第11話 焦り
綾女は例の「彼女」の調べをまとめていた。
磁村の家は昔から情報収集を得意としてきた。地理も含めた調査もする。
綾女の上には四つ離れた兄がいたから長子ではなかった。
しかし、この兄は綾女が二歳の時に交通事故で亡くなった。
そこで綾女が長子として扱われるようになった。
綾女は磁村の役割を割と好んでいる。
綾女と磁村にとって、一般の学生を調べることは大した手間でもない。
どちらかと言うと、今後、夏夜にちょっかいを出さないようにするための対策を考えたかった。夏夜に気づかれないように。
隆は放っておいて良いだろう。自分でなんとかするはずだ。
言い寄られたのだって、初めてじゃないんだから。
それに、当日のメンバーの顔ぶれで一つ気になる情報も見つかってもいた。
こっちはまだ時間が必要だ。
「彼女」はごく一般的な学生だ。
高校までは久坂部ではない。比較的裕福な家庭の子どもが通う女子校。
そこから、推薦枠で大学部に入学してきている。
なぜ、久坂部にきたのか?は、いわゆる結婚相手探しと言って良いだろう。
久坂部の各学校は偏差値も高く、歴史も長い。
元は四家のために作った教育施設であったが、より高度な人材を育成するために、質の良い教師を招き、彼らが十分に力を発揮できるだけの設備を作ってきた。
その結果、世間からは長い間、それなりの評価を得ているのである。
特に学長として学園全体を仕切る久坂部の家は、才能がある人間は積極的に家系の中に入れてきたのだという。
実際、匠の母はエストニア人で心理学研究の第一人者と言われる人だし、長年の家系図を見ると、匠なんてハーフやクォーターなんて言うレベルを超えている。
四家のうちの三つの家に、たまたま同い歳に生まれた三人が、手近な学園に入学して、たまたま同じアルバイトについただけのことだったが、随分と騒がれた。
隆が夏夜との結婚を機にアルバイトを辞め、匠と綾女もそろそろ学業に本腰を入れる時期だと一緒に辞めた。
つまり、隆にしても匠や綾女にしても近づきやすくなったと思う人間は少なくない。
社会学部、グローバルコミュニケーション学科。2年生。ゼミは今年からね。
出身高校時代ミス学園、読者モデルの経歴が少々。(綾女の経歴と比べると)
実家は自営業の父、専業主婦の母。
母の出身校がいわゆるお嬢様学校だ。
使っているSNSは写真系が主流。
投稿記事は自身のファッションと外出先のお店と購入物。それに学校のものもチラついた。
ふうん、なかなか自分に自信がある感じ。
まぁ、周到に立ち回って懲りないタイプだってことは、その後の資料でよくわかる。
おっと、入学時の投稿のコメントに綾女たち三人が写っているのがあって、モデルのAYA.RYO.TAKUと一緒だと騒がれているものを見つけた。
「これか....」綾女はそう呟いた。
その辺りからも、そもそも熱心に学業に打ち込みたいと言うよりは、多少の下心があってここを選んだ。そして掴みにきたと言うのが「彼女」の本音なのかもしれない。
「この子の情報はこれで十分でしょ。さて、どうしようか?」
まとめた内容をPCで隆に見せていた。
「彼女にとって、あなたは獲物だし、夏夜の弱みも掴んだつもりかもね。」
「綾女....よくこれだけやるな。」
画面を見ながら隆が言う。
「こんなの朝飯前よ。」
「暇なの?」
途端に片方の頬を思いっきり引っ張られた。
「なんだか、綾の話を聞いていると、ショーに出るペットみたいだな。俺たち」
匠は少し顔をしかめた。
「あれか?プードルだから買うとか?」
「プードルね。だから、夏夜は苦しんでる。私たちは夏夜が生きていてくれれば、もうそれで良いのに。夏夜は、自分が努力してきたことよりもプードルみたいに周りは見ていたって突きつけられたから。」
「これ以上嫌な思いはさせたくない。ガツンと言うか?」
匠の問いに隆はため息をつきながら答えた。
「いや、少し様子をみようと思う。綾女のおかけでどうせやる事の底は見えてるし。嫌な思いをさせるのはもちろん避けたいけど、夏夜って芯が強いだろ?
