を捻り上げた年配が言った。
「覚えてない」
「ほかに大きな怪我はないのか?」
若い方の男がまた聞いた。
「折れたりはしてない。その前のなら売るほどある。」
両親は先月の市内の爆撃で、今も消息がわからない。
俺はたまたま外にいて、爆撃からは逃れたが、捕まってここに連れてこられた。
食事は死なない程度しかなく、死なない程度に連日殴られて過ごしたから、何日経ったかなんて覚えていない。
同じように連れてこられた人間は日々少なくなって、やがて殺されるだろうと思っていた。ここから抜け出せるならどこでも誰でも良かった。
「で、あんたら助けてくれんの?」
「君次第だな。こっちも誰でもってわけではない。」
「何すればいい?条件は?」
「条件は、とある女性との結婚だ。その相手を生涯裏切らず支えられることも含まれる。」
「女は何歳?」
「気になるか?この状況でも。」
「まあね、誰だって良いけど心の準備はあってもいいだろ?」
「誰でもよくて裏切らないって、できるか?」
「死ぬよりはいい、こっちは明日の朝が迎えられるかかかってる。助かるんなら誰にも縋るだろ?」
年配の方が笑っている。
「オヤジさん、笑ってる場合ですか?秋お嬢の相手ですよ⁈」
「いや、すまん。あんまり正直だからさ。で、君は女を知ってるか?自信あるか?」
「場違いなこと聞くんだな。自信があるかはともかく、知ってる。」
「ふうん、まあ自信については試せばいいか。」
「あんたが試すのか?」
「いや、俺は多少体力落ちてるからな。こっちの津島だ。でどうする?」
「とりあえず、試しますか。一緒に来てもらう。いいな?」
「あんたらは何なんだよ。男を買いにきてんのか?」
何でもする、誰だって良いとは言ったが、あからさまに男に試すと言われると多少の不気味さがあった。
そのまま、二人について外に出た。
あの場所にはまだ囚われている人がいる。
振り返ると年配に背中を軽く叩かれた。
「大丈夫だ。君が心配しなくていい。とにかくホテルへ行こう。」
瓦礫だらけの街にはヘリがあって、そこから穏やかな地に移動した。
ずいぶん飛んだけど、ここはどこだ?
「残念だが君のご両親は亡くなっていた。パスポートは再発行してある。明日、日本へ行く。
まあ、ゆっくり風呂でも使ってくれ。食事はルームサービスでいくら取っても構わない。風呂が終わった頃また二人で来るから。」
津島と言われた男は、そのまま出て行った。
汚れにまみれたボロ布のような衣類を脱いで、シャワーを浴びた。
あちこちの傷にお湯が染みて痛みがある、
髪は一度洗ったくらいでは泡も立たない。
体を洗ったのはいつが最後だった?
それでも、暖かいお湯に汚れが落ちていくのはホッとできることだった。
助かったと思えた。ふと、この後例の試しがあるのかと思うと不安になる。
男となんて初めてでその上、二人で来るってことは一人見てんのか?
本当に薄気味悪い奴らだ。
どこかの変態にでも売られるのだろうか。はじめの方でお嬢とか言った気がしたが。
死ぬよりマシそう思うしかない。
ルームサービスを山盛り頼んでがっついていたら年配の方がきた。
「うむ、逃げなかったな。まあ食ってくれ。
これから長丁場だ。そろそろ津島も来るから。
ああ、君のパスポートだ。名前に間違いはないか?」
食べるのに忙しくてそれどころじゃない。が長丁場にはギクリとした。
津島が入ってきた。まだスラックスとシャツのままだがネクタイは外している。ボタンも緩めてある。
「じゃ、津島はじめてくれ。」
ここまでか。仕方がない。とうとう別の世界で生きていくのだ。
津島が椅子を動かして寄せてきた。
「日本に行ったら、檜山という人の家に行く。そこでしばらく色々学ぶことになる。
彼の許可が出たら本来の相手に会ってもらう。君が教えるつもりでいてくれ。」
日本に行ってからの説明は続いているが、清潔になって、空腹が満たされると、脱出できたという実感が湧く。
食べようと手は動くが、ひどく眠気が差してきた。二人の会話が、遠くなったり近くなったりしている。
「今夜はここまでのようだな。」
「ええ、これ以上は無理でしょう。日本に行ってからも時間はあるので。とりあえず逃げはしなかったことは評価できます。」
「そうだな。後は檜山のお眼鏡にかなうかどうかだな。ああ、そうだ、着ているローブひん剥いておけ。」
「オヤジさん、タチ悪いです。」
「明日の朝までどうするかわかるから。ここからはお前が俺に新婚の感想を話す番だぞ?」
「勘弁してください。」
電話が鳴っている。
手探りで出てみるとモーニングコールだった。
起き上がると、着ていたはずのローブはなくて、素っ裸だった。
たらふく食べているうちに激しい眠気が来て、そこからの覚えが無い。
やはり昨日...
