第20話 たいせつな人へ

 庭の白木蓮がほころんできた。

「クッキング」から夏夜が目を逸らすことはなくなり、緊張した雰囲気も落ち着いている。

しかし。

最近の隆は、かなり困っている。

夏夜の質問が多いのだ。

いわゆる夫婦の時間の内容に。

知識、技術のノウハウは四家の総代候補は手解きを受ける。

これも、昔からの習わしで、長い経験から生まれた極秘のシステムだそうだ。

昔と違って全ての実技とまではいかないが、かなり濃い内容だから、隆、匠、彩女はセックスに対してかなりオープンである。

総代候補以外の子どもには適応されないことだから、学校教育の保健体育レベルだろう。

当然のことながら夏夜も。

それこそ、恋にのめり込むくらいならちょうど良かったはずだが、恋に構っている暇がないのが夏夜の思春期だったから、耳学問と乏しい実技は全くもって連動していない。

確かに、隆は何でも聞いてほしいと言った。

相談してほしいとも。

始まりはクッキングの夜。

トレーニングの後、匠達と大笑いして、イライラから開放されたせいか、隆は夏夜に触れたかった。

浴室に居る夏夜に声をかけた。

「夏夜、今夜いい?」

「うん」と言ったのを確かめると、すぐに夏夜をベッドに運び込んで夏夜の鼓動と体温を確かめていると、夏夜が呼ぶ。

「ん?」

「り、りゅ..たちは胸に感じないの?」

「たちって…男がって事?」

夏夜がコクリと頷いた。

「感じるよ、俺は。」

「そうしてほしくないの?」

止まって考えてしまった。感じるのにどうしてだろう?

夏夜に押した倒されたことがないからか?

そもそもして欲しいのか?

