第10話 きっかけ

 隆たちの気負いがなくなったせいか、夏夜は以前のように匠や綾女と笑っている。四人でピリピリせずに大学の講義や試験の愚痴も話す。

隆との会話も多くなっていた。


「今日の帰り3時過ぎだけど、何か欲しいものとかある?」

見送りにきた夏夜に、バイクに跨がりながら聞く。

「紅茶、買える?もうちょっとで無くなっちゃうの。」

「わかった、いつものでいいの?」

「うん。行ってらっしゃい。」

当たり前の朝なのに、やっぱり嬉しい。だって夏夜は普通にしているから。

手をぎゅっと一回握って出掛ける。

本当は手だけじゃなくて全然良いけど...


その日の昼、学食で声をかけられた。

「月嶋先輩、課題終わりましたか?」

ゼミメンバーの女子だった。名前.....思い出せない。


 去年までのアルバイトのおかげで声をかけてくる手合は多い。

四家では、学生時代のアルバイトはかなり寛容に認められる。色々な業種は世間知を知ることになるし、万が一家業を継がないなんてことがあった場合にも役に立つからだ。隆達も中学からモデル事務所に所属して、それなりに忙しく過ごしてきた。

夏夜の縁談に申し込みをすると決めた時に、アルバイトはすぐに辞めた。

どっちにしてもそろそろだったし。

「ああ、終わってるよ。」

「あの、少し教えてもらいたいところがあって。」

「いいよ。今なら。」

「今は資料がないので....今日の夕方。とかは?」

ほら来た。面倒だ。名前も知らないのに。

「授業が終わったらすぐに帰るから。ごめんね。」

「そうそう。隆は基本、すぐに!帰るんだ。」

後ろから、からかうように話しかけてきたのは匠だった。

「課題、僕が教えてあげようか?」

隆が面倒がっているのを見て、助け舟を出したらしい。

「え、でも…ゼミのなんです。あの、月嶋先輩、30分だけでもダメですか?」

「買ってくもんあるから。課題がんばってね。」

「お買い物の後でもいいんです。」

なかなか、食い下がるな...

