第12話 結果
次のトレーニング開始を夏夜は楽しみに過ごしている。
元々、機嫌の良し悪しを露骨に出す夏夜ではない。
だから、怒ったり泣いたりは彼女にとって余程のことなのだ。
母や春江にもういいと言われれば、素直に座っている。
週明けには膝の腫れはすっかり引いた。
早速夏夜は、遥に連絡をとっていいかと聞いてくる。
「俺からメールしておくよ」
「ありがとう。水曜日までダメかなぁ?」
遥にメールをすると、今日の夕方のトレーニングに隆と一緒に来るようにと、すぐに返事がきた。
ただし、今日は打ち合わせだけだからウエアはいらない。とまで指示がある。
それでも夏夜は嬉しそうだった。
大学から帰って夏夜と一緒に出かける。
遥はジムのオフィスの中にいた。
まず足のチェック。腫れは朝から変わらず、熱も持っていない。血圧も異常なし。
やっと夏夜の名前がプリントされたメニュー表が渡された。
初日の内容と同じだったが夏夜は文句を言わなかった。
そして2週目のメニューの記載されたものも渡して遥は言った。
「いいな。痛い目を見たお前だから、信用して先まで渡すんだぞ。」
夏夜は真剣な顔で頷く。
「今日はストレッチだけしていけ。隆が終わるまでカフェにでも行ってこい」
「うん。」
ジムの奥でシャワー室にいく綾女が手を振る。
10分程度のストレッチはあっという間に終わってしまった。
シャワーを終えて着替えた綾女と一緒に、カフェまで歩いた。
ここに来るのは2年ぶり。
窓際の席に夏夜を座らせる。
ここだって4人にとっては定位置と言って良いところだ。
「ホットのチャイラテとチーズケーキ?」
綾女が先に夏夜がいつも頼んでいるものを口にする。
「うん。でも帰ったらご飯なの。ケーキはやめておく。」
「そ?じゃ買ってくるね!」
綾女は夏夜がよく頼んでいたものを忘れていないと思ったら、自分のことばかり言っていることが少し恥ずかしくなった。
「お待たせー!!はい、こっち夏夜のね。」
ホットチャイラテを差し出す。シナモンまで降ってあった。
「今日はおごらせてね!!」
「え?そんなのだめだよ。」
「いいの!!退院後の初カフェ記念だもん!」
綾女の気持ちはちょっとこそばゆい。。
チャイラテのホットとアイスで乾杯した。
そのうちに匠が来て、今度は紅茶とチャイラテで乾杯した。
キッシュをパクつく匠に、ドーナツを食べる綾女。
その光景はあまりにも前と変わらなくて、夏夜は切なくなる。
やがて隆が来て、今度は綾女と匠が「結婚おめでとう」なんていうから、胸を締め付ける感情は引っ込んで、代わりに夏夜は真っ赤になった。
ここを利用するのは同じジムに通うもの、つまり四家に関わりがある人だ。
微笑ましく見ている人もいて、和やかな空気だった。
その日、入浴を済ませた夏夜は、先にベッドで本を読んでいた隆に
「今日はあちこち連れて行ってくれて、ありがとう。」と言った。
目を逸らしながら言う夏夜はとても可愛らしい。
抱きしめたいくらいだが、今はまだダメだ。
俺はつくづく馬鹿かもしれない。
読んでいた本を脇によけ、夏夜の手を包んだ。
「無理と怪我はしないように、な?」
夏夜が大きく頷く。
これ以上触れていると、体が良からぬ反応をしそうだと隆は手を離した。
夏夜は隆の読んでいた本を手にとって、パラパラとめくる。
読んでいるのはゼミの討論会用課題文献だ。
「難しそう。法律って面白い?」夏夜が聞く。
「奥が深いなと思う。これを戦後に作った人がいるんだよな。」
しばらく隆の話を聞いてから言ってみた。
「大学で高等部の人と会う?」
