第34話 巡り

 小刀を持つのは、久しぶりだ。

少しだけ何を作るか考えたが、やはりこれしかないとクロに目を落とした。

去年もらった、大きなフカフカのベッドは、今やクロのお気に入りになって、この家の日当たりの良いところに引きずって移動するくらいだ。

汚すこともない。

犬にも死期がわかるのだろうか。


自分にしか懐かない、と多少自慢に思っていたクロが、あの子には尻尾を振った。

嫉妬なんて、子供じみた感覚はなかったが、なぜだろうと不思議だった。

その上、坊にも触れることを許している。

ちょっと迷惑そうではあるが。


 何しろクロは典型的な人間不信だ。

避暑地の賑わいが引く晩夏、この地域では土地の人間が貸別荘地帯の見回りをする。

夏の間、子供達の友人として飼われた犬や猫は彼らが都心へ帰る際には不要となり、この地に置いて行かれていくものも少なくない。

彼らが数を増やし、地域に増えていくことは致し方ないが、その先には悲劇的な結末が待っている。

空腹で家畜を襲う、群れとなって山に入れば野犬化し、やがて駆除の手が容赦なく伸びてくる。

全てを助けられるわけでもないが、なんとか新しい飼い主が見つかれば被害も減るし、結果として少しでも彼らを助けることができる。

月嶋の任務から引退して、この地に根を下ろして数年、何度目かの見回りだった。

貸別荘の柱に一匹の犬が繋がれている。

そう教えてくれたのは、よく行く店の店員だった。

買い物帰りに寄ってみることを伝えて、車を出した。

夕暮れが迫る中、車のライトに光ったのは大きな鎖。

えらく大きな犬を置いていったのか?

