第9話 これからの時間

 夕方のトレーニングの後、隆は匠と綾女とカフェで落ち合った。

今日の夏夜のことを匠と綾女に話していた。

「だいぶ、元気になったみたいだな。外出たのは家出以来?」

「うん、春江さんに押された感じだけど。」

「なら、たまにはここに来てお茶すればいいのに。連れてきてよ。」

綾女がいう。

隆だってそうしたかった。

夏夜はバイクの後ろに乗れるのか?

突然の里帰りからの夏夜は随分落ち着いて、夜は眠れるようになって、食事もできるから顔色は明るくなった。

それでも、ほとんど自宅から出ることはない。隆は雨が降れば良いとさえ思っている。

またきっとバス停まで来てくれるだろうから。

話をするようになってからに気なるのは、なんだか他人の顔色を伺うようになった気がすること。よく口から出るのは「ごめんね。」だ。

前はそんなこと言わなかったのに。

 元々、学業の心配は全くない夏夜だったから、高校の卒業試験のあとは大学へ進学するものと隆は思っていた。

月嶋家でも大学の費用を負担するのは当然と思っていたようだし、実家の神崎からも費用を負担したいとの申し出があったと聞いている。

それなのに、夏夜は大学に行くとは言わなかった。

父母に進学の話を振られると、困ったように俯いてしまった。

そのまま時間が過ぎて、家事を手伝いながら自宅にいる。

出かけるとすれば、退院後の定期受診くらいのものだ。

だから今日、隆を迎えにバス停まで夏夜が一人で来たのはびっくりだった。

「まだ外に行くのは、厳しいか。」

匠は少し心配している。

静かにいるのもいいけど、そろそろ外に出る勇気がいるんじゃないか?

