第35話 まなざし

 お腹が重い。

近頃は立ち上がるのにも、思わず「よいしょ」

なんて呟いてしまう。

四十路の妊娠は、やっぱりなかなか大変ね。


 津島からメールが来ていた。

お産前に申し訳ないが、一人診てもらいたい。

どうせ、この施設のどこかでウロウロしているのだから、どうぞ。

そう返したら、午前のうちにやってきた。

津島が綺麗なお嬢さんをお姫様抱っこして。

そっちにびっくりした。

秋華が見たら、変な顔をするだろう。

夫が言っていた、オフィスに来た押しかけ女房さんはこの人なのだろう。


 妊娠が発覚してから、娘たちの反応は様々で、夫は多少、戸惑っているようだ。

長女の秋華は少し素っ気なくなった。

妊娠初期の頃は怒ったみたいに苛々して、部屋に篭りがちだったけれど、流石に観念したみたい。近頃はサバサバと気遣ってくれる。

恋愛に興味の湧く年頃だけに複雑なのだろう。

夫と私だって、娘たちに告げるには多少の気恥ずかしさがあったのだから。まさか今になって妊娠するとは思わずに油断した。

妊娠しないなんてなんの確証もないのに。気恥ずかしいけれど、日々大きくなって胎動を感じると嬉しいと思う。

一方、次女の橙子は大きくなるお腹に興味津々だ。触ってもいい?と聞いてくる。

夫の愛おしそうな手つきと比べると、橙子のあれは観察の手つきだ。

最近は片手にはメジャーを持って、私の聴診器までも持ち出して。

お臍の変化を夏休みの自由研究にすると言っていた。

選んだ進路が頷ける。


 大きな胎動が少なくなって、お腹も空くようになった。

この子が準備をはじめたようだ。

鏡の前に立ってみる。

なんとなくお腹の位置が下がったかしら。

早くいらっしゃい。

少しだけ気難しいお姉ちゃんとかなり観察好きなお姉ちゃんが待っているわよ。

二人とも個性的だけど、とても優しいから安心してね。毎日そう語りかける。 


珍しい時間に帰宅したと思ったら夫が言った。

「明日から出て来る」

海外での急な任務のときの言葉だ。

よりによって今かと思ってしまう。

「長くなる?たぶんそろそろだけど。」

「済まない。うまくいけば、段取りをしてすぐ戻れるから」

「久しぶりだから、忍さんがいた方が安心だけど、仕方ないわね。秋華たちにお願いしておくわ。」

「秋のプランまで、動きはないと思っていたけどね。毎日電話するからできれば待っていて欲しい」

そう言ってお腹を撫でた。

胸のポケットからメモを出して渡してくれた。

「万が一戻れない時はこれを。昨日、思いついたんだ。」

「あけてもいいの?」

頷いたのを見て、畳まれた紙を開く。

「季節感があると思うけど、鹿乃子さんはどうですか?」

「あら可愛い。姉様達に引けをとらないわ。」

いつもは、顔を見ないと名前は決められないというのに、よほど気に入ったのね。

夫を見送った後、津島の彼女のことを聞くのを忘れたと思った。

あれから津島はうまくやっているかしら。

というか、津島も今回一緒に出国したはずだから、彼女は心細くないのかしら。

声をかけてみよう。カルテの電話番号でつながるはずよね。怪我の具合を聞けばいいもの。


 夫達はそろそろ、現地に入った頃だ。

予定ではまっすぐ大使館に入って、打ち合わせ。

時差は9時間だから、朝方に連絡かな。

一眠りして目が覚めた。この時間はいつもそうだ。

妊娠後期になってからの眠りは、短く浅い。

胎動も同じく夜中に活発だ。頭は骨盤に嵌入しても手足はお腹を蹴る、押す。そのたびお腹は張るから、ちょっと眠れそうにない。

テレビをニュースに合わせた。

今夜は静かだ。

天気予報を流している。今朝は雨なのね。

梅雨の終わりから晴天が続いていて、そろそろ雨が欲しい頃。いくらか涼しい日になるといい。

さて、そろそろ秋ちゃんが起きだす頃ね。

夏休みだけど、朝のランニングは欠かさない。

どこかで長子だと言うプレッシャーを感じているのだろう。私が弟を産んでいたら、あの頑なな真面目さは変わったかしら。

空腹で出かけるのは体に悪い。お味噌汁とおにぎりでも作っておこう。

ガウンを着て部屋を出た。

キッチンに入ってラジオをつける。

あら、こっちも天気予報だ。

ガスコンロに鍋をかけて、炊飯器から一膳分のご飯をお茶腕に盛った。

ラジオの天気予報がふと止まった。

「ここで緊急速報です。」

火にかけていた鍋のお湯が沸騰しそうで、そっちに気を取られていた。

「大使館関係者の邦人に被害があったもようです。」

邦人まで聞いてラジオに近づいた。

待って、今どこの大使館って言った?