車を降りて慎重に近づく。

この地に打ち捨てられた生き物は、飢えと不信感でとても攻撃的なことがある。

鎖はほんの少し音を立てたが、本体は見えなかった。

さらに一歩進むと、唸り声が聞こえた。

意外なくらい幼い。

しゃがみこんで、干し肉を投げてやる。

投げ入れた餌を嗅ぐ様子があった。

鎖がカチカチと鳴っている。

そして咀嚼する音。

太い鎖をゆっくり引っ張る。

クッと抵抗するが、またそっと引っ張ると、鎖には不釣り合いな小さな影が引きずられてきた。

子犬は真っ黒で足の大きさから、これから更に大きくなるのがみて取れた。

生意気に手に噛みついたが、乳歯のようだ。

これは本当にデカくなるな。

ともあれ、この子犬を引き受けることにして自宅に連れ帰ったが、人が見ているときは餌を食べない時期が半年続いた。

それから自分には慣れたが他の人間には一向に見向きもしない。

襲うわけでもないから、他人に慣らすのは諦めた。

ここによく来る坊にも無視を決め込んで、尻尾を振ったことがない。


 坊から神崎の三女の縁談に申し込んだとメールが来たのは三年前の初夏。

業界を退いても、風の噂はここまで届いた。

神崎の入婿はよく知った間柄だ。



 津島が殉死した。

同じく弟分の奥井から連絡があった。

「高さん、置いて逝かれてしまいました。」

葬儀での奥井は淡々と、何があったのか話してくれた。

プランニングリーダーは神崎の総代。

入婿の遥とこの業界で注目を浴びていた神崎夏夜。

執行班のリーダーは津島だった。

「あと数分で片がつくとこだったんですけど、際どいところを狙ってきました。

神崎の三女と津島のおかげで対象は無事でした。施設の被害は多少。」

「多英さんは?」

「あっちです。」


 奥井について部屋の奥に行く。

喪主として多英子は務めを果たしていた。

焼香客に静かに礼を返し、背中を伸ばしているのはさすがだ。

人の流れが一段落したらしい。

目が合うとそっと指をついて立ち上がり、こっちへきた。

「高遠さん、わざわざいらしていただいて。」

「来るのが遅くなった。この度は、」

「堅苦しいのはいいんです。来ていただいただけで、あの人も喜びます。」

多英子の目の下にはくっきりと隈が浮かんでいる。無理もない。

「すまんな。葬儀だけは堪えてくれ。」

「ええ、多少の覚悟はありましたもの。」

「私もしばらくこっちに居るし、奥井も使ってやってくれ」

「ありがとうございます。奥井さんも。

でも私、津島の妻ですからきちんとやれてよ。

それに総代が本当に良くしてくれるの。

妹のかやちゃんがあんな事になっているのに。」

「そうか、それも彼らの役目だ。甘えておいたほうがいい。」

再度お辞儀をして、多英子は喪主席へ戻っていった。


 人波の奥に坊を見つけた。

いつも一緒の久坂部と磁村の跡取りと一緒にいる。

神崎の三女ときちんと会ったことはない。

何しろ三女なのだから、引退した自分がしゃしゃり出る理由はない。

しかし、久坂部と磁村の2人は別だ。

三人とも、人目を避けるように会場の隅っこにいる。

「坊」

声をかけると隆がやってきた。

「怪我はないのか?」

俯いたまま、ボソリと言った。

「役に立たなかった。」

「そうか。悔しいな。でも今は泣いちゃいかん。その時間が三人にあるなら遥君を手伝ってやると良い。いいな。落ち着いたらまた話そう。」

頷いたのを見て焼香ののち辞した。



 しばらくは都内のホテルにクロと滞在していた。

多英子とは葬儀のあと一度会った。

返礼品を届けくれたのだ。

優雅な物腰は歳を得ても変わらない。

彼女が津島のところに押しかけて来た時を思い出していた。


 「困りました。高さん、どうしたらいいんですかね。」

任務で関わる事になった資産家の娘に、随分気に入られてしまったらしい。

「ま、お嬢様の気まぐれだろう。無視しとけばそのうち忘れるさ。

どうせ、彼らの周りにいないタイプにのぼせているだけだ。それとも何か?お前がのぼせているのか?」

「いえ、自分の立場は弁えています。俺は元華族様とどうこうなる人間じゃないのは、よくわかっています。」

内心珍しいと思った。

堅物で色恋は目に入らないのかと思っていた津島が、女性のことで困っているなんて。

自分に厳しい。融通が効かない。曲げられない。

要は真面目で信用できるが、それ以外は仲の良い仲間と飲むだけが楽しみで大した趣味もない。

たまに、これは家庭でも持たせないといかんかと考えるくらいに仕事一筋の男だ。

引退後の心配もしないと。男の一人趣味なしはわびしいらしいからと、妻の幸まで心配している。


 そうは言っても、津島だって立派な大人だ。

今より問題があれば自分から言ってくるだろう。そんなふうに考えていた。神崎の総代もいるだろうし。

例のお嬢様のことは、問うこともなく過ぎた。


 空港で別れたはずの津島がマンションに転がり込んできたのは夜遅く。

もう寝る支度をしていた頃だ。

インターホンには、別れた時のまんまのスーツを着た姿が映っている。

「どうした?」

「すみません。泊めてください。すみません。幸さんも。」

「だから、なんで?」

「多英子お嬢さんが家にいて、飯作っててお帰りなさいって。それで洗濯物出してくださいって。俺のパンツ洗ってあって...」

「まぁ、パンツ溜めていたの?」

「なんだよ。連れ込んでいたのか?総代に迷惑かけるんじゃないか?」

真っ赤になってあわてて否定する。

「そんな事してないです。今回の任務だってあの部屋から一人で出発したんですから。」

話しが全くわからない。

津島を連れて彼の部屋に戻った。

幸も楽しそうに同行した。


「お帰りなさい!もう!ご飯が冷めてしまいます。美味しいうちに、あら?」

扉を開けると元気よく飛び出して来たのは、長い髪を一本に束ね、エプロンをつけた多英子だった。

片手にスポンジを持っている。洗い物か?

