第30話 新しいいのちと 

 外は雪がふわりふわりと舞っている。


橙子が余命の説明をしたのは、その日の午後だった。

隆は夏夜の肩を抱いている。

骨髄異形性症候群を引き起こしていることを伝えた。残された時間はほんの少しだ。

夏夜は静かに橙子の話を聞いていた。

「何かしたいことある?」

「橙子姉様、ひとつだけお願い。年末年始だけも家で過ごしたい。」

「家に。そう。風邪さえひかなければいいわ。

でも、家でも点滴と胸のルートは外せないの。差し支えなければ、私が通うけど。」

「橙子さん、点滴の交換とかできるなら教えて。俺がやるよ。」

「そう?助かる。今年は年末が少しバタバタするの。リアムのご両親がくるから....大晦日から2日の夜までは、隆ちゃんに頼もうかな。ホントはいけないけど、交換の時は私がオンラインでチェックするから。」


 一時帰宅できた。

たぶん、病院でできることはもうあまりない。だったら、病院には戻りたくない。

でもそれだと、お義父様やお義母様、春江さんに迷惑かな。

今一番したいこと、なんだろう。


「コテージ行きたくない?」

「行きたいけど...」

点滴や体についたチューブをみた。

「橙子さんから許可はもらったよ。でもリアムの両親が来ている時の橙子さん、ゆっくりさせたいだろ?それに、あっちはかなり寒いから2泊だけなんだけど」

「雪積もってる?」

「たぶんね。」

「行きたい。高藤さんとクロにも会える?」

「それもさっき聞いた。待ってるって言ってたよ。高藤は夏夜のファンなんだってさ。」

「うん!二人にお土産持っていきたい。」

「だな!買ってくるよ。どっちにしても病院に点滴とかもらいに行くから。」

「一緒にいきたい...お買い物。」

「ごめんな。外は寒いし、明日は出かけるし...」

「…わかってる。言ってみただけ。お土産のものメモするね。」

ジムに行きがてら、買い物を済ませる。

高藤に頼まれたものや土産、それに夏夜に頼まれたクロの冬用のベッドとオヤツ。


義母が一緒に2泊分の衣類をまとめてくれた。

「ありがとう、お義母様。あの、いつもごめんなさい。」

「また、夏夜ちゃんたら!いっぱい甘える約束よ?」

「でも.....何も残せなかったし。その赤ちゃんとかも。ご親戚に色々言われるでしょ?」

手を止めた苑子が、ベッドに腰掛けて夏夜の頭を撫でた。

「あのね..夏夜ちゃん。ずっと言いたかったの。

この家に来てくれて、ありがとう。

あなたにはつらい結婚だったのに、家にいるって言ってくれて...でもね、夏夜ちゃんがきてから、私たちは毎日楽しいの。すごく。

それに隆はとても成長したと思うのよ。」

「お義母様...」

こんなこと、こんな状況で言ってもらえるなんて、眼が潤んでくる。

「なんでも言ってね、遠慮しないで?」

泣いちゃいそうで声は出なくて、頷くだけだった。何度も何度も....


