第28話 想い

 今年の夏は長い。

秋に入ったのに連日、真夏のようだ。

少し夏バテのようだけど、この暑さじゃきっと皆そうだろう。

隆も最近元気がない。

早めに帰宅できても、口数が少なくて考え込んでいるか、部屋にいるかだ。

仕事も大変なんだろうな。

プランニングもあるって言っていたし。

来週は秋のスクーリングがあって、その後に病院にもいかなくてはならない。

隆が予定を合わせてくれて、帰りは大学まで迎えにきてくれるから安心だ。

今日の夜は、夏バテに良い食事をお義母様と考えよう。

最近の義母は「鉄分を」と夏夜の前には毎日レバーペーストがでる。

流石に若干飽きてきたと言ったら、今日はレバーの佃煮を作っている。

隣で夏夜は鶏の煮物を作っていた。

この間、CMを見た隆が「うまそう!」と言っていたからレシピを調べておいた。

それにお酢も使うから、きっと疲れにも良いはずだ。


 隆の帰宅が遅くなった。

義父が帰宅しても帰ってこない。

そうして夜中に酔って帰宅する。

その上、時々香水のような匂いが混じることもある。

仕事の関係だろうか。この業界も接待とかあるのかな。

朝、夏夜が見送る時、目が合わない。それにジムにも行っていないらしく、遥が怒っている。

「メールをしても返事が来ない。何かあったなら話は聞くから、とにかく一度返信をよこせ!と言ってくれ。」

夏夜宛にメールが来ていた。

一度匠からメールが来て、隆のことを聞かれたが、夏夜にも何が起きたのかわからないのだ。

みんな心配しているよと言っても、返事もない。

むしろ、夏夜が声をかけた日の方が、機嫌が悪かった。眉間には始終皺が寄っている。

自分が何かしてしまったのだろうか。

夜更けに、ベッドに倒れ込んできた隆はひどく酔っていて、酒の臭いを漂わせたまま、夏夜をグイと引き寄せた。

「すごくお酒くさい。」

「いいじゃん、飲みたかったの!!....抱きたい...」

夏夜の両手をひねり上げるように、頭の上で押さえつけた。こんな事はじめてだ。

「酔ってるの?痛い..待って、逃げないから離して。」

「たまには良いでしょ。酔っ払ったって、こういうのも。付き合えよ。」

呂律の回らない口調で、夏夜の手をネクタイで縛りつけた。

「やだ隆!..手...いや」

「いいから!よくしてやるから」

耳の奥に、ベッド柵に当たる金属の音が聞こえる。

閉じ込めておいた、あの時の恐怖がムクリと目を覚ました。

腕の痛みと吐き気。

金属の擦れる耳障りな音。

古い油の絡みつくような匂い。

差し込まれた注射の針

夏夜の体が大きく震え出して、息がひゅうひゅう言い出した。息、息が!

それでも隆は気づかず、夏夜の胸に舌を這わせている。


ひときわ、大きくひゅっと音がした。

隆がはっとして、顔をあげる。

夏夜が目を見開いたまま、力が抜けだらんとしていた。

呼吸は、しているのかしていないのかわからないほどだ。

慌てて夏夜の頬をたたいた。

「息吐け!!夏夜!」

またひゅうっと音がして、夏夜の目の焦点が戻った。


「怖い..おね..がい..離して..」

酔いが吹っ飛んでいた。手を縛ったネクタイを急いで外す。

「そばにいて隆....間違ってたら、謝るから...」

むせ込みながらそう言った。

「...っ」

返事もできずに背中を向けた。どっと情けなさが込み上げてきて、隣で泣いている夏夜に何も言えなかった。


 大学の帰りに病院にいく。

隆は、迎えに来てくれる約束を覚えているかな。

昨夜から言葉を交わさないまま家を出てきた。

スクーリングのあとエラの部屋に寄った。

卒論の最終打ち合わせをし、約束のバス停前で待っている。

今日も暑い。

水筒持ってくればよかったな。

朝のバスは、一本ずらしてもやっぱり混んでいるから、荷物はできるだけ軽くと思ったけど...

構内のコンビニで買えるが、迎えに来た隆とすれ違ったら困る。

いいや、病院に行けば買えるし。


やっぱり、忘れちゃってるかもしれない。

そろそろ、バスでも乗らないと予約した時間に間に合わない....

さっき隆に送ったメールも既読にならない。

急な会議とか仕事かも....