ちょっと小首をかしげると

「もしかして、高遠様?新さんのお兄様分の。」

「ええ。そうです。いや、新さんって」

こっちまでドギマギした。これじゃまるで新婚家庭だ。

とりあえず手料理をいただいた。えらく美味い。

「高遠様は、なぜ私がここにいるか聞きにいらしたのでしょ?」

屈託なく多英子は笑う。

「津島がうちに来ましてね。貴女の心づもりを聞こうと思っているのですが。

どうやってここに入ったんですか?」

「新さんたら、私を見るなり飛び出していってしまうんですもの。

私きちんと父に許可をもらって来たんです。

それで、神崎様にお嫁に来ましたって言ったら鍵を開けてくださったわ。おめでとうって。」

頬を染めて嬉しそうだ。

「許可?」津島と声が重なった。

「はい!津島さんと結婚する許可です。」

津島の手からポロリと箸が落ちた。

「俺そんな事言いましたか?」

「どなたかお相手はいますかって聞きました。私のこと嫌いですかとも聞いたわ?」

「おまえ、なんて答えた?」

「嫌いじゃない。相手はいないと答えたと思います。」

依頼相手の家族を、任務中に嫌いとは言えないだろう。

「ね!嫌いじゃなければ、お嫁にしてください。」

「なぜ彼に嫁ぎたいのですか?結婚は一生のことですよ。」

「だからです。一時的に好きとか嫌いの話しではないから。

津島さんなら、私一生支えたいと思いました。もっと笑って、話して欲しいから。

時々隠す腕のお傷のことも、これまでの苦しいことも。一人より二人の方が軽くなるわ。

そんな動機ではいけませんか?家事だって私きちんとできます。」

「お嬢さんのご家族の許可があって、一生津島と生きていきたいというわけですね。

すでに神崎の総代は承知と。なるほど。

それなら、後はお前の問題だ。

私達はこれで失礼するよ。」

笑い出したい思いで席をたった。

帰り道では幸が、料理の巧さに感心している。


あっさり高遠夫婦は行ってしまった。

せめて彼女を連れていってくれればいいのに。

部屋の残るのは自分と多英子だけ。

少し離れて向き直る。

一目見てわかる育ちの良さ。

見るからにお嬢様なのだ。

多英子は初めて不安そうにじっと見ている。

「ご迷惑、ですか?」

大きなため息が出た。

「俺は多英子お嬢さんに釣り合うような人間じゃないんですよ。この通り女性をどう扱っていいかも知らんのです。なんで俺なんですか?」

「さっき言った通りです。女性にチヤホヤしないけれど、乱暴な方ではないわ。

釣り合うとかそんなのって世間様のいうことでしょう。私は津島さんのそばにいたいんです。ご迷惑ですか?」

「迷惑とかそういうことではないんです。俺の仕事はいつ死ぬか分からんし、ただのサラリーマンです。貴女の生家のように優雅な生活をさせてやることもできません。」

「ふむ、今のお話ですと、まずはご迷惑ではない。

わたしは優雅な暮らしのために津島さんに嫁ぎたいわけではなし、人はいつか死ぬのですから、それを心に留めておけば良い。

押しかけているのは理解しています。

しばらくここにおいていただいて、顔を見るのも嫌だとか、不都合がありましたら出て行くのではいかかでしょうか?」

人差し指を顎に当てて、確認するみたいにもう一方で指を折っている。

いかがもへったくれもない。

津島の混乱は限界を超えていた。


とりあえず、2LDK部屋の一室を大雑把に片付けて、多英子に使ってもらう。

期限は3ヶ月。

その間、お互いの心境を決める事にしようという。

「お見合いと思えばよろしいでしょう?私、ちゃんとお勤めもしていますから。生活はご心配なく。あ、これもお渡しします。」

差し出したのはブライダルチェックの結果だった。

「俺が衝動的になったらどうするんですか?」

「もちろん、望むところです。お待ちしています。」

そう押し切られた。


 やっと任務が終わったのに、一杯やる暇もなく夜は更ける。

ベッドに寝転がって、彼女との噛み合わないやり取りを考えていた。

身体は疲れ、気を張った時間が終われば、反動として眠気はくる。

いつの間にか眠っていた。


水の音、何かが触れ合うかちゃかちゃした音。

生活音がこの部屋でするのは珍しい。

ぼんやりと天井を見ていた。

いい匂い。味噌汁かな。

ここまで来て、ハッとした。

そうだ。昨日から多英子お嬢様がいる。

週末からの数日は任務明けの休みだが、今何時だ?

