第29話 時間
帰宅した隆は、夏夜宛のエアメールを持っていた。
エアメールという事は、綾女ちゃんかもしれない。
キッチンで開封する。
中にはドイツまでの航空機のチケットが入っていた。
「チケット....?」
苑子が手にしたチケットを見て、「あらまぁ!これは大変。」なんて大きな声を出している。
隆もジャケットの内ポケットから封書を出してみせた。
「俺にも来たんだ!ドイツ行こう!!」
「いつ?」
「来週から。現地には1週間しかいないから、派手な観光はできないけど。」
「でも、来週も病院があるよ。それに隆の仕事だって....」
「病院は心配ないって。仕事の方は父さんからOK出てる」
「いいの?」
隆と義父を見た。
「隆は私の名代を兼ねているんだよ。だから夏夜も一緒に行っておいで。」
義父が説明する。
「ゴールデンウィークと合体。父さんが休暇中は出勤になるけどね」
すごく嬉しいけど綾女ちゃん、どうしたんだろう。
準備は少しずつしている。バタバタして疲れてしまったら元も子もない。
置いていかれたら、隆を恨んじゃいそうだ。
衣類と薬と基礎化粧品。
それから....変圧器は隆が持っているはずだし。
お粥とフリーズドライのお味噌汁も入れておくように義母に言われた。
「旅先で疲れた時は、食べ慣れたものが一番なのよ。」
旅慣れた義母は、準備を嬉々として手伝ってくれる。
絶対に持って行ったほうがいいとワンピースと靴も買うことになった。
「あちらで誰に会うことになるかわからないじゃない?」
「そうなの?それなら入学式の時のスーツでいいでしょ?」
大学に入学した時に、今後一つはあったほうがいいと黒のスーツを買った。揃いの靴も。それならきっと失礼にはならないと思ったのだ。
「あら、だめよ。夏夜ちゃんは今回隆の妻、いわばレディ月嶋として行くのよ?可愛くして行ってちょうだい!」
結局いつも押し切られる。
義父母が選んだワンピースはふんわりとしたシフォン生地の淡い萩色。
首元のストールを背中に垂らせば、ちょっとしたパーティー仕様になる。合わせた靴はペタンコだけど落ち着いたゴールドがキラキラしていた。
「なんだか、旅行用じゃないみたい。」
「あら、この生地のいいところはシワにならないことよ?もし、あちらで会う人にお食事に誘われたらねえ。スーツじゃ失礼じゃないけど、がっかりよ。」
義母は自信満々だ。
買ってやりたくてしょうがないんだから、いいんだと隆は言うが、ちょっと恐縮してしまう。義父母は寒い時期だからと、ニットだとかなんだかんだと大騒ぎなのだ。
準備をしている間も楽しかった。
義父が貸してくれたガイドブックを眠る前にみて、義父にいろんな情報を聞くのもワクワクする。
本場のプレッツェル食べたい。
どんなお菓子があるかな?
ソーセージってドイツだよね?隆の好きなワインも沢山なんだって。
飲んだことないけど。
家族で海外旅行前の話をするのは、夏夜にとって初めてで、眠れなくなりそうなほどだった。
任務に就いていた時は、秋華や遥と海外にも行った。でもあくまでも仕事だから、飛行機の中でも打ち合わせは続くし、緊張を保つ。
お陰で帰りは死んだように眠ってくるか、試験勉強かだった。
義父の車で空港に着くと、匠と橙子一家がいた。
「たくちゃんお休み取れたの?橙子姉様たちも?」
「病院の心配ないでしょ?私とリアムがいたら百人力なんだから!」
だから「病院は心配ないって」だったんだ。
「あっちで学会あるんだ。だから俺も休み取れた。着くまでできるだけ休んだ方がいいよ。」
匠が笑っている。
「たくちゃんも過保護になったね。安心して、飛ちゃんより大人だから。」
旅行で乗る飛行機はこんなに楽しいんだ。