それからの夏夜は素直に色々と聞いてくる。

「我慢できない時は?」

はじめは生真面目に解説していた。

質問は続く。


 モゴモゴと最近困っていると匠達に話すと、大笑いした上に綾女など

「夏夜にやってみて貰えば?」と言う始末だ。

とにかく雰囲気はぶち壊しだ。困り果てて

「橙子さんに実況中継と解説してもらうようにお願いしてみる?」

そこまで言って、やっと大人しくなった。

流石に嫌か。

「うん」って言われたらどうしただろう。

なんにしても、自分とのコトが苦痛なら会話にすら出したくないはずだろうからと、考えることにした。


 帰宅すると、綾女が来ていた。

父母が不在のリビングで、夏夜と頭を突き合わせている。

「ただいま、綾女来てたんだ」

夏夜がちょっとあわてている。

「綾女、また余計なこと教えてる?」

二人の間のタブレットには、件の漫画サイトが開かれている。

「あ、おかえりー。お邪魔してまぁす。」

チラッと隆を見遣った綾女は平然としている。

「なんか質問があった?夏夜ちゃん」

夏夜を子どもの頃みたいに呼んだ。

「知りたいことは知った方がいいでしょ?怪しげなネット記事よりきちんと解った方がさ。」

綾女がドギマギしている夏夜の代わりに答えた。

「まあね。」

そう言ってポットの紅茶をカップに注ぎ、二人の前の席に座った。

「隆、ここにいるの?」

夏夜は困ったように言う。

「だめ?奥さんに綾女がどんなことを教えるのか知っておきたいし。」

隆が肘をついてニッコリして言うと、夏夜の前に綾女が答えた。

「いいわよ。隠すことなんかないし。変なことに使うわけじゃないもの。それに隆はいーっぱい知ってるから平気よね。

じゃあ、さっきの続きね。で、これはオーラルセックス。

男性が女性の性器、陰核と膣口を口を使って愛撫することよ。それで、これの女性版はえーっと、あ、この話だ。

この行為の注意点は敏感な部分に触れること。

あとは、どちらかの口やその周辺の感染症がある時にもNG。相手にうつしちゃうからね。」

「周辺?」

「うん、唇とか舌。代表的なのはヘルペスかな。カンジタも。お産や胎児にも影響すんだって。」

「.....この漫画では姿勢も違うけど、お互いするもの?」

「そう言う時もあるけど、別々でもいいの。

まあ、どれもそうだけど、お互いの好き嫌いはよく尊重しなくちゃね。

それに、陰核や陰茎は触れば反応することがある。けど、体が反応したからって、絶対本人の心も喜んでいるとは限らないでしょ?こんなのは漫画だから都合よくだしね。

男性へのやり方は、隆担当ね?急にはダメだよ。順番があるからよく習って?」

「そっか。あ、でも、ほらここみて....」

「んーこれは明らかにレイプよねぇ。漫画だからっていうのはあるけどさ。こういうのは作者や雑誌のモラルの問題だよね。」

こんなふうに講義は進むのだった。

隆がいることで、オロオロしている夏夜はとても幼く見えた。

反面、綾女はある意味淡々と事実を話して、教師然としていて頼もしかった。

うん、まあ任せていいや。効果の程は別にしても。俺の担当まであるのには、こっちが赤面しそうだし。

二人をリビングに残して、ジムに行く準備をする。


「これからジムに行くけど、綾女はどうする?」

「行く行く!夏夜も一緒に行こう」

三人でジムに向かい、そのままカフェに来た。

今日、父母は夕食も済ませてくるから、春江さんも休みだ。

このまま食事もしてこよう。

幼馴染み四人で食事に行くのは久しぶりだった。

「それで、夏夜のお勉強は進んだ?」

匠が綾女に聞く。

「たくちゃんにも話してるの?」

目を大きくした夏夜が焦っている。

「そ!ほら、15歳で私たちは手解きを受けるでしょ?だから平気よ。」

「隆もたくちゃんも...」

「そうなの。あんまり内緒の話でもなかったりする。

だから、質問は隆じゃなくてもいいのよ。

隆はかえって夏夜を神聖化しちゃてるところがあるし、セックスの時にあんまり喋られるとムードもないしね?」

「ムード...」

ぽつりとこぼした夏夜に、匠が説明する。

「そうだな....お笑い番組が大音量で響く中とかでは、どう?」

「..やだ」

隆に、かなりやらかしていたようだ。

「な?好みにもよるかもしれないけど、そういうことも隆と相談するの。」

「聞いていいものかな。」

「いいんじゃない?ここで話してるんだし、もう二人で実践もしてるんだから。

普段はこんなとか想像するのもいい。まあ、たまには違う雰囲気もいいから。

場所、時間、明かり、体位、いろいろ試してみたら?」

「いろいろ....体位って」

考えながらだんだん赤面してきている。

火がつくみたいに真っ赤になった。

もうこの話題はやめた方がいい。


 匠と綾女を送って帰宅した。

家には明かりがついている。父母が先に帰っているようだ。

ちょっと助かったと思った。

「お帰りなさい。エラからメールのアドレスを預かってきましたよ。この間、渡しそびれたって。ここに連絡して話す日を決めるましょうって。」

なぜなぜ期の夏夜には良いタイミングだ。

俺は期末考査のレポートも書かないといけないし。


 水曜日。夏夜はエラの話を思っていたより興味深そうに聞いていた。

エラは臨床心理士の国際ライセンスもあり、大学の教授職までしているから経験も知識もそれは豊富だ。

何度か話をするうちに夏夜が抱えている問題...自己価値観の喪失、不安を把握していた。