コテージは高藤のおかげでよく温まっていた。

初めての時と同じように、暖炉とヒーター、ベッドには湯たんぽが入れてある。

雪が山を覆って、荘厳ささえ感じるくらいだ。

鼻の奥がツンとするくらいの寒さが、病気を追い出してくれるようだ。

隆に抱きかかえられてコテージに行くと、タイミングよく扉が開いた。

高藤だった。

「やあ、夏夜さんよく来たね。疲れなかったかい?クロも待っていたよ。」

「こんにちは。お手数かけてしまってごめんなさい。でも会えて嬉しいです。」

暖炉の前からのそりと近寄ってきたクロは夏毛から冬毛になって、前よりモコモコしていた。

隆と夏夜をクンクンかいで尻尾を振った。

「こんにちは、クロ。元気だった?お土産あるよ?」

真っ黒な瞳で夏夜を見上げている。

隆が夏夜をベッドに寝かせると、クロもそこに乗った。

「わぁ、クロはあったかいねぇ」

クロを抱きしめて夏夜は嬉しそうだ。

「クロはすっかり懐いたなぁ」

隆が頭を撫でようとすると、ため息を吐いている。

「坊じゃないってさ。」

「ちぇ、お前エコひいきだぞ!」

クロに文句を言っている隆を高藤と笑った。


 隆の仕事や夏夜の病気のこと、家族の近況をひとしきり聞いて高藤は帰っていった。クロはお土産の大きなベッドを気に入ったらしい。


シンとした中、暖炉の薪の音だけがパチパチと響いている。

暖炉の前で二人で毛布にくるまっている。

「静かだね。」

「そうだな。雪山って夏とは別の場所みたいだ。」

「母様といた山も、冬は静かだったな。ここは少し似てる。」

「お母さんと山の話、あんまり聞いたことがないな。聞かせてよ。」


夏夜が母といた家も麓の街から随分離れていた。

夏夜が物心ついたときの母は病気は抱えていたものの、それほど寝込むことはなかった。家の周囲は山ばかりでほとんど人も来ないから、夏夜は母に本の読みかた、仮名などを習った。

出入りする大人は土地の人ばかりで、日本語は疎かになりがちだった。

秋華に初めて会った記憶があるのは、3歳くらいの時。きっと会ってはいたけど覚えていないのだろう。

母に姉だと言われても、そもそも「姉」という存在がよくわからない。

当時、秋華は急逝した父の後を継いだばかりで、夏に数日来るくらい。

「怖い顔してたの、秋姉様。いつも。つらかったんだと思う。母様と離れ離れで、1人で頑張って。」

代わりに留学中の橙子が時々きてくれた。

夏夜にとっては、橙子の方が馴染みがあったから、母が亡くなった時に秋華と暮らすと言われて、悲しかった。

「橙子姉様とじゃいけないの?どうして?」

橙子は困ったように笑っていて、母の言いつけだからとしか言わなかった。


「風呂、入ろうか...お湯溜めてくる。」

立ち上がりかけた隆に夏夜が手を伸ばす。

「隆....あのね...あの..お風呂のあと...」

シャツの裾を握って、目を逸らさずにつぶやくように。

「....いいの?俺もほんとは...抱きたい。」

「痩せちゃったし、点滴とかもあるし..それにきれい洗えてないかもしれなくて..」

座り直した隆が夏夜の唇をアヒルみたいに摘んで笑った。

「わかってるみんな。それでも抱きたい。心配なら俺がきれいに洗ってやるから。」

赤くなったまま、頷いた。

どれだけの勇気を持って、夏夜が訴えてきたか、泣けてくるくらいだ。


抱えた夏夜の体は確かに軽くなったけれど、暖かさは変わらない。

一緒に風呂に浸かっていると、以前みたいだ。

背中を流し合って、ちょっと悪戯をして....笑って...幸せな時間だった。


裸で抱き合った隆は優しい。

そっと触れる指先。暖かくて優しい唇。

熱い息と眼差し。

一粒の汗のかけらさえ、無くしたくない。

何もかもが愛おしい。

ああそうか、愛おしいってこういうことなんだ。

隆の心臓の音が聞こえる。隆の熱が体の奥まで伝わる。

暖かい。ずっとずっとこのままで居たかった。

「...ごめんね..」

ささやくと涙が溢れてきた。

ごめんね。何も残せなくて。悲しい思いをさせて。一緒に居れなくて...