電話が鳴った。

すぐに出ると知っている若い声が震えていた。

「奥様!総代が、総代が...申し訳ありません!俺が ..」

息を吐き出すと出来るだけ冷静に伝えた。

「香内さんね。落ち着いて話しなさい。誰がどうなったの?」

「そ、総代が、撃たれました。」

「それで総代の意識はあるの?」

「わかりません。今津島さんが付いてて、でも動かない」

「ありがとう。津島に連絡する様に伝えてちょうだい。一旦切ります。」

通話が終わると、動悸がしてきた。

いつかこんなことがあるかもしれない。何度もそう思って来た。神崎忍に嫁いでから何度も。

覚悟していると言っても、心臓は激しく拍動して、息がうまく吸えているのか分からない。

落ち着け、まだわからない。ケロリと電話をしてくるかもしれない。

何分経ったのだろう。

娘たちが側にいた。パジャマのままだ。

「か、母様。血が出てる。」

そう言ったのは泣きそうな橙子で、思わず彼女の手を取ってどこ?と聞いた。

「橙子じゃない、母様からよ。病院に電話する」

そう言った秋華も真っ青だ。

足元を見た。サラサラした出血が溜まりを作っていた。

お腹はひどく張っていて、目の前が暗くなりそうだ。

「秋ちゃん、救急車呼んで。橙子、お部屋からサニタリーナプキンの1番大きいの全部持ってきて。そして玄関の鍵を開けなさい。」

ガクガクしながらも秋華は救急車を呼んでいた。

ダメ、今倒れては。二人がパニックになる。

救急車が来るまでは、なんとか持ちこたえなければ。ああ、誰が、咲さんか誰か私が倒れる前に誰か。


「奥様!入ります!」

入ってきたのは津島が連れてきた女性だった。

小さく「あっ」と言ったがすぐに気を取り直したようだ。

「新さんからお手伝いするようにと。

私多英子です!奥様、横になってください。お嬢様方、救急車は?」

「よ、呼びました。」

「そうですか、ではお嬢様は病院へもお電話して、救急車を呼んだことを伝えてくださいね」

サイレンが聞こえる。

「お嬢様、外に出て、救急車に手を振ってください。」

「は、はい...はい!」

橙子が外に行ったようだ。

よかった。娘たちだけではなくなった。

救急隊も到着する。それから目の前が暗くなっていった。

手には多英子の手が触れていた。


「神崎先生、聞こえますか?」

目を開けると麻酔科部長が見えた。

「とりあえず同意書は代理の方にいただきました。早剥疑いです。今、帝王切開の準備をしています。よろしいですね。」

「待って、痛..いきみ来てるみたい。助産師さん呼んで内診を!」

内診するとすでに児頭はかなり下がっていて、すぐにもお産になりそうだと言う。

手術よりも早いだろう。

手術台でいきむ。

痛い。お腹が破けそう。お願い元気でいて。数回いきんだのち、赤ちゃんの声が聞こえた気がしたけれど、また真っ暗な中に落ちていった。


「秋ちゃん」

目を開けると一番に見えたのは秋華だった。

「母様、よかった、橙子を呼んで来る。」

泣いていたのだろう。涙の跡が痛々しい。

この子は泣き顔を隠したがるのに。

自分がいきんだ後、どうなったのか思い出せなかった。

「痛い?母様...」

橙子も泣き顔だ。秋華が椅子に座る。

「ごめんなさいね。怖かったでしょう?赤ちゃんは元気なの?」

「うん、女の子。赤ちゃんのお部屋に居るわ。

母様ずっと眠っていたの。それで、多英子さんがきてくれたの。」

「そうなの。二人ともきちんとご飯食べてた?」

「咲さんと多英子さんが作ってくれてたの。」

橙子は鼻をグスグスさせて話している。


ノックの音がする。

「入ってもよろしいですか?」

若い女性の声だ。そういえば津島の彼女が家に来てくれたのだった。

「どうぞ、ご迷惑をかけました。」

起きあがろうとすると下腹部に激痛が走って、話すことができなかった。

帝王切開はしなかったはずなのに。

「先生をお呼びしますからお待ちください。」

横になるのに手を貸してくれて、ナースコールを押した。

産婦人科医師から出産した経過の説明を聞き、自分の子宮が取り払われたことを伝えられた。

輸血も随分したらしい。

子宮はいい。

それよりも子宮を取る事になった理由に、頭がクラクラした。

きっと貧血のせいだけではない。

早く夫に連絡して...ここまで考えて、任務中の夫の身に何が起こったのか、記憶が鮮明になってきた。

「多英子さん、夫は...総代の消息を聞いていますか?津島があなたをよこしたのでしょう?」

「それは私から説明します。彼女にはまだ酷です。」

入ってきたのは檜山だ。

神崎に勤めてくれる人たちの中で最も長い。

先代からいる年配で、執行部を束ねている。

津島は彼の後継なのだ。

「無事ではないのね。私は何日眠っていましたか?」

「鹿乃子さん、まだ思わしくない体調ですが、隠すわけにも行きませんから、いいですね。

総代は殉職されました。

大使館での襲撃で香内を庇ったそうです。

当日から3日経過しています。津島達は先程、現地の警察の聴取が終わりました。すでに全員で空港に向かっています。明後日の朝には総代と一緒に帰国します。

私はこれからオフィスに戻ります。

葬儀の手続きを進めて良いですか?

まだ暫く退院はできないそうですから。

葬儀の日は、一時外出を考えてくれるそうです。

この後のことはまた後日にしましょう。お嬢達のことは咲さんと多英子さんにお願いしてあります。」

「...そう、お願いします。」

廊下で橙子が泣いているらしい声が聞こえる。

まだ中学生なのだ。

秋華は橙子を励ましているのかもしれない。

「檜山、秋華を中に。橙子は連れて帰ってください。この後を話します。」

振り向いた檜山は心配そうに見ている。

「私の体のことは聞いていますね。忍は亡くなった。揉め事が起こる前に対処しなくては。」

「承知しました。」

「お嬢、鹿乃子さんがお呼びです。橙子嬢ちゃんは自宅に送ります。」

秋華の事だ。

今のやり取りでなんとなくは察するだろう。

「いや!姉様と一緒に居る。」

「それはいけません。奥様と大切なお話がありますから」

「だって、やっと目が覚めたのに...」

橙子がごねているのが聞こえる。

「では、橙子様はお家で赤ちゃんの準備を一緒にしてくれませんか?咲様にもご紹介してください。」

そう言って取り持ってくれたのは多英子だ。

足音が遠ざかる。

廊下は静かになった。

「秋ちゃん」

声をかけても、秋華はすぐには顔を上げなかった。

黙って、手を強く握り締めて座っている。

手をとって、この子はまだ子供だと実感する。

いくら小さい頃から言い聞かせていても、特殊なトレーニングを積んでいても、デビューすらしていないのだ。

「秋華、よく聞きなさい。今からとても大切なお話をします。」

上目遣いで挙げた瞳には涙が溜まっていて、今にも溢れそう。

「今からあなたが神崎忍の後継、神崎家総代です。神崎家の権限はあなたが遂行しなさい。一週間以内に親族会議がある筈だから、それまでに檜山が忍の委任状をあなたに渡します。それを持って檜山と会議に出るの。」

「母様がいるのに?まだ任務についてもいないのに?」

「そうです。任務は葬儀と会議の後、檜山と津島が手配します。あなたが無事にデビューを果たしたら、私は日本から出ます。」

秋華が絶望したように目を大きくした。

どうして自分のそばにいてくれないのか、そう訴える目だった。

「私には大きな病気がある。私の体調が不安定なことを親族、特に小此木の人に知られては駄目。

その意味はわかるわね。もう一つ。早急に決めるのはあなたの結婚です。」

「それも今なの?」

声は絶望どころか、恨むような響きを含んでいた。

とうとう秋華の瞳から涙が流れた。

「私は何も選択できないの?」

何も返してあげられなかった。本当だから。

この家に産まれた運命だから。

本当はね、こんな運命、私と忍で終わりにしようって言っていたの。

娘達が選んだ人と家庭を作って生きていけるように。

もっともっと広い世界で、手脚を思い切り伸ばしていけるように。

忍はいつもそう言っていた。

でもね、今はそれを明かしてあげることができないの。

もう少しだけ私に時間が有れば、忍が生きていれば重い荷物を少しは解いてあげられたのに。

さっき知らされた自分の病は、今回の手術によって一気に加速するのが目に見えている。

子宮をとっただけでは済まない。

悲しい未来は近い。

分家の小此木家は秋華が継いだ途端、動き出すだろう。彼女が一人でいるのは極めて危険だ。本家に入り込むためには手段を選ばない家だ。

すぐでも既成事実を作ってぶら下げて来る。

秋華を守ってくれる人。任務として、役目として担ってくれる人を探さなければ。

檜山の目の黒いうちに。


 葬儀は檜山の手配によって進められ、秋華は素直に従った。

その後の親族会議も忍の遺言書を携えて、彼女は周囲の力を借りながらやり遂げた。


 退院してからも秋華とは距離が空いたままだ。

抱きしめてあげたい。よくできた、頑張ったと言ってあげたい。

忍が名付けた女の子を夜中に抱きあげるたびに、秋華に申し訳なくて居た堪れなくなる。

この子が長時間の移動に耐えられる時期が近づいて来ている。秋華は今、檜山と津島と共にデビュー戦のプランニング入っている。

少し痩せてしまったのが不憫でならない。

秋華と橙子と離れたくない。そばにいたい。

見守りたい。一緒にご飯を食べて笑っていたい。

あれから多英子が時々手伝いに来てくれる。

津島が選んだこの人は優しくて芯が強い。

秋華の相談に乗ってやってほしい。

橙子の話し相手になってやってほしい。

やがて、夏夜がひとりで帰国した時も助けて欲しい。

こんなに誰かを頼りたくなるのは、病気せいなのかしら。


日に日に険しくなる秋華の顔つきを見ていると、もう本家を欲しい者に渡してしまおうと考える時がある。

秋華と橙子と夏夜とで、国外に行って一緒に暮らせばいい。

簡単なことなのに、それができない。

私は意気地なしだ。秋華を犠牲にした。

あれほど、四家の窮屈な習慣を崩そうと忍と話したのに、いざとなったらこの有様だった。

忍さん、どうして今なのかしら。何もかも。


 「秋華、気をつけて。あなたなら大丈夫よ。」

「はい、行ってきます」

朝早く秋華はデビュー戦のために檜山、津島、そして月嶋の高遠、奥井と出国していった。

瞳には強い決意が表れていて、凛々しくさえあった。

この数ヶ月で何もかも諦めた高校生は、悲しい強さを纏って足を踏ん張っている。

現地では、磁村の杉浦が同家総代と待っているはずだ。

異例のサポート体制は、失敗が許されないことと、秋華が総代という立場から逃れられないことを含んでいる。

『帰国したら、もうここを出なければ。』

時々眩暈がして、大きく体力が落ちたことを感じながら、出国の準備を進めた。

最近、橙子は学校から帰るとほとんど自分のそばにいる。

橙子だって寂しいのだ。

「私、姉様と一緒にいるね。」

ポツリと言った。

「橙子ちゃん、ありがとう。秋ちゃんをお願いね」

橙子はほっぺたを赤くして頷いた。

「進路は変えなくてもいい?私はみんなを助けたいの。それで病院にいるから」

「もちろん。きっと秋ちゃんも賛成してくれる。橙子ちゃんなら良い医者になれるわ」


 庭では白い萩が雨に濡れている。

水気を含んで、今は打ちひしがれているけれど、この雨が終われば緩やかに頭を上げるだろう。


 少し表情が出てきた夏夜を、橙子があやしている。片腕に抱えて勉強しながら。器用なものだ。

昨夜帰宅した秋華は、可哀想なくらい疲れ果てていた。

今日はまだ眠っている。

初のデビュー戦は120時間に及び、サポートがあったにしても重い任務だった。秋華はなんとかやり切った。

檜山にも褒めてやって欲しい、この短期間の仕上げにも関わらず、お嬢は泣き言を一度も言わなかった。そう聞いていた。


 今朝は秋華の好きなご飯をたくさん作ろう。

炊き込みごはん?それともフレンチトースト?

帰国したばかりの体を思うと炊き込みご飯よね。

それと体があったまるけんちん汁。

厚焼き卵は少し甘くして。

夏夜が眠っている間に、お昼ご飯を作ってしまおう。

炊飯器に炊き込みご飯の具材と調味料を入れて、卵をボウルに割り入れる。

菜箸を取ろうと屈んだ途端、グラリとした。

そのままシンクを掴んでしゃがみ込む。

「大丈夫⁈母様」

気がついた橙子が慌ててそばにきた。

耳が遠くなる感覚と冷や汗が出る。

「咲さん呼んで?」

橙子に言いつけるとすぐに駆け出した。

咲さんは洗濯物を干す手を止めてきてくれたらしい。片手に夏夜の着物を持っている。

「奥様、早く横になってください。このままでは転びます。」

「野菜、切ってもらえますか?少しだけ横になります。」

橙子に抱えられて、リビングで横になる。

動悸は続いているが冷や汗は落ち着いた。

隣には橙子が不安そうにしゃがみ込んでいる。

目には涙をいっぱい溜めている。

父親が亡くなったばかりなのだ。

一晩で人生を決められた秋華だけではない。

橙子にだって負担がかかっている。

「母様も、死んじゃうの?」

橙子の手を握った。

指先が冷たくなって震えている。

この手が冷え切ってしまわないようにするには、どうすれば良いのだろう。

橙子は早くから医者を目指したいと言ってきた。はじめは自分の真似と思っていたが、受験前の面談でもその決意は変わらなかった。

私は彼女の一症例となるだろうか。

「私の症状を覚えておいてね。この病気について教えてあげる。座りなさい。」

まだ鼻を啜りながら橙子はその場に正座した。

「再生不良性貧血っていうの。遺伝が関係するかどうかはっきりしていない。こんな貧血症状が時々起こるようになって、適切に治療できないといずれ死んじゃうの」

「母様みたいなお医者さんがいても、治らないの?」

「助けるためにはお薬と骨髄移植っていうのが必要。」

「骨髄移植って聞いたことある。」

「たくさんいろんな病気を知りなさいね。どんなことからも学べるのよ。それで具合の悪い人がいたら学んだ病気を思い出すの。」

「うん」

「医者の力はほんのちょっぴりなのよ。だから医者がいるから治るなんて思っちゃだめ。病気の人の心と一緒に支えないと頑張れないの。」

「大好きな人といれば頑張れる?」

「そうね。だから大好きな人も一緒に支えるの。橙子、できそう?」

「わからない。難しそうだもん。でもそうなりたいな。」

「難しいのよ。そうなりたいって思い続けたらきっとなれるわ。私はいつでも応援しているからね」

橙子の鼻がグスッと鳴って、見つめている。

もう一度橙子の手をギュッと握った。

「ホントにずっと応援してくれる?母様」

「ホントよ。ずっとずーっと応援してる。」

「なら、がんばれる!」

橙子がにっこりした。

結局、けんちん汁は味付けだけ自分でした。

厚焼き卵は咲さんの味になったけど、仕方ない。


 なかなか起きてこない秋華の様子を見に行った。

この子はひどく疲れた後に熱を出すことがある。あまりに疲れすぎて起きれないんじゃないかと思ったのだ。

秋華はベッドにスッポリと入ったまま、丸まるようにしている。

