第32話 軌跡

「どっかにイイ男いないかなぁ」


隣に男が寝ているのに、ため息が出た。

「なに?まだ足りねーの?」

男がムクリと起きてこっちをみる。

「こっちの話。ほっといて」

「怖っ!あんた、慣れてんだからいっぱいいんだろ?男」

構ってたって価値もない。もう用は済んだ。

さっさとシャワーして帰ろ。

ベッドから立ち上がると、手を引っ張られた。

「離してよ。もういいでしょ?」

「なんだよ、自分から誘ったんだろ?俺まだイケるからさ。」

「いいわよ、もう飽きたし。」

「ええー、じゃあさ例のやってくんね?得意って言ってたじゃん」

腕をつかんで要求してくる。

この手の男は拒否したら、暴力だって振るいかねない。

男なんてみんなこんなだ。

体目当てに近づいて、貪った上に要求ばっか。最後には「じゃあね」なんだから。


跪いて男の欲求を満たすと、シャワーを浴びる。何度もうがいをして歯を磨いた。

さっぱりすると、虚しさが込み上げてくる。

バカみたい。

帰宅してもママと話すわけでもない。

「ただいま」って言ったのいつだったっけ。

まあ、いいや。いろいろ追求されるのも面倒。

台所にいくと、テーブルにはラップをかけたシチューとパンがあった。

父は父の、母は母の付き合いで、家族で揃うことなんてほとんどない。

チンして手早く食べて部屋に戻る。


床にゴロリと転がってスマホを開ける。

いつものSNSにはいいね!がいっぱい付いていた。それにDMも。

ちょっとワクワクする。

昨日、アップした靴かな。あれ雑誌のモデルと一緒なんだよね。

それとも、バッグ?あ、おじさんに買わせたネックレスかも!!

おじさんと言っても血縁でなんかであるわけもなく、その場限りの人だ。

たまにとてもリッチな男だと、アクセサリーを買ってくれたりする。

もちろん、次回の予約も兼ねるし、結構要求も多いのが難だけど。

他の子がお小遣いで買えないものを持ってっるって、気分いいもん。

親なんて見てもいないんだし。


DMは少し前、大学に入った春のもの宛て。

推薦でなんとか潜り込んだ大学の入学式で、ママと一緒に撮ったもの。

ここに入るにもそれなりに頭使った。跡を残すと面倒だからね。


生真面目そうな紺のスーツ。これ系の服だと、かなり清楚に見えるよね。私。

ツイードのツーピースの母は微笑んでいる。

こんな時だけは必ずくる。

「後ろにモデルの3人が写っている!!いいな。どこですか?」

そんなメールがいっぱいだった。

うちの学校に有名人いたっけ?

画面を拡大すると、一際背の高い3人の横顔が見えた。

見たことある。

女の方は確かAYAよね。去年まであちこちでみかけた。

男二人も知ってる。TAKUとRYOだ!!

ウッソ、信じられない。同じ学校だったんだ!

早速、検索してみる。

ひとつ年上の3人は昨年春過ぎ、同時に所属事務所を引退していた。

プライベートは年齢しか公開していないから、みんな食いついたんだ。

じっと画面をみる。

どっちもいいけど、RYOの方がセクシーかな。

TAKUはちょっとクールな感じで理詰めっぽい。

AYAはどっちかと付き合っているのかしら。同じ学校なら探ってみよう。


大学で3人の話を降ると、もう当たり前のことのようにきゃあきゃあ言い始めた。

みんな狙っているんだ。

ざっと聞いただけでかなり情報が集まった。

この大学の高等部からの内部進学で、幼馴染なんだ。

どっちもAYAと付き合っているわけではなさそう。


3人ともいい家の跡取り。

RYOは月嶋 隆(タカシ?)なのね。法学部、国際紛争問題と法律の吉見ゼミ。

TAKUは久坂部 匠か。この学校の御曹司か。医学部。こっちも捨てがたいけど。

AYAは磁村 綾女。経済学部。馬術の全国大会で優勝。

素敵!素敵!!この中に入ってRYOとかTAKUと付き合ったってなったら、すごくない?

きっとみんなうらやましがる。で、結婚とかってなったら、きっとママだって....

この学校に無理しても入ってラッキーかも。


 ところが。

久坂部の出身者に3人の話を聞きにいくと、なんとなくみんな歯切れが悪い。

同学年の子達だって

「あー、あの3人ね。隆先輩はちょっと遠慮したほうがいいかもね。」

そんな風に答えるのだ。

遠慮ってなに?取られると困るから?

それとも彼女いるの?