この子が、月嶋の将来を隆という夫と担うことを考えれば、これらの問題は解決しておいた方がよさそうだ。


 夏夜は子どもの頃から、息子たちが嫉妬するくらい出来の良い子だった。

学業もお稽古も仕事も。

息子はこの幼馴染み夫婦を、何くれとなくサポートしてきた。

夏夜がトラブルにあってから、それまで大人なりかけ特有の生意気さを前面に出していた匠は、時々エラに相談してくれるようになった。

今回も、大学に(というか外の世界に)行くことを躊躇う夏夜を心配していたので、自分が少し話をしてみようと持ちかけた。


 神崎の家はとても早い代変わりがあって、今は夏夜の姉が総代を務めている。

最近では、異例の若さだったと夫から聞いている。

四家の古い家柄はそれぞれに役割が決まっていて、役割にちなんだ事業も持っている。

神崎がダメになったから、他の病院でいいとする訳にはいかないのだ。

秋華は、父の役割が遂行できることを他家の総代にも神崎の親族にも、必死に示さなければならなかったから。

秋華の厳しさは夏夜もむけられていたし、彼女に仕事でも才能があるとわかる周囲の期待も大きくなった。夏夜はその期待に十分に応えてきた。

浮ついている時間はなかっただろう。

それほどに努力をしてきたのに、一瞬で期待も努力も消えてしまった。

古い家が柵を抱えているのは、自国でも日本でも一緒だ。

夏夜が大急ぎで月嶋隆に嫁いだ理由も知っている。

事故と不自由な体、襲撃と、彼女は心身ともに受難続きだ。

エラは内心、夏夜の心が押しつぶされるのではないかと気になっていたから、息子を通して情報を得ていた。

橙子とも連絡は取り合っている。

しかし、話始の会で久しぶりに会ってみると

夏夜は美しくなっていた。

少女から女性になりはじめたばかりの、少ない時間のなかにいた。

夫は隆を褒めていたが、エラは夏夜の心の強さに感動していた。

夫に愛されたからだけではない。ましてや着物の問題ではないのだ。

ここまで、夏夜が過酷な体験を受け止め、昇華させてきたのか。

エラの探究心はくすぐられる。


 夏夜とは水曜日エラの予定が空いている時に、息子たちがよく立ち寄るカフェで会うことになった。

夏夜は苑子と一緒にカフェに来ていた。

夏夜が一人で待っているのを、苑子が気遣ったのだろう。

苑子はいつも通り和装で、夏夜は淡いブルーのワンピースにマスタード色のカーディガン。

まだ夕方には冷えるからタイツだ。このくらいの厚みがあれば足の深い傷跡も隠れる。

三人で世間話をしている。

「橙子達は元気?初始の会でリアムを紹介してもらいました。彼と話したわ。フランスで橙子と出会ったそうね。」

「私も最近知ったの。橙子姉様、何も言わないから、驚いた。

リアムのお祖父様たちはシリアの出身で、内戦から逃れてフランスにきたそうです。リアムはお祖父様から当時の話を聞いて医師を選んだって。」

「そう。シリアでもフランスでも、とても苦労をしたのでしょう。

昔も今も、あの国ではたくさんの人亡くなっています。

大人もこどもも.....悲しいことだわ。

リアムは脳神経外科のプロフェッショナルですね。夏夜、心理学と脳は関連があります。」

「心と体は共鳴する?」夏夜が言った。

「それは私の本で読んだのですか?」エラは嬉しそうに目を瞠った。

「お義母様に教えていただいたの。エラおばさまの本」

「エラがどんなにすごい人か知ってもらいたかったのよ。」

「まぁ、苑子!」

大きく手を広げて義母に抱きつくエラは可愛いくらいだ。

エラと一緒だと、夏夜の知っている苑子とは違って見えた。

二人とも夏夜の知らない顔をたくさん持っている。

それを知っているのはほんの少し、嬉しかった。

        

 エラと話をするようになって、夏夜は母のことを思い出すことが多くなった。

一番印象に残っているのは、葬儀の時。

血色もぬくもりもない母に、みんなが白い花を手向ける。

怖かった。

そんなに花を入れたら、息ができなくなっちゃう。どうしてそんなことをするの?

淡々と入れられる花を、夏夜は恐ろしい思いで見ていた。

馴染みの薄い姉様たちは怒っているみたいに黙っていて、夏夜は誰の側にいれば良いのかわからなかった。

母様は亡くなる前に、これからは秋華の言うことをよく聞くように言っていたから、取りあえず秋華の近くにいたが、親しみを感じられないまま日本に来た。

まだ幼くて、姉たちが母を看取れずに悲しかったとは考えもしなかった。 

日本に来ても母と一緒にいた時のことばかり考えて過ごしていた。

『ここは自分の場所じゃない。』

時間が経って姉たちと打ち解けると、今度は姉たちの悲しさが自分のせいではないか、と考えるようになってしまった。

もしかして、母様は私を産んだから病気になったのかな。

姉達から母を奪ってしまったのかもしれない。

だから、夏夜が秋華や遥の期待に応えるのは、母を独り占めにしていた償いでもあった。

はしゃいでいる苑子とエラを見ているうちに、無性に母のことを聞いてみたくなった。

あまり思い出は多くない。

母にもこんな友人がいたのだろうか。

二人は母と親しかったのだろうか。

それを口にしてみた。

苑子はおっとりと答える。

「鹿乃子さんは私よりひとまわりくらい年上よ。でもよく知っていたわ。」

「苑子は鹿乃子に憧れていたわね?」

びっくりした。お義母様が母様に?

