第18話 かえせない。
初始の夜から少しして、月嶋の家には久坂部のエラと匠がきていた。
苑子と同年のエラは、大学で犯罪心理学を教えている。この世界では著名である。
匠から、隆が夏夜の進学を心配していると聞いていたエラは、先日の会で夏夜は心理学に興味がありそうだと感じて、話にきたのだという。
四人でテーブル囲み、春江さんが作ってくれたクッキーをつまみながらの話だ。
「まだ大学で勉強するかも決まってないの。来ていただいたのに、ごめんなさい。」
「気にすることないよ。母さんは心理学に興味があるならって、オタク的に押し掛けただけだから。」
匠の軽口にもエラは容赦ない。
「お黙りなさい。興味を」持っている人に正しい知識を伝えるのに、何か問題はありますか?」
「いえ、ございません。」
匠も大人しく引き下がる。
夏夜を見てちょっと困った顔をした。
エラは透き通ったブルーグレイの瞳で、夏夜を見つめなから話す。
「夏夜、勉強は大学に行くことだけではありませんよ。専門の知識を持った人間と話すことも勉強です。心理学の話が嫌なら、それはそれでいいのです。日常の話をしましょう。
でも、もしあなたが心理学というものに興味があるのなら、どんな形でも勉強はできます。いかがですか?」
エラの話し方はいつも敬語だが、思いやりが伝わるものだ。
「この間お話して心理学ってもっと敷居の高いものだと思っていたから少し意外でした。人の心と視覚のお話は面白いと思ったの。」
エラは苑子が生けた真っ白な薔薇をみて
「薔薇を見て考えることは、人によって違いますね。
物語を考える人、
花の成分を考える人、
薔薇の品種を考える人。
考えたことによって行動は違ってきます。心理学は心と行動の学問です。」
そう説明してくれた。
「私の専門は犯罪心理学criminal psychologyです。
例えば、薔薇を見て行われた犯罪の背景に、どのような心の動きがあったのかを探るのです。背景をデータ化してその数が多くなれば、犯罪の傾向や犯人の内面に辿り着きます。わかりますか?」
苑子には、夏夜がエラの話に引き込まれているように見えた。
エラがこれまでも夏夜を心配していたことは苑子も知っている。
隆が夏夜の縁談に申し込みたいと、両親に伝えた時、苑子にも迷いがあった。
息子がトラブルへの責任や憐れみを感じて、幼馴染みを妻に迎えようというのなら、どこかで二人はすれ違う。
そもそも、夏夜は他の女の子より少々扱いが難しい子であったし、トラブルの後はさらに深刻だと思ったから、エラに相談したのだった。
彼女なら、きっと客観的な判断をくれるだろうと思ったから。
エラは、隆の責任感は夏夜が他所へ嫁いだらかえって後悔に変わるだろうし、息子の心の柔軟さはきっと夏夜の助けになるだろう。そう言ってくれた。
以前から息子は、夏夜に思いを寄せていたことだし、夏夜もきっとと思う節もあった。
それからのことをエラは匠を通して知っている。
ただ、周りが口を出すことを彼女なりに遠慮して、見守ってくれていた。
「ねえ、夏夜ちゃん。大学に行く行かないは別として、たまに...そうね、エラの時間のある時にお話してみるのはどう?