なんだか、こいつのこと以外で悩んでいるみたいだから。」
PCの「彼女」の写真を指す。
「これ以外の事....?」匠と綾女は顔を見合わせた。
「わかった。もう少し我慢するわ。」
「多分、水曜日から夏夜がジムに行く予定だから。」
「トレーニング?何時から?」
綾女の顔がパッと元気になる。
「午後1時半から。」
「バスでくるの?」
「いや、俺が学校の前に車で送って、帰りにピックアップする予定。」
「やっぱり買ったか。」
「ああ。正しくは買ってもらった、だな。」
今回は誰もからかわなかった。
「水曜なら、私も時間調整しよ!トレーニングの後に一緒にお茶できるよね?」
「慣れたらね。」
夏夜がジムに来る。
綾女はこれだけで前に戻ったように思えて、水曜日が待ち遠しい。
今日から夏夜のトレーニングが始まる。
そう思って早目にジムにきた綾女だが、ちょっと冷静になれば、ここでトレーニングをするのは夏夜にとって、精神的にハードルが高いのだと気がついた。
会員制のここは、概ね顔見知りばかりだ。
夏夜が月嶋の家に入った経緯を知っているし、抱えている身体的な変化を見せなければならない。
本当にここで良いのだろうか。
でも夏夜を受け入れてくれるのも、ここしかないか.....
ここなら隆、匠、綾女、それに以前は夏夜のトレーニングオーダーを担当している遥がいる。
遥であれば、夏夜の身体機能を正しく把握しているし、主治医の橙子とも連絡がつきやすい。
それに夏夜は月嶋の義父の扶養に入っているはずだから、金額面でもやはりここだ。
なんにも気にせず隆にすっぽり甘えてしまえば楽なのに、そうできないあたりが夏夜なのだ。
どっちにしても初めは少し苦しいね。
だから、せめて楽しくやろう。
夏夜には前と変わらず、遥がトレーニングオーダーの担当として就いた。
トレーニングを始める前にストレッチをゆっくりする事、決められた回数を守るように注意を受ける。
要は焦るなと言う事だろう。
トレーニングを始めてみると、自分が思っていたよりもレベルはずっと下げられている。
少し不満だった。
毎日ベッドの上で過ごしているわけではないのに。
歩いてもいるし、家事だってしている。
初日のオーダーは20分のストレッチと15分の筋トレだけだった。
学校から来た、隆のトレーニングが終わるのを待って帰宅する。
車内はまだ新しい匂いがしている。
「どうだった?」
ハンドルを握っている隆が聞く。
「ちょっとしかできなかった。」
「できなかったって。キツかった?」
「そっちのできないじゃなくて、メニューが…」
「思っていたより少なかった?」
「うん...」
信号が赤になった。隆は助手席の夏夜を見て
「夏夜、わかっているとは思うけど、無理はよくない。トレと家事は違うだろ?」
「そうだけど」
覚悟はしてきた。
一昨年のようなオーダーが出るはずがない。
トレーニングの目的だって前とは違う。
体の機能だって違っているのだから。
でも、感情は頭と違っていて、できることをやっても意味がないと思ってしまう。
悔しかった。
その上、恐ろしいことに翌日の夏夜は筋肉痛に苦しんだ。
体中が熱を持ってひどく怠い。体は動かす度にミシミシギリギリときしんで、マグカップも落とすのではないかと不安になるほどだ。
遥が、通いはじめは週に1回が限度だと言った意味がわかった。
こんなにレベルが落ちていたと認めるしかないけれど、面白くない。
だから、次のトレーニング日まで自宅で時間を見つけてはストレッチをした。
せめて。少しでも。
オーダー以外のことはしないことになっているから、せめて。
水曜日、ジムに行くとマッサージ台に座らされ体のチェックを受けた。
「なんでこんなに動かした?」
「オーダー以外のことはしてない…」
「筋肉が張っているぞ。何した?」
「ストレッチはした。」
遥が黙り込む。
「ストレッチもいけなかった?」
遥は返答の代わりに、大きく長いため息をつく。
眉間に深く皺が寄って、怒鳴られるより怖い気がする。
「ストレッチだってオーダーに従ってやってきたんじゃないのか?前までは。」