夏夜が高校の話をしたのは初めてだった。
「同じ学部にちらほらいる。持ち上がりが4分の1は居ることになるけど、学部が違ったりであんまり会わないな。それに高等部の全員と知り合いってわけじゃないだろ?」
「そっか…」
「大学に行きたい?」
隆は布団に入り天井を見ながら聞いた。
「わかんない...」羽毛布団にくるまりながら答えた。
今までは頑なに進学のことを口にしなかった夏夜だから、隆は少し期待した。
車があるから、極力送って行けるし、いつまでも家にだけでいるのはよくない。
前から考えていたことだ。
その日はそれきり、夏夜の口から大学のことは出なかった。
水曜日。
夏夜は朝からジムの準備をしている。
タオルとTシャツ。トレーニング用のシューズも引っ張り出した。
実家から持ってきていたものだ。それに財布と携帯。
一度並べてからトートバッグに詰めていて、なんだか遠足に行くみたいに嬉しそうだ。
無理をしないでメニュー通りやれば、この間みたいなことにはならない。
足のマッサージを受けてストレッチをしてトレーニングだ。
今回は最後にもういちどマッサージが入っていた。
家ではストレッチを1回、その後に足のセルフマッサージをする。
翌週からのトレーニングは5分伸びて20分になった。
自宅でも15分のトレーニングをする。
たかだか15分なのに、思ったより筋肉痛と疲れを感じた。
家でも歩くのに、トレーニングで体を動かすのはかなりきつい。
遥は歩行では使わない筋肉を動かすと言っていだけど。
このトレーニングがクリアできなければ次には行けない。
次のメニューにはなかなか進めなかった。
そのまま。1週間が過ぎた。
朝のトレーニングから帰宅した隆が部屋に行くと、夏夜は珍しくまだ眠っていた。
『少し顔が赤い?』
暗いうちに出て行くため、顔色は見えなかった。
シェードも全部開けて、夏夜に声を掛ける。
「夏夜、起きれる?具合悪い?」
目を開けた夏夜は潤んだ目をしていて、だるそうに起き上がった。
やっぱり真っ赤な顔をしている。
「熱ないか?」
そう言って思わず額に手を当てた。熱かった。
反則行為だったが、夏夜は気にしていないようだ。
「わかんないけど、ちょっとだるい。」
隆はリビングの母に声をかける。
母が持ってきた体温計は38.7℃を指していた。
母はテキパキと症状を聞き、念のためにと膝をめくる。
膝が腫れていた。風邪の症状はない。
すぐに橙子に連絡を入れて、受診をすることになった。
今日は一段と寒いが、それとは別に少し寒気もあるようだ。食欲もない。
簡単な部屋着にかえてコートを着せ掛け、病院へ向かう。
整形外科と血液検査。前回と一緒だ。
だるさが強そうで、橙子がリカバリー室を準備してくれた。
「何か飲める?できれば飲んだ方がいいけど。」
橙子に勧められたスポーツ飲料を少しだけ飲んだ。
「なんだか寒い。」
「あら、震えてる。熱が上がるかしら。電気毛布、持ってくるね」
さっきまで真っ赤だった顔が今は白っぽくなっている。
カタカタと体を震わせている。
隆は夏夜の手を握っていた。
結局、膝の炎症が再度確認されたが発熱の原因まではわからず、精密検査目的で入院になった。
膝に何か炎症の原因があるかもしれない。膝のM R Iに血液培養、その他諸々。
検査のスケジュールが、どんどん決められていく。
「隆ちゃんは学校でしょ?あとは検査だけだからいいわよ。」
そう言われても、隆は迷う。
しかし、このまま心配そうに側にいても夏夜はかえって隆を心配するだろうし…
そう思って大学に行くことにした。