ここでも、他の場所でも。
話してみてもっと興味が湧くようなら、その先を考えるでもいいじゃない。」
苑子が促した。
「家のお手伝いが....それに勉強をしても、私には役立てるところがないと思う。」
『やっぱり。この子は自分の価値を見失ってしまっている。今まで全てを任務に結びつけていたから。』
苑子がため息を吐きそうになった時、エラが大きな声を出した。
「まあ、夏夜!!そんなことを考えているのですか?勉強の基本は興味です。
役に立つかどうかはまた別の問題ですよ。
勉強をするうちにわかることです。
匠は医学部にはいりましたが、医師になるかどうかは、人生の最後までわからないのですよ。」
匠は苦笑している。
「そう、今の俺は橙子さんのように救命救急のプロになりたいけど、実習でリタイヤする学生も多数。研究者やフリーターになることだってある。」
腕組みをして頷いている。
クールな匠がかえっておかしい。
苑子と目を合わせて笑ってしまった。
「あら、たくちゃんなら動画の配信とかできそうよね。少し前にこどもの憧れって言われてたでしょ?」
「苑子おばさま、それもあり!だとしたらどんなこと配信しようか?」
匠の話に、エラも笑っている。
「たくさん広告収入が入ったら、医学部の高額な学費を返済してくださいますね。その費用で私と苑子は、船旅でもいかがですか?」
「それはいいわ!!たくちゃん期待してる。船旅、どこがいいかしら。」
「そこに期待されて、費用は使われちゃうんだね。」
なごやかな会話のなか、夏夜は少し考えている。
興味が勉強の基本。
夏夜が遠慮がちに口を開いた。
「エラおばさま、お義母様が言っていたように、時々お話をしていただいてもいい?」
エラの瞳がパッと輝く。
「もちろんよ!嬉しいです。お話をしましょう!」
隆が帰宅した。
「お帰りなさい。今ね、たくちゃんとエラおば様がきてるの。」
リビングはさらに賑やかになった。
月嶋の家を辞して帰る道々、匠は母に少し照れ臭そうに呟いた。
「ママ、今日はありがとう。」
「匠、私がいま一番嬉しいのは、あなたが他人を思いやる人になったことです。医師になったらきっと素晴らしい仕事をするでしょう。あなたは私の誇りです。」
エラは誇らしげに匠を見ている。
こういうことを面と向かって言えるのは、外国で生まれ育ったからかな。
「そういう訳で、時々エラおばさまとの時間をもらってもいい?」
今日のエラとのことを説明している。
隆としては是非もない。
年配の春江さんを手伝ってくれるのは助かるが、家事をするために嫁いできた訳じゃない。
心から望んで家事をするのは構わないが、逃げる理由になっては困る。
何かのきっかけで、夏夜が前に進んでくれれば一番良い。
今時、女はこどもを産んで家に居ろ、なんて馬鹿馬鹿しい。
『あ、こどもか。まだ早いけど。いつかはね...』
「もちろん。俺がいる時なら、外行く時も送っていけるし。
エラおばさん、知識も経験も豊富だからいいと思うよ。」
「よかった。ありがとう。」
「でもさ...俺との時間が減るのは嫌だな。」
少し拗ねて見せた。
夏夜は洗濯物を畳む手を止めて
「おばさまも忙しい方だもの。そんなに長い時間じゃないよ?」
隆の顔を見上げている。
「なんて、冗談!」
隆はペロリと舌先を出して夏夜を引き寄せる。
夏夜は大人しく隆の腕の中にいる。
「夏夜、だめ?」
「...いいけど、洗濯物終わって、お風呂入ってから...」
「じゃあ行こう、洗濯物なんていつでもいいだろ?」
「えっ?一緒にって意味じゃなくて!」
赤くなって腕の中で慌てている夏夜を抱えて浴室に入った。
バスタブにお湯を入れ始める。
浴室の壁に夏夜を押し付けるように、唇を合わせる。自分の衣類を脱ぎ、夏夜のシャツも脱がせた。
「ダメ、まだ..」
「わかった...こうしよう..」
シャワーを出す。
背中に手を回してブラジャーのホックを外す。そのまま首筋に顔を埋めた。
少し甘い香りがした。
バスタブでは隆が夏夜の背中を抱えていた。
夏夜はぐったりと隆に体を委ねている。
こんな時間を過ごすのにも、少しは慣れてきたが、隆のくれる刺激は夏夜に抵抗する力を失くさせる。いつも脱力したみたいになって、朝のトレーニングに行く隆を、ベッドの中から見送ってしまう。
『隆にまだ聴けてない...』
橙子に体のことを聞いたと隆に話してからは、彼は触れているところや初めてのことをよく聞いてくれるのだ。
「大丈夫?」「痛くない?」
だから、安心していられる。
でも、隆は?夏夜にしてもらいたいことはないのだろうか。
橙子の説明はよくわかったけれど、実践的にどうすればいいのかわからない。
誰かに聞くのがいいのだろうけど、姉たちに「どうしてますか?」とは...
