第33話 Letter

 この街は誰もが気忙しい。

時間は妙にきっちりと動いていて、予定をこなすにはよいけれど、余裕のかけらもないみたいだ。

生活し始めて感じたことだった。

でも、人間は適応する生き物だ。

少しずつ、それなりに順応してしまえば良い街だと思える。


それに今は悲観している場合じゃない。

取り敢えず、ここで生活していくのだから。

ここまでドタバタと時間が動いてきたけれど、これからだって、先のことを心配している暇なんてない。


 ポストに手紙が入っていた。

仕事が遅く終わって、真っ直ぐ帰宅した日のこと。

街路樹のプラタナスが黄色くなっている。

焼栗の屋台が出始めるこの時期は、足元が落ち葉で滑るから注意が必要だ。

手紙の裏には、見たことのない名前。

覚えがない。

しかし、宛名は確かで間違っていない。

ここ最近は、ほとんどメールで済ませていて、手書きの手紙が不思議な気がした。

新手の勧誘だろうか。

アパートに入ってシャワーを浴びて、ワインを開けて。少しのつまみと一緒にテーブルに出した。

今夜はこれでいい。

明日は休みだから、映画でも観よう。

この小さな部屋には、趣味の映画のスクリーン以外、目立つものはない。

これでいいんだ。

今の自分にはこれで十分。

いつ出て行くかも知れないし。


一本映画を見終わって、ちょうどワインも空。

思ったよりがっかりな映画だった。

こんなハッピーエンド、無理がある。

いつからか、映画を観て感動する事が減ったような気がする。


ああ、そう言えば、手紙。

もう一度、差出人を見てみた。

捨ててしまおう。今更厄介に巻き込まれるのはたまらない。やっとここまで来たのに。

他のダイレクトメールと一緒にゴミ箱に入れるとベッドに入って灯りを消した。


 眠れない。

なぜあの手紙が気になるのだろう。

浅い眠りから何度目か、ため息が出て灯りをつけた。


ゴミ箱から取り出した手紙の封を切る。

中身まで手書きだ。

突然の手紙、不審だろうがと書き始めてあった。

不審だ。怪しい。本当だ。

その自覚があって書いたのか。


そのまま眠らなかった。

明るくなると部屋を一応片付けた。

物が少ないからすぐに終わる。でも一応。

この国のよく言えばのんびりした、悪く言えばルーズな部分が少しだけ嫌になった。

もう少し早く手紙がつけばいいのに。

このタイミングでは、逃げる場所も時間もない。

よりにもよって、朝到着とは。

時間がない。長い話になるからと言われても。


 ああ、来てしまった。

ドアを開けると不思議な取り合わせだった。

なにこれ?

アジア人のようだけど、素晴らしいスタイルの年若い女性と銀色に輝く髪の老年の女性。

二人はきっちりとスーツをきている。

若い女性の方は見るからに気の強い、積極的そうな瞳。

銀髪の老年女性は静かな佇まい。

しかし、その眼の奥には扉を閉めてしまうのを許さないような威圧感がある。


この部屋にはダイニングテーブルなんてない。

ソファを勧めた。

自身はキッチンのスツールを持ってきて、二人の前に腰掛ける。


「英語でよろしいですか?」

年若い女性が尋ねる。

「ええ、構いません。それで用件は?」

「手紙は届いていますか?」

「はい、昨日。でも、なんのことか。差出人に覚えがない。それに差出人の国にも、縁がありません。とにかく、今日あなた達が尋ねるので会ってほしい。それしか.,,」

「ええ、それで結構です。ここからは私たちがお話をしますから。」

銀髪の女性が切り出した。

「私たちはドイツの情報調査会社のものです。私が社長のマレーナ リヒター、こちらはアヤメ ジムラ。私の部下です。

手紙の差出人はカヤ ツキシマという日本の女性です。彼女が私たちの依頼人です。」

「情報調査会社?私はなにか疑われているのですか?」

「いえ、でも探していたのはあなたです。」

「はあ。一体私を見つけてどうしようと?」

「ある人にあって欲しいのです。」

「ある人?その依頼人の女性ですか?まさか日本に来いと?」

「いいえ、依頼人ではなく、日本でもありません。このパリで」

ますます訳がわからない。

少し混乱する。手紙を見てからまだ半日。朝早くから訪問されて、日本人の依頼で会って欲しい人がいる?