体のあちこちには囚われていた所でついた傷が多くて、何が何だかわからない。
朝のうちにここを出るか?いや、今はやめた方がいい。ここがどこかもわからない。金もない。
パスポートはあるんだから日本に行ってからだ。
自分の日本語は違和感ないようだし。
ソファに置いてあったシャツとジーンズを着る。
二人とホテルを出て日本へ向かった。
日本では空港に来ていた檜山に連れられて、彼の家に入った。
ここで年配の男とは別れた。
津島という男はそれからもちょくちょく顔を見せた。あの夜、裸でベッドに寝ていて何があったのかはまだ聞けていない。
檜山は四つの家こと、神崎家の代々担ってきた役割と今の立場を淡々と話す。
言葉の使い方や箸の持ち方をはじめとしたマナーは日常の中で教えられた。
大学にも通信制を申し込み、途絶えていた合気道の道場まで手配してくれる。
追々、趣味を持つように。そんなことまで進言された。
それに、津島にもよく会う。
檜山の家に津島は妻を伴ってくる。
ということは、どっちでもいいタイプなのか?
年配の男は高遠といい、月嶋と言う家に仕えている。
彼とはたまに会う程度だが、いつも笑い出しそうな顔をしていて、津島が睨んでいる。
家事は檜山の妻、志津に教わって一通りできるようになった。
この頃になって、両親が亡くなったと身に染みてきた。
檜山夫婦と食事をしている時。
話をしている時。
両親の顔がぼんやりと浮かんでくる。
そういう時の檜山夫妻は優しかった。
ここは居心地がいい。
どうしてここまでしてくれるのだろう。
津島も妻の多英子を伴っているときは、不気味さは微塵もなく、妻を大切にしている男で、どっちが彼の本当の姿かわからない。
日本に来て初めての春を迎えた。
今日は神崎の家に行く。
いよいよ、神崎秋華に正式に会うのだ。
日本に来てすぐ、一度会った。
話はしなかったが、すでに自分のことは伝わっているようで、秋華への説明は少なかった。
「お嬢、例の候補です。少し仕込んで決めます。」
黒い髪は腰まで有って、にこりともしないで、「わかりました」とだけ言った。
あの娘に会うのか。仏頂面というわけではないが何を考えているかわからない。自分と話す時の津島や高遠に感じる感覚と同じだった。
志津が選んだスーツを着てネクタイを締める。
「いってらっしゃい。きっと大丈夫ですよ。自信を持って総代に会いなさいな。」
肩をポンと叩いてそう言った。
安心していられる場所から新しい場所へ。
もし自分が受け入れてもらえなかったら、あの国に帰されるのだろうか。
檜山は自分のことを自分よりも知っていた。
日本人の父母は内戦勃発前から、人道支援のためにあの国にいた。
父は医師で現地の医療支援の陣頭を切ってきたし、母は国際的な団体からの派遣であの国に来て二人は知り合った。
二人はそのまま日本に帰ることなく、そのうちに自分が産まれた。日本人ではあるけれど、日本に来たことはなく知り合いもいない。親戚の話も聞いたことがない。
関係のない国だった。
元々貧しい資源と度重なる内戦で、政府は形を成していない。人々は疲れ切っていた。
当たり前のように過激な思想に傾倒し、荒んでいった奴らが、外国籍の人間を殺すようになった。
俺は外に出た際に囲まれて、気がついたらあの場所にいた。父と揉めたあとで家の中にいるのが嫌だった。母が止めるのも振り払って外に出た。