今度は夏夜が黙り込む番だった。
「これ見てみろ。自分の体をちゃんと見てたか?」
「これ?あ....」
左膝が腫れていた。筋肉痛だと思っていたから気がつかなかった。
「今から橙子のところに行ってこい。今日はトレーニングなしだ。秋がもうあがるから車で送ってもらえ。」
そう言って、さっさと姉の方へ行ってしまった。
マッサージ台の上に残された夏夜は、もう一度膝を見る。いつから腫れていたんだろう。
橙子の部屋で整形外科での検査結果を待っていた。
まもなく、隆もここに来ることになっている。
「夏夜」
PCの仕事を終えたらしい橙子が声をかけた。
「何かあった?急にジムに行きたいって言った上に、初日からこんな無理をするなんて、あなたらしくないけど。姉様も心配していたわ。」
夏夜は少し考え込む。
「…セットが嫌なの。」
妹はまだ創部がはっきりと残る膝の上で手を握っている。
「セット?」
聞き返したがそれきり先を続けようとしなかった。
「橙子さん、隆です。」
ノックがあって隆が入ってきた。
「おかえりなさい。呼び出してごめんね。」
「いえ、こっちこそ急な診察ありがとうございました。」
そう言って夏夜のそばに行った。
「そろそろ、整形外科の検査結果があがるから、ちょっと待ってて。
コーヒー淹れようか。」
困ったように自分を見上げる夏夜に口元を上げて答え、橙子に返した。
「いただきます。」
橙子がコーヒーを入れているうちに、スキャナーが音をたてた。
隆にカップを出して、「きたね」と送られてきた書類とP Cの画像を見る。
「うーん…そっか…」
思わず唸るような声が出て、腕を組み口角を左右に張った。
一口コーヒーを飲んで隆が聞く。
「橙子さん、どうかな。」
「橙子姉様、」夏夜はちょっと不安そうだ。
「膝は画像から見ても、疲労性の炎症。でもこれ、放っておくと水が溜まるわ。
今日から安静にして抗炎症剤を飲んで。5日分処方する。」
「安静にして薬を飲めば、またジムに行ってもいい?」
「夏夜、それよりもね、血液検査が心配。肝機能が上がっている。多分、筋肉痛と言うよりは疲労。こっちも5日くらいは安静ね。」
「そんなに疲れるほどしてない。」
不満そうに夏夜は言う。
「それは夏夜の気持ちでしょ?体は疲れたって言ってるの。内服が終わる頃、もう一度連れてきてくれる?隆ちゃん」
「あ、はい、それはもちろん」
夏夜の手を引いて車に戻る。夏夜は唇を少し噛んで、黙っていた。
エンジンをかける。
「そんなに噛むと、血が出るよ?」
「5日間おとなしくしているから...またジムに行ってもいい?」
「それは5日後に橙子さんに聞いてからだな。」
「無理はしないから...絶対に。」
ため息をついて、動き始めたエンジンを一旦切る。
「あのな、夏夜が何か悩んでいるのは知ってるよ。ジムに行くって言い出したのもそれが関係しているんだろ?」
「.....」
「理由は夏夜が話したい時でいい。でも。焦らないでいい。」
「焦ってなんかいない。」
「焦ってる!!あれだけの大怪我の後なのに、今はこんなに歩けてる。
なんで自分を認めてやらないんだよ?」
夏夜は大きく息を吸い込んで黙ってしまう。
「俺にとって、綾女やたくにとっても、夏夜が今いてくれることが最高に嬉しいのに、夏夜がいちばん自分を大事にしてないだろ?」
「だって....」
「とにかく、5日間は家から出るのはだめだ。膝の腫れが治るまで、できるだけ横になっていろ!」
珍しく命令口調だった。
「寝てなくてもいい。家事なら春江さんやお義母様と....」
被せるみたいに夏夜の言葉を遮った。
「だめだ!!」
そのまま、互いに口を聞かず帰宅した。
夕食の場で、隆は父母そして春江さんにも、夏夜の足のことを話した。
夏夜は隆が家族にも説明すると言った時もとても抵抗した。
ただの疲れだから。寝ているほどではない。家事はできる。と繰り返して。
隆は困ったようにため息を吐いて、ベッドに座る。
「なぁ、なんで今、そんなに頑張ろうとすんの?」
「頑張れば、きっと今より歩けるようになるから。」
「でも、それで体に支障が出るのは違うだろ?」