夏夜の涙が体に流れ込んでくるようだ。

親指でそっと涙を拭ってやる。

夏夜の指が眼に触れて、自分も泣いていると知った。

指の一本一本を大切に愛おしむように触れ、手のひらの薄い傷跡を辿って、自分の頬に押し当てて瞳を閉じる夏夜の感触。

頬に触れ何度も唇を合わせた。

外は雪がしんしんと降っていて、不思議な明るさに包まれている。

二人の呼吸と薪の爆ぜる音だけが世界の音になったみたいだ。

こんなに静かに求めあっているのに、なんて深いんだろう。

「愛してる」

背中を抱きしめた。

「隆、一番嬉しい時っていつ?」

「ん?今。夏夜は?」

「一緒。お願い。もう少しこのままでいて」

肩から前に回した腕に、夏夜が抱きしめるように手をかけている。

毛布の中でそっと体を動かすと、ピクリとかすかに震えた。

「いつまででも。もう嫌だっていうまで」

「うん。」

繋いだ体を永遠に離したくなかった。


 このところの夏夜は、ひどく食欲を無くしている。

一日中、つらそうに横になって、水分を摂るのも難しい日がある。

もう吐く物も無いのに、吐き気がある。

でも肝機能も良くないし輸血も出来ないから...時間が迫ってきている。

年末年始の一時帰宅で、すっかり点滴の管理をマスターした隆と相談した。

夏夜が望むようにした方がいい。

病院に居てもつらいなら、家族のそばの方がいい。

次に病院に戻るときには、いよいよの時だと覚悟して欲しい。

隆に抱えられて病室を出る時、夏夜は橙子をすまなさそうに見ていた。

妹には笑顔を返して見送ったけれど、自室に戻ると椅子に落ちるように座りこんだ。ため息と一緒に涙がこぼれてくる。

ここまでだ。ドナーは見つからなかった。

結局、医者の力なんてこんなものだ。

身内の病気一つどうにもできない。

悔しかった。

何度も繰り返した言葉が、また浮かぶ。

『どうして夏夜なんだろう。』


 帰ってきた。家に。家族のいるところに。

消毒薬の匂いも器械の音もしなくて、庭木の揺れる音が聞こえる場所。

義父母の気配と春江さんの足音が聞こえてくるところ。

いつでも隆の気配があるところ。

胸に入っているチューブは24時間繋がったまま。

朝、ジムに行く前に隆が変えてくれる。

点滴は昼に義母が変えてもらうか、自分でもできる。

橙子姉様かリアムがチェックにも来てくれる時には飛悟もきて、自慢気にひとり歩きをしている。よちよちって表現がぴったりだ。

ピコビコ鳴る靴を買ってきて欲しい。

義母に頼んだ。三人分。

だって薫ちゃんも千桜ちゃんも、間もなく仲間入りするもの。

みんなに甘えてしまっているけれど、笑えるうちは笑っていたい。

帰宅してからの体調は良いくらい。

きっと病院より、リラックスしていられるからだ。

義母のおかげで食欲が出て、我ながら顔色もいいと思う。

義父の海外旅行話も面白くて楽しい。

PCを使ってやり取りするのも、期待でいっぱいになる。

まだできることがあると思うだけでいい。

何より、ここには隆がいる。

でも...この体の中の病気は依然として居座っていて、背骨を握り潰すような痛みで存在を主張してくる。

痛みがきたら体を丸めて、ゆっくり息をして、痛み止めを飲んでなんとか凌ぐ。

昼も夜も関係ない。枕元にはいつでも鎮痛剤が置いてある。

橙子からは、いずれ内服ではどうにもならなくなる時期が来て、点滴に替えると説明を受けた。

その時は病院に戻ろう。

もう、ここに戻ってこれないとしても.....そう決めていた。


 最近、真夜中に隣で体を固くするのが、増えてきた。

心配をかけまいと耐えている事は、とっくの前から気がついている。

痛み止めを飲んで、しばらくするとやっと力が抜けて眠りにつくが、寝汗をびっしょりとかいている。

今は気がついていると悟られないようにしている。

そうでもしないと、自分から病院に戻ると言いそうだ。

本心は違っても、きっと家族に気兼ねして自分が我慢すると言うだろう。

病院に行かせた方がいのかもしれない。

けれども....