父母がいつ死ぬかもわからない中、安全な場所に逃げないのが腹立たしかった。
数日前に日本から退避通告が来ていたのに。
あの土地にいても死ぬのを待つだけだった。「日本」に行こう。何度も言った。しかし父は頷かなかった。最後に父母に言ったのは「俺を巻き込むな。」だった。
毎日、見せしめのように人が死んでいく。
後から来た人の噂で、市街の外国人居住地が爆破され多数の死者が出たと聞いた時、父母は死んだと確信していた。父は前から狙われていたから。
外国人というだけで殴られ、蹴られ、殺される。
津島達が来て呼び出された時に、自分は今日死ぬのだと思った。
日本に来て、監禁されていた外国人が解放されたと聞いて、涙が出た。悲しいという感情も、あの国では感じることができなかった。
神崎秋華は昨年父が亡くなり、母は海外にいるという。
18歳で大学生。二つ下の妹、通いのお手伝いさんと暮らしているらしい。
環境は違っても、親しい者を亡くした心の隙間はあるのかもしれない。
神崎家の正門を入ると、駆け寄ってきたのは制服を着た女の子だった。
興味深そうに自分を眺めている。
「やあ。橙子お嬢、今帰りですか?」
「こんにちは、檜山さん。その人が姉様の旦那様になる人?若いのね!よかった。とんでもないおじさんだったら嫌だなって思ってた。」
「とんでもないおじさんとは、私くらいですか?」
檜山が苦笑しながら話す。
「うふふ、それは内緒!はじめまして!神崎橙子です。」
いたって元気で悲壮感はない。人懐こい笑顔を見せている。
「橙子嬢様、お帰りですか?」
年配の女性の声がした。
「じゃまた後でね!」
駆け足で家の中に入って行った。
「私たちも行こう。お前の仕上がりは順次伝えてあるから、お前はプランニングの才能がある。頭もいい。後は総代が気に入るかどうかだけだ。」
要は見た目ってことか?
こんな大きな家の娘が、家柄も何もない自分を選ぶのか?
玄関では津島と年配の女性が待ち構えていて、座敷に通された。
すでに神崎秋華は席についている。
「常和遥を連れてまいりました。」
「ありがとう、座ってください。」
慣れない正座をして頭を下げた。
ピシリと伸びた背筋、切長の瞳、肩までの黒い髪は毛先が少しだけ巻いてある。ずいぶん切ったんだな。
黒のスーツは彼女には制服みたいに見える。
「私が神崎家総代の神崎秋華です。本日はご足労おかけしました。檜山から基本情報は来ています。いくつか質問しますがいいですか?」
「はい。」
「ここには入婿に入ることになるので、神崎の権限は何一つ貴方のものになりませんが、ご承知ですか?」
「はい、欲しいと思いません。」
「どうして?」
「あの国から逃げられるなら、誰だってよかったしなんだってよかったからです。」
「なんだっていい...ですか?具体的には?」
「どんな仕事でも生きていけるならいい.、という意味です。」
秋華が少し眉を寄せた。
「生存の条件が満たされれば、どこにでも属するという事ですか?」
「ええ、この家に入って生かしてもらえるなら裏切りません。」
「生かす?それとも活かす?」
「生かす、です。あなたの性奴隷でもただの奴隷でも。」
檜山がチラリと見た。思うことを正直話していいと言ったからそのまま答えたが、まずかったか?
テーブルの端に座った橙子が堪えきれないみたいに肩を震わせている。
「まあ、橙子嬢様。なんですか」
隅に控えたお手伝いさんが小声で嗜める。
「だって咲さん、正直過ぎない?この人。姉様に気に入られようって感じがないんだもの。嘘じゃないみたいよ?ほら心拍数正常だもの。こんな人初めてね。姉様。」
「心拍数?」
「あ、ほらここに入る時に、これ、つけられたでしょ?これね、イヤーヘッドだけじゃなく心拍も測れるの。」
橙子は自分の指で示して見せた。
自分の耳に手をやった。
小さな指示も出るからと付けたものだ。
「橙子は彼は正直だと思う?一緒に暮らせそう?」
「心拍数的にはね。いいんじゃない?姉様は?」
「プランニングの才能があるのは良い。それに私も正直だと思う。
質問があるとすればひとつ、私に性奴隷なんて言ったのはどんな発想からか聞きたい。」
「ええ、ずいぶん破廉恥なんて表現ですね。遥、何故その言葉を使った?」
「俺は、津島さんと高遠さんから助けてもらった時に女を知っているか、自信があるかと聞かれました。女は知っているが自信は考えたことないって言ったら試せば良いって言っていました。
そのあと、ホテルで食事をしてから記憶はなくて、目が覚めたら裸だった。俺は今でも真相を知らされていない。もしかしたら、あの二人に何かされて、総代にもそういう性癖があるのかも知れないと思った。だからです。」
秋華は話の途中から、津島を横目で睨んでいる。
津島は一瞬目を逸らして何か考えて、口を開いた。
「彼が信じられる人間が試しました。」
「そこからは私が話しましょう。総代、よろしいですか?」
音もなく、高遠が庭先に来てきた。
「はい。お願いします。」
「あの状況から救出される、逃れられると分かれば、誰だってなんでもすると言うでしょう。
しかし、人間は腹一杯の時に本性が出ます。人並みに扱われて腹がくちくなったら、逃げ出す人間は星の数ほどいるんですよ。
安心できる場所に来て、腹一杯になって、遥は寝てしまった。裸にして何かあったと匂わせれば逃げるかもしれない。だとすれば彼の約束なんてその程度ということです。
救出され食事までの一人の時間、遥は逃げなかった。そして朝も逃げてはいなかった。津島に疑念はあったようだがね。もしかしたら日本に来てから逃げようと考えたかもしれないが、今目の前にいる。持ち続けた疑念も胸に閉まっておける。」
とうとう、橙子が笑い出した。
「つ、津島さんと、この人が?多英子さんが聞いたら、あはは」
「これ!橙子嬢様」
「ごめんなさい。でも」
笑いは止まらないらしい。
「高遠さんも津島さんも嫌な手をつかうのね。わかりました。では遥さんはいつからここに来れますか?」
檜山が手をついて頭を下げた。
「総代、ありがとうございます。遥の荷物はいつにでも。」
神崎秋華への婿入りが決まった。
週末には荷物を運んで同居になる。
その夜は「家入りの儀式」があるという。
そこまで話して秋華は少し目を泳がせた。
ああ、だから教えてやるつもりで、なんだな。
今夜は檜山の家で最後の食事だ。
食卓には志津手作りの好物が所狭しと乗っていた。檜山は珍しく酒を口にしている。
「よかったな。遥。お前が認められたんだぞ。」
「檜山さんと志津さんのおかげです。お世話になりました。」
「あのな、この業界は厳しい。加えて総代に婿入りすると分家とうるさい。
もしかしたら、辛いこともあるかもしれない。その時はな....その時はここに志津の飯を食べに帰って来い。」
檜山が少し照れている。
鼻の奥が熱くなって泣きそうになった。
父母が死んだ時は平気だったのに。
出発の朝、檜山が渡してくれたのは父母の写真だった。
爆撃で何もかも失って両親の形見はない。各所に手を回して探してくれたのだろう。
父母に誇りを持てとも言った。
お料理のレシピが欲しい時は電話してちょうだいね。たぶん、かなりいることになるわよ。
ちょっと困ったように志津が笑っていた。
家の中には、秋華と二人だ。
檜山と志津が立会人代理として、翌朝に来ることになっている。
橙子は津島の家に行かされたらしい。
白い絹の着物に身を包んだ秋華は布団のそばにいて、緊張している。
同じ絹の浴衣を着て、お互いに手をついて一礼をする。
秋華は震えている。
「その、初めてですよね?総代。」
「初めてです。総代はやめてください。夫婦だから。」
「えーと、秋華さんは多少の知識はありますよね?」
「はい。四家の長子は14で手解きを受けます。一応理解はしています。」