「急ぎなのですか?手紙とあなた達の訪問も急遽ですから。私は余程、暇なように見えましたか。」

少し嫌味を言った。


年配女性が肩をすくめてちょっと笑う。

「ええ、急ぎです。できればこの後。この後予定はないはずですから。」

はじめて怖くなった。自分の情報が知られている?

「ここで、ですか?」

「広場でお願いします。」

年若い女性が少し笑った。こうしてみると意外に若いのかも知れない。

「どういうことでしょう。」

「アンドレア デュボア氏をご存知ですよね。ね?エリス ロバンさん。」

「コンコルド広場近くの本店に彼は商談で来ていて、明日の早朝便で日本に戻ります。依頼人からあなたに会っていただくよう手筈を整えるのが、私たちの任務なんです。

残念ながら、この国の郵便事情はかなりルーズで大雑把です。

万が一、手紙が遅れた場合も含めて、これを預かっています。」

そう言ってアヤメが差し出したのは、きのうの手紙よりずっとたくさんのことが書いてある新たな手紙だった。

ずいぶんと周到な手配をしている。この会社のやり方なのか、依頼人の配慮なのか。

そんなことを考えながら封を開く。



親愛なるエリス ロバン様


突然の手紙をお許しください。

なにぶん私には時間がないので、このような強引な手法を取らせていただきました。


私はカヤ ツキシマ、日本人です。

私は指輪を買うために出かけた店で、アンドレア デュボアと知り合いました。

アンドレアに手を失った経緯と、恋人とのことを聞きました。


彼が片手を無くした時に一緒に無くしてしまった大切な人を、なんとか探して彼と会ってもらいたいのです。

しかし、私は今そちらに行く事ができません。

そこで、親友の綾女がいる調査会社に依頼をしました。

なぜなら、アンドレアはあなたをずっと愛していて、あなたを思いながら指輪を作ってしまうくらいだから。

あなたの愛を疑ったと、とても悔やんでいるから。


はじめの調査で、あなたは恋人を作ったり結婚したりしていないことを知りました。

きっと会ってもらえるのではないかと思います。

お願いです。

アンドレアと会ってください。

アンドレアには、あなたのことはまだ伝えていません。

手筈はマレーナとアヤメに任せています。

あなた達のメビウスをまた交わしてほしいのです。

きっとまだ間に合う。

大切な人の手をもう一度握ってください。

二人の永遠を願って。

               月嶋夏夜


そもそも、どうしてこの「カヤ」という人は、私とアンドレアに介入するのだろう。

アンドレアが指輪だなんて。メビウスってなに?