「4時過ぎには戻るから。食べたいものが出てきたらメールな。」
「うん。ごめんね。」
「謝るなって。」笑って出かけた。
学食で顔を合わせた匠に今朝の話をしている。
綾女は水曜日の講義を午前に変え、夏夜と一緒にトレーニングが行けるようにしたから、今頃きっとジムで聞いているだろう。
そこへ、先日の『彼女』がやってきた。
「月嶋先輩、こんにちは。この間はありがとうございました。とっても大きなおうちでびっくりしちゃった。
また、遊びに行っていいですか?奥様、可愛い人ですね。前はすごい人だったんでしょ?」
「君には関係ないでしょ?俺の奥さんのことは。それに自宅はプライベートなところだから遠慮して。」
少しうるさそうに隆は返すが、彼女は平気。
匠は彼女が「前は」と強調したのに気がついたが黙っていた。
「それじゃあ、奥様も一緒にどこか遊びに行きましょうよ。久坂部先輩も!」
「俺はパス。俺は君とも、隆のゼミ仲間とも接点ないから。」
「えーでも、隆先輩と匠先輩がくれば奥様もくるんじゃないかしら。」
なかなかしつこい。
「一つ聞くけど、君は俺の奥さんの何を知りたい訳?」
箸の手を止めて隆が聞く。
「何って言うか、どうして大学に行かないのかなって。とっても成績が良かったって聞いたし、高校を中退してすぐ結婚って、今時すごく早いでしょ?」
「ふぅん。それ、誰情報?そういうの俺らの耳には入ってこないけど。」
「えーと久坂部学園の出身者に聞いたんです。先輩たちのことも。」
「で?」
「隆先輩って急にモデル辞めたじゃないですか。すっごく人気があったのに。
奥様の意向なのかなって」
「夏夜の意向?」すうっと隆の声が冷える。
「その、奥さまの怪我が原因で先輩と結婚かなって。それなら月嶋先輩が気の毒じゃないですか。」
ガタンと椅子がひっくり返る。
「君には関係ないだろ吉澤麗奈さん。人ん家のことなんかほっとけよ!」
学食内に匠の声が響いた。周囲は『吉澤麗奈』に注目している。
一気に視線を注がれ、彼女は足早に学食から出て行った。
「さてと、これで少し静かになるかな。」
「ありがと。軍師殿」
隆は苦笑しながら匠を見て、また箸を使い出した。
匠のこれは計算だ。隆にうるさく付きまとい、噂を集めて夏夜を貶めようとする吉澤麗奈の名前を周囲に知らせて。
こうなると個人情報は集めにくいだろう。
講義後に見たメールに、夏夜からのものはなかった。
代わりに橙子からメールが来ていて、点滴をすることになったから帰りに病院に寄って欲しいとあった。
匠と一緒にバスに乗る。
匠は夏夜が落ち着かないだろうからと、夏夜には会わずかえって行った。
多分ジムで何か聞くだろう。綾女か遥から。
「橙子さん、隆です。」
ノックしてそう言うと、橙子がすぐに顔を出した。
「何度もごめんね。点滴のことだけではなくて、少し話したいの」
「いえ、どっちにしても寄るのは一緒だし。」
「今、1階のカフェにお使いに行ってもらっているから何か頼むわ。何がいい?」
「じゃあ、アイスのカフェオレ。」
橙子が誰かに電話し、隆の分を追加している。
思わず「お使いの人って?」と聞いた。
橙子はフランス留学時代からの友人を、この病院に呼んだと言う。
専門は脳神経外科。これまで勤めてくれた部長が定年になり帰国するらしい
愛妻家だからね。のんびり奥様と居たいんですって。嘱託受けてもらえなかった。
残念そうだ。
だから優秀な脳外科で活きのいいのをね。救急もかなりいける人だから。
やがてノックがして、両手に紙袋を抱えた人が立っていた。
「ありがとう。リアム」
フランス人なのだろうか?