「いや、買い物してすぐに帰る。ってか、教えて欲しいなら教授が一番いいんじゃない?」

彼女はスッと耳元に近づいて

「....あたし、先輩と付き合いたいんです。あたしじゃ不足ですか?」

にっこりしている彼女のこの自信はなんなのだろう。

「はぁ...あのさ」

「隆は妻帯者だけど、不倫希望ってことかな?それともセフレ?」

隣にいた匠が言った。口元は笑っているが目は冷たい。

女子がポカンと口を開けた。

「え...妻帯...って結婚してるってこと?嘘...」

「嘘言わないし、法的にも問題ないでしょ。こいつの家には大事な大事な恋女房がいるよ?」

「たく、お前なぁ....恋女房って....」

匠を殴る真似をしながら、にやけてしまう自分がいた。

「ね?こんな感じ。」

隆の手をかわしながら匠がまたからかう。

「サイテー!聞いてない!」

そういうと名前も知らない女子は隆と匠を突き飛ばすようにして去っていった。

「サイテーって…俺のプライベートなのに?」

やっぱり面倒くさい。匠は隣で苦笑している。

「まだまだイケるな、RYO、所帯臭くないってことか。」

モデル名を読んで隆を突っついた。


 それから、数日して隆が自宅まで戻ってくると、ゼミのメンバー数人が家の前に来ていた。今年入ってきた留学生までいる。

その中に学食の女子がいる事を隆はすぐに確認した。

「こんにちは〜月嶋先輩の奥さんを見にきました〜!」

一年下の男子が陽気に言う。

「幼なじみさんなんですよね?」

高等部の同級生に聞いらしい。久坂部学園に入れば仕方ない。

急に学校に来なくなった夏夜のことは、かなり噂になっていたから。

しかし自宅まで来るなんて。

この間の女子が煽動したみたいだな。

「ああ、隠すことじゃないし、その通りだけど?」

ワッと声が上がる。

玄関先で賑やかにされても迷惑だし、納得して早く帰ってもらった方が良さそうだ。

「で?ちょっと彼女の顔見ればいいの?」

大きくため息をついて聞いた。

彼らは正門から入ってもらい、隆はバイクを停めに裏に回る。

オロオロした留学生が着いてきた。

「君はあっち」

正門を指さすと、慌てて迷惑なメンバーの方へ行った。

裏にはあまり人を寄せないことになっている。緊急時に使うこともあるからだ。

そのまま裏口から家に入り、夏夜に事情を話した。

夏夜は戸惑ったような困ったような顔をしていたが、幸い綾女が来ていて一緒にいてくれると言うと諦めたようだ。

夏夜と綾女を伴って客間に行く。

春江さんが飲み物は出してくれたらしい。

一瞬静かになったかと思いきや、すぐに賑やかになる。

「AYAME!?」

「えー磁村先輩が?」

「いやいや、後ろの人でしょ?」

隆のうしろに隠れるようにいる夏夜をさす。

夏夜がペコリと会釈した。

挨拶をしようとすると隆が止めて

「はい、顔見たでしょ?じゃ終わり。」

「先輩、名前くらい教えてください。」

「幾つなんですか?」

「大学は行ってないの?」

口々に夏夜に詰め寄ってくる。

「こんなに早く結婚したのは、先輩との家繋がりですか?」

例の女子だった。

「え?…半分くらい...は?」

夏夜が隆を気にしながら答えた。

客たちがどよめく。

「さすが!!御曹司」

「ガチで今でもあるんだ?」

「マンガみたい!」

また勝手なことを言い合っている。

「とにかく、もう終わり。はい帰って。」

素っ気なく隆が言って、学生たちは渋々正門に向かって行った。

最後まで夏夜の前にいた例の女子が、夏夜を上から下まで見て言った。

「奥様、脚が悪いんですか?かわいそう...先輩。」

そうったのを聞き逃さなかったし、夏夜の様子が変わったのも綾女は見逃さなかった。


「さっ!夏夜、お茶にしよう。今日は私が淹れるね。」

夏夜の手をつかんでキッチンの椅子に座らせた。

騒々しい彼らを掃き出すように送り出して戻った。


 綾女とお茶の準備をしている間の夏夜は、一見したところいつもと変わりない。

わざわざ「あの子、いやらしい」とは綾女は言わなかった。

さっきの女子の言ったこと、隆は気がついてるかな。

隆は買ってきたプリンの生クリームを掬って、夏夜の方に載せている。

口をつける前に自分の分の生クリームも夏夜のに載せた。

「いいの?すっごくゴージャスで嬉しいけど」

笑いながらプリンを口に運んではいるが。

うん。やっぱり無理してる。

まず今日のことを隆に聞いてから、あの子のことは考えよう。

と思いつつ、綾女は情報収集の段取りを検討していた。


 今日の綾女は夜のトレーニングセンターに隆の時間に合わせて行った。

「さっきはお邪魔さま。」

隆の隣のランニングマシーンに入り声をかけた。

隆の隣では匠がストレッチをしている。

「こっちこそありがとな。いてくれて助かった。」

「夏夜は?」

「初めて会う人間が、いきなり大人数で来てうるさかったから、疲れたみたいだ。」