座席は隆と匠とひと並び。後ろに橙子一家がいる。
出発してしばらくすると準備の疲れが出たのか、すでに眠い。
眠った夏夜に毛布をかけながら、隆がつぶやく。
「ちょっと、かわいそうかな。眠剤飲ませるのは...」
本を読んでいた匠が目をあげた。
「まあな。眠剤入りの食事を食べさせたって言ったら怒るだろうな。でも、少しでも体力を取っておくには仕方ない。主治医の指示だし。」
この計画には橙子の協力が必須だった。
タイミングを逃すわけにはいかない。橙子もリアムも快諾してくれた。
今ならまだなんとかできる。でも半年後はわからない。だから。
眠ってしまえばドイツなんてあっという間だった。
夏夜は飛行機の中で、日本では未公開の映画を見れなかったと悔しがっている。
ティータイムのお菓子は、ザッハトルテだったのに。
空港には綾女が出迎えにきていて、ホテルまで彼女の運転で移動だ。
綾女ちゃんかっこいいな。
物怖じせずに運転する彼女が少し羨ましい。
ホテルに着くと橙子から、夕食までベッドにいることを指示された。
荷解きをした隆と匠は出かけるという。
「たくちゃんはそもそも学会なんだから仕方ない。でも、隆まで出かけるのはずるい。」
そんな子供っぽいことを言うくらい、夏夜ははしゃいでいる。
匠たちとはホテルの外で合流して計画のチェックをした。
こうでもしないと、おそらくテンションの上がった夏夜は休まないだろう。
これも橙子の指示なのだ。
ホテルに戻ると部屋には橙子がいて、隆の帰りを待っていた。
「橙子さん、ありがとう。寝てる?」
「ええ、今のところは計画通りよ。おかげで私も休めたわ。じゃ、部屋に行くね。今夜遅くなるようなら、眠剤よろしく。明日があるから。」
「はい。」
夏夜の手元には父のガイドブックがあって、眠る直前まで見ていたようだ。
橙子から部屋のキーを受け取った。
彼女が部屋に戻ったのを確認して、夏夜を起こした。
「夏夜、起きて。夕食行こう。」
揺すられて、目が醒める。
「あ、お帰りなさい。寝ちゃった。」
「たく達と夕食、外らしいけど行けそう?」
「行く!着替えるね。」
夏夜は着替えながら、隆が出かけた先のことを聞きたがった。
「たくは学会に行って、俺は父さんの使いしてきた。」
匠の学会、隆の用事なんて嘘で、3人ですぐそばのカフェにいたことは伏せてある。
綾女達と近所のレストランで夕食をとって、夜の街を散歩した。
「印象派とかの絵に出てきそうな所だね。潮の香りがするけど、海近いの?」
この先1キロくらいに港があるの。明後日案内するね。小さいけどいいところなんだ。それにこの町自慢のアイスクリーム屋さんがあるよ!」
綾女が夏夜に張り切って教えている。
ほのかな灯りに照らされた石畳の古い街は、絵本のように美しかった。
綾女に来年の春、帰国できそうだと聞いた夏夜は、ちょっと複雑な顔をした。
ホテルに戻って風呂を使い、横になる。
飛行機でも、ここにきてからもたくさん眠った。まだあまり眠くない。橙子が作ったスケジュールはなかなかか厳しい。眠らなくてもいいから横になるように書かれている。
「ねぇ、隆」
横になって隆の方を向いて話し始めた。
「綾女ちゃんの帰国...どう思う?」
「どうって?」
「頑張りすぎてないのかな。綾女ちゃん...早く帰らなきゃって。」
スーツケースから荷物を出したり、洗濯物を詰めたりしながら隆が答える。
「まあ、綾女のことだから頑張りはするよな。けど、たくとのこともあるし..」
「たくちゃん...そっか、そうだよね。」
「綾女、こっちでの業績いいらしい。帰国を早めるのは、こっちのボスからの提案だって言ってたよ。」
「さすが綾女ちゃん。よかった....ちょっと自意識過剰だった。」
