第31話 冬の花

 夏夜が眠りについてしばらくは、泣いて泣いて...橙子の涙のストックは、今は品切れだ。

隆だって自分を責めている。

避妊をしなかったと。妊娠させたと。

ちがう、そうじゃない。

夏夜が望んだのだと橙子は思う。

この小さな豆粒みたいな命は、夏夜が生きた証、隆を愛した証なんだから。

症例で言えば、よくこの体でと思う。

けれど、時に思いもよらない力を見せるのが人という生物だ。

リアムは友人の宝石商を隆に引き合わせた。

何度か病院の中庭で話す姿を見かけた。

はじめは怒ったように何も言わない隆が、最近やっと口を開いているようだ。

苦しみ、悲しむ人を放っておけないのが、リアムという人なのだ。


 仕事の後、どんなに遅くても隆は夏夜の部屋に寄る。

時には橙子夫婦と飛伍がいて、時には秋華夫婦と双子の薫と千桜が部屋を駆け回っている。

お腹がいくらかふっくりした綾女と、スクラブ姿の匠も。

父と母だって、よくここに来ている。

二人で呑気にお茶を飲んでいると、自宅のリビングのように見える。

夏夜が寂しくないように、誰か彼かが居てくれるのだった。

でも、夜遅くはふたりの時間だ。

「ただいま、夏夜。梅雨が明けたよ。一気に暑くなった。ああ、今日は母さん来てたんだ。これも好きな花だよな?」

ごく普通の会話だ。

今日は庭の梔子が活けてあって、部屋中に初夏の香りが立ち込めている。

眠っていても、きっと夏夜は聞いているはずだ。

ジャケットを脱ぐとベッドに腰掛けて、頬に触れてそっとキスをする。

唇はほんのりと暖かい。

胸に耳を当てて、ゆっくりした心臓の音を確かめる。

それから毛布の中のお腹を触る。

たまにピクリと動く。胎動だ。

「ただいま。チビっこ。元気か?」


 時々、胎児のエコーを見せてもらう。

2頭身からずいぶん大きくなった。

4Dで見る赤ん坊はリアルだけど、どっちに似てるかなんて分からない。

夏夜だったらなんて言ったかな。

つい先日のエコーでは性別がわかったが、隆達にはどっちだってよかった。

無事に会えるといい。それだけだ。

1日の出来事を夏夜に話して、病室でしばらく一緒に過ごしたら帰宅する。

週末には泊まるから、部屋の隅には簡易ベッドが畳んで置いてある。

本当だったら、毎日ここに居たい。

ここから仕事に行こうとすらした。

しかし仕事に支障があったり、体調を崩すことがあってはいけないと遥に諭された。

「父ちゃんなんだろ?お前は。お前がいなくなったら、赤ん坊は誰が守るんだ?」

そう言った遥は泣きそうな顔をしていた。

あんな顔、初めて見た。

橙子や秋華が髪を整える手配や、肌の手入れをしてくれたり、母がパジャマや毛布を季節のものに変えてくれるのも助かっている。

綾女は二人分の帽子やおくるみを夏夜の隣で編んでいる。

この部屋の時間は、安らかに過ぎていている。


「あ、おかえりなさい!」なんて起き出しそうだ。


 ゆっくりと季節は変わる。