「だよね。あのテンションは私も疲れるわ。誰の差し金?」

「結婚は家の問題かって言った奴だと思う。この間、学校でも絡んできた。」

「私じゃフソクですかってね。隆に迫ってたよ。」

匠が続ける。

彼女は隆に振られた後、久坂部の高等部から内部進学した学生に、夏夜のことを聞き回っていたようだ。

結婚のことは隠している訳でもない。

夏夜が隆の家に入ったことは旧知のものには時間と共に何となく知られてもいたから、情報集めにさほど苦労はしなかっただろう。

夏夜の同級生だった子が、「彼女」が以前から隆と夏夜は付き合っていたのか、なぜ夏夜が高校から姿を消したかをしつこく聞いてきた、と匠に教えてくれた。

この子は、同級生の中では夏夜とは最も親しい子で、匠たちも見知っている。

何度か面会にもきてくれたが、夏夜は面会を拒否し続けた。

夏夜をよく知っていたこの子は、夏夜の気持ちを慮ってくれたらしい。

その後、接触は避けてくれた。

ただ、『例の彼女』の動向が目につき、匠に知らせてくれたのだった。

情報だけ知らせてきたこの子の気遣いは嬉しかった。


「だと思った。何だかギラギラしていたから。でね、あの子。夏夜に嫌味を言って帰ったわよ。気付いてた?」

「何を言ったかは聞こえなかったけど、夏夜はちょっと無理していたな。」

ランニングマシーンから降りて、汗を拭いながら隆が言った。

「良かった。気がついてて。」

「何だか、俺がすごく鈍いみたいな言い方だな。」とちょっと笑った。

「すごくじゃないけど、そういうことろ少し慣れっこだから。」

その日は夏夜が心配だからと、隆はカフェに寄らず帰って行った。


 ゼミの人たちが押しかけて来てから、夏夜は時々、考え込むようになっていた。

静まりかえったあの瞬間、脚に注目が集まったことだって気がついていた。

『かわいそう....先輩』

耳の奥にいつまでも残っている。

周囲からはそう見えるのだ。『かわいそう』と。

夏夜が以前から隆を好きだったのだとしても。隆が望んでくれたのだとしても。

「家」と「怪我」と「かわいそう」がセットなのだと思い知らされる。

もう少し歩けるようになれば、せめて杖がなくても平気になれば、このセットは消えるかもしれない。


 はじめに橙子に連絡した。

ジムに行って良いか。

それから、義父にも聞いてみた。久坂部のジムは夏夜も利用できるのか。

どちらも大丈夫だったけれど、どちらからも無理はしないように釘を刺された。

あとは隆だ。

いつ話そう。

大学から帰ってきて夕方のジムの前か、夕食の後か。

それに、心配をかけないように気をつけなくてはならない。

ゼミの人達が来て、綾女が夏夜の動揺に気がついた様子だったし、隆にだって伝わっているかも。

ジムに行きたいと言ったら、隆は理由を聞くだろう。

理由は言えない。だから考えている。

夏夜の気持ちの問題なのに、まるでゼミの人が悪いみたいになってしまう。

自分のことなのに、自分だけでは決められないもどかしさがあった。


 夕食の席で、義父は夏夜に封筒を差し出した。

「夏夜、さっき出掛けついでにもらってきたから、忘れる前に渡しておくよ。」

「あ、はい。ありがとうございます。」

「申込書には私のサインがいるはずだ。記入が済んだら私か苑ちゃんに渡してくれるかな?」

「はい。」

内心「しまった」と思った。

まだ隆には話していない。

申込書は確かPCからダウンロードできたから、義父が貰ってきてくれるとは考えていなかった。

「父さん、それ何の申込書?」

「ジムだが…」

「夏夜が申込むの?」

「…うん。」

「ふぅん…ごちそうさま。俺、部屋にいるわ」

隆は機嫌が悪くなったようだった。

残された義父母と夏夜は、いたたまれない雰囲気で夕食を終えた。


隆は寝室にいた。ベッドの上にゴロンと転がる。

仰向けのまま、さっきの会話を考えていた。

『何でジムなんて言い出したんだ?何で父さんが先なんだ?』

頭の反対側では『夏夜にだって自由はある。理由なんて聞けばいいじゃないか。家長は父さんだ。決め事はそっちが先だろ』

二つの考えが反発しあっている。

廊下を歩いてくる音がして、夏夜がノックをしている。

「隆こっち?入っていい?」

「ああ」

隆は答えた。

ドアを開けて入ってきた夏夜を、寝転がったまま顔を挙げずに迎えた。

「あの、さっきのジムのこと。」

「....うん」

「少し体を鍛えたらいいかと思って。それで…ごめんなさい。先に隆に言えば良かったね。」

「夏夜がしたいことをすればいいだろ?いちいち、俺にお伺いを立てなくたっていいんじゃない?親父が家長なんだし。」

意地悪い返しをしてしまう。

「でも、怒ってる。」

「夏夜が自由でいいのと一緒で、俺が怒るのも自由じゃない?」

部屋の中の空気がピリピリと張り詰めていく。

夏夜はきっと悩んでいることがある。

それなのに自分だけで何とかしようとしている。どうして一人で何とかしようとするんだ?