入院したら、もう此処に暖かい夏夜は戻ってこない気がして、病院に行こうとは言えなかった。


冬から春に差し掛かる頃だ。

沈丁花の香りを感じさせて、桜を見せてやりたかった。


 子どもの頃暮らしていた山だ。

周りを見回す。母が居ない。

母の部屋からは、ざわざわと人の気配がしてベッドに横たわる母が見えた。

近寄っていくと、人々が母の足元に白い花を置いている。

姉様達もいるみたい。

母を囲む人々の顔は、霧がかかったようにぼんやりしてよく分からなかった。

皆、どうして母さまにお花を載せていくんだろう。

もう膝の上まで白い花でいっぱいだ。

母は目を開けているのに、身じろぎひとつしない。

「母様?」

問いかけても返事は無かった。

「どうしてお花を置くの?」

誰も答えない。

ただ、黙々と一本ずつ花を置いては、ベッドの周りを回っている。

花は母を覆い、顔まで白い花で埋まりそう。

「母様、起きて。お花いっぱいよ。重くないの?」

お顔が埋まっちゃう!それなのに人々はまだ花を手向け続ける。

「母様!おきておきて!もうやめて!!」

必死に叫んでも誰も手向けの歩みを止めてくれない。


「夏夜」

目を開けると隆が見えた。

「あ…あ…花が」

隆の胸に押し付けられた。心臓の音がする。

「夢だよ。大丈夫だ」

「...夢」

心臓は暴れまくっている。

「大丈夫。俺がいる。ゆっくり息して。」

汗で額に張りついた髪をかきあげてくれる。

隆の規則正しい胸の音を聴いていると、落ち着いてきた。

「汗かいたな。タオルと水持ってくる。」

「今はいい。このままギュッとしてて…」

「わかった…」

横になって背中をさすっていると、やがて寝息が聞こえた。

最近、夏夜は泣きながらうなされる。

強く強く抱きしめても、腕の隙間からスルリと入り込む「死」の恐怖は悪夢を運んでくる。

歯痒かった。


「夏夜ちゃん、少し窓開けましょうか。今日あったかいのよ。」

昼過ぎの穏やかな時間、義母が窓を開けてくれた。

春を告げる香りが部屋の中へ流れ込む。

「あ、沈丁花。いい香り...」

深呼吸すると胸の奥のからは、ざわめくような音がした。

「今朝ね、咲き始めたの。好きでしょう?」

コクリと頷いた。

義母がベッドに腰掛けて頭を撫でてくれる。

つと手を伸ばして、ベッド脇のテーブルから櫛を取り上げて髪をとかしてくれた。

「よくお稽古の後、この香りをいっぱい吸い込んでいたものね。」

「神崎の家にはなかったから。この家に来て、こんなにいい匂いだって初めて知ったの。」

義母が微笑んでいる。ちょっと遠くを見るように視線を上げて言った。

「初めて遊びに来た時も春だったわね。」

苑子は、秋華に手を引かれてやってきた日の夏夜を思い出していた。

ちょっと緊張して秋華の手を強く握っていたけれど、苑子を見上げた瞳が印象的だった。

隆たちが夏夜をよく連れ歩くようになってから、随分表情が多くなったのが嬉しかった。帰国した夏夜は、それほどに母親との別れに傷ついていた。

息子も、人を笑顔にする喜びを知ったのだと思う。

「友達」ができて「話す」「聞く」「泣く」「怒る」当たり前のことを身につけた夏夜はいつしか笑うようになって....あの頃から息子は、夏夜が可愛くて仕方がなかったのだった。妹のように、やがて異性として。

「夏夜ちゃんは僕がずぅっと守るんだよ。僕がいっつも笑わせてやるんだ!」

「ずっとで、いつも、ならお嫁に来てもらうしかないね」

夫が返すと、

「そうする!僕のお嫁さんだ!」

そう言って夫を笑わせていた。


「お義母様のクッキーとっても美味しかった。時々思い出すの。」

「ああ、あれね。そうだ!焼きましょう。クッキー」

夏夜の頭を撫でながら、義母は寂しそうに見えた。

帰宅した隆に、お母様が沈丁花の香りを入れてくれたと嬉しそうに話した。

ベッド脇の机の上には、母のクッキーとお茶が置いてある。

「焼きたてなの。お義母様のクッキー久しぶり。」

端っこをかじってみるとまだ暖かくて柔らかかった。

食べやすいようにしたんだな。


「桜ももうすぐ咲く。綾女とたくと花見に行こう。梔子だってすぐに咲くよ。

それから....綾女に赤ちゃん出来たって。」

「ホント?ふふ、すごく嬉しいね。たくちゃん待ちかねているでしょ?

すごいなぁ...赤ちゃん。会いたかったな」

夏夜は頬を染めて笑う。

『会いたかった?』ドキリとした。

会いたい。じゃなく?