もうあれから一度も連絡を取っていないのだ。

この二人に聞いてみようか。


察したように、マレーナが口を開く。

「なぜあなた達に、私たちの依頼人が関わるのか、と聞きたいのでしょうね。

しかし、彼と今日会うまで、それは知る必要がありません。

私たちは依頼人からのミッションを遂行するだけ。」

「勝手ですね。私の会いたくないという権利はどうするのですか?」

「それなら、警察を呼べばいい。個人情報を搾取したとでも言ってみたら。本当に今日、彼と会うことを拒否するなら。

私たちも力づくでとは言っていません。私も綾女も、そして依頼人もお願いしますと言っているだけ。」

そっと微笑んで、目を逸らさずに話すマレーナに言われて気がついた。

玄関を開けてソファに導いたのは「私」

この二人は押し入った訳でもない。

依頼人も一応彼らの訪問を知らせた。

逃げ場がない、時間がないと決めたのは私。


「そうですか。わかりました。一度だけ会いましょう。一度だけです。」

「私たちも一度面会をしてもらうように、としか依頼されていません。今後はあなたのご判断におまかせします。」

「一つ条件が。彼と話をしたらあなた達の依頼人のことを教えてください。

他人の生活に踏み入って、一度面会するために調査会社にお金を使うなんて不思議だから。」

「わかりました。それは止められていません。

それにデュポワ氏に会うまで話さないとしたのは、あくまでも私の判断ですもの。」


コンコルド広場は平日は通勤の車でゴッタ返し、週末は観光客でごちゃごちゃしている。

到着したのは正午直前。

アンドレアに会うのは何年振りだろう。

また会うことになるなんて、考えてもみなかった。

あの頃を思い出すと、胸の奥の冷たい雨が霙に変わるように冷え切ってしまう。


 アンドレアと知り合ったのは、友人のパーティー。

知り合った頃は美しいエリート軍人だと持て囃されて、ちょっといい気になっている人だった。

家柄だって古くて、すでに未来を約束された階級にいた。

当時の私は希望していたインテリアデザイン会社で、やっとチームをまとめる役割を得て、仕事に誇りを持ちはじめた時期。

たぶん今より強気で怖いもの知らずだった。

こんなカジュアルなパーティーに、軍服でくるなんて、馬鹿げてる。意識しすぎ。

そんな考えは態度や顔に出ていたのだろう。

アンドレアの方から話しかけてきた。

「はじめまして。madem、パーティーは嫌いなの?」

「いえ、楽しいパーティーは好きよ。でもわざわざ軍服を着てくる人は初めてみたわ。」

「みんなの希望に応えているだけさ。この服を脱いで抱かれることを君たちは望んでいるからね」

「そ?それなら、ほら、見ている人たちの方に行ったほうがいいかもね。男性も期待しているみたいだし。」

「君は希望しないの?」

「どうかしら。服なんて脱いじゃえば、中身は同じ内臓でしょ?」

彼は一瞬びっくりしたように目を見開いて、大笑いした。

「面白いね。君。同じ内臓かどうかためして見ない?」

馬鹿馬鹿しい。

また今度ね。そう言って会場を後にした。

それからしばらくして、会社を終えると私服のアンドレアがエントランスで待っていた。

「また今度って言ってたよね。一杯どう?」

私服でも美形は変わらない。

人を見下すような笑顔も。

一緒にバーに行ったけど。一夜を過ごしたけど。結婚なんて飛躍し過ぎだ。こんな高飛車な男ともごめんだ。

彼だってチヤホヤしない私に興味を持っただけ。

でも、いつからか、私たちは恋人として一緒に暮らすようになっていた。

喧嘩もよくしたけど、それなりに楽しかった。


 書類の封筒を持ち、スーツに身を包んだ彼は、前よりも良い意味で人懐こい雰囲気だ。

綾女が大きく手を振る。

「アンディ!ヤッホー!」

「綾女じゃないか!どうしてここに?ドイツじゃなかった?」

「仕事なの。ボスのマレーナと。で、ここには依頼で来てるの」

にこやかに近づいてくる。

懐かしい笑顔だ。私はこの笑顔が好きだった。

「依頼?仕事熱心だね....」

そのまま、アンドレアの表情が強張った。

マレーナが説明した。

「はじめまして。マレーナ リヒターです。

依頼はカヤ ツキシマからです。

彼女にあって欲しいと、こちらのエリス ロバン女史をまるで誘拐のようにここに連れてきてしまいました。」

「夏夜からの依頼?でも彼女は」

「お二人で話してちょうだい。エリス、さっきの約束は必ず果たします。夕方にまたここで。」

そう言ってマレーナとアヤメは行ってしまった。