赤みがかった金髪に、肌は少し褐色だ。
隆が挨拶をしようと立ち上がると、橙子が隆を紹介する。
「リアム、隆よ。夏夜の夫。」
「はじめまして、隆..さん。リアムです。橙子、綺麗な人だね。夏夜にとても似合う。」
彼の口からは流暢な日本語が飛び出していた。
「よろしく、月嶋隆です。隆でいいよ。日本語、きれいに話せるんですね。」
「はい、とても勉強しましたから、橙子と会ってから…」
隆は違和感なく納得した。橙子さんの彼氏か。
その後、リアムは部屋を出ていき、橙子はデータを出してきた。
「遅くなったわね。ごめんね。始めようか。」
「うん、大丈夫。」
「膝はやっぱり水が溜まりかけているだけだった。血液の培養にはもう少し時間が要るけど。多分、疲労性の炎症よ。前と同じってことだわね。残念だけど、肝機能もまた上がりかけているの。」
机越しに検査結果票を指差しながら橙子は説明する。
「俺も気を付けていたけど、今回はオーダーしかしていなかった。
軽いメニューだけど、遥さんがかなり気を使って作った内容だと思う。」
「私も義兄様からオーダーをもらっていたわ。とても効率よくかつ負担のない内容だった。」
「じゃあ、どうして熱なんか。」
「考えられるのはね二つでね、一つはうーん....」
ちょっと片方の頬をポンと膨らましてクルリと目を動かした。
言い淀む橙子は珍しい。
「はっきり言ってくれていいけど。多少のことは驚かない、と思う」
「そ?では遠慮なく。隆ちゃんと夏夜のセックスは週にどのくらい?」
「は....」
カフェオレを吹きかけた。
「多少のこと」ではなかった。儀式からないとは....言いにくいもんだな。
「もちろん変な意味じゃないのよ。まだ若いから、例えばそれが疲れの原因にもなるなって。あの子の体は他より疲れやすいし。」
ため息が漏れた。
「…そっちの心配はないよ。」
言いにくそうに橙子を見た。
「そう?」
「うん。だってあれからない....から。」
今度は橙子がコーヒーを吹きそうと思う番だ。
「え…ホントに?だって一緒の寝室よね?」
「あーあ、言っちゃった…橙子さんがドクターだから言ったけど。」
隆は赤くなっているけれど、橙子には少し悲しそうに見えた。
「ごめん!隆ちゃん。えーと…二人とも若いじゃない?」両頬を抑える。
「俺もさ、自分が馬鹿だと思う。儀式の翌日に夏夜に約束してさ。」
「何を?」顔をあげた。
「夏夜がいいって言うまで、その、しないって…」
「それで、正直に守ってるって訳なのねぇ、同じ寝室で」橙子はため息をつく。
少しの間、それぞれに飲み物で間を持たせた。
先に気を取り直したのは橙子だ。
「まあ、一つ目は消去ね。実は二つ目の方も、ちょっと深刻。トレーニングよ。」
「トレーニング…」
「夏夜のことだから、決められたオーダーをきっちりするでしょ。もちろんお義兄様の決めた時間、内容を守って。オーダーはよく作られているけど、多分、私たちが考えているより、夏夜には負担がかかっているってこと。二人の営みによる負担が否定されたとすると、こっちの可能性が大きいわね。」
「夏夜、最近妙にトレーニングにこだわっていて。」
「左肺も左足も奇跡みたいなものだから、この際、はっきり言うしかないわね。」
「俺から言うよ…」
「ううん、これは私の仕事よ。隆ちゃんはその後のフォローをして欲しい。
今回もかなりハードな状況になると思う。精神的に。
だから、何かあったらいつでも電話してくれる?」
「秋さんと遥さんにも言ったほうが....」フォローする人はきっとたくさんの方がいい。もちろん匠と綾女にも。
「話していい?隆ちゃんが許可してくれるなら伝えるわ。」
「そうしてもらえる?」
「わかった。あれからないこと、は伏せるから安心してね。でも隆ちゃん、無理しないで必要なら言って?」
「橙子さん、うん、ありがとう」
大学から帰った隆がきた。
「ただいま。具合どう?」
「おかえりなさい。寒気はもうないよ。心配かけてごめんね。」
謝るなってと言いながら、ベッド脇の椅子に座る。
右手に点滴がつけてある。小さいパックは抗生物質。隣の大きいパックは食事を摂れないための水分補給程度のものだから、食事が取れるようになればすぐに外せるらしい。