先にバスで病院に行っていると送った。

病院についたら、すぐに冷たい飲み物を買おう。

検査、今日もあるのかな。

バスで揺られているうちに酔ったみたいだ。

吐き気と寒気がする。

途中で下車した。

橙子にもメールをと思ったが、液晶画面が眩しくて、やめてしまった。

バス停にあったベンチに座っていると、吐き気は落ち着いてきた。

汗をびっしょりとかいている。寒気も治まったが今度はすごく熱い。

蝉の声がひどく耳障りだ。なんでこんなに叫んでいるんだろ。

喉がヒリヒリする。

今のうちに飲み物買おう。

座っている場所から、少し離れたところに自販機が見えていた。

杖に捕まるようにして、ゆっくり立って自販機まで歩く。

暑くてクラクラして、背中を汗が流れる。 


あれ?どこに行くんだっけ?

何かすることあったけど、暑くて思い出せない。

とにかく山に行かなくちゃ。

山?

なんだか、違う気がする。


自販機から出てきた冷えた水を見ると、喉がゴクリとなる。

早く飲みたい。ペットボトルを取ろうと身体を折る。どうしてだろう。中々ボトルが掴めない。バサッと音がして、エラから借りた文献が落ちた。咄嗟に手を伸ばした。

空が見える。青くて遠い空は眩しすぎた。


 隆は昔馴染みのクラブにいた。

酒を飲むつもりはなく、賑やかな場所で少し気分転換したかっただけ。迎えに行くまでのほんのちょっとだけ。

周囲にいた女の子たちに声をかけられて...


「隆!!」

乱暴に揺さぶられて顔をあげると匠だった。

「あれ、たくだ。どうしたの?」

「なんで呑んでんだよ?何の日か忘れてんのか?」

匠はひどく怒っていて、乱暴に胸ぐらを掴んで立たされた。

「なにやってんだよ?探したんだ!メールだって何回も....橙子さんからも電話来てるだろ?」

「橙子さん?あ、病院行く日だった。へへ、けど呑んじゃった。けど、夏夜なら大丈夫...しっかりものだから自分でなんとかするって...」

瞬間、目の前が真っ白になって座り込んでいた。口の中に嫌な味が広がってきた。

匠が見下ろしている。


「夏夜、救急搬送で病院来た...」

「救急..?」

そのまま匠に引きずられて、ざわつく店の外に出た。

隆の車の運転席に乗り込んだ匠が、シートベルトをつけた。

「たく..ほんとか?」

「嘘言ったってしょうがない。あとは病院行ってからだ。」


 病院には両親と遥もきていた。

自販機の前で夏夜は倒れていて、救急車で運ばれたという。

病室前で橙子が声をかけてきた。

「...熱中症だった。大学のバス停に随分居たみたい。

あのね、貧血になると脱水も起こしやすいの。夏夜はさっき気がついたわ。点滴してる。

体のこと....話した。できれば予定通りにしたかったけど....