「自意識過剰?何それ。」
「なんでもない....」
そのまま、ガイドブックを開いている。
しばらくすると寝息が聞こえてきた。
『やっぱり、自分のせいだって思ったんだ。今夜は眠剤要らなかったな。』
指を挟んでいたガイドブックをそっと抜き取ってテーブルに置く。
目をつぶると、隆もまもなく眠りについた。
翌日の夏夜は早起きだった。
こっちに来るまで、とにかく眠っていたから。
散歩に行ってくると張り切っている。
「待って、一緒に行くよ。」
まだ半分眠い隆がそういうと、眠っていていいと言っている。
言葉の問題がないと、こういうときアグレッシブだ。
「じゃあ、携帯もってあんまり長い時間じゃなく帰ってきて。今日...」
「え?」
「んあ..ごめん、寝ぼけた。行ってらっしゃい...」
「うん。朝ごはんまでは帰るから!」
パタパタと足音が遠のく。
『あぶね、計画をバラしちゃうところだった。』
朝食を食べたら匠と合流する。
リアムが空港へ行ってくれるから、昼に匠と一緒に出かければ、あとは大丈夫だ。
せっかく綾女がしてくれた提案を成功させたかった。
約束通り、夏夜はきちんとホテルに戻ってきた。
すっごく美味しそうだったからと焼きたてのパンを手にしている。
部屋の中が香ばしい香りがいっぱいになる。
「これ..買っちゃったけど考えてみたら、朝はビュッフェだよね。」
夏夜は少し落ち込んでいる。
「大丈夫だろ。フロントに聞いてみようか?」
「そっか、聞いてみる!」
早速、夏夜は電話をかけている。
「良いって。なんだかあっさりだった。」
以前みたいに行動力全開で、がっかりしたり喜んだりしている夏夜は、とても生き生きしていた。
暖かいパンの包みを抱えて部屋を出た。
リアム一家と朝食の席をゆっくり囲む。
飛悟も機嫌よく夏夜に甘えていて、一家はこっちで友人に会うと言っている。
昼過ぎエントランスにいると、綾女がやってきた。
「みんな、お待たせ!!よく眠れた?さっ行こう!!」
返事をする間もない。
綾女は夏夜の手をとってスタスタと車にいく。
「どこ行くの?」
「内緒!」
匠や隆は知ってるみたいだ。座席で笑っている。
街の所々の案内を綾女がしてくれる。
意外だった。
きっとベルリンとか、大きな都市と大きな会社で勉強していると思っていた。
ベルリンからは車で1時間弱。
古くて小さな街だ。
思ったまま伝えると、綾女が教えてくれた。
「この街ってね、ヨーロッパの情報の全てが集まるところなの。大戦時には機密情報が全てこの街を通ったって言われているのよ。今みたいな通信機器がない頃からね。すごいと思わない?」
「綾女ちゃんがいる会社はここが本社?」
「そう、実はベルリンにも支社があるけど、私はボスに師事したかったの。
もうずいぶんおばあちゃんだけど、すごいんだから!
ヨーロッパの古い家のこととか、ほとんど知ってるみたいよ。
新しいものも大切なんだけど、機器がない時代の情報収集手法も歴史も知っておきたいから。そこにきっと次のヒントがあると思う。」
「綾女ちゃんって、そんなこと考えていたんだ。ボスって女性なの?」
「言ってなかった?白髪のすっごく素敵な人。今日会えるよ。」
綾女はにこりとした。
到着したのは町外れだった。
ここは古いものがいっぱいで飽きないところよ。2時間くらいしたら合流ね。
そう言って匠と綾女は出かけて行った。
「そこのカフェ、この国で一番古いんだって。ケーキが美味いらしいよ」
隆の情報を聞いて、カバンの中からガイドブックを出すと、この街のページをめくった。
「タブレットじゃないんだ。あっちの方が便利なのに。」
「あ、ここだ。初めての旅行でしょ。旅行にはガイドブックじゃない?