「食欲ない?」
「まだあんまり。でもこれは飲んだ。」
そう言って橙子が持ってきたというスポーツドリンクを指した。
「少し眠れたの?」
「....検査があったから。隆、これからジムだよね?行って大丈夫だよ」
「うん。ねえ、終わったらここに帰ってきていいかな?そこのソファでいい。」
壁際のソファを指す。
「でも、ゆっくり眠れないと思う。すぐに退院できるし。」
「寝れないって、夏夜が?俺が?」
「隆が!」
クスリと隆が笑う。夏夜もちょっと笑った。
夏夜を病院に一人にするのは、嫌だった。
それに、血液培養の結果が出れば、橙子は夏夜にトレーニングのDr.ストップを伝えるだろう。そうなったら文字通りハードな状況になる。
ジムでトレーニングを終えて病院へ戻るついで調達したスポーツドリンクと水を持って夏夜の病室へいく。
ノックをしても返事がないのでそっと入った。
夏夜は寝息を立てている。
ベッドサイドのテーブルには風呂敷包みがあった。
母が来たらしい。
電話で病院へ泊まることは伝えてあったから、様子見がてら夕食を置いていってくれたようだ。
ソファに腰掛け包みを開く。
小ぶりのお重には一段目におにぎり。ニ段目には夏夜の好物が数種類詰め込んであった。
またたっぷりと詰め込んだな。
明日には味が落ちるし....食うか!割り箸を取った時、軽くノックがした。
夏夜を起こさないように急いでドアを開ける。
秋華と遥だった。
「こんばんは。夏夜はどう?」
小声で秋華が聞く。
「寝てる。昼は検査で眠れなかったみたいだから。俺も今戻ったところ。」
「手を掛けるわね。私、さっき帰国したところなの。ハルに夏夜のこと聞いて。ちょっと遅いけど、顔だけ見られればと思ってね。」
「そうなんだ。お疲れ様です。あ!そうだ、二人とも夕飯は?」
「気にしないで。眠っているなら顔だけ見て帰るから。」
隆は母の作ってきた二段重をさす。沢山あるからと秋華と遥を招いた。
「俺も食べきれないし、夏夜はまだ食欲がないし....」
遥と秋華は顔を見合わせた。
「そう?じゃあ、久しぶりにおばさまの手料理をいただこうかな。」
「助かった!」
三人で人気のない面会室で、箸をとった。
「ふぅ、美味しい......おばさま相変わらず上手ね。ほっとする味。」
秋華が嬉しそうにつぶやく。
隆は母が喜ぶと言って笑う。
「秋の作る飯は芸術的だからなぁ。こっちは別次元だ。」
「ジャンルとしては抽象画だよね。秋さんのは。」
隆も秋華の料理のヤバさは知っている。
「いいじゃない。人間、誰でも得て不得手はあるんだから…もう諦めてるの。」
「不得手ってレベルとはちょっと違うけどな。」
遥が笑っている。
片頬を少しだけ膨らませる義姉なんて、はじめて見た。
他愛のない時間で、隆は自分も少し疲れているのを感じた。
秋華と遥には、橙子から連絡がいったらしい。
血液培養の結果、問題なければすぐにも退院できる。
同時に、ジムでのトレーニングにはDr.ストップをかけることも。
結果は至急で出したから、明日か明後日には橙子の元に来るという。
もし、隆が扱いきれないと思うほど、夏夜が不安定になる時は、遠慮せず実家に返してほしい。今の失敗は困るから。
そう言って秋華と遥夫婦は帰って行った。
今、隆は警護のプランニングを一件抱えていた。
二十歳になると、四家で家業を継ぐものが一度は通るデビュー戦だ。
だから、春からは自室でする作業が多かった。
夏夜には大学の課題とかレポートとか言って済ませてきた。
このタイミングで隆の家に来ることになった夏夜がそれを知ったら、さらに気を使って神経を擦り減らすのはわかっていたから。
その意味でも、本来結婚は今年は避けたほうがよかったかもしれない。
神崎の分家がウロチョロし始めさえしなければ。
でも、例えデビュー戦の負担が増えても、きっとなんとかしてやると父には伝えてある。
夏夜を誰にも渡したくなかった。それだけのことだ。
秋華と遥の車を見送って病室へ戻る。ソファには毛布が二枚と枕があった。
室内は暖房が効いているから、掛け物はこれで十分だ。