「あら、それはエラもでしょう?素敵だったのよ。鹿乃子さん。秋ちゃんは話さなかった?」

「あまり。私が産まれてからのことは聞いたけど、若い時のことはほとんど聞いてないの。」あまり聞いてはいけないと思っていたし、、

「そう。私は小さい頃から知っていて、エラは結婚して初めての初始めの席よね。」

「ええ、とても親切な人だと思いました。それに語学が得意でした。フランス語、ドイツ語、スペイン語。もちろん英語も。だから私たちはすぐに仲良くなれました。」

「知らなかった。スイスでも言葉に困らなかったけど、そんなにたくさんとは思わなかった。私が知っている母はいつも優しかったけど...ちょっと元気がなかった。」

「そうね。お身体のことがあって、あちらに行ったし。あの頃、秋ちゃんが跡を継いだばかりで、心配もあったでしょう。まだ高校生の秋ちゃんに、家を任せるのは申し訳ないって一度手紙をくれたわ

ご自分の体さえ丈夫なら、違う選択もあったのでしょうね。」

「そう...また聞いてもいい?父様のことも?」

「じゃあ、たまに私も仲間に入れてもらって女子会にしましょ!」

エラは夏夜を見つめている。

「夏夜、私たちが会う時は、あなたが思うことを話してもいいし、聞きたいことを聞いてもいいのです。遠慮はしないでください。それから自分を責めることはやめましょう。」

「そうよ。夏夜ちゃん。秋ちゃんも橙子ちゃんも、あなたを責めていたことは一度もないのよ。ただ、まだ親が恋しい年頃だっただけ。」

ドキリとした。

まるで心の中を見透かされたみたい。

夏夜の自分への評価の低さは、空港でのトラブルから始まったことではない、とエラは確信した。

母や姉達とのことを語る時に、夏夜がふと見せた表情。母親の話を聞くことすら、申し訳ないような顔をして。

彼女は姉達から母を取り上げたと思うのだろう。だから、期待に応えることだけが縁だった。

以前の夏夜は、自信と言う鎧を背負っていた。

外からは見えない重くて硬いものを幾重にも。

ただ、自分であればいいとは思えずに。


 あれから夏夜とは何度も話している。

エラは時間をかけて、自身のことを客観的に見るためにも、心理学は役に立つと伝えてきた。

彼女には、何事も任務に結びつけて考える癖があり、その癖を直さないとこれからの生活に行き詰まってしまうだろう。

生真面目さが更に拍車をかけている。

決して秋華達のせいではない。

人生には、誰がどうもがいても、転がってしまう時がある。

全てが仕組まれたみたいなタイミングで。

研究者として口に出すことではないのだろうけれど。

夫の隆も、匠も綾女も夏夜にとって良い相談相手だ。

でも勝手に転がってしまうというケースを、夏夜が知るためには親過ぎる。

一歩離れたところのケースを見ることが、今の夏夜には大切なのだ。

最も良いのは、背景が色々である同年代のものと交流すること。

手っ取り早いのは学校。

だが、隆が進学を促しても、夏夜はなかなか承諾しないらしい。

夏夜に必要なのは、ただ彼女を大切だといってくれる人。

隆はもちろんだが、恋愛を含めない距離にある人の方がいい。

誰かいないだろうかと、夫に相談した。

夫は顎を撫でていたが、少し心当たりがあるという。

夫から縁故のものに話してみようといってくれた。

「どなたですか?」

「僕が考えているのは津島君だよ。」

「...亡くなった方?」

「うん。傍目に見ていても、彼は夏夜を娘のように可愛がっていたからね。」

父母がおらず、跡を継いだばかりの秋華夫婦は多忙な毎日。

橙子は海外にいて、なかなか会えない。

神崎の父代わりを津島はかって出た。

彼にも子どもがいなかったから、遥の教育のそれとは違って、単純に夏夜を可愛いかったのだろう。夏夜もよく懐いていた。

津島と仲の良かった、月嶋の部下の奥井が、夏夜が来てから、津島は酒の付き合いが悪くなったとこぼすほど。

「ですけど、亡くなった方だわ?」

「今日明日には連絡してみよう。

ちょうど良い時期だから。ではね。」

夫はそういうと出かけてしまった。


 秋華夫婦と隆は彼岸の墓参りにきていた。

ここには神崎と縁の者の墓がある。

月嶋の墓参りは、昨日義父母と済ませている。

墓の周りを姉と掃除して、買ってきた花を生ける。

他の墓にも線香をあげていく。

例年のことだが、大仕事だ。