時間が経てば経つほどに臆病になるのではないだろうか。

「映画だって、なんだっていいだろ?歩かなくてもできることはあるんだから。」

「ああ、少し出た方が良いとは思う。でも、無理強いするのもな。」

夏夜が人前に出たがらないのは、自分の負い目を気にしているからだ。

以前と比べられることを。

残った傷を見られることを。

できないことを知ることを。


退院前の屋上から夏夜が見ていたのは、病院先の坂上にある久坂部学院から帰る生徒たちで、あの日、夏夜は自分がなくしたものを見ていた。

空港のトラブルの後、夏夜は同級生との面会を頑なに拒み、家族と隆たち以外とは極力面会を避け続けた。

夏夜が隆の家に入ったことは、まだ関係者の一部にしか知られていない。

隆はふっと深呼吸をした。

そうだ、元気ならそれで何もかも「良い」わけではない。

体に少し支障はあるが、心配されていた脳への後遺症はない。

それに左の目だって移植ができた。

夏夜の生きていく時間は、まだまだあるのだから。

このまま家にいるだけではもったいない。


 夏夜の才能は遥の折り紙つきだった。

それが発揮されたのは、隆の知る限りで六歳だった。

月嶋と神崎のプランニング会議の場に隆、匠、綾女、夏夜の四人はいた。

プランニング現場に四家の長子は七歳からできるだけ入るようにされる。

早くから仕事に関わることは英才教育の良い機会となるのだ。

長子ではない夏夜が居たのは、たまたま神崎の家で会議が行なわれたから。

ただそれだけ。お手伝いの咲さんは予定が合わず、秋華は家を空けていた。

 その日、筆頭プランナーの遥と隆の父親、それに津島と奥井が居た。

津島は神崎の、奥井は月嶋の執行部のリーダーだった。

警護対象の移動ルートの中に一つだけひっかかる窓があった。

この依頼は一般の人間には知られてはいけない事情があり、車が通過する交差点ポイントにそれがあるのだ。

数日前から工事を装って通行を制限することはできるが、最小限の人間で動かすのがプライベート警護の鉄則だ。

関わる人間が多ければ多いほど、連携に隙も出る。


 件の窓は雑居ビルのトイレの個室にあり、現場を確認した津島によると、半開きの窓から通過する車を狙うことが可能だと言う。

例えば銃身の長いライフルや、真下に投げることができる爆発物。

個室に入ってしまえば、厄介なことに警護する側からの攻撃は防ぎやすい。

この任務のために窓を塞ぐのはかえって目立ってしまうし、トイレ自体を長期間塞ぐのはもっと目立つ。

仮に、この個室自体を塞いだとしても、どうにかして入りこまれれば面倒だ。

たった一つの雑居ビルの小窓が、大きなミスの元になることを、四人はよく知っている。

悩む大人たちを、隆たち三人は大人しく座って見守っていた。

夏夜は、幼馴染みと自分の立場は違っていると知っていて、お茶の支度をする遥を手伝ったあと、当時飼っていた犬と庭で遊んでいた。

庭に面した窓から飛び込んだボールを追いかけて、犬と一緒に室内に入ってきた。

重苦しい雰囲気を感じたのだろう。

キョトンと大人たちを見回して思わずと言った感じで聞いた。

「義兄様、困ってるの?」

腕組みしていた遥は夏夜に優しく事情を話し、図面を指した。

「ほら、ここだよ。」

すると夏夜は伸び上がるようにして、テーブル上の図面をじっと見てからニコリと笑って言った。

「ここにウールーが入ればいいのにね。きっといっぱいボールを置いたら、悪い人も転んじゃうし、ウールーも楽しいのに。ねっ、ウールー!」

無邪気に犬をなでながら

「ウールーならできるよ。」

そう言った。

大人たちは一斉に犬を見る。

ウールーとは、夏夜が拾ってきた大型雑種犬で、夏夜の一番の仲良しだった。

おそらくシェパードか何か入っていて、その割にモサモサと毛が多い。

デカくて大食いだけれど、賢い犬だと遥と津島はよく言っていた。

「そうか。警察犬、それに足元....」

遥が目を細めて夏夜とウールーを見る。

要は狙うだけの集中を作れなければ良いことと、怯ませる対象がいればいい。

車が通過するのは一瞬なのだから。

遥は夏夜を抱き上げて、

「よく見えたな。夏夜。」

そう言って誉めたけれど、ウールーは遥が目を細めた途端、叱られると思ったらしい。慌てて庭に逃げ出して行った。


 神崎の家から帰る車中で、父と奥井が夏夜をほめていた。

「まだ六歳でしたか?夏夜は。なんの教育も受けていないんですよね?」

「ああ、あれは三人目だから。しかし、あの目は遙君を超えるかもしれないなぁ。」

楽しそうに父は語っていたが、隆は少しモヤモヤした気持ちだった。

遥や大人たちにほめられる夏夜に、少し悔しいような羨ましいような気持ちがした。

「あんなのたまたまじゃないか」

口をとんがらせてつぶやいた隆の頭に、父は笑って手を置いた。

「悔しいか。隆?」 


 それは匠も一緒だったようだ。

匠が自分の気持ちを母親に話すと

「それは嫉妬と言って、心を乱す感情の一つだから、そんなものは捨ててしまいなさい。」

ときつく叱られたらしい。当時の話になると匠は決まって言ったものだった。

「まだ七つのいたいけな子どもに、嫉妬を捨てろって言うか?ホント、無茶苦茶だ。」

匠がいたいけな子どもだったかは置いておいて、三人はかなり注目されていたし。


結果、対象車両が通過する時刻に火薬に敏感な警察犬をトイレの個室内に配備し、床にはトラップを仕掛けて(要はパチンコ玉をばらまいた。)

司令車から監視カメラをチェックするだけで事はすんだ。

それ以降、夏夜は許可が得られれば会議に参加するようになった。

長子に限らず、才能があれば伸ばす。

そうやってこの四家は永年の実績を作ってきたのだった。

七歳になると、遥は夏夜に積極的にプランナーとしての教育を始めた。

この時期、本来のやり方ではパズルや本を使って教えることが主であったが、遥はCGや過去の事例や写真などを見せて、絵本でも読むみたいに進めていた。

隆たちも一緒に入ることもあって、、夏夜は任務への興味を一種の遊びのように楽しんで吸収した。

 一方で秋華と橙子は、夏夜がプランニングだけに打ち込むのはまだ早い、とも考えていたらしい。

秋華に相談を受けた隆の母苑子は、自分の稽古場に夏夜を寄越すことを提案した。

派手ではないが、礼儀や技を身に付けるお稽古の一つとしてどうかと。

それから、夏夜は十年にわたり月嶋の敷地内の道場に通っていた。


隆の母に習っていた古武術の稽古も、脚が要となるだけに今後の継続は難しい。

夏夜が家で静かに暮らすのが悪いとはいわないけれど、何か楽しめることがあればいいとは隆も思う。

まずは人前に出る機会を作る事かもしれない。

話をする相手が幼なじみの三人と親族、家にいる者だけでは、匠の言う通り時間が経つほどに臆病になるだろう。


 隆は思い切って、医療センターの橙子に連絡をとった。

橙子と夏夜は毎月の定期受診で会っているはずだが、隆は三ヶ月ぶりになる

夏夜が退院して以来だ。

バイクを駐輪場に止め、リュックを掛けて橙子の部屋へ行く。

ノックをすると、すぐに応じる声がして橙子が迎え入れてくれた。

「隆ちゃん、久しぶり。」橙子は溌剌と笑う。

「お久しぶりです、橙子さん。忙しいのに時間貰っちゃって。」

「いいの、私もお宅での夏夜のことも聞きたいから。何飲む?」

「コーヒーもらえる?あとこれ。」買ってきたケーキを渡す。

「ありがとう。あら、このお店。夏夜が好きなところね!この時間、甘いものが欲しくなるの。一緒に食べよ。」

ケーキを皿に移し、コーヒーをたっぷり入れたマグカップを隆の前に置いた。

「夏夜はこの間、家出したのよね?風邪はひいてない?」

ソファにかけると橙子は話し出した。

「家出」なんて物騒なことを言う割に、深刻さは感じさせなかった。

「申し訳ありません。俺が至らなくて....」

「あら、そんな事言ってないわ。私は夏夜の回復に驚いたの。

だって隆ちゃん家から、うちまでは歩くと30分くらいでしょ。夏夜はその距離を歩けるようになったんだなぁって。入院中はそんなに歩けなかったもの。」

「橙子さんは面白い考え方するね。医者だから?」

「うーん?医者って引き算で考えるからね。

それに前に隆ちゃんたちに言ったわ。免れたことやできることを喜んでって。」

夏夜の容態を初めて説明してくれた時だ。

「そんな感じでいいのかな。俺ね、夏夜が外に出たがらないことが心配で、今日来たんだ。」

「隆ちゃんが夏夜を心配してくれるのはとっても嬉しい。

綾女ちゃんも匠ちゃんも。でもね、焦らないでほしいの。

退院してまだ三ヶ月だもの。

縁談があって月嶋の家に行って、いろんなことがあったから時間が経った気がするけどね。」

『なんだ、二人もかよ』

自分たちの行動パターンに力が抜ける。

「うん。ありがと、橙子さん。」

そう言って買ってきたケーキを食べた。

橙子に会ってホッとした。

以前のように匠や綾女に家にきてもらおう。

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