女性には興味がないとか?

とりあえず、思い切って吉見ゼミに入った。

まずは近くでアピールしよう。

真面目にゼミに出席して、色々教えてもらうって感じで押そうかな。


ゼミの後、月嶋先輩の家に行ってみた。

いつもはバイクみたいだけど、今日はバスなんだ。チャンスだ。雨で混んでいるバスにそっと乗り込む。


大きくて古い家だった。

表札を検索してみると、大きな会社の代表取締役として、先輩に似た男性が挨拶ページに載っていた。きっとお父さんだわ。


秋まで待って、やっとゼミ内討論会の課題が出た。

はっきり言って、国際紛争なんて興味はない。戦争なんて関係ないし、それより自分の将来を固める方が先だもの。

でも、ゼミの課題を聞きに行けるのはいい。

何度も聞きに行って、少しづつ距離を詰めて。

そっと耳元で囁けば、拒否する男なんてそうそういないんだから。

あとは既成事実を作れば楽勝。そう思っていた。


 月嶋先輩は講義のあとすぐにいなくなる。

いい家のお坊ちゃんだけど、真面目なんだ。

そういう方が、浮気とかなくていいんじゃないかしら。パパみたいな男だと苦労するし。

ペンを落とせば拾ってくれるし、ドアを開けてくれたりと紳士的な感じも気に入っている。

何度かゼミの隣席に座ったから覚えてくれたかな。自己紹介はしたし。


 本当に帰宅が早い月嶋先輩を、比較的よく見かけるのは学食だ。

匠先輩や綾女先輩と昼食を取っている。

でも水曜日に綾女先輩はいなくて、匠先輩はいたりいなかったり。

医学部は忙しいのかも。


だから、水曜日を狙って学食に行った。

月嶋先輩は一人でスマホをみながら、食事をしていた。チャンス!!

「月嶋先輩、課題終わりましたか?」

彼はちょっと視線を横に移した。

「終わったよ。」

上目遣いで教えて欲しいことがあるというと

「今ならいいよ」

ほらね!

でも今じゃだめ。

後でゆっくり資料をみながらがいい、と少し甘えてみた。

大体これで、伏線は...


それなのに、すかさず、すぐに帰宅するってどういう事?

買い物があるからって。

あんまりな素気なさだ。

さっと耳元に近づいて、そっとほのめかす。フゥっと息をかけるようにすれば、ほとんどの男はちょっと期待するから。

それなのに後ろから匠先輩まで出てきて、

「隆は妻帯者だけど、不倫希望?それともセフレ?」

「は?」

一瞬冗談かと思った。

若すぎでしょ?

その上、家には「恋女房がいる」なんて言葉に、うっすら赤くなって、嬉しそうに匠先輩を咎めていた。


イラッとした。

すぐに「恋女房」を探らないと!

調べてみると、どうやら幼馴染がもう一人いたらしい。

自分と同い年の女。怪我をして高校を中退して、何か事情があって復学していないようだ。

「でも、彼女は隆先輩たちと昔から一緒だよ。」

「四人でよく帰ってたな。」

「月嶋先輩が可愛がってるって感じだったけど。」

「その彼女も古武術の有段者でね、そっちでも注目されてた。」

「成績が良くって、ずっとトップだった。」

「綾女先輩みたいな華やかな感じじゃないけど、かなりかわいいいや、かっこいいかな?」

「落ち着いた感じの子。少し近寄り難い感じ。」

「今?さあ、どうしてるのかな?あ、同じ学年で教育学部の鳥居旭って子と仲良かった。」

「アキラ?」

教育学部に行ってみるとベリーショートの女子だった。

「あなた、月嶋先輩と一緒の高校でしょ?教えてほしいことがあるの。」

「私に?」

「月嶋先輩たちの幼馴染の子って知ってるでしょ?なんて名前?」

「なんで、そんなこと。あなたどういう関わりの人?」

「んーまあ、月嶋先輩の一ファンってとこ。」

聞いたことをちらっと話した。

鳥居旭は少し目つきを鋭くして、「コソコソ聞いてないで、聞きたいなら隆先輩に聞けば?」そう言って行ってしまった。

ツンケンしてて、やな感じ。

恋女房なんて、言葉を検索したらもっと腹立つ。

だいたい、なんなの?