津島の墓に、夏夜はより念入りに手を合わせていた。

姉夫婦が立ち上がる気配がして、顔をあげた。

藍色のワンピースの女性がゆっくりと歩いてくる。

ほっそりとしたまとめ髪のその人は、手に大きな花束を抱えている。

遥が駆けていって、花束を持った。

夏夜はそっと顔を背けた。

秋華は眩しそうに女性を見ている。

津島の妻、多英子だった。

「多英子さん、元気でしたか?」

秋華が多英子を抱きしめた。

多英子も微笑むと秋華の抱擁を受け入れていた。

「お呼び立てして、ごめんなさい。」

多英子はにっこりとした。

「どっちにしても、毎年くるからいいの。

月嶋さんもお久しぶりです。夏夜さん、綺麗になって....毎年お線香をありがとう。津島も喜んでいてよ。」

そういって、自身も夫の墓に手を合わせた。

遥が無造作に生けた花を軽く整え、では、いきましょうか?と立ち上がった。

五人で寺近くの甘味屋に入ると、予約していたのだろう。個室に通された。

多英子はあらためて夏夜をしげしげと眺め、

「本当に綺麗になられたわ。お母様に似てらっしゃる。」などど話している。

一方、夏夜は多英子と目を合わせらず、隆の後ろに隠れるように縮こまっている。

「夏夜さん、今日の私は津島の名代なのよ。」

不思議な事を言った。

秋華も遥も黙っていて、この場は多英子に任せるらしい。

抹茶と季節の生菓子が運ばれてきた。

優雅な手つきで抹茶を口にすると、多英子は袱紗に包んだものをスッと夏夜へと滑らせた。

「夏夜さん、いえ、今日は前のようにかやちゃんと呼ばせてね。」

夏夜が俯いたまま「はい」と答えたのを待って多英子が続ける。

「随分と遅くなってしまったのだけど、これは夫、新からの贈り物です。

どうぞお納めください。....当時のままお渡しします。

その方がきっとわかってもらえるから。ね?開けて見て?」

夏夜はしばらく迷っていたが、秋華に促されて袱紗を開いた。

赤茶けたシミがついた包装紙は、少しひしゃげている。

そのシミは血液だと隆も気づいた。

おずおずと夏夜が包装紙を開くと、ベルベットのケースが出てきた。

宝飾品を入れるその端にも、赤茶けたシミは滲んでいた。

中には真珠をあしらったネックレスが収められていた。

「これ....」

「二年前、新が貴女に渡したかったものなのよ。こんなに時間がかかって、ごめんなさいね。でもやっと...お渡しできました。」

「二年前.....?」

「ええ、二年前。

任務の後、これを渡すんだって。胸のポケットに入れて出かけたの。

あの人は、優しいけど無骨な人でしょう?

これに決めるまで、夜も眠れないくらい悩んでね。結局、私も一緒に探しに行ったの。

この石なら、いくつあっても女性は困らないから。そうしたらね、今度はちゃんと渡せるかなだって....だから言ったのよ。もう照れる年でもないでしょ?って。」

多英子はうふふと頬に手を当てて笑う。

優雅でちょっと悪戯っぽくもあった。

「パパからならよろしいでしょ?って言ったら、やっと出かけて行ったわ。」

空港の任務翌日は夏夜の十八歳の誕生日だった。もう一人前の女性ですもの。それなりのプレゼントがしたかったに違いないわ。

「でも....私のせいで..」

涙のこぼれる夏夜を、多英子は微笑んで見つめている。

そっと手をとって

「津島を生かしてくれてありがとう。」

そう言った。

「..生かす?」

黙っていた秋華が口を開いた。

「夏夜、あなたの左目は津島からもらったの。」

無言で夏夜が左の瞼に触れる。涙を流したまま目は大きく見開かれている。

「パパから...」

「そうよ。あの時、あなたの左の角膜は砕けた破片で損傷が大きかったの...多英子さんが申し出てくれたのよ......」

遥が秋華のあとを引き継いだ。

「倫理的には移植ドナーは明かさないが。今回は、とある人の希望でね。」

「あのね、かやちゃん。私には....新が照れながら、あなたへの贈り物を持って出掛けた日の、幸せそうな後ろ姿が残っているの。大切な宝物なの。

新の目が残れば、かやちゃんがネックレスを身につけた時に、その姿をみることができると思ったの。」

「ごめん...なさい...」

夏夜は畳に突っ伏して泣いている。

その背中をゆっくり擦りながら、多英子が続けた。

「あれからかやちゃんには、いろいろあったでしょう?