こうなると隠しておけない。夏夜にだって疑っているままにはできないでから。」

「.....申し訳ありません。」掠れる声しかがでない。

恥ずかしかった。夏夜から逃げ回った自分が。酒に走った自分が。

「..口元、見せて?ちょっと切れてるわね。」

ため息をついた橙子は、匠に殴られた傷を消毒してくれた。礼を言おうとすると遮った。

「夏夜が待ってる。行ってあげて」

病室の扉をそっと開けた。

室内で立ち上がった気配がした。

揺れる長い髪のシルエットは秋華だ。

「秋さん、申し...」

畳みかけるように秋華が話し出す。

「ありがとう、きてくれて。さっき橙子に聞いたわ。」

室内には夕日が差し込んで逆光だ。穏やかな口調だが、秋華の表情は見えない。

「月嶋隆さん、私からお願いします。夏夜を神崎にお返しください。」

「....こんなことになって、だから?」

「...それは、」

「違うの、隆。」

秋華が話そうとするのを、少し強引に夏夜が引き継いだ。

「さっき....橙子姉様に聞いたの。体のこと。もっと妊娠しにくいんだって...今までよりも...それに時間も....隆は月嶋の家を支えなきゃいけない。

だから、秋姉様が帰っていいって言ってくれたの。」

「俺は....」

「一人で抱えて...苦しかったよね?こんなことになって、ごめんなさい。」

「こちらから縁談を持ちかけたのに、申し訳ありません。総代にも伝えたから...隆ちゃんの返事をもらえるかしら。」

間髪入れずに秋華が聞いた。

「...夏夜..も....そう..したいの?」

「隆の足枷にはなりたくない。ちょっとの時間でもすごく幸せだったから。」

「なら、なんで?..俺が最近..荒れていてだから…」

後悔が押し寄せてくる。そんなもの。なんの役にも立たないのに。

「ちがう。隆は理由もなく飲み続けたりしない。

でも、この間の夜....泣いてたでしょ。私はしょっちゅう泣くけど。

これ以上、隆が苦しんじゃいけない。隆には笑ってて欲しいの」

「嫌だ...絶対に...夏夜も秋さんも俺が子どもが欲しいだけで....夏夜と一緒になったって...本気で思ってたの?」

「いいえ、隆ちゃんも月嶋のお家も、本当に感謝しているわ。状況が変わっただけよ。」

「なら!なんで⁈この間そばにいて欲しいって言ったじゃないか!俺にはもう愛想が尽きた?」

「そんなことない...

でも..私は隆に残せるものがないから。

時間も、赤ちゃんの可能性も...なんにも...」

「俺は..夏夜の時間があるだけ一緒にいたい。もう家のために夏夜が我慢するのは嫌なんだ。秋さん、土下座でもなんでもする!夏夜を連れて行かないで欲しい。俺のそばにいて欲しい!!」