これ、お義父様の本でメモが色々書いてあってそれも面白いの。」
「へぇ、父さんの本なんてみたことないな。で?ここ、どうする?」
「伝統のケーキ各種だって。入りたい!」
ドイツのケーキなんてバームクーヘンとザッハトルテくらいしか知らないが、綾女によると、たっくさんある!らしい。
二人で中に入る。
店は少し混んでいたが、静かだった。
机も椅子も古いものが手入れされ、艶やかに光っている。
照明は暗い。
表に面した席の机にそっと触れてみる。
長い時間が机の縁の角を取って、丸みを帯びていた。
初めての場所なのに、懐かしいような気持ちになる。
店の中は、ここに長年通ってきている人が多いらしい。観光客らしいのは自分たちくらいだ。派手さがない街で観光客はそう多くないのだろう。
ちょっと珍しそうにこっちをみる人もいる。夏夜は嬉しそうにショーケースを見ている。若い男性の店員が何か話しかけて、ちらと隆を見てびっくりしたような顔をしていた。
コーヒーとケーキが来た。
この街に来たら食べた方がいいと、綾女が教えてくれたりんごのケーキは、甘味がずっしりして、のんびり食べるのにちょうどいい。
それと飛行機で食べ損ねたザッハトルテ。
甘くない生クリームをつけてもらった。
2種類を半分づつ。
『2時間じゃもったいないくらい。』
近所に教会があるらしい。
鐘の音が響いている。
夏夜が机に置いたガイドブックを手にとって、足を組んだ隆がみている。
なんだか絵になる姿だと思った。今更だけど、モデルだったと納得する。
「父さんもここに来たんだな。メモだらけ。
ここのザッハトルテ、美味いな。機内食とは全然違う。」
「私はやっと食べれた。食べ比べもいいね。
ガイドブックにいっぱい書き込むってめずらしいよね。」
しばらく街の様子をみていた。
ケーキは、このカフェのように時間が積み重なった味がする。だからきっと、懐かしいと思うんだろう。
隆が立ち上がって、手を差し出す。
「2時間なるな。そろそろ行こうか」
見た目の綺麗な石畳は歩いてみると結構滑るし、あちこちボコボコだ。
やっぱり、いつものスニーカーにすればよかったな。
隆の腕につかまって、歩き始めると隆が
さっきのカフェの店員のことを聞いてきた。
「さっき、何か言われた?」
「ナンパされたの。」
隆がジロリとカフェを見る。
「夫と一緒ですって言っちゃった。」
隆が少し嬉しそうにしている。
着いた先は古い古い教会だ。
中は薄暗くて少しひんやりする。
「ここで待ち合わせ?」
「うん。座って待ってろってさ。寒くない?」
小声で隆がささやく。
「うん、平気。」
教会って結構人がいるんだ。
これから夕方のミサでもあるのかな。照明も落としてあるし。
だとしたら、席を譲った方がいい。
ゆっくりお祈りをしたいだろうから。
隆に話そうと顔を寄せると、パイプオルガンが鳴り出した。石造の建物に大きな音が響く。
サワサワと声がして周囲が立ち上がった。
隆が立ち上がるのを見て、夏夜も慌てて立ち上がる。
「あ....」
みんなが振り返る先には綾女がいた。磁村の総代が彼女をエスコートしている。
真っ白いドレスがスタイルの良い綾女を、さらに輝かせている。
正面には匠がタキシードで綾女を待っていた。
目を丸くしたまま言葉が出なかった代わりに、涙が溢れてくる。
隆がそっと肩を抱いてくれた。
泣いちゃいけない、こんな場では笑わないと...
夏夜の側を通り過ぎる一瞬、綾女はウインクしてみせた。
綾女が父から匠のそばに行った。
指輪を付け合って、レースのベールを匠がそっとかきあげる。
ステンドグラスに差し込む午後の光のなか、匠と綾女の顔が重なる。
式が終わってみると、周囲には見知った顔ばかりだった。
後ろには橙子とリアムがいて、磁村と久坂部の家族がいて。
全く気がつかなかった。
だから今日はこのワンピースがいいって隆が言ったんだ。
今朝、観光ならとジーンズを出すと、隆が萩色のワンピースが絶対いいと譲らなかった。そうじゃないと出掛ける気にならない、とまで言って。隆のリュックの中にはジャケットとネクタイが入れてあった。
「教会の近くのレストランで夕食をしてお式は終わり!」
綾女がいたずらっぽく笑う。
夏夜はまだぽかんとしている。
「疲れた?」
隆が声をかける。
「...こんなのって..知らないのは私だけ?」
「うん、綾女がそうしたいって。夏夜には、絶対に式を見て欲しいからって...」
レストランは賑やかだった。
夏夜の隣には綾女と匠がいて、夏夜に両手を合わせて謝っている。