雨上がりの今朝は、金木犀がずいぶんと強く香っていた。

今、隆は手術室にいて夏夜の手を握っている。


昼過ぎに橙子から電話が来た。

夏夜に陣痛が始まっているらしいと。

まだ31週に入ったばかりなのに。

急いで向かった病室では、橙子が待機していて、母が夏夜の手を握っていた。

夏夜の心電図の波形がいつもより速い。

呼吸だってそうだ。

お腹にはモニターが付けられて、波形が記録用紙に刻まれている。大きな山が描かれていた。

母に促されるまま、お腹に手を当ててみる。

頻繁に、硬くパツンと張っている。いつもより体が熱い気がした。

「やっぱり陣痛だわ。すぐに手術室に運ぶ。

ついさっき破水もしたの。麻酔はいらないけど、私も入るから。小児科の準備も万端よ。」

準備に向かおうとする橙子を呼び止める。

「止められないんだよね....陣痛。帝王切開したら、夏夜は…」

振り向いた橙子はキッパリと告げる。

「…そうね。前に説明したとおりよ。希望はゼロではないけれど。」

喉の奥がぐぅっと鳴りそうになるのを下を向き堪えて、一呼吸つくと橙子に向き直った。

「わかりました。お願いします。」

眠っている夏夜に麻酔は必要ない。

でも挿管もあるから、橙子が付いてくれる手筈だった。

無機質な手術台に乗せられた夏夜の、少し冷たい手を包んでいた。

「爪も綺麗にしてもらってたんだな....」

どうでもいいことを考えた。


医師たちのやり取りが、水の中に居るみたいに聞こえる。


医師の背中と、かけられたシートで術野を見ることはできないが、今、夏夜の体にはメスが入れられているのだろう。

また、ひとつ傷が増えちゃうな。

夏夜が気にしてしまう。

器械の金属的な音と、ストローで液体を啜るような大きな音がして、少しだけ手術台が押されるように揺れた。


赤ん坊の声が聞こえる。

誰かが出生時間と性別を告げている。

『....泣いてる...』

「隆ちゃん、産まれたわ、男の子。小さいけれど無事よ。」

橙子が言った。

マスクが濡れているのは気のせいかな。

「夏夜…聴こえる?俺たちの赤ちゃん…元気に泣いてるよ。」

夏夜の手が隆の手を握るかのように、ほんの少し動いた。

「...大丈夫。ちゃんと俺が育てるから」

両手でその手を包んだ。

夏夜の閉じた目から、涙がすぅと一筋だけ流れた。

赤ちゃんの顔、見たかったよな?

抱っこ、したかったよな?


橙子の赤ちゃんを、ぎこちなく抱っこした日の夏夜が瞼に浮かぶ。


「血圧測定不能。Sat60%、 DIV滴下停止。蘇生はじめます」

橙子のキビキビした声が響く。

「収縮不全、止血しない。麦角剤を追加3アンプル」

室内は一瞬にして張り詰める。呼吸器の音、機械の音、人の気配。

この手術の先に、夏夜がどうなるかなんてわかっていたはずなのに。


どうしてこんなに必死なんだ?

もしかしたらって.....期待してしまうじゃないか。な、夏夜?