部屋の中の大声を橙子たちは聞いていた。


扉がそっと開いた。入ってきたのは月嶋笙と後ろに苑子も。

「隆、夏夜を悲しませることはもうないか?守れるか?」

力を込めて頷く。

「そうか。では、神崎家総代。月嶋総代家からの要望だ。私からもお願いする。夏夜をこのまま月嶋にいさせて欲しい。」

そういうと、床に正座をした。その隣に当然のように苑子も座る。

そのまま土下座した。急いで隆も二人のそばで同じようにした。

秋華はじっとそれらを見下ろしている。そのまま妹に声を掛ける。

「.....夏夜、あなたが決めなさい。」

「私は.隆の....お義父様とお義母様のそばに...居たい。」

「わかったわ。月嶋総代家の皆さん、顔をあげてください。

おじさまおばさま、隆ちゃん。夏夜をよろしくお願いします。この子は、家云々以前に私たちの大切な妹ですから。」

「秋姉様...」

「素直にね。ご家族を大切になさい。」

そう言うと、秋華はゆっくりと部屋を出て行った。

義父母も立ち上がる。

「夏夜、よく残ると言ってくれた。ありがとう。隆を頼むよ。」

「はい...あの..ご迷惑をかけるかもしれませんが...」

「いいのよ。隆なんか迷惑の塊ですよ。いっぱい甘えてちょうだい。」

「はい....」

義父母が出ていき、秋華夫婦も帰ったらしい。

匠がちょっと顔を出して

「貸し一つだぞ、隆」

その後に橙子夫婦がきた。枕元に冷たい水を置いた。

「隆ちゃん、苦しいことは苦しいってちゃんと言うの。1人じゃないんだからね。

..今日は休みなさい。明日、話しましょう。廊下にベッド持ってきてるから。自分で入れてね。」


いつの間にか蝉は鳴き止み、鈴虫の声が聞こえている。

「ごめん。あんな想いさせない。だから、だからそばに居てくれ。」

「今までよりも迷惑かけちゃうけど...いいの?」

「抱きしめていい?」

「うん」

少し遠慮するみたいに抱きしめて、もう一度「ごめん」そう言った。

よかった。いつもの優しい隆だ。

このまま月嶋夏夜でいていいんだ。

これから始まる治療も処置も注射も、隆がいれば絶対大丈夫。


抱き合って、朝までぐっすり眠った。

簡易ベッドなんて要らなかった。


「おはよう!眠れた?」

橙子とリアムが部屋のドアを開けると、隆が慌てて起き上がる。

「わぁっ!!ゴメン!今…」

「おはよ。橙子姉様。リアム。眠れたよ。」

橙子とリアムは顔を見合わせて笑っている。

夏夜と隆に熱いタオルを渡してくれた。

ただ寝ていただけなら、慌てなくて良いのに。

簡易ベッドは外にあったから、一緒のベッドに寝たのはすぐわかる。

全く可愛いんだから。この二人。

焦っている隆と、ちょっと恥ずかしそうに顔を赤くしている夏夜を見ていると、これから話すことが少し苦しくなる。


 二人が落ち着いて、リアムがカフェから紅茶とコーヒーを買って来たのを機に、橙子は椅子に座って話し出す。

「始めようか。」

「お願いします。」

真剣な顔になった隆は、夏夜の手を握っている。

「隠すことがいいとは思えないし、はっきり伝えようと思うけど、いい?」

「はい。」

二人同時の返事だった。

「病名はこの間と同じ。後天性再生不良性貧血。

ステージは4〜5。治療は早急な骨髄移植の適応。

まずは私や秋華姉様の型を採取する。

私も姉様も合わなかったら、非血縁ドナーを探す。」

「橙子姉様、私にある時間はどのくらい?

わかる範囲でいいから、教えてほしい。」

「うまく移植ができて化学療法にいければ、五年生存率は50%くらい。

もしも移植ができない時は、正直わからない。中には難治性のものもあるの。」

「そっか....やっぱりあんまり時間ないんだね....」

視線を自分の手に移した夏夜がつぶやく。

「夏夜。また決めつけてはいけない。ドナーが見つかるかもしれないから。」

リアムが言った。

夏夜は黙って頷いた。

隆は握った手に力を込めた。

「あくまでも統計よ。あなたがどうなるかは、やってみないとわからない。」

「もしかして....母様とおんなじ?」

橙子は頷いた。

「明日、私と秋姉様の型を調べるわ。

その後は隆ちゃんと遙義兄様を。結果が出るまでは免疫抑制療法をする。

入院は三日後。それまでは家でよく休んで。

このパンフレットの荷物を持って、三日後の九時に受付に来てね。質問はある?」

「俺はないです。夏夜は?」

「大丈夫。」

「じゃあ、今日はもう終わり。帰っていいわよ。」

夏夜の荷物を持った隆につかまって病院を後にした。


橙子はいつまでも見送っている。

「ねぇリアム、私...うまく言えたかしら?」

「パーフェクトだったよ。」

そう言って橙子の髪を撫でた。


帰りにちょっとだけ海に行きたい...

車に乗ると夏夜が言う。

「あ、でも仕事だね。ごめん、ちょっと混乱してるみたい。

今度連れて行ってね。それから、秋のお彼岸にも。

多英子ママと約束してるの。お彼岸のお昼前にお墓の前でって。

美味しい和食屋さんに連れて行ってくれるんだって。隆も行けるといいな。

いっぱいお花買って行くの。それに、多英子ママにも…話さなきゃ。」

「仕事、早く終わらせて帰るから。たっくさん花買って、お彼岸も行こう。

海もコテージも…クロにも会いに行くんだろ?」

そう言って夏夜をギュッと抱きしめた。

「行くところいっぱいだね。早く治さなくちゃ....っ」

隆の腕に掴まって、明るく言ったけれど涙があふれてきた。

五年でも三年でも短かすぎる。

二人で旅行にも行ってない。

綾女のいるドイツにも。匠と綾女の結婚式だって…

行きたいところ、やりたいことは留めどなく出て来て...