急いで部屋を出ようとして、ドアノブに手をかけて止まった。

パンツ一丁ではいけない。

昨日脱いだシャツとスラックスは床に落ちていて、皺だらけだ。

いつもなら着古したシャツと適当なズボンで一日過ごすが、どうしたらいいんだ?ウロウロと歩き回る。

いや待て、現実を見せた方が彼女も諦めるかも。

履き慣れたヨレたジーンズとタンクトップのまま部屋を出た。

「あら、おはようございます。ご飯召し上がります?」

「適当に食べるのでお構いなく。」

ギクシャクしてしまうのが悔しい。

「ちょうど私もいただくんです。ご一緒してくれませんか?」

「あー、そういうことなら。」

「しじみのお味噌汁にしたんです。疲れにいいから。」

昨夜言ったとおり、賄いはスムーズにこなす。

「いただきます。」

自分が食べるのを嬉しそうに見ている。

「塩辛くないですか?」

「美味いです。昨日の飯も。」

つい正直な感想を伝えていた。

食事の後は当たり前のようにお茶を出そうするのを止めて、コーヒーを淹れる。

「えーと、お嬢さんも飲みますか?」

食べるばかりでは気がひける。

「はい、いただきます。コーヒーお好きなんですね。」

「ええ。家にいる時は自分で淹れたのがいいんです。豆から挽いて。この通りの角にある店の豆が美味いです。」

好きなことをつい話していた。「つい」が続いて急に恥ずかしくなってきた。

多英子はニコニコと聞いている。

大きなカップを黙って彼女の前に置く。

家にはソーサーなんてない。

「わぁ、いい香り。美味しい!コンビニのとは全然違うのね。」

当たり前だ。

新聞を読みながら、自分でも口にする。

うん、確かにいい出来だ。美味い。

「あのぅ、お願いがあります。」

新聞を脇に置いた。

「なにか?」

「お嬢さんって言わないでください。」

「しばらくは難しいです。俺は貴女を他に呼ぶことを想定していませんでした。

任務が終われば会うこともない人でしたから。」

我ながら冷たい言葉だと思った。

「そうですか...」

少し悲しそうだ。

「名前で呼んでくださるようになったら、脈ありということですね!」

脈ありなんて物言いは、彼女には似合わない気がした。それに少し無理をして明るく振る舞っている。

「ちょっと散歩行ってきます」

どうしたらいいかわからなくて外に出た。

なんでこんな事になったんだ。

思わせぶりなことを言ってしまっただろうか。

そういうのはサラリと出るほど慣れていない。

いくら考えてもわからない。

任務自体は重いものでもなく、彼女との接点は数えるほどしか無かったはずだ。

例の、お嬢様に相手はいるか?嫌いか?と聞かれたのはたぶん、園遊会の後、自宅まで車で送った時だったか。

たいして考えもせず答えた。

きっかけが思い浮かばない。

園遊会の数日後からは海外での任務に就いて、かなり重い仕事だったから、帰宅して多英子を見るまで思い出しもしなかった。

結局、夕方まで本屋に行ったり、ぶらぶらして過ごした。

帰らないわけにも、高遠の家に転がり込む訳にいかない。

総代はなんで不思議に思わなかったかな。

鍵を渡すなんて。


 翌日から、多英子は朝から出かけて行った。

勤めをしているのは本当のようだ。スーツからチラと見えたネームタグには大手企業の社印と秘書課の文字。

帰宅は遅く、その上かなり疲れている。

自炊したカレーを出すと、ペコリと頭を下げて食べ始める。

「美味しいです。この上の、オニオンフライ合いますね。これも作ったの?ごめんなさい。ご飯作れなくて。」

「いや、どっちにしても飯は時間があれば、自分でなんとかしますから。オニオンフライは市販のです。」

簡単な言葉を交わして夜は過ぎる。