『三人で食べた方がうまかったな。秋さん、疲れていたのに。プランを抱えた俺を心配して、夏夜を実家に寄越してもいいと言いにきたんだろう。』
プランはすでに出来上がり、遥のチェックも終わっている。
様々な手配も済み、あとは依頼人が入国する日を待つだけだ。
もう一度夏夜を見る。よく眠っている。
これからまた辛い時間を過ごすのかな。思わず額に顔を近づける…がやめた。
『俺の理性は結構しぶとい。けどいつまで持つかな。』
自分の額を握り拳で軽く数回叩いてソファに横になる。
あっという間に眠りに落ちた。
当直中の橙子は、自室へ戻る際に妹の部屋をそっと開けた。
室内の明かりは落としてあって、二人はよく眠っているようだった。
静かにドアを閉めた。
二日後、夏夜は隆に伴われて自宅に帰った。
義母にも義父にも心配をかけたことを詫び、一緒に夕食を摂ったが、いつもは美味しい義母の料理の味があまりしない気がした。
検査の結果とともに伝えられた、トレーニングのDr.ストップ。
夏夜はそれを静かに聞いていた。隣には隆がいてくれた。
自分の体はトレーニングにはついていけない。日常生活で目一杯なのだ。
頷くしかない。これ以上隆たちに迷惑と心配をかけられない。
それに橙子にも...
寝室でベッドに入ってから、隆に言った。
「焦ってわがまま言って、結局迷惑かけちゃった。」
すかさず隆が返す「謝るなよ...」
「うん...」
隆は思う。
『こんな時に手しか握ってやれないってどうしようもない。幼稚園児かよ。』
仕方がないから夏夜の手を取って握ってやる。なんでこんなに謝るようになったんだろう。
綾女はずっと気になることを調べていた。
隆のゼミにいた留学生。
出身はイギリス。サウサンプトン大学から電気工学専攻の大学院生か。
隆が所属しているゼミは国際法律学系だから、留学生がいてもおかしくはないけど、電気工学と法律がなんとなく結びつかない。
どちらかといえば、久坂部大学は工学部があって、そこの教授のゼミの方がしっくり来るけど。
何かが引っかかる。
この感覚は父から調査の家業を受けた綾女だから感じるのかもしれない。
そうだ、こんな時は匠を使おう。
久坂部大学の総長である匠の父なら、学籍簿を見ることができる。
できるだけ早めに調査のキリがついたほうがいい。
そろそろ、隆の初プランが動き出すから、少しでも不安要素は取っておきたい。
万が一、プランに関係があるようなことがなければいい。
すぐに匠にメールをした。
匠からはジムに行った時に返事があった。
「学籍簿OK。明日の15時に部屋に来るようにって。」
「ありがと。」
翌日、綾女は学長室にいた。
「サウサンプトン大学からの留学生だと、彼だね。」
そう言って匠の父が開いたページに目を落とすと、綾女は少し眉間に皺を寄せた。
確かに電気工学専攻の大学院生だ。顔は同じ…よね?でもちょっと雰囲気が違っているような…
「おじさま、電気工学の学生が国際法律のゼミにいるってあるのかしら?」
「ゼミは基本自由だからね。例えば国際特許技術関係の事なら、可能性は否定できないが…気になるかね?」
「はい。なんて言えばいいのか…どうして急にゼミを変えたのかしら?」
元は例の著名な電気工学の教授のゼミに在籍していた。
今年の春先に今のゼミに移籍している。
「たしかに、急だね。」匠の父も顎を撫でている。
この人の人間関係を調べたほうがいいかもしれない。
そうなると、ここからはもう綾女の父に頼むしかない。
教育を受けたとは言え学生の身では行動に限界があるし、気づかれないように調べるには少しでも見知った顔では困るのだ。
「おじさま、ありがとうございました。あとは父に頼みます。学籍簿の書類を父に送っていただけますか?」
「隆のデビュー戦が近いことに関係がある。そう言うことだね?」
「そうなの。まだ、(かも)だけど。急にお願いしてごめんなさい。」
そう言って綾女は学長室を出た。
書類を綾女が持ち歩くのもまずい。
ザワザワと落ち着かなくなるような、嫌な予感がしていた。
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