「支障なんかもう出てる!こんなから…!」そこまで言って夏夜が急に黙った。
ぎゅっと拳を握り自室へ行ってしまった。
ベッドの上にゴロンと寝転がって隆は思う。『こんな体.....だろうな。』
遥が屋上での一件の後、言ったことはこれだ。
「『自分も周りも期待して、その度に現実を付きつけられる』か....さっそくだなぁ」そのまま目を瞑った。
夜半に疲れたような諦めたような様子で、夏夜は寝室へ戻ってきた。
先にベッドで本を読んでいた隆に、5日間は必ず静かにしているから、その後はできるだけ前向きに橙子と相談して欲しいと言う。
そうやって、ジムにこだわる事が後ろ向きになっていると思ったが、とりあえず承諾した。
なんと言っても夏夜だ。やるといったら納得するまでねばるだろう。
5日間は泣きたいくらい長い。
その間、雨が降った日が二日あったのに、バス停にも行けない。
違う、隆はもう雨の日でもバスは使わずに帰ってくるんだった。
車はジムの駐車場に置いて、そこから大学行きのバスがある。
夏夜のために準備したような車だから、こんなふうに思うのは矛盾しているとは思うが、なんだかまた置いていかれたような気がした。
みんな変わっていく。隆も匠も綾女も。
夏夜だけが取り残される。だから『かわいそう....先輩』だ。
取り残される夏夜に隆が付き合っていなくてはならないから。
五日後、夏夜は朝から病院に連れて来てもらっていた。朝一番の予約をとったのだ。
「おはよう。検査結果、出来てるわよ。」
橙子の診察室には隆も同席していた。
「おはようございます。ごめんね、橙子さん朝イチで。」
隆は少し申し訳なさそうだ。
「いいの、予約制で患者数はコントロールしているし、ここは四家のためのところだから。」
この病院は四家に関わる者のための施設だ。
こじんまりとした雰囲気だが、設備は高度なものを揃えている。
任務に怪我は付き物で、いざトラブルが起きれば、緊急対応と重傷者も多い。
夏夜だってその一例だ。
それに激しい任務のストレスは、怪我だけなく病気だって運んでくるものなのだ。
だからここは、会員制にする事で気兼ねせず、怪我なり病気なりをしっかりと癒すところだ。
それ程に、訓練を積んだ人材は貴重なのである。
「安静守れたわね。肝機能は落ち着いてきている。膝はまだ少し腫れが残っているけど、悪くなっていないから内服は終わり。」
「動いてもいい?」
カルテを打ちこみながら橙子はチラリと隆を見る。隆はまたかと困った顔だ。
「今週やっていいのは屋内の家事だけ。来週、膝の腫れがひいたらジムも行ってみようか」
「わかった。今回はちゃんと守るから。」
「ジムのオーダーの方もね。義兄様に伝えておくから、必ず守って?」
「はい。」
「じゃあ、今日は帰っていいわよ。」
「ありがとう、橙子さん」
夏夜は嬉しそうだった。一旦自宅に夏夜を送り、隆はジムへ行った。
遥にはさっそく橙子からメールが来ていたようだ。
「隆、お疲れさん。夏夜はごねて大変だっただろ?」
「うん、大変だった。」
苦笑が浮かぶ。まじで。
遥は豪快に笑って「大変なやつを嫁にしたなあ。俺と一緒だ」と言う。
隆も「ほんとだよ。」と返して、きっと今度は、オーダー通りにすると思うからと付け加える。「なんで焦るのかな」ポツリと言っていた。
そんな隆を見遣って、「何かきっかけはあったんだろうが、夏夜はきっと置いてきぼりみたいな感じがしているのかもな」遥はそう言った。
隆たちは置いて行ったりしないのに。
ジムの後のカフェで、今日の診察結果の報告がてら匠と綾女と会っていた。
「大変な嫁」に匠も綾女も大笑いしている。
「そっか....遥さんも大変なんだ。秋さんには内緒だな」
「控えめに言って、じゃじゃ馬姉妹ってことよね。責任重大よ、隆。
しっかり手綱を握っていないすっ飛んで行くわ。ついでに、手綱が握られていると知ったら噛みつきにくるから!」
久しぶりに大声で笑った気がした。
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