先週の面会の時のテキパキした様子からは一変して頼りなくて、怯えている。
初めてなら好きな相手とを望む。それが当たり前だ。
「すみません。俺で。」
思わず言ってしまってから、卑屈な気がした。
「先日会った時、貴方なら好きになれると思いました。」
「ひとつ教えてください。どうして俺は候補になったんですか?」
「貴方のお父様が神崎の病院にご勤務していたんです。志の強さはあの国から帰ってこない事に現れていた。それに貴方は合気道とロシア語に優れていた。大学で建築を専攻したのも、あの国を立て直したい意志だろうって檜山さんが。
ご親戚がいないことも、失礼ですが利点になりました。」
「そうですか。やはり日本に親戚はいないんですね。」
「でもこれからは、私がいます。」
耳まで赤くなってはっきりと言った。
「つらかったら言ってください。。」
そう言って秋華の手をとり抱き寄せた。
堂々とした佇まいからは考えられない細さだ。
唇を合わせて、ゆっくり体を沿っていく。
目を閉じて震えているのが、とても愛しく感じた。親を亡くしてこの立場になったのは、お互い様だ。支えてやりたいと思った。
「あ、あの、痛いんでしょ?」
胸の上で握り拳を作ったまま、脚はピタリと閉じている。
「少しずつ解しますから。」
秋華の足の間に手をそわせる。
ひどく全身が緊張する。
小さな声が聞こえる。そっと触れ続けて十分に滑らかになったところで、ゆっくりと体をつなげた。
「...っ」
「秋華さん、息吐いてください。」
素直に息を吐くタイミングで奥まで進んだ。
「辛いですか?」
「だ..大丈夫、でも...」
彼女は暖かい。会った時の頑なさは今はない。
緊張し、赤くなり、恥じらい、豊かな表情を見せていた。
そのまま何度も唇を重ねて髪を撫でた。髪にも口づけすると秋華の匂いがいっぱいになった。
少しずつ体を動かして、夜が過ぎた。
秋華の目には涙が光っている。
額に口づけをして抱きしめる。
俺が支える。重圧と周りの声から。
物言わぬ表情が、俺の前では笑顔になれるように。
翌朝は早い時刻から檜山夫妻がきていた。
互いに風呂を使い、準備された新しい着物に着替えて食卓について、儀式は全て終わった。
「今から本当に夫婦だ。総代をよく支えるように。総代、遥をお願いします。」
黙って頭だけ下げた。
「橙子お嬢は明日帰ってきます。今日は二人でゆっくりしてください。食事は志津が冷蔵庫に準備しています。」
「秋華お嬢、ちゃーんと食べてくださいね。お好きなきんつばも買ってありますよ。」
檜山夫妻が帰ると家の中はシンとする。
手持ち無沙汰の中で秋華が言った。
「あの...もう着替えていいんだって。」
「はい。お腹空きませんか?準備しますよ。」
「着替えたら私がします。奥さんですから。」
「いえ俺が。その、台所には立たせない方がいいと」
「えっ?」
「いやあの、檜山さんと志津さんから、秋華さんの苦手な事も聞いてて。」
秋華に包丁を持たせるな。血の海になる。
鍋を持たせるな。鍋が可哀想なことになる。
食材を触らせるな。文字通りフードロスになる。
盛り付けもダメよ。珍味みたいなものになる。
「そんなの....ひどい。」
秋華は真っ赤になった。
怒り出すのかと思ったら、泣き出した。
顔はクシャクシャだ。
駄々をこねた子どもみたいだった。
「嘘なんですか?」
大きくかぶりを振った。
「ホントなんです。」
両手を膝の上に握りしめたまま、俯いて泣いている。
「色々やってみたけどダメなんだもの。呆れちゃいますよね。自分でも情けないんです。」
これが、一週間前と同じ秋華なのだろうか。
こんな事で泣いてしまうなんて。可愛い。
手をとった。
「志津さんにかなりしごかれたんです。料理の方。あなたと一緒なら無駄にならない。
俺、元々結構作るんですよ。両親があまり家に居なかったから。
それに、そんなことで泣かなくていい。頑張らなくてもいい。あなたは他で頑張っているんだから。全部出来なくていいです。」
「頑張らなくてもいいの?本当?」
「はい。俺の前では頑張らないでもらいたいです。」
秋華ははじめてにっこりと笑って、晴れやかに泣いている。
この日をきっと忘れない。俺が支える。
「お腹空きました。」
「何が食べたいですか?」
「厚焼き卵、甘い方の」
生きていくためには誰でもいい、なんでもするは一部訂正だ。冒頭に三文字文字入る。「秋華と」だ。
「誰でもいい」は捨ててしまおう。
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