可愛くてかっこよくて、地味って。


 だから、ゼミのみんなを焚き付けて一緒に自宅まで押しかけた。

「ねえねえ、月嶋先輩って奥さんいるらしいよ。」

そう言ったら、みんな興深々で乗ってきた。

みんなで行けばなんとかってね。

ちょうど帰宅した月嶋先輩と鉢合わせしてワイワイ言ったら、明らかに迷惑そうにだけど、自宅へ通してくれた。

本当に大きな古い邸。

正面の門から少し階段を上がっていくと、お手伝いさんが客間らしい部屋に通してくれた。

一旦入ってきた先輩は、そのまま奥に行って少しすると二人を伴って戻ってきたけど、側から見ても不機嫌なのがわかる。

一人は綾女先輩、こっちもうんざりした様子。

一部が綾女先輩が奥さんか?とか賑やかに囃す。彼女に憧れている女子も男子もいるから。

月嶋先輩はもう一人を気遣うみたいに歩いてくる。

その顔はすごく優しい。さっきの不機嫌さなんてなかったみたいに。この子がそうなんだ。

「違うでしょ。後ろの人でしょ。」

一斉に振り返った。

でも彼女を見た途端、みんなシンとした。

その人は杖をついていた。やっと歩いてる、そんな感じ。

気を取り直したみんなが取り囲んで、質問責めにする。

同い年だけど少し幼く見えるかしら。

短いボブカットの先、首のところに赤いアザみたいなのが見えた。

なんだか頼りなくてオドオドしていたけど、決意したように深呼吸とすると

「あの、月...」

「はい、もう顔見たよね。おしまい!帰って」

庇うみたいに月嶋先輩が彼女の言葉を遮った。

みんなを追い払うように玄関に誘導した。


一歩遅れて(わざとだけど)、ご挨拶をして差し上げるとちょっと固まったみたい。

「こんなに早く結婚したのは、先輩との家繋がりからですか?」

「半分くらいは」だって。

怪我ってほんとなんだ。

きっと、この人が例の幼馴染だわ。

やな女、あんなにか弱そうにちゃっかり月嶋先輩に取り入って。なんにも出来ないくせに。

みんなにちやほやされちゃって。

かわいそうを武器にするって...ねえ。

だから言ってやった「かわいそう...先輩。」って。

みんなが自分を可哀想って言ってくれると思った?おあいにくさま。


ちょっと胸が漉く感じがした。


それに、顔を見ただけで帰るわけがない。

せっかくここまできたんだもの。いろんな材料は色々料理できるし。

慣れているから、簡単なこと。

靴のホックをゆっくり留めて、もう一度『奥様』ににっこりして帰ってきた。

彼女は俯きがちだったし、綾女先輩はじっと見ていたけど、なんの確証もないもの。

言いがかりなんて言えないわよね。


それから数日して、月嶋先輩が匠先輩と学食にいるのを見つけた。

少し眉間に皺を寄せて、何か話している。

いいなあ、この中に一緒に普通にいられたら、きっと毎日気分がいい。

声をかけたが、また素っ気ないというか少しイライラしているみたい。

奥さんの話題を出したら、機嫌よく話すんじゃないかな。

例えば、一緒に出掛けるように誘ってあげれば。

それに、まだ若い先輩があんな障害のある人を奥さんにしなければいけなかったのだって、わかってあげれば、きっと。


椅子がひっくり返る音が響いて、匠先輩が大声を出した。

「君には関係ないだろ吉澤麗奈さん。人ん家のことなんかほっとけよ!」

学食の生徒たちがこっちをびっくりして見ている。

さん付けだけど、わざと私の名前を....

何事かと顔を上げた生徒。

厨房から首を伸ばした職員。

学食から出掛けに振り返っている人。

みんな私を見ている。


慌てて外へ駆けて出た。

どうして?私は何もしてない。

聞いたことを話しただけ。

月嶋先輩が気の毒だと言っただけ。

全部ほんとのことじゃない!!

わかってくれないなんてひどい。

あの人、何か言ったのかな。

弱みを使って月嶋先輩の奥さんになったくせに。

ずるい。

月嶋先輩も匠先輩も綾女先輩もみんな味方にして。

せっかく見つけたのに!

見栄えがして、自慢ができて、将来も安心できて....それに褒めてもらえる人。


むしゃくしゃしながらスマホを開く。

少しは拾えたかしら。

再生ボタンをタップした。

液晶画面には月嶋先輩家に行った日の日付。

「ただいま、そのちゃん」

先輩のお父さんらしい声。

「お帰りなさい。」が二つ重なった。

あの人の声だ。

「何か買ってくるものある?」

月嶋先輩の声だ。随分違うのね、さっきと。

「ううん、気をつけてね。」

「うん」

普通の会話か。収穫ないな。

やっぱり大きいおうちだと、玄関じゃこんなものか...