…心電図の警報音が遠くで鳴って

......それは一本の線のような音になった。


執刀医が隆に向き直る。

「午後3時4分ご臨終です。これから創部縫合を行います。」


警報音が消えた中で、器械の触れ合う音がカチカチと小さく響く。

それ以外、何も聞こえない。

まだ、この手は暖かいのに。

橙子以外の医師達が一礼して引き上げていった。反射的に礼を返していた。


「体拭いて綺麗にしてあげる。傷にもテープを貼って。少し外で待ってて?」

「俺も一緒にいい?」

「ありがとう。隆ちゃん。」

流れた血液を拭って、チューブ類を外し、気に入っていたパジャマを着せる。

橙子が夏夜に向かって言った。

「お疲れ様。ここじゃ、寒いね。部屋に行こうか」

いつも通りの笑顔を見せて。

味気ない手術室から個室に戻ると、もう動かない表情がほっとしているように見えた。

部屋の外には秋華家族、父母、匠と綾女とそれぞれの両親。

綾女は匠にしがみついている。

リアムが飛悟を抱いて目を潤ませていた。

息を切らしたアンドレアの姿もあった。


「私たちは外にいるから....少し二人で過ごして。その後に姉様たちにも時間を少し頂戴ね?」

「わかった。橙子さん...ありがとう。」

橙子が出て行った。


髪を撫でて頬に触れ、額をくっつけた。

「夏夜、頑張ったな。赤ちゃん大事に育てる。ありがとう。大好きだ。」

何度も触れた頬と唇はいつもよりもずっと冷たくて、手の温もりも遠くなっていくみたいだ。


夏夜が皆と会っている間、隆は中庭のベンチにいた。

入院中の夏夜は、よくここに来たいとせがんだ。

ほんとは山に行きたかったんだよな。

ため息をついて空を仰いだ。

鳥の声が聞こえ、季節の花が咲き風が渡る。

空は透き通るように晴れている。

視線を戻して、手のひらを見つめる。


空っぽだ。

もうここには、夏夜がいない。居なくなってしまった。

逝ってしまった。


喉がゴクリと鳴って、鼻の奥がかっと熱くなった。膝にポタリと涙が溢れた。

そっと肩に手が置かれた。いつの間にか匠と綾女がそばにいた。


母が持って来た装束は、その昔自分が着たという白無垢だった。

夏夜の体にそれをフワリと掛けた。

隆はピンクの花々をかき集めた。

白い花じゃ、夏夜が怯えた悪夢を思い出してしまう。

綾女はここには来ていない。

妊娠中の身体には、あまりにもダメージが大きい。

匠が綾女からと、チーズケーキとプリンの箱を棺に入れた。それにチャイラテも。

「いっぱい生クリーム入れといたって。」


隆は小雨の降る空に立ち昇る煙をいつまでも見上げていた。

どこからか金木犀が薫ってくる。



 隆の病院通いは続いている。

保育器の中の赤ん坊は小さい。

この子に会うまでには、少し勇気が要った。

呼吸器と点滴、体はモニターだらけだ。

それでも、隆がその手に触れれば、か細い指で指先を意外にもしっかりと握った。

夏夜が最期に握ってくれた手の感覚が蘇ってくる。

そうだ....約束した。大切に育てるって。


家のあちこちには夏夜の気配がまだあって、隆はそれを探すように歩き回る。

そうして、やっぱり居ないと納得するとぼんやりと膝を抱えたまま、夏夜の部屋で過ごすこともある。


ここで日記をみつけ、その中の名前らしい幾つかから子どもの名前を決めた。

二人の姉達が出産した頃の日付。

いつか赤ちゃんができたらと、思いつくままに書いたものだろう。

後から漢字の意味まで調べたらしい。夏夜らしいな。

あの子が大きくなって母のことを聞かれたら、名前のことも教えてやろう。

おまえの名前は、お母さんが選んだんだよって。



「父さん」

息子が呼んでいる。

ずいぶん弱ってしまったなあ。

でも、後はきっと大丈夫だ。

息子はすでに立派な一人前で、引き継ぎもかなり前に終わっている。

仕事の才能は母親譲り。遥のお墨付きだ。

ハンサムで優しくて、凛々しい自慢の息子だ。

なんの後悔もないって変かな。

ちゃんと迎えに来てくれるか?

しかし、自分によく似ていると評判の息子を見て俺と間違ってしまわないか?

俺はすっかりおじちゃんになったからなあ。

若い方がいいなんていうなよ。

そんなことを苦笑しながら考えている。


ねえ、俺はやるだけやったと思わない?

自分で言うのも何だけどさ。

やり過ぎだなんて怒らないで欲しい。


眠い。


庭には梔子が盛大に咲いている。

ああ、良い気持ちだ。まるであいつを抱いている時みたいだな.....


「父さん!朝飯出来てるけど起きられそう?