まさか、お義母様やエラに、という訳にも...もっと聞けない。
こんなことを悩むのはおかしいの?というより、皆どこで知って体験するんだろう。
「で、そこで私になるの?」
綾女は頭を抱えている。
「綾女ちゃんにだって恥ずかしいけど、他に聞ける人っていなくて...ご、ごめんね...」
消えそうな声の上に、夏夜は真っ赤だ。窓際の席、空いていて良かった。
「うーん...そうだなぁ。」
『具体的にどうしてるっていうのは、ちょっとねえ。かと言って、そんなの知らないって言ったら、夏夜は困り切って橙子さんに直接聞きに行っちゃいそう...それも橙子さんが気の毒。あ、そうだ!』
「夏夜、タブレット持ってるよね。明日、夏夜の部屋で教えてあげるわ。」
「タブレットでわかるの?」
「うん。ただ、タブレットで知ることは誇張や都合良さあるって頭に叩き込んでおいて。」
「うん...わかった。」
翌日、綾女は夏夜の部屋の床に座り、タブレットを操作していた。
夏夜も床に座り、固まっている。
「で、ここにパスワードで...登録っと。
中にはエグい描写もあるけど、気楽に楽しむくらいで見てね。
それから、昨日言ったことは覚えてる?」
ギクシャクと夏夜は頷く。
「誇張や都合よさ、がある。こ..これ隆が見たら..」
「隆に見せる必要はないと思うよ。女性誌のほうが男性のよりエグいから...」
「男性用もあるの⁈隆も見たりしてできるようになるの?」
「あるわよ。当然でしょ?人間の三大欲求なんだから。
このアプリで男性誌も見られる。男性誌を見るのも一つかもね。
隆が見てるかはどうかは知らない。じゃあ、私ジムに行くね。」
さっさと出ていこうとする綾女に夏夜は縋り付きそうに言う。
「待って!綾女ちゃん!一緒に見て!」
踵を返して、綾女は夏夜を見下ろして言った。
「あのね夏夜、こんなの私はすでに見飽きてるの。一人で頑張ってね!」
「こんなのって...」
「あら、綾女ちゃん。もう帰るの?」
「お邪魔しました。これからジムに寄って帰ります!」
「自転車、気をつけてね。行ってらっしゃい。」
廊下で義母と綾女の和やかな声が聞こえた。
『どうしよう。こんなの読むの?見るの?』
その日、夏夜は一人で赤くなってタブレットの漫画サイトを見た。これ系は初めてだ。
何度か頭が真っ白になった。
夕食の時も、家族の顔をまともに見ることができない気がした。
漫画を見ていると出てくる男性が隆になる。
「夏夜、具合悪いとか?なんか、今日変だぞ?」
隆に聞かれても、漫画サイトで見ていることなんて言えなかった。
「なんでもない。大丈夫。」
『知られてはいけないし、漫画だし、誇張があるし...都合がいい。てもちょっと話の続きは気になる。』
悪い夢を見そうだ。
綾女は自転車でジムに向かっていた。
夏夜からお願いがあるなんて、すっかり可愛くなった。以前の夏夜は、他人の手なんて必要としなかった。
勉強も、お稽古も、任務だって私たちよりずっと先に行っていたから。
だから隆は、なかなか夏夜に告白しなかった。
匠は隆をせっついていたけど、言えない気持ちもなんとなくわかる。
夏夜には弱みらしい弱みがなかった。
それを鼻にかけたことは無かったけど、頼らない、頼れない。
それって男性にとっては、難しい相手なんだろうな。
妙な事になったけど、夏夜が頼る相手として自分を選んでくれたことは嬉しい。
学校に通えていれば変な噂やなんかで知ったんだろうけどね。
さっきなんて、「一緒に見て!」だって...
ジムには隆がいて遥と話している。
「お疲れ」
そう声をかけてきた彼の肩に手をおいて、がんばってねと労ったけど、隆はポカンとしていた。
夏夜の様子はやっぱりおかしい。
自分の部屋にいる時間が多いし、このところあまり目を合わせてくれない。
むしろ逸らすことだってある。
時々考え込んでいるかと思えば、一人で慌てているように見えることもある。
『学校のことじゃなさそうだ。』
夜だって、触れたいと言ってはいけない雰囲気が出ている。
『まあそれはいいけど..よくないけど...深刻ではない...訳でもない..』
夏夜の様子を見ていると隆まで混乱してきた。
思い切って夏夜に聞く事にした。
今だって夏夜は部屋から出てこない。
ノックをするとすぐに返事があったが。夏夜は少し顔が赤い。
「あのさ、やっぱ最近、何か変だと思うんだ。顔が赤いけど熱は?」
「体調は平気。熱なんてないよ。変って何が?」
「いろいろ。」
さっき考えていたことを全て言ってみる。
「なんかした?俺」
敢えて笑って見せた。