「....そうだけど。隆にもちゃんと話そうと思っていて....ごめんね」

「なんで謝んだよ!!俺に言いたくなかったら言わなくていいし、言いたきゃ言えばいいだけのことだろ?どうせ..」

夏夜が息を飲んだのがわかった。

そのまま、ベッドから跳ね起きて、夏夜の顔も見ずに自室へ行き、隅っこに置いてあったキャンプ用のシュラフに潜り込んだ。


「隆、時計鳴ってる。トレーニング行くでしょ?」

起こしに来たのは夏夜だった。

いつも決まった時間に起きるから、ベッドの時計は定期的に鳴るように設定していた。

夏夜はパジャマにストールを羽織って、隆のそばに膝をついている。

「あ、時間か...行くよ」そのまま隆は寝室で顔を洗い、外にでた。


冬も近いこの時期は吐く息が白い。

河川敷で匠と一度合流するが、今日はひたすら走るからと言って別れた。

夏夜の瞼はいつもより腫れぼったくて、目も赤かった。

走りながらため息が出る。寒さのせいではなかった。

「ガキっぽいなぁ。」

自分自身にそう思う。

夏夜もちょっと素直ではないところがあるけれど、自分はもっと素直じゃない。

このままじゃいけない。

走って走って、息が切れるまで走って、家に着く頃には少しスッキリしていた。


夏夜は朝食の支度をする母と春江さんを手伝っている。

少し迷って、夏夜にメールをした。


食卓についたとき、メールに気がついた。

隆からだ。

メールには、少し話そうとあって今日の授業は午後からだから、と添えてあった。

義父母はいつも通りを決め込んでくれている。

「お義母様、後で少しの時間、道場に入ってもいいですか?」

夏夜の問いかけに苑子は「なるほどね」と眉を上げ笑った。

この二人が、夕べ喧嘩になったのはすぐに分かった。


「いつでもどうぞ。もう夏夜ちゃんの道場でもあるから断らなくていいのよ。」


食事が終わると夏夜は道場へ行った。久しぶりだった。

壁にはここに通う人達の名前が納められている。自分の名前がまだ義母の隣にある。

青々しい爽やかな畳の匂いが体を満たす。

正面の神棚に向かって座り、手をついて礼をする。

正座はできないけれど、右足だけはきちんと畳んだ。

しばらく座って自分の呼吸が落ち着くのを待つ。

道場と一緒に呼吸も静かになっていく。

稽古の前と後の、この時間がとても好きだった。

足の裏を擦る畳の感触と木刀のぶつかる乾いた音。

自分には再現できなくなったそれらの音が、はっきりと蘇ってくる。

体を起こして手を組み呼吸する。

しばらくこうしていれば、隆に伝えたいことがまとまると思った。


 夏夜の様子を苑子は自室から見守っていた。

バタバタとこの家に来て、混乱する中で夏夜はなんとか立とうとしている。

隆だって、夏夜を支えたがっている。

立とうとするものと支えたいものが上手くいかないはずはない。

でも、どうやって立ちたいのか、支えたいのかわからないうちは、転んだりすれ違ったりするものだ。

そのうちにきっと呼吸は合っていく。諦めさえしなければいいんだから。


道場から寝室に戻ってみると、隆は何か書類を書いていた。

「どうだった?道場。」

「畳、気持ち良かった。久しぶりだったから...」

いつものように話してくれる。ちゃんと話そう。

少し迷っててから小机の隣にあるソファに腰掛ける。書く手を止めてこちらに向き直った。

「夕べは...ごめん。嫌な言い方した。」

夏夜は首を横に振る。

「歩く練習をしたかったの。鍛えたら、きっともっと歩けると思う。」

「今だって歩けていると思うけど。去年よりずっと。家のことをしたりバス停まで来てくれたりするのだって歩く練習だろ?」

「去年よりはそうだけど、杖を持たなくても良くなったら、もっといいなって」

「そっか。で、ジムの時間は何時がいいの?」

「まだ決めてない。けど、バスのある時間。ジムに行ってもいいの?」

「うん。反対はしない。無理しない程度なら。」

「よかった…ありがとう。」

ホッとしている夏夜を隆がじっと見つめている。

「夏夜...これからは、できれば俺に一番に話してくれないかな。

夏夜が誰かに自分で言いたいことはそうしていい。俺が先に言うことはしないから。

相談してくれると俺にも何かできるかもしれないだろ?俺も夏夜に一番に話すから。」

「うん、私も隆に何かできることがあるかもしれない」

「実はたくさんあるんだ、夏夜にできることは。とりあえず手貸して?」

オズオズと夏夜は片手を差し出すが、隆は笑って両手を取った。

隆が両手を包む。

子供の頃から知っていて、いつの間にかずっと大きくなった手だ。あったかさは変わらない。


隆は思う。

『なんで俺はあんな約束をしてしまったんだろう....』

「ジムの時間はバスに合わせなくていいよ。今これ、進めてるから。」

そう言って、隆はさっき書いていた書類を見せてくれた。

「車庫証明?」夏夜は首を傾げている。

「バイクがあるのに、車も買うの?」

「車があればもっと出かけられるだろ?

ジムにも、バスを気にせずに行ける。ドライブにだって。

父さんとも相談済み。バイクを売っても援助してもらうから、夏夜たちにはバイクの時みたいに、買って貰ったって笑われるな」

「.....」

「夏夜?」

夏夜は泣いていた。

大粒の涙がコロコロとこぼれるみたいに。

「だって、バイクは…大事な…」言葉が続かなかった。

「…今はバイクよりずっと、大事なことがあるんだ。」

隆はそう言いながら、やっぱり自分のした約束は失敗だったと思っていた。

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