「エリス、また会えるなんて。元気だった?」

「あなたと別れて、毎日楽しく過ごしている」

そう言おうと思ったのに、言えなかった。

あんな別れ方をしたのに、なぜこんなに胸がいっぱいになるのだろう。

口をついて出たのは、

「あなたは元気なのね?笑えるのね?」

涙が流れてしまった。

それから、二人であれからの事を先を争うみたいに話した。



 夕暮れのエッフェル塔はいつ見ても美しい。


約束通り、私たちは四人でホテルのカフェに居る。

夏夜は今病院にいるの。あまり時間もない。

そう切り出したのは綾女だった。

綾女もまもなく帰国する。夫が日本で待っているし、早く夏夜に会いたいからと言った。

アンドレアと夏夜の出会いは彼が教えてくれた。

ホントにね、可愛らしい夫婦なんだ。


「たぶん、誰かに何かを遺したいのよ。

自分の時間が解る人はそういう行動をするわ。」

マレーナがそう言った。

夏夜は、私とアンドレアが初めてあった時よりずっと若い。

それなのに、自分の時間を数えている。

だから、この話はアンドレアに会ってからなのだ。

依頼主に同情して会うのでは意味がないから。


カフェでマレーナと綾女とは別れた。

その後、何度か彼女たちがこっちにくるときは会うようになって。

私は夏夜のことをもっと聞きたかった。


アンドレアとはメールや電話で話すようになっていた。

私と別れてからのこと。

今の仕事のこと。

日本の店舗のこと。

そのほかも。


 去年からのクリスマス休暇を終えて、日本に戻るアンドレアと二人で歩く。

今日の彼はあまり話さない。

彼と焼栗も一緒に食べた。

こうしていると以前のようだ。違うことと言えば、前は今のように、静かな時間ではなかったような気がする。

足元では落ち葉がささやかな音を立ている。


今日はアパートメントまで送ってくれた。


「エリス、君には今、大切な人がいる?」

口にするのを迷ったように、俯いたままアンドレアが切り出した。

なんて辛そうに、自信なさそうに話すのだろう。

軍を撤退した後の、彼の人生を振り返った。

アルコール依存なんて。家を出たなんて。凍死しかけたなんて。

華やかで自信に満ちた場所からの追放は、未だにアンドレアを苦しめているのだろう。

笑っていても、ふと見せる瞳の暗さが物語っている。その一端を私も担っている筈だった。

あの時、手を離さなければ彼の苦痛は少しは癒えたのだろうか。

でも嘘は言えないから。

アンドレアが目線を上げるのを待って、答える。

「ええ、いるの。」

「そうか、それならいいんだ。あ、着いたよ。」

「送ってくれてありがとう。大切な人、いるの。前から。自信家なのに、一つなくなっただけで泣いてしまう人。私、その人が愛しくて愛しくて堪らない。」

アンドレアと目があった。

「それは...僕だと思っていい?その泣き虫は。」

「そうそうお目にかかれる泣き虫じゃないのよ?」

再開して、はじめて抱き合った。


その人はやっぱり泣き虫で、私も意外に泣き虫で。弱虫だった。

だって、私はまた彼を傷つけるかも知れない。

逃げてしまうかも知れない。

マレーナと綾女にずいぶん叱られたわ。

マレーナには、また後悔を繰り返すのかと静かに問われたし、綾女なんて、今はインターネットで仕事のやり取りだってできるでしょ?

現代のツールを使わずに、尻込みなんて、時代遅れも甚だしいと言い放った。


何度かやりとりをしているうちに、アンドレアの側に居たくなった。

日本に行ったら、夏夜にも会いたい。


残念ながら、叶わなかったけれど。


日本での仕事と、新しい習慣を覚えるのは少し苦労したけれど、仕事を辞めるとは言いたくなかった。

帰国したいと思う時も無くはない。

でも、隣にアンディがいるこの生活は、最も手放したくない。

もう手を離すのは嫌だ。

数年後、この街も悪くないと思えるようになった。

だって素晴らしい宝物が宿ったから。

他国で高齢出産でしょう?

不安も大きかったが、リアムと橙子が手助けをしてくれた。

そう、夏夜の姉の橙子。

そうしてあなた会うことが出来たの。



「そのおかげで私がいるのね。」

クロエが頬杖をして笑っている。


航のママと、パパとママにそんな事があったなんて。明日、航にも話してみよう。

明日は彼が軍の休暇で、ここに戻るから。


なんだか、とても幸せな気持ちになって目を閉じた。

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