抱き合ったまま、昨日とは違う涙を流した。


 隆は仕事を淡々とこなすようになった。

残業もかなり減った。まだ一年生だ!なんて笑う人はもういない。

帰宅して夕食が終われば、夏夜と風呂に入って背中を流し合う。

時々夏夜に触れて。

それは日に日に優しい手に変わった。

バカップルでもなんでもよかった。


 なんとか大学の卒論はできそうだ。

時々怠い時があるけれど、点滴をしていても病室でPCを使える。

入院の荷物には卒論のための本も入れた。

他の学生と違って、フィールドワークに出かけることはできなかったが

エラに言われて書き続けている例のノートを、文献と照らし合わせた研究が卒業論文として使える。

被験者は自分自身。

他人を使うより、自分を外から見ることは難しい。

比較検討を誰にインタビューするか考えていた。

やっぱり....あの人しかいない。

旭ちゃんにメールアドレスを聞いてもらって頼んでみよう。

それまでにインタビュー内容をまとめておかないと。

点滴を一日眺めて気が滅入るより、ずっと有効な時間だ。

たくさんはない自分の時間。

やりかけたことは完成させたかった。


 秋華と橙子の骨髄の型は夏夜と一致しなかった。

明日の夕方、隆と遥と匠も検査を受ける。

綾女はドイツから橙子に検査結果を送ってくれることになっている。

橙子は検査の結果が出るたびに、心の端っこが削ぎ取られて行く気がする。

ドナーバンクに登録をしても、タイミングよくドナーが見つかることは多くない。

結果を伝えるたび、夏夜はまだ自分は元気だと笑うが、その後で落胆し泣いているのだって知っていた。

点滴は本当に気休めにしかなっていない。

確定診断から治療の進展のないまま、夏夜は卒論を書き終えて自宅にいる。

隆の仕事は、海外の休みに合わせて、クリスマス前の今が一番忙しい。

そろそろ、イルミネーションがつく頃だ。


 その日は隆が少し早めに帰宅した。

出迎えに階段を降りると、隆の後ろに人影があって、ぴょこんと顔を出したのは綾女だった。

「ただいま!!夏夜!」

夏夜は目を大きくしたまま、呆然としている。

「まあ、綾ちゃん!お帰りなさい。いつ帰ったの?」

苑子が先に声をかける。

「お久しぶりです。苑子おば様!実はついさっきなの。」

「綾ちゃん、お上がりなさいな。お夕飯まだよね?一緒にどうぞ。ほら、夏夜ちゃん!」

苑子が夏夜を促す。

押されて一歩前に出た夏夜を綾女が抱きしめる。

「半年長かったぁ!会いたくて空港から真っ直ぐここに来ちゃった!」

「綾女ちゃん...」

夏夜の目からポタポタと涙がこぼれる。綾女だって同じだった。

隆も苑子も笑っていた。

「夏夜、具合は大丈夫なの?」

「うん、大丈夫。綾女ちゃんの顔見たらもっと大丈夫!」

匠から夏夜のことを聞いて、心配で心配でたまらなかった。

でも、今の夏夜は前と変わってない。

笑ってケーキを食べて、隆ともラブラブのままだ。

いや、隆は変わったかな。なんだかすごく大人っぽくなった。

それでも、この時間がずっと続くのではないと匠に聞いていた。

「明日の夜、恒例のところ行かない?」

「あ!行きたい。けど隆がいま忙しくて....」

夏夜が隆を見た。

一方、綾女はジロリと見る。

『断ったらどうなるか、わかっているでしょうね?』

隆は綾女の視線に気がついて笑っている。

「ガツガツ頑張って、なんとか定時までに終わらせるよ。」

「本当に?」

夏夜はパッと顔を輝かせた。

「隆はムリしなくて良いわよ。三人で行くから!ね?実はディナーも予約してある。」

綾女らしい言い方だった。

「絶対終わらせる!」

綾女、夏夜を心配してここに来たんだな。

春江さんを送りがてら綾女も帰って行った。


新年中旬まで綾女は日本で過ごすらしい。

年末休暇に入った後、ジムで夏夜の体のことを聞かれた。

「単刀直入に聞くけど、あとどのくらい大丈夫なの?」

橙子に聞いた通りに伝えた。

「あっという間だわ。私ね、留学を少し短くしようと思うの。」

「ありがたいけど、夏夜はどう思うかな.....」

綾女の大切な機会を、自分が奪ったと思わないだろうか。

夏夜のことは自分だってわかるよ。そんな眼差しを向けてから切り出した。

「実はさ、なかなか出来がいいわけなのよ、私って。一年でかなり業績出したの。それで留学を少し早く切り上げようかって、あっちのボスと家も話してる。もちろん、たくとも。」