ワンルームとおんなじ成果は期待できないな。

それからも、あまり効果的な音は拾えなかった。先輩のリュックのは落ちちゃったかな。

大きい家って意外に静かなものなのかしら。 


 冬季休暇は学部によって違うから、次に会えるタイミングは水曜日の午後。

たぶん法学部は期末考査結果の今日で終わりだ。

吉見ゼミは教授の予定のおかげで午後から。

この間の事を一応ごめんなさいって言えば、話すきっかけになる。

ちょっと泣いてみるのもいい。

少し気を引いて、あの奥様にできないことをしてあげればイケるから。


 ゼミの部屋には一番乗りだった。

今更だし目的が違うから仕方ないけど、このゼミつまんないのよね。

宗教とか、思想とかいろんな国の法律とか。

法律の歴史なんてどうでもいい。けどここのゼミ有名なんだって。

結構な有名人が在籍していたみたいだから、就職とかに良さそう。

学部の男子にびっくりされちゃった。

今日の投稿にはこの教室を入れて写メしよう。

教室のドアがカタンと開いて、入ってきたのは月嶋先輩だった。

「吉澤さん、ちょっといいかな。」

低い声がもっと低くて怒っているとすぐにわかった。

でも、可哀想なのは先輩だって気づいてもらった方がいい。

それで、先輩を満足させてあげたいんだってわかってもらえたら...

思った事を言ったのに、頬を掠めるように空気が動いた。

目を閉じる間もなかった。

顔のギリギリに、月嶋先輩の拳骨が叩きつけられてた。

なんで?

本当のことなのに。

あなたのためなのに。

あのずるい人から開放して楽しませてあげようって言ってるのに!!


...わかった。もういい。

「い、今のレコーディングしているんだから!訴えますよ?」

これで彼はいうことを聞く。

立派なお家の御曹司が、大学で女生徒を暴行。それだけで騒ぎになる。

それが嫌だったら、きっと思い通りになる。


どうして蚊がいたなんて余裕なの?


ドアが開いて匠先輩が入ってきた。

なかった事にしていたものが掘り起こされて、次々と目の前にぶら下げられた。


あれからどうやって家に帰ったか覚えてない。

気がついたら部屋にいて、ベッドの上に座っていた。大嫌いなベッド。

ああそうだ、ここでのこともなかった事にしたんだった。


 ママが卒業した学校に行くように、ずっと言われてた。

小さな頃からいつもお稽古と教室に行った。

ママが手を引いてくれたから。

ママが褒めてくれたら、パパなんていなくてもよかったから。

でも、幼稚園も小学校も受からなくて、ママは手を繋いでくれなくなった。

パパもママも、家でご飯を食べることがほとんどなくなって、机の上には一人分のラップがかかった食事がいつもあって。

でもね、夜に出かけたら、声をかけてくれる子たちがいたの。

一緒にいれば笑えたから。

麗奈も来いよって手を引っ張ってくれたから。

初めての唇だけのキス、あったかかったな。

でもさ、世間体を気にするパパもママのそんなの許してくれないんだよね。

散々罵られた。

外出を止められて、パパが連れてきた家庭教師に、ここで...

怖くて、痛くて、何も考えられなかった。

家には誰もいない。だから誰も助けてなんてくれなかった。

やがて、この部屋のことが二人に知られてしまっても、辛かったねって言ってくれない二人。まるで汚いものを避けるみたいなママ。

舌打ちしたパパ。


必要な処置のあと、私は一人で病室のベッドにいた。

ママが私に渡したのはピルだった。

お腹が痛いって言った時には鎮痛剤が箱ごと、机に乗ってた。

だから...

だから...


みんなに大切にされているあの子。

あの子にむけられる先輩の眼差し。

悔しかった。

私が欲しいもの、全部持っているんだもの。

あの子ばっかり。


部屋で泣いたのは久しぶりだった。

泣いても何も変わらない。

勝てないことは、なかった事にすればいい。


 暑い時期の終わりごろ、あの子が構内を一人で歩いていた。

一緒に家に押しかけた子たちが、あの子が通信講座のスクーリングでたまに来てるって言ってたけど、本当なんだ。

杖はいらなくなったのね。ゆっくりだけど一人で歩いてる。


怖くないの?

ここにはあなたを見ている人が結構いて、陰でそっと話しているの。

なのにどうして背筋を伸ばしていられるの?

1年飛び級したことも、心理学を専攻していることも、知ってる。

守ってくれる先輩たちは卒業してもういない。

今私が出て行ったら、知らんぷりする?私の両親みたいに。

私のこと、なかった事にする?


ねえ、なんでそんなにまっすぐ見てくるの?