 多英子は連日、朝から仕事だ。

毎日疲れているようだが、不機嫌な顔は見せない。

そうだよな。普通の勤めなら朝から夜で、その日のうちに帰って来る。

週末には家事に精を出し、今週からは作り置きの料理を作ると張り切っているらしい。

自分も今週からプランニングに入り、同時に細々とした指示もこなさなければならない。

夕飯を作る余裕なんてなくて、だいたい外で済ませてしまう。

四家のうち、神崎以外は昨年揃って跡取りが産まれたり決まったりで、新年の準備の指示も受けている。

自身が勤める神崎では、総代の妻、鹿乃子の出産予定日が近づいて来ていて、それもまた気忙しい。

ひとつの部屋にいながら、多英子と顔を合わせる回数は多くなかった。


 今夜は久しぶりに早めに帰宅でき、一息吐こうとコーヒーを淹れていると多英子が帰宅した。

「今日は早いんですね。お疲れ様です。お食事作ります。」

彼女に聞いた。

「いや、飯はいいです。お嬢さん、俺は任務に就いたら帰って来るのはこのとおり、不定期で、時間だって不規則ですよ。危ない事だってあるかもしれない。そのあたり考えてますか?」

「少しお話を伺いました。幸さんから。私、必要があればお勤めを辞めます。」

「お嬢さんの生き方はそれでいいんですか?」

「仕事は好きですが...私じゃなくてもいい仕事なんです。」

「勤めだけの事じゃない。危険に巻き込まれることだってある。俺は大切な人を巻き込むのは嫌です。だから一人でいい。一人がいい。」

「大切な人がそれでもいいって言っても、そう思いますか?」

「多分。」

「狡いです。新さんは仕事のために、人の心を無視するんですね。」

多英子は憮然として床を見つめている。

「だって仕方ないでしょう?それが俺の仕事なんだから。生き方なんだから。だから大切な人は作りません。」

「嘘つきです。」

カッとなった。

「嘘ってなんですか⁈」

「貴方が嘘を言うからです。」

「なんで貴女に言われなくちゃならない!」

「私、見てました。園遊会の時。お仕事でもないのに、猫を助けたわ。車に乗った時に腕の傷が新しいものではないかと聞いたら、昔さっきみたいに犬を助けようとした時のだって。痛かったのは犬だからいいんだって。」

大きな目から涙がポロポロこぼれ出した。

「何度自分を傷つけてもまた助ける人が、一人でいいわけないじゃないですか!

貴方はまたきっと、自分を傷つけても誰かを助けるんだわ。だから、だから私は...」

泣きながら捲し立てる様に大声で食ってかかると、ハッとしたように俯いた。

「御免なさい。取り乱してしまいました。

泣き喚いて気持ちを伝えるなんて、私こそ狡いわ。

新さんを狡いなんて言って申し訳ありません。少し風に当たって頭を冷やしてきます。」

玄関の扉が閉まる音が聞こえた。

部屋の中に一人残された。

ああ、そうだった。

昔、不良にいじめらている犬を助けようとして車に轢かれた。

助けることができなかったと。

自分は助かったけれど、犬はダメだった。

痛かったのは犬の方だ。

多英子に聞かれた時、確かにそう答えた。

そんなのどうでも良い話だろう?

子供の頃の話だ。

任務中の事だって、たかだか猫だ。

それを覚えているなんて。

助けられなかった犬のことは、今でもたまに夢に見る。殴られて蹴られてひどく怯えていた。

助けたかった。

忘れられなかった。ずっと。

腕に残った傷は、未だに微かな痛みで、忘れることを許してくれなかった。


自分の部屋はこんなに閑散としていたか?

昔の話。そんなことを多英子は覚えていて、そばに居ようとしてくれたのか。

多英子の話を、彼女の父にどんな風に話して、ここにきたのか、俺は彼女に聞いたか?