「さすがだな綾女。そういう事なら喜ぶよ。」

「でね、なんとなくさ、結婚式、見せたいんだよね。」

「サンキュ、夏夜もきっと見たいと思う。」

「じゃあ決まり!休暇明けに戻ったら相談して、連絡するね」

「夏夜に話しても良い?」

「明日、私とたくが隆んちに行くから、自分で話す。」

「わかった。」


綾女の報告を夏夜は嬉しそうに、遅く帰宅した隆に話してくれた。

「でも、ドイツに行く機会は無くなっちゃうかなぁ」

そんなことまで呟いている。

「綾女が帰国したって行けるよ。」

そうは返したけれど、いつか…動けなくなる前に、連れていきたいな。

綾女は休暇中ほとんど毎日、家に来てくれた。


 今年の年始の行事も賑やかに過ぎた。

年明けになって綾女がドイツへ戻る日には、一緒に空港まで見送りに行った。

「待っててね、夏夜。絶世の花嫁御寮を見せてあげるから!!」

綾女は、元気に手を振ってゲートへ消えて行った。


 暖かくなってもまだドナーは見つからない。

最近また貧血の症状が出やすくなっている。

二人の夜を過ごした後や、義母との買い物から帰った翌日に疲れが抜けず、目眩を起こすこともあった。でも「普通」に居たかった。

そうしてほしいと家族に伝えた。


相変わらず検査はこまめに続いていたが、今日はこれから輸血をするという。

「輸血?…今から?」

「うん。血液の成分の一部だけど、私の部屋でもいいから。ね?」

伝い歩きを始めた飛伍も、保育園から橙子の部屋にリアムが連れてくるらしい。

「病室でいいよ。飛ちゃんがびっくりしちゃう。それに橙子姉様も早く帰ったほうがいい。こんな事は...これから増えるんでしょ?」

「…じゃあ、輸血をはじめて落ち着いたら、帰るから。」

リアムに抱えてもらって輸血を始めた。今日の注射針は一際大きいらしい。

血管に入っても異物感がひどくあって、想像するだけで気分が悪くなりそうだ。

抱えてもらうのは、やっぱり隆がいいな。


今夜と明日、部分輸血をして明後日には帰宅できる。

橙子は何も言わないが、自分の状況が良くない方へ進んでいるのは肌で感じていた。

ジタバタしても仕方がない。

けど、早く綾女ちゃん..帰ってこないかな。


仕事帰りの隆がプリンを買ってきてくれて、一緒に食べた。

腕に流れ込む液体を、できるだけ見ないようにした。

今夜、泊まってくれると聞いて自分でもびっくりするくらい安心した。


でも。

翌日の輸血はできなかった。

輸血の副反応で体には蕁麻疹と倦怠感が出ている。それに発熱も。


夜半から背中を痒がって、スタッフに見てもらうとあちこちに赤く腫れていた。

橙子の指示で抗アレルギー剤を投与して、蕁麻疹が落ち着いても、熱は下がらないまま。

夏夜は見るからにぐったりしている。

気丈に「仕事に行っていいよ」と言ってくれるが、一人にするのは偲びない。

橙子が秋華に連絡してくれて、日中は彼女が来てくれることになった。

「出来るだけ早く帰ってくるから。秋さん、なにかあったらオフィスにお願いします。」

「わかったわ。いってらっしゃい。」


「まだ痒いの?背中。」

秋華が聞く。

「うん。でも夜中よりはよくなった。それよりね、隆がほとんど寝てないの。」

「今日は遥といっしょなのよ。うまくフォローしてくれるわ。少し背中摩ってあげようか。」

夏夜の背中を秋華がそっと摩る。

少し痩せたみたい。

「秋姉様の手って柔らかいね。いい気持ち。」

蕁麻疹の薬の作用で夏夜は少し眠そうだ。

それに眠っていないのは夏夜だって一緒だし、まだ熱もある。

「なにか欲しいものない?」

「スポーツドリンクみたいのが飲みたい。」

「買ってくるね。」

ナースコールを夏夜の手元に置いて、院内のコンビニに行く。

買い物を終えると、店先で橙子が待っていた。

話しながら部屋へ戻る。

「予想より速いの…夏夜。昨夜の症状だと、ドナーが見つかって移植ができても拒絶反応が強いかもしれない。」

「…痩せたわね。橙子。」

「私?そうかしら。」

「あなたが医師で良かったって思うのは三度目ね。

でも、橙子にも飛伍もリアムもいるのを忘れないように、ね?」

長姉らしい言葉だが、秋華だって元気がない。

「姉様も人の事言えないでしょ?」

「ふふ、そうね。私も悔しくて眠れないわ。」

「お昼、夏夜の部屋で食べない?外のデリでお弁当買ってくるから。」

「うん。」

姉妹はエレベーター前で別れた。


 飲み物を飲むと、いくらかほっとしたらしい。

昼前からウトウトしはじめた。

秋華は本を読みながら、橙子の昼休みを待っている。

やがて、橙子が昼休みに部屋に来ても、夏夜は眠っている。

夕方からは、隆が来るまで橙子が夏夜のそばにいた。

秋華は二人の子どもを保育園に迎えに行きがてら帰っていった。

遥からメールがあったみたいだから、あと少しで隆もくるだろう。

夏夜の熱は微熱になっていた。


 都合四日、入院して帰宅した。

迎えは苑子が来てくれて、その後は寝室で横になっている。

天井を見ながら思う。卒論提出しておいてよかった。

あとはできること、なんだろう。

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