いつかと思いながら、こんなに時間が経ってしまったわ。

あの人をパパって呼んでくれたかやちゃんだったから、私と会うと辛いかと思って....でもねぇ、これだけはお伝えするわね。

彼はあなたが生きていて、あなたと共にいられて嬉しいはずよ。」

「た..多英ママ...と...いられなくなっ..たの..に?」

「そうねぇ、そこはちょっと津島が迂闊だったわね。けど私は、彼の一部を他でもないかやちゃんが引き受けてくださって、本当に感謝してるの。

ねぇ、かやちゃん。パパの目に、これからもたくさんいろんな景色を見せてあげてくれないかしら。隆さんと。」

夏夜にはもう声がなかった。

多英子に抱きついて何度も頷いていた。


 冷めた抹茶を飲んで、秋華と遥は多英子を送って行った。

隆と夏夜も帰宅の途に着く。

別れ際、多英子が夏夜を抱きしめて「また、会いましょうね」と言っていた。


 助手席の夏夜は泣き止んだねものの、真っ赤な目をして、何かの弾みでまた泣き出してしまいそうだった。


「少し、寄り道しようか...」

「うん..」

「しばらくぶりに海でもいかない?」

「うん」

高速に乗って海を目指した。

長いトンネルをいくつか抜け、山を超えると前方に海が見える。

次のインターで一般道に降りれば、間もなく海岸につく。

ここは隆がよくバイクできたところだ。

ふと、助手席をみると、夏夜は目の周りを赤くして眠っていた。

『疲れただろうな。』

きっと、多英子さんはずっと夏夜を思っていて、今日来てくれたに違いない。

目のこと、津島の思い。多英子の思い。

夏夜の膝の上には、例のケースが片手を添えて置いてある。

駐車場には入らずに、フロントから真っ直ぐに海が広がる場所を選んで車を止めた。

夏ならこの辺りも人出が多く駐車規制も厳しいが、春の彼岸ではちらほらとサーファーが見えるくらいだ。

隆もこの景色は久しぶりだ。去年なんて来る暇もなかった。

夏夜の手からケースをそっととる。

ケースの端の血の跡を撫でて、ゆっくりと蓋を開けた。

繊細なゴールドのチェーンの先に真っ白な真珠。

留め具には、ひっそりと誕生石のルビーがあしらわれていた。

「魔除け、情熱、愛.....か」

夏夜のための世界で一つだけのもの。

シンプルな作りだが、津島の想いが詰まっている。

ネックレスをケースにしまいながらぽつりと呟いていた。

「大丈夫...きっと幸せにするから」

フロントガラスの真ん前を、カモメがヒュウと横切っていった。


 目が覚めると眼前には海が広がっていた。

車の揺れが心地良くて眠ってしまったらしい。

隆は本を読みながら、眠ってしまったようだ。

手に本を持ったままだ。


外は波の音しか聞こえない。

誰もいない海に、波はただ寄せては返すだけだ。

多英子の言葉を思い出していた。

『生かしてくれてありがとう。』

「パパ、多英ママ...隆も姉様たちも。ありがとう...」

「どういたしまして。」

眠っていると思った隆が返事をした。

声を出した自覚がない夏夜は、一瞬キョトンとして、それから一回パシン!と隆の腕を叩いた。

「イテッ!!」

大袈裟な素振りをする。叩いた夏夜の手を握って手の甲ををポンポンとした。

「海岸行こう。」

裸足になって、夏夜の手を握って波打ち際を歩く。

一歩外に出ると、潮の香りが濃厚だ。

「すごく久しぶり。小さい頃、津島パパと一緒に海水浴行ったよね?」

「行ったなぁ。津島さん、俺たち四人に引っ掻き回されて。」

「うん。あの後ね、ヘトヘトだったんだって。一日休んだの、仕事。」

「お子ちゃま四人はそりゃね、あの時、津島さんが買ってくれたイカ焼き、うまかったな」

「そうそう、隆は二つも食べたよね。たくちゃんはたこ焼きと。」

他愛ない話をしながらゆっくり歩く。