どうしてこんなに不安になるんだろう。

風呂で見た夏夜の背中には、点状の内出血がじわりと滲んでいた。

明日、橙子さんに報告しておこう。


今夜の夏夜は隆の胸にピッタリとくっついている。

ウトウトしている隆に夏夜が囁いた。

「隆の胸の音、大好き。とっても安心するの...」

「俺も、夏夜大好き...ずっと一緒だ」

腕を伸ばして夏夜をしっかり抱きしめる。

微睡の中、大きなため息を聞いた気がした。


言葉を交わした最期だった。


夏夜を抱きしめたまま目が覚めた。

寝息が聞こえる。

額にキスをしてジムに行った。

夏夜はぐっすり眠っている。よかった。

一晩中痛み止めを使わず、夢も見ずに眠れたのは久しぶりだ。


ジャケットに袖を通しながら声をかける。

「行ってきます。」

「気をつけてね。いってらっしゃい。」

いつもの当たり前の会話。のはずだった。

今朝の夏夜はまだ目覚めない。

肩に手をかけて思った。

何かがおかしい.....心臓が痛いくらい速くなる。

「夏夜?」

暖かい....けど、まつ毛ひとつ動かない。

「夏夜!!」


ぼんやりと橙子の部屋にいた。

隣には両親も。


橙子とリアムが入ってきて椅子に座る。

橙子が隆を覗き込むようんにして声をかけた。

「お待たせして申し訳ありません。隆ちゃん、しっかり聞いて?」

「隆!」

父の声にはっとした。

「え...あ、はい。」

リアムが話し出した。

「今の夏夜は....昏睡の状態です。」

「昏睡…」

「そう、昏睡。脳の酸素濃度がとても減っています。原因を探しました。

おそらく…妊娠によるものです。」

苑子が目を瞠り、隣で笙はじっと目を閉じた。

「...にんしん?.....夏夜が?」

隆はつぶやく。


「Doctor、例えば脳の出血や腫瘍などは?」

目を開けた父が聞くと、リアムは首を横に振った。

「脳の転移なども視野に入れて検査をしました。しかしなにも…

脳の酸素はギリギリまで減っています。生命を維持するための最小限まで。

そのほかの臓器にも同様に。

ただ、子宮には酸素と血液が行き渡っている。

これから産婦人科の医師がここに来ます。その説明を聞いてください。」

程なく産婦人科医師が入って来た。

エコー画像を見せてくれると言う。

「12週です。月数で言えば4ヶ月のはじめ。ここが心臓。胎児は今のところ順調です。まもなく胎盤が完成するでしょう。

昏睡状態での妊娠は稀です。しかし帝王切開で無事に出産したケースも海外にはあります。」

映し出されたエコーには、2頭身の動く存在があった。真ん中にチカチカ点滅するように心臓が動いている。

母が泣いていた。父も母を抱えながら、目を細めて画面を見つめている。


橙子がゆっくり話しだした。

「夏夜ね、隆ちゃんとの赤ちゃんを守りたいんだと思う。

でも、この子を育てるためには今の体力じゃ無理...だから、子宮に集中的に酸素と栄養を与える為に...眠ったんだわ。」

隆が口を開いた。

「ねぇ、橙子さん...」

「なに?」

「これを堕ろせば、夏夜は...目が醒める?」

ため息をつきながら橙子が頭を振る。

「中絶はできない。子宮の中を掻き出せば、大出血するわ。」

「じゃあ、どうしたら堕ろせるかな。」

橙子は目を閉じている。

「だって、こんなのあんまりだろ?俺は...俺は...赤ん坊なんか...

これが大きくなったって...夏夜は..戻って来ないんだろ?」

「隆ちゃ..」

言いかけたところで、ドアが跳ね返るほどの勢いで開いた。

「あや!待てよ!」

匠の声と重なりながら入ってきた綾女が、隆の頬を思い切り引っ叩く。

「馬鹿っ!!わかんないの⁈

夏夜は隆の赤ちゃんだから産みたいんだよ⁈

隆にこの子を残したいんだよ⁈

ねえ!ホントに隆はわかんないの⁈

ほんとに...ほんとに...答えなさいよ!

本気で...夏夜が...こんなに.,」

興奮して泣きながら隆につかみかかる綾女を、匠が引き離して廊下に連れ出した。


「綾女ちゃんの言う通りよ。」

匠と綾女を見送って、母が隆を見つめる。

「赤ちゃんをお腹で育むのはとても大変な事よ。たとえ健康な体だったとしても...

私があなたを守りたいと思ったのと同じように、夏夜ちゃんも赤ちゃんを守りたいと思っているんだわ、きっと。」

隆は綾女に叩かれて横を向いたまま、少し項垂れている。

誰にもなんにも言わなかった。

「苑子おば様。隆ちゃんも本当はわかっているから...ね?」

橙子が隆を庇った。

「俺が...わからない。わかんないよ橙子さん.....」

隆の鼻先からポタポタと涙がこぼれた。


 橙子は深夜に夏夜のベッドに腰掛けている。

当直の夜だ。

朝、妹が入院してきた時はびっくりした。

考えていた入院ではなかったから。

隆ちゃんが言った中絶のこと、かなり効いたなぁ。今日は疲れた.....当直でよかった。

少しだけ妹と二人きりの時間が欲しかった。

薄暗い室内灯の中、片手で妹の頬を包む。

若いんだなとあらためて思う。

「最後に隆ちゃんに愛してもらったのね、夏夜。そう、望んだんでしょ?

大丈夫よ。一緒にいるから。

秋華姉様も義兄様もリアムも子ども達も。たくちゃんたちだって。みんなで赤ちゃん守るからね。」

返ってくるのはモニターの音だけだ。

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