「ごめんって!!だって話したら夏夜はきっと遠慮するでしょ?」
「そうそう、自分に合わせなくていいとか言うと思ってさ。これでもかなり苦労したんだぞ。隆がばらしちゃうんじゃないかって。
夕べは独身最期の夜なのに、感慨に浸る暇もなかった。」
「たくちゃんも学会なんて嘘言って...隆だって。橙子姉様だって。」
夏夜はまだぶつくさ言っている。
綾女のボスに会って、みんなと食事をして時間が過ぎる。
年齢を感じさせない艶やかさと豊かな銀髪を上品にまとめている綾女のボスは、夏夜を以前から知っていると言った。
数年前、夏夜が最年少で業界にデビューした時だ。
「こんなに可愛らしい子がって思ったわ。だってほんの子どもですもの。あの時の写真も素敵だったけど、前に見た時よりしなやかに美しいわ。」
そんなふうに笑って夏夜を慌てさせた。
綾女に一つ頼み事をした夏夜は、隆や橙子たちと一足先にホテルに戻ってきた。
レストランには綾女の同僚たちもやってきて、今でも盛り上がっている。
「疲れない?」
「ちょっと。びっくりしすぎて疲れた。」
「今日はもう休もう。バスタブにお湯張ってくる。」
自宅同様に一緒に風呂に行って、ベッドに入る。
「素敵だったね...綾女ちゃん....」
ため息混じりに夏夜はつぶやいている。
それが羨望からの言葉じゃないことはよくわかる。
「二人ともさすがだったな。俺たち結婚式もちゃんとしてないもんな...」
「カフェでしたじゃない。橙子姉様と一緒に。あれ、嬉しかった。」
「でもあんなドレス着てほしかった。」
「隆..」
「脱がせがい、ありそう...」
「ホント、そういうことばっかり言うんだから」
「明日は午後から綾女たちと一緒だよ。今夜はゆっくりできる...」
夏夜の背中を抱いた。
旅先での時間はあっという間だ。
小さな街をあちこち散歩して、たまに綾女の同僚とも食事をして。
隆と父母へのお土産を選んで。
空港まで送ってくれた綾女は、夏夜をぎゅと抱きしめた。
「お式見てくれて...ありがとう。年明けに帰国するから待っててね。
あ、そうだこれ、ボスから...」
そう言って封筒を夏夜に渡した。
「うん、待ってる。またメールするね。色々ありがとう。」
ゲートに入る直前、夏夜がくるりと振り向いて大きく手を振った。
夏夜が見えなくなって、泣いている自分に気がついた。
『まだ、動けるうちでよかった。次に会う時、夏夜は今みたいに笑えるかな...』
後ろから匠が抱きしめる。
「あや、頑張ったな。泣かなくていい。隆がそばにいるから。」
「うん..」
「じゃあ、俺も行くな。遠路遥々来た夫にご褒美ないの?」
「ばか..」
笑った匠が綾女にキスをした。
帰国の機内でも夏夜に眠剤を飲ませた。
ぐっすり眠る夏夜の目に、ほんの少しだけ涙が浮いている。
夏夜だって自分の時間はわかっている。これから、どんなことになるんだろう。
帰国してみたらドナーが見つかっていないだろうか。
旅行のあと今のところ、発熱はなくすぎている。明日はまた輸血だ。
思うようにいかない。
やはり輸血をすると蕁麻疹が出てその範囲も広がっている。
発熱もするから、今回は入院の予定を組んだ。
慎重に抗アレルギー薬を使いながらでも、結果は一緒だった。
ドナーもみつからない、今の状態では化学療法もできない、ないない尽くしだ。
息子の飛伍は一才を迎えて歩き始め、姉の子どもの薫と千桜も伝い歩きから卒業しそうだ。
なんとなく「ママ」とも聞こえるように話す時だってある。
嬉しくて喜ばしいことなのに、この頃の子どもの成長は、速くて、速くて...
同じ分だけ、夏夜の時間が削られていくと思うと、橙子は苦しくて泣きたいような気持ちになる。
綾女ちゃんの判断は、素人ながら正しかった。
はじめての旅行を、夏夜はそれは喜び、楽しんでいた。
綾女と匠の結婚式から帰ってきてから、輸血によるアレルギー反応を見ると、これからも難しい。
もう無理だ。そう伝えても、夏夜はまだまだ大丈夫と笑う。
橙子には、本当に抱きしめてやるしか出来ることがない。
帰宅する道々、毎日のように考える。
どうして夏夜なんだろう。
リアムに縋り付いて泣くことは、流石にもう無いけれど。
夏夜の体力は、かなり落ちている。
本来なら輸血をするくらいなのだ。
最近は階段だってひと息には登れない。
寝室を裏庭に面したゲストルームに移す準備を進めた。
ベッドで過ごすことがほとんどで、当然肌を重ねる事もできない。
だから、夏夜はとても申し訳無さそうな顔をする。