ベッドの脇に座って娘の背中を見ていた。

「起きる時間?」

なんだ、起きていたんだ。

「熱はない?」

「平気。もう起きなきゃダメ?」

「お腹空いてない?空いてないなら好きなだけ眠っていいのよ。」

「空いてる。さっきお腹の音で起きたの。」

「あのね、檜山が褒めてた、秋ちゃんの事。泣き事言わなかったって。頑張ったわね。初めてのことなのに本当によく頑張った。」

「そんなの嘘。泣き事言ったの。休憩の部屋で。たくさん言ったの。もう嫌だ。帰りたいって何度も。」

「そんなの良いわよ。秋ちゃん、帰ってきたくなかったんでしょ?」

「帰って来たら次があるから、逃げたかった。出来なかったけど。」

「そう。」

「母様だって、どこかに行っちゃうんでしょ?夏夜だけ連れて。」

「さっきね、症状あったの。退院してきて初めての。」

ガバッと勢いよく秋華が起き上がった。

「転ばなかった?動いていいの?」

「休んだからもう大丈夫。私の病気はこうやって少しずつ姿を見せてくるの。私のために秋ちゃん達が不利になるのは避けなきゃいけない。」

「私には選ぶことはできなくて、何もかも決められちゃうのに、それよりも不利な事ってあるの?」

「ごめんなさい。今は何も言えないの。でも秋ちゃんに託したいのよ。」

「ごめんなさい。本当はわかってる。」

やっぱりこの子は優しい。

時代錯誤で理不尽な運命すら受け入れてしまうくらいに。

「母様、わがまま言ってもいい?今だけ。」

「なに?」

「どこでもいいけど、夏夜と行くところは新婚旅行に使えるところにして欲しいの。ロマンチック街道とか。それならすぐに会いに行ける。」

「秋ちゃん」

「それから...泣いてもいい?」

言い終わる前から、秋華の目からは涙が落ちている。

抱きしめた。

強がりで正義感が強くて、優しい秋華。大切な大切な秋華。

忍さん、秋華を守ってほしい。貴方の大切な娘達を守ってほしい。


 早朝の空港は空いている。

隣には津島が荷物を持ってくれて、夏夜と私は出国する。

ロマンチック街道沿いなんだもの。

どうせ誰かに付き添いをお願いするならと津島と多英子に頼んだ。

そのまま新婚旅行にしてもらうつもりで、と秋華から伝えてもらうと、多英子は真っ赤になって可愛いかったと言っていた。

秋華は会議でここには来れない。

でもあの子の希望に沿ったから、いつかきっときてくれるはずだ。

橙子は、秋華がいけないなら自分も見送りには行かないという。明日は受験だしと。

秋華を気遣ってのこと。

この二人に託せる。家も病院も。

娘達の成長を見届ける事はできないけれど、見守ることはできるから。

おそらく数年のうちに、夏夜はここに戻ることになる。

「夏夜、よく覚えておいてね。あなたのほんとの居場所はここ。秋華と橙子が待っている場所よ。」

そうつぶやくと、返事をするかのように末の娘は笑って、手を伸ばした。

行ってきます。それとさよなら。

娘達へ、負けずに前に進みなさい。

空は澄んで空気は冷たい。冬の訪れを告げていた。

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