途端に夏夜がさらに真っ赤になって下をむいてしまった。
「どうしてそんなに赤くなってるの?」
顔に触れようとすると、ピョンと一歩後ろに下がって転びそうになった。
ワッと声が出て咄嗟に夏夜を支えた。数歩入った床の上には、タブレットが寝かせてある。
タブレットの画面には漫画であるが、露骨な絵が映っている。
隆の視線にハッとして、夏夜は慌ててタブレットを拾おうとした。
隆がさっとタブレットを拾いあげて、ページをスワイプした。
大きなため息が出てきた。
「欲求不満でこういうの見てる訳?」
「ちがう...」
「俺とは目を逸らしたり、触れちゃいけないみたいな顔するのに?」
「そうじゃなくて...」
目を泳がせて動揺している夏夜の腕を掴んで、二人の部屋まで連れて行った。
「隆!腕痛い。待って!」
半分引きずるように歩いていく。
夏夜の足では転ばないようについていくのがやっとだ。
乱暴にドアを開けて、ソファに夏夜を座らせ自分も側に腰を下ろす。
膝の上に肘をついて、両手で首を抱えた。
「あれはちがうの..聞いて....」
「漫画を見ている事に怒っている訳じゃない。大方、綾女にでも聞いたんだろうけど、こんなのきっと誰だって見たことあるよ。けど、なんでそこなの?って言いたい。前にいっただろ?なんでも話して欲しいって。」
「だって...なんて聞けばいいかわからないから...」
「何聞きたいのか知らないけど、漫画は聞いたって答えない!」
「じゃあ!どうすればいいの⁈」
半分泣くような叫ぶような声が出た。
「え?」
今度は隆がびっくりした。
「もらってばっかりなんだもの!何もかも!隆に何も返せないんだもの!隆がして欲しいことはわかんないんだもの!!」
矢継ぎ早にそう言ったら涙が出てきた。
漫画を読んでみても生々しい事ばかりで、答えは見つからなかった。
行為としてこういうことがあると知っいても、隆も同じだとは思えなかった。
「私が隆にできることはないの?」
夏夜は体を丸めて膝の上で泣いている。
「夏夜...顔あげて?泣かないでいいから。
ごめん、俺も言い方悪かった。」
背中を軽く叩いた。
内心、夏夜がこんなものを読んでいたことがショックだった。
思春期が来れば興味があって当たり前だし、自分だって思い当たることはある。
でも、隆のどこかで夏夜は別だと思っていたのかもしれなかった。
『神聖化ってやつか...からかうくらいにすればよかった。』
とにかく、泣いているのをこのままにしておけない。
「夏夜は...俺のことを考えてくれたんだろうけど、何にも返せていなくないってことがわかってない。前にも話しただろ?
俺が不満そうに見えたのなら謝るけど...俺は夏夜にもらってるもの多いよ?」
「私があげてるの?隆に?」
「人によって、考え方や好みってあるんだろうけど...
夏夜は俺がしたいようにさせてくれるだろ?
受け入れてくれるのが、俺にとって一つ目。
俺は安心して夏夜を抱いていられるのが二つ目。
夏夜があんな顔やこんな顔を見せてくれるのが三つ目。
それから、時々ゾクゾクする声を聞かせてくれるのが四つ目で...」
顔を膝につけたまま夏夜がつぶやく。
「もういい....聞いているのが恥ずかしい。
言わないで....」
「もっといっぱいあるけど....言わない代わりにキスさせて?」
「ふざけてばっかり..でもいいよ」
「ほらね?」
突っ伏しているのを起こして、数日ぶりに夏夜の体温を感じた。
いつもどこかで不安を感じている。夏夜は。
あらためて、タブレットを開いた。
夏夜はまるで熟れたトマトみたいに赤い顔をして両手で頬を押さえている。
「しっかし...女性向けのってすごいな。これ綾女に聞いたの?」
「綾女ちゃんが悪いんじゃないの。でも教えてくれたのは綾女ちゃん...」
「ふうん、あいつもね。」
「男の人だってみるんでしょ?」
「みるよ。男も女も好きな奴はよく読むんだろうし、そうでもない奴はそれなりに。一度くらいは興味を持つんじゃない?」
「隆はどっち?」
「今は生身の夏夜がいい。ねえ、気になるのあった?」
タブレットをヒラヒラさせて、夏夜に聞く。
「あんまり…でも男の人って女性に..その..して欲しいって思うの?」
隆がにやりと笑う。これは面白うそうだ。
「なにを?今のじゃわからないから、ちゃんと言って?」
「え...と、あの...漫画みたいに」
「俺は、漫画を読んでないから、わかんないな。漫画みたいって何?」
こんな夏夜を見れるとは1年前は思っていなかった。真っ赤になって動揺して...