連絡をと思っても電話番号すら知らないし、鞄は椅子の上だ。

外に飛び出した。

あちこち走り回って、駅の反対側まで来た。

この辺りは交通量が多い場所だ。

何かあったら....

通りの先に多英子の後ろ姿が見えた。

俯いたまま横断歩道に入っていく。

信号が変わる!ダメだ!車が...


多英子の肩を抱きしめて転んでいた。

「間に合わないかと思った..」

多英子は呆然と車の流れを見ている。

彼女の履いていたヒールが片方、車に押し潰されていく。

「怪我はない、ですか?」

自分の声が震えている。

「ありません。」

腕の古い傷に温かいものがポツリと落ちる。

「ほら、また助けちゃうんだもの。」


多英子を抱えて部屋に戻った。

怪我はないと言いながら、スカートの多英子の膝からは出血している。

消毒してガーゼを貼ってやる。

「少し腫れるかもしれません。その時は受診しましょう。」

多英子は黙って頷いた。

明日は傷の治りが良くなる絆創膏を、朝イチで買ってこよう。


守れないのが怖い。

悲しい思いをするのが怖い。

大切な人がいない方がいいなんて、一人でいいなんて嘘だった。

古い傷が痛むのは、自分が恐れていたからだ。

怯えていた自分を慰めてやりたくなった。


 応急処置が良かったらしい。膝はほんの少し熱を持っただけで済んで、今は瘡蓋ができあがっている。

転んだ翌日、一応、鹿乃子に診てもらったが骨も無事だった。


 「本当に俺の嫁さんになりますか?」

「この状況で言いますか?私ははじめからそう言っています。でも、私その...経験が無くて....お手柔らかにお願いします。」

二人してベッドで向かい合って座っている。

確かに「この状況」だ。

なら、正直に言うしかない。

「それは難しいかもしれません。俺も男ですから、多英子さんには衝動的になりますよ。」

「今、多英子って呼んだわ。脈ありですね。」

「脈あり過ぎて止まれないと思います。」

綺麗な多英子の体に武骨な自分が触れるのは、申し訳ない気がする。膝にまで傷を残して。

それなのに口づけを止められない。

華奢で柔らかい体は、ただ暖かかった。

多英子の息が熱い。

腕の中で震えながら、自分を呼んでくれる。

躊躇いながら、背中に回す手が優しい。

肌は暖かさから熱に変わり、しっとりとしている。ぎこちなく受け入れてくれた。

もう傷なんて、出血なんてないように、出来るだけそっと触れる。

ポロリと溢れた涙は真珠のように美しかった。

「新さん、ありがとう。これからは私がいます。」

「心強いです。痛くないですか?」

「は..い、んっあ」

見上げる多英子を抱きしめた。


 一緒に暮らすようになってから、多英子は勘当同然でここに来たことを打ち明けた。

父にも新さんの仕事がどんなに過酷か、とてもお説教されたのよ。

でも、私は聞けなかったの。

ですから、私は貴方の傍からは動きません!

へえ、多英子の父は下々などと、とは言わないんだな。


 結局、津島は多英子を迎え、高遠に挨拶に来た。今どき押しかけ女房かと笑った。

いつ泣きついて来るか、幸と賭けをしていたが、負けてしまった。

人は落ち着くところに落ち着くもんだな。


懐かしいなぁ。


 津島が夏夜を守って、今度は夏夜が坊との子を護るか。これも落ち着つくところにってやつかな。

まだ歳若い夫婦には、早すぎる落ち着きどころだろうに。

すでに夏夜は守りの体制に入っている。

津島のことだ。また力を貸しているんだろう。

クロを可愛がってもらったお返しをどうしようかと悩んだ。

小刀をよく研いで、檜材をクロの形に削っていく。小さい手に収まる大きさに。

それから、ヤスリをかけて角を綺麗に仕上げよう。

やがて産まれて来る赤ん坊が、これで遊んでくれると嬉しい。

二人の赤ん坊は、誰を守るのだろうか。

どんな人だろうな?

目線だけこっちを見たクロは、寝そべったまま尻尾をパタンと振って返事をした。

うなずきながら笑みが溢れた。

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