ここに持ってこようか?」

勢いよく父の部屋を開けた瞬間、微笑む姿が父の側に見えた。

優しい微笑みだった。

小さな頃、会いたいと願った人。

写真の中の笑みそのままの、少女のような面影の残る人。身構えるのも忘れて呟いた。

「おかあ..さん?」

その声に、こちらを向きゆっくりと流れるように消えた。

耳の奥に自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。

父は心地よい眠りの中にいるように、息を引き取っていた。


 今年も「初始」の日が来た。

参加人数が今年は多い。

飛伍達も会場に向かっていると、空港からメールがきた。

庭に面したテラスで、綾女は懐かしそうに室内の親しげなざわめきを眺めていた。

手にしているホットワインからは湯気が立ちのぼる。

綾女おばさんは、父母の思い出話を毎年この日はよくする。

だから、写真でしか会ったことのない母でも、鮮やかに頭に描くことができた。

幼い頃から、母がいない寂しさをあまり感じたことがない。

いつでも父と一緒だったし、みんなに見守られているという感覚の中で育ってきたのだ。

みんなが父と母の話をする。

父はその度に子どもみたいに照れて笑っていた。


幼い頃、幼稚園であった事。

若い頃の母の華麗な経歴。

父の母への思い。

父のモテぶり。

それ故のトラブルが母にまで及んだ上、トラブル相手を大学の卒論に使った母。

母の初めての和装を見て、秋華伯母さんが母に八つ当たりしたこと。

父なんて感想を言えないほど、ボーっとしてたって匠おじさんがからかっていた。

父が母に指輪を買った時の騒動と、クロエの父に世話になっこと。

クロエの父、アンドレアのストーリーにも母の影があった。

彼の尽力で、スイスへの留学ができた。

その娘のクロエは、今は大切な婚約者だ。

心残りがあるとしたら、父に結婚式を見て欲しかった。

「あと、ちょっとだったのにな」


「もうねぇ、あなたのご両親というか、隆ってね、バカップルって言葉そのものだった。口を開けば夏夜、夏夜って。こっちが気恥ずかしくなるくらいの時もあったの。彼女のことになるとまるで馬鹿になっちゃって。

でも、私たち大好きなの。二人のこと....

それにしても、ほんと馬鹿よねぇ。

慌てなくたって、夏夜はちゃあんと隆のこと待っているのに。

今頃、夏夜に叱られているんじゃないかしら。来るのが早いって...

あなたのパパは最後までバカップルよ。ねぇ航ちゃん。」

「”ちゃん”はやめてほしいな。年考えてよ。綾女おばさん。」

「あら、航ちゃんは幾つになっても、航ちゃんでしょう?それにおばさんはやめなさい!」

頭を拳骨でゴツンとやられた。

「敵わないなぁ。今年は結婚だってするのにさ。あ!つばき、こっち!」

航が手を振って声をかけると、スラリとしたショートカットのつばきが駆け寄ってきた。

「ここに居たの。クロエがパパと来て航のこと探してたよ?」

「迎えに行ってくるよ。またね、綾女..さん!」


綾女はすっかり大きくなった背中を見送った。隆に似てる。

あんなに嬉しそうに彼女を迎えに行って。

バカップルって遺伝なのかしら。


 結婚式の後、探して欲しいと夏夜に頼まれたアンドレアの妻は、去年一人娘を夫に託して逝った。

綾女にとっては、ドイツで最後の仕事でボスと一緒にした最初の仕事だった。

アンドレアの古い家柄が功を奏して、探すこと自体は簡単だったけれど、それからが大変だったのよねぇ。

ふたりの背中に、蹴りを入れるようにくっつけるのが。

師匠のマレーナも、こんなに難しい仕事は人生で初めてと笑っていたな。

夏夜の手紙がなかったら、航はクロエと出会わなかったかもしれない。

彼女、夏夜と会えたかしら。


「綾、ここだったか。寒くないかい?」

「平気よ。航ちゃんにね、私たちの大好きなバカップルの話してたの。」

「いやだわママ。バカップルなんて死語じゃない?」

「死語だって。生意気になったわねえ。たくが甘やかしたからよ?」

匠が肩をすくめてる。

「そうかな?ま、どうでもいいけど、つばき。薫君がそろそろ来てるんじゃないのか?

今日は婚約を皆さんに伝えるんだろう?

先に湊が出迎えちゃうぞ?」

「そうだった。危ない危ない。湊ってば、すぐに薫にチクるから。千桜ちゃんたちも一緒かしら。じゃあ後でね!」

つばきが元気にヒールで駆け出した。

もう少しお淑やかにならないものかしら。

あら、これ。私が母に言われたことだわ。

ともかく、秋さんに呆れられないといいけど。


 鼻の奥がツンとなるほど寒い季節だが、若者達は元気で未来に向かってどんどん歩いていく。

私たちも、あんな風に輝いて見えたのかな。


空からはふわりふわりと雪が舞い降りる。

手を差し出して、雪を手のひらに受けた。

冬の花は、手のひらに付くかつかないかで消えてしまう。

ここよ、夏夜。私たちはここにいるわ。


「さあ、私たちも行こうか。」

匠は腕を差し出したが、綾女は笑って匠の手をとった。

綾女と匠は手を握り合って、ほの明るい室内に入って行った。

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