いじめ甲斐がある。
「く... 女性がね....」
「ん?女性がなに?」
「く...クッキング...?」
苦し紛れにそこにいった。隆は腹を抱えて笑っている。ヒイヒイいうみたいな爆笑だ。涙まで出ていた。
「うん、クッキング。それは嬉しいと思う..」
夏夜の顔を見て、落ち着きかけた笑いがまた戻ってきた。
ジムに言っても「クッキング」は頭から離れなかった。
トレーニングをしながら、思い出し笑いがもれてしまう。
「お疲れー」
振り返ると綾女がきていた。
「隆さ、さっきから薄ら笑いしてトレって、キモい。随分ご機嫌ね。」
ランニングマシーンを止めずに、綾女を見た。
「綾女さぁ、夏夜に変なこと教えただろ?」
「あははバレた!だよねぇ、夏夜のことだから隠し通せないんじゃないかって思ってたわよ」
綾女は屈託なく笑っている。
「ねえねえ、夏夜の反応どうだった?あとでカフェでね〜」
呑気にそう言ってにトレーニングに行ってしまった。
いつものカフェには匠がきていて、PCを使っている。
「お疲れさん。進みは?」
「さっき遥さんからチェック入ってさ。やっぱ、ハードだわ。俺、もうまる二日、ほぼ寝てない。」
「そんなんでよく走ったな。ちゃんと食えてんのか?」
今日の匠は目の下に隈を作りドーナツを食べている。
「寝不足だと食欲までおかしい。甘いもん食べたくてしかたない。
今日はこの後もう寝るわ。頭、回んなくなってきた。」
匠は春にデビュー戦を控えて、その準備に忙しい。それでもトレーニングは休めない。
PCを閉じながら、匠が言う。
「今更だけど、夏夜ってすごいよな。俺らは今こんなに苦労しているだろ?
だけど、夏夜は中学で遥さんのOKもらっているんだ。あいつの引退はつくづく業界としてはもったいない。」
「本人も本当に悔しいと思う。いまだに自信がなくて不安なんだ」
匠にした返事は家での会話を思い出させた。
『なにも返せない。』
ずっと夏夜は苦しんでいる。
笑っている時も、隆が抱きしめている時も。
不安は心の一番奥に、いつもどっかりと腰を据えている。
「何かあった?」
残りのドーナツを口に放り込んで匠が聞いてきた。
この数日の家でのことを話して聞かせる。クッキングには匠も笑っていたが、ふと真剣な顔になる。
「夏夜ってさ、一番そう言うのに興味が湧く時に嫁になったんだよな。当然、男だってお前しか知らない。いろんな経験して、なんとなくわかっていくことってあるだろ?」
「いろんな経験、の中身はあんまり考えたくないけどな。」
「まあね。俺だって隆だからまあいいかって思うところだよ。けど、この考えって男の勝手なんだ。とりあえず、母が夏夜と話すのは正解かな。」
「男の勝手?男が勝手?」
綾女がきた。手にはホットチャイを持っている。
「お疲れ。珍しいな、それ。」
「たまにはね。で、隆、勝手な話はいいから、夏夜どうだった?」
「どうもこうも。お陰様でもうドタバタだよ。」
クッキングに至る話をもう一度した。
意外なことに綾女は笑わなかった。
「やっぱりね。夏夜は今まで、秋さんと遥さんの期待に添うことに専念してきたでしょ?センスの良さはすごかったから、期待は秋さん達だけじゃ無くなっていたし。だから、私たちが思うより、夏夜はたっくさん努力してきたんだよね。
恋にかまっている暇が無いくらい。
でもさ、ある日突然全部失くしちゃって。お嫁に行って。
…男女のことが日常にあって。失くしたものが大きい分、焦るんだと思う。」
隆と匠は黙って聞いている。
チャイを一口飲んで綾女が続けた。
「私ね、隆でよかったって思ってる。だって、夏夜が泣いたり怒ったりできるのは、ずっと隆だけだったんだから。」
「そうかな...俺は時々自信がなくなるけど。」
「変に自己評価が高いよりマシ。せっかくアプリ登録したんだから、二人で自信がない時には漫画をお手本に色々してみたら?」
「エグいなあ。綾女」
隆がつぶやくと、片方の眉を器用にキュッとあげて綾女は言った。
「レポート提出してね?」
「綾の卒論はそれ?」
匠が笑っている。
「うん、エロ漫画による少子化対策の有用性と経済効果、なんてどう?」
大笑いした。今日は夏夜を連れて来ればよかったなと思った。
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