足裏の砂の感触が懐かしい。

いまは亡い人の思い出は、限りなく暖かかい。

半歩前を隆が歩いて手を引いてくれている。いまは。

これからは、真横で手を握ってもらおう。

自分にできることを、ひとつずつやっていこう。

怖がるのはもう終わり。

確かに自分を思ってくれる人がいると、わかったから....

遅すぎってこと、ないよね?

かわいそうだけじゃないよね?

ゆっくり前に進めるよね?

大きなカモメが隆と夏夜の前を、導くように低く飛んでいく。

手には隆の体温が伝わって暖かい。


 義母の手料理でお腹が満たされると身体中が怠くなった。

海に行く途中で眠って平気だと思ってたけど、今日はいろいろなことがあったから...

少しだけ一人になりたくなって、自室のソファに背中を預けると、はぁとため息が出ていた。

少し頭が痛いかな、昼に泣いたせいだ。

目の奥までだるい気がして目を閉じた。


 ジムは休んだものの、習慣となっている事をしないとかえって落ち着かない。

軽くランニングだけ行くことにした。

もう中学から朝、夕には走り、ジムに行っている。

海から帰宅するとちょうど夕食時だった。

この後にジムでは明日に響く。

裏門からいつものコースに向かって、ペースを落として走った。

程よく汗をかいたのを見計って帰宅すると、真っ直ぐ寝室の浴室へ向かう。

夏夜は自分の部屋にいるようだ。

パジャマ代わりの古いTシャツを忘れたと裸のまま寝室に戻ると、入ってきた夏夜とばったり鉢合わせした。

「おっと!」

「きゃ⁈Tシャツ忘れたの?持ってくるね。」

目を逸らすと、慌ててクローゼットに行く。

「はい。これでいい?」

Tシャツを渡してはくれるが、手がギリギリ届くくらいに距離があって、目はそらしたままだ。

「.....なんで、そんなに遠いの?」

「だって、裸なんだもん」

「見慣れてんじゃん」

「そういうことじゃないの!」

「どう?俺の肉体美」

ポーズを取ってみせる。

「いいからお風呂に行かないと!風邪ひいちゃうよ」

照れているのが一目瞭然だった。

「はいはい。では、奥様!」

手を伸ばして夏夜を掴んだ。そのまま引き寄せて浴室へ連れ込んだ。

「風呂、まだだろ?」

「うん、でも...」

「わかってる。今日は何もしないよ。一緒の方が早く休めるだろ?」

「そう....かも」

夏夜の目の下にはうっすらと隈が浮いて、瞼も腫れていた。ランニングに行っている間に先に風呂入ってればいいのに。

何度一緒に入っても、かなり恥ずかしそうなのも彼女らしい。

隆が髪を洗っている間、先に湯船に入ってもらう。

「背中、流そうか?」

「あ、頼む」

手にしていた海綿を渡して、洗ってもらうと、隆もそうした。

惜しかったな、ちょっとだけ。ほんのちょっとだけ。

湯船につかって正面の夏夜を見ると、眠っていた。浴槽に体をもたせかけて目を閉じ、お湯に揺れてゆらゆらしている。

時々、頭がグラリと傾いてこのまま沈むのではないかと思うほどだ。

「おい、夏夜起きて」

「ん... うん」

両手を持って軽く揺するとすでに眠りは深くなりかけて、目を開けても、すぐに閉じてしまいそうだった。

なんとか立たせてバスローブで包むと、ベッドまで抱えていく。

「いい、歩ける」

とは言うが、目は半分しか開かなくて、抱えられるままになっている。

ベッドに下ろした時には眠りに入っていた。

バスローブで髪を拭いた。

『俺の奥さんはやれやれだ』

何もしないと言った自分を信じてくれたと思うと、胸の奥がサワサワする。でも嫌なそれではなかった。

安心して眠っている夏夜に、ちょっとだけ唇を重ねて、明かりを消した。

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