どうしてそんなにキッパリ言えるの?

なんて悲しい目をむけてくれるの?


引っ叩いたのに。

役立たずだって罵ったのに。

自分の口から出たのは「死んじゃえ!!」だった。


アプリをやめた。

SNSも。

それから、街に出掛けることも。

そうしたら、息がつける気がした。

寂しいって思うけど、誰かになんとかして貰おうって思ってはいない。

そういう感情を書いてみて、その字の意味を考えるようになった。

昔読んだ絵本を読んだら涙が溢れたけど、嫌な涙じゃなかったの。

感動ってこういうことかもしれないね。

なんだか、胸の奥がしんとして、雪が静かに心を覆ってくれるみたいな感じ。


 大学で鳥居旭に呼び出されたの。

それで、あの子からの手紙を受け取った。今どき手書きかよって思ったけど、そうだよね。お互いメールアドレスなんて知らないもの。

手紙には、卒業論文に協力して欲しいって書いてあってね、今、フィールドワークにいけないんだって。

鳥居さんに手紙でもいいし、返事をして欲しいって。

面白いの。

「自己嫌悪と自己肯定の研究しているから、自己嫌悪が強そうな私とあなたの症例を」だって。

失礼しちゃう。

よく他人に自己嫌悪が強そうなんて言えるよね。手紙を読んで笑ちゃった。

できれば面会でレコーディングがいいけど、会うのが嫌なら、オンラインで顔出しなしでお願いできませんかって。

最悪それも嫌なら、マルバツカード作ります。なんて書いてある。

横からみていた鳥居さんも、かやさんらしいって笑ってたの。

言い出したら聞かないし、頑固なんだって。

すっごく。

だから月嶋先輩は苦労してると思う。なんていうんだよ。


 今日ね、会ってきたの。夏夜さんに。

ううん、家じゃなくて....病院だった。

点滴と胸にもチューブも入ってた。

病名は聞けなかったな。聞いちゃうと調べちゃうから。このあと、3回くらいインタビュー受ける事にしてお暇してきた。

長いと疲れちゃうと思うんだ。


今日は週末でしょ。月嶋先輩とお姉さんの子どもさんたちがきていたの。

私をみて、月嶋先輩はありがとうって言ってくれたよ。

夏夜のために、せっかくの週末悪いねって。

普段着だったけど、すごく大人っぽくなってた。社会人って感じ。

でね、子どもたちが可愛いの!双子の男女とハーフの男の子。まだ2歳くらいだって。

先輩のこと「おーちゃん、おーちゃん」て呼んで、月嶋先輩が怒ってた追いかけ回してた。

あはは、おーちゃんておじちゃんてことなんだって。

なんだか、子どもっていいな。

たっくさんエネルギーを持ってて、弾けように明るくて。

あのね、私の専攻はコミュニーケーションでしょ。何か子どもに関わることできないかなって考えているの。


本日で無事に終わったよ。夏夜さんのインタビュー。

初めは自己嫌悪の自分なんて話せるのかなって不安だったけど、意外に話せたわ。

論文の出来上がりの時には一冊くれるって。ほら卒論って製本するでしょ。

どんなこと書かれているんだろう。

プライバシーポリシーはきちんとしますって。その辺りも夏夜さんらしいよね。

あ、これ?お礼だって。

これから肌寒くなるからストール。すごくあったかいの。


 あれから、心理学部に編入した私は、2年目に大学の奨学金をもらって留学した。

留学と奨学金を勧めてくれたのはエラ教授だ。

自分の努力を認めなさい。

そして自立するのです。あなたにはできますよ。

そう言って。

北欧の子ども教育に携わって、2年みっちり大学で学んだ。

(北欧でも色々な症例をみて、フラッシュバックを起こしそうな時もあったけど、それも一つの経験として捉えている。)

帰国してからは、幼児教育の現場にいき、来年からは虐待児の回復プログラムに入る。


私が留学して少し経ったころ、旭ちゃんから夏夜ちゃんの訃報を受け取った。

最期まで頑張ったって。


彼女の眠るお墓は、いつもピカピカにしてあって、ピンクや黄色の花で飾られている。

お墓にきている時の隆さんは、航くんと一緒に腕まくりしてお墓を磨くから、石が減ってしまいそうだって、綾女さんが怒ってる。


 夏の終わりのあの日、頬をぶったことを謝ることができなかった私は、かわりにこれからを生きる子どもを支えて行くと、毎年この場所に約束しながら花を手向ける。

ひとりでで泣く子どもが居なくなるように。

誰もが幸せになれることを願って。

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