「ごめんね。」
よく口にする。
謝んなくたっていい。夏夜がいてくれればいい。
病気を知って、それでも夏夜を神崎に帰さないと言った時から、いや、それ以前に夏夜をこの家に迎えると言った時から、そんなの変わっていない。
辛かったら外に行ってきていいと言う夏夜と、何度喧嘩したかわからない。
外ってなんだよ。
喧嘩の後にひどいことを言ったと落ち込んでいる。謝る夏夜が悲しかった。
あんまり時間がない。
橙子姉様に入院を考えるように言われた。
入院したらここに帰って来れるかな。
何も残せないままなのかな。
腕を持ち上げて両手を眺める。
いっぱい持ってるって思ってたんだけど…
あの時、隆のそばに居たいって思っちゃったのは、いけなかったのかも知れない。
何度もそう思うのに、隆の顔を見るとやっぱりそばに居たいと願ってしまう。
1分でも1秒でも長く。
いつからこんなにわがままになったのだろう。そうこうしているうちに、義父からも入院するように諭されてしまった。
勿論、夏夜の消耗具合を心配してのことだ。
隆は義父と喧嘩のようになって入院を反対したけれど、最後には家長としての命令だと言われた。
夏夜自身も入院しかないと良くわかっていた。
きっと元気になって帰ってくるから。
そう約束した。
橙子にメールで入院すると伝えると、すぐに返事がきて翌日には入院が決まった。
いつものように一緒に入浴して、笑い合う。
その夜、隆が抱きしめてくれた。
「絶対、帰って来て。」
「うん。」
「絶対ドナーが見つかる。」
「うん。」
「毎日病院行く。」
「うん。」
入院の準備は義母が手伝ってくれた。荷物は最小限にして行けばいい。
また此処に戻ってくるんだから。
病院では橙子が検査と処置の準備をしていた。
眠剤を使って出来るだけ、心の負担がないようにする。
血管に直接、高カロリー栄養を入れるための処置も。
夏夜の体に、針を刺すのはいつもよりもつらかった。
今回はリアムが処置に入ってくれた。
君はやらないほうがいい。心が入ってしまう。
そうなのだ。
橙子は珍しく感傷的になっている。
手元がぶれて出血させる訳にはいかない。
点滴とIVHが良かったのか、入院してからの夏夜は落ち着いていた。
夜間は酸素をつけて眠れるのも、体力の温存には大きかった。
隆は旅行の分、休みが減って、平日はちょっと立ち寄るくらいしかできない時もあるが、週末は金曜日から泊まりこんで、日曜の夜まで一緒に過ごす。
会員制のこの病院の融通が、こんな時とても助かる。
一緒にいてはしゃげる訳でもないが、貴重なひと時だ。
今朝もジムに出かけて行って、そろそろ帰ってくるはずだ。
さっき橙子が来て、隆が戻ったら呼んで欲しいと言っていた。
また、検査の話なのかな。
もう、検査なんか要らないのに。
だって、少しずつ皮下出血が増えているもの。ぶつけた覚えがないところまで。
そうは思うが、橙子がどれだけ必死にドナーを探しているかを考えると、口に出すことはできなかった。
ノックする音がした。
きっと隆だ。
返事をする前にドアが勢いよく開いた。
「夏夜っ!よかった!元気だ…」
飛びついてきたのは綾女だった。
「綾女ちゃん…帰って来てたの?」
「うん!今ね。」
「あや、夏夜がびっくりしてる。落ち着けよ。」
匠も一緒だ。
「あ、飛びついてごめんね。痛くない?」
夏夜の点滴やチューブを気にしたらしい。
「大丈夫。平気だよ。」
そう答えると、綾女は一歩下がって、夏夜の手を握った。
「ただいま。夏夜。顔をよく見せて?」
「お帰りなさい。」
綾女が帰ってきた。綾女の手が暖かくて、じんわりと実感が湧いてくる。
「もうこっちに居れるの?」
「うん。修行終わってきたよ。」
綾女が抱きついて、泣いている。
隆も戻ってきて、一階のカフェからお茶やケーキも買ってきてくれた。
「もう、あっちの飛行機乗る前からこれでさ。夏夜が疲れるから一旦連れて帰る」
そう言って、興奮冷めやらぬ綾女を、匠が苦笑しながら連れて行った。
タクシーの中で綾女は泣いていた。
「痩せた。夏夜..式に来てくれた時から、まだちょっとしか経ってないのに」
匠は頷いただけだった。
タクシーから降りると、匠が口を開いた。
「俺たちにとってはちょっとの時間だけど、隆たちにはとんでもなく貴重な時間だ。あやが帰ってきてくれてよかったよ。きっと夏夜もすごく嬉しい。」
こぼすようにポツリと言った
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます