第8話 はじめの一歩
慣れた匂いに包まれて目を覚ました。
薄暗い天井を見つめる。
家に帰ってきたんだった。
昨日は義兄が作った夕食を食べて、姉様と話した。
口にしてみると、胸の奥に閉じ込めていた悲しいことは、とめどなく出てきて、暴走するみたいに話した気がする。
入り口脇の椅子には姉が置いたのだろう、生成りのシャツとデニムのロングスカートがあった。夏夜が実家に残していったものだ。
それに着替えてリビングにいく。姉のパジャマは洗濯籠に入れた。
遥の割烹着姿が見える。今日はさきさん休みなんだ。
秋華はテーブルで先に食事をとっていた。
片手に新聞。
「おはよう」秋華と遥がほぼ同時に言った。
「おはようございます。」
「さて夏夜、食べよう。」
遥は割烹着のまま、自分で作った食事を食べ始める。
今朝は、パンケーキとメイプルシロップ。ミルクティーとスクランブルエッグに添えられたケチャップ。
それにサラダにりんごが一切れついている。
小さい頃、りんごはいつもうさぎだった。
夏夜が子どもの頃から好きな義兄の朝のご飯。
親しんだ朝の景色。
姉の片手の新聞をちょっとだけ、嫌そうにする義兄。
コーヒーを手に秋華が言った。
「今朝は帰りなさいね。」
「...はい。」
きっとそう言うだろうと思っていた。姉様の立場なら当たり前だ。
パンケーキを一切れ口に入れた。口いっぱいに少し苦味のあるシロップの香りが広がる。
「....それで...きちんと月嶋の総代に許可をもらったら電話して?
私はお昼までの用が済んだらここにいるし、遥も今日はいつでも迎えに行けるから。」
夏夜は姉の顔を見る。フォークからパンケーキがポトンと落ちた。
「......」
秋華は、コーヒーを飲んでいて、目線は合わせないようにしている。
遥がウインクしてよこした。
目の前がぼやけてきた。
てっきり「帰りなさい。」で終わりだと思っていたから。
「はい」
口の中のパンケーキがしょっぱくなる。
「食べたら送るわ。」
秋華だけと思ったが、割烹着を外し、ジャケットを着た遥も車に乗り込んだ。
秋華も遥も仕事の関係でオフィスからインターネット会議をする事はよくある。
今朝も依頼者との時差で、これから会議なのだろう。
今来てるのはどんな依頼かな。プランニングリーダーは姉様?義兄様?
ああ、もう自分には関係なかったんだ。
まだずいぶん早い。ひどく冷え込む朝だ。
秋華は夏夜の薄いシャツの上に、夕べかけてくれたストールを着せ掛け、
「持って行きなさい」
そう言って少し微笑んだ、
このストールは姉が気に入っているもので、秋華がいつも使っている香水の香りがした。
車の中で秋華は何も言わず前を向いたまま。ハンドルは遥が握っている。
夏夜には昨日までの息苦しさはない。
昨日、秋華が抱いてくれた肩はまだ暖かい気がした。
隆が萩の植え込みまで迎えに行くとそこに夏夜の姿はなかった。
PCと木の枝にかけられたジャケットがまだ濡れずにあった。
隆はポケットから携帯を出していた。
夏夜がどこに向かったのかは、わかるような気がした。
ただ、今の夏夜の体調と歩行の状況では、どれだけ時間がかかるかを考えると不安になった。
とりあえず電話をしておこう。本当なら秋華に連絡をするべきだ。
少し迷う。
自身を含め、何事にも厳しい秋華に連絡を取るのは夏夜にとって良いのか?
結局、秋華ではなく遥の名前をタップしていた。
電話を切ってから、隆は少し考える。
窶れた夏夜を見て、もう月嶋には託せない、秋華はそう思うだろうか。
夏夜はもう戻りたくないと言うかもしれない。
家入の儀式で着ていた真新しい白い平絹の着物に帯は無く、夏夜はしがみつくみたいに着物の合わせを片手で掴んで、強張っていた。
ひと膝にじり寄ると、それでも平伏した、
背中が小さく震えていた。
こんな形でと思うとつらかった。
それなのに、薄い生地からうっすらと透ける肌に自分が興奮しつつある。
自分の手だって震えていた気がする。
しかし、ここまできたからには、済ませるしかない。
平伏したままの夏夜を起こすとハラリと着物の前がはだけた。
目を閉じて唇を噛んでいた。
諦めたんだ。
家入の儀は家同士のことでここまで来たら、止める術はない。
離婚にするなら儀式の後に家から家へ伝えられるのだから。
身体中の神経が一箇所に向かい、血液が流れ込んでいく。
自分の意識も途切れ途切れで、全てが終わった後に、虚無感が襲ってきた。
俺は何をしてるんだ?これが望みだったのか?
あの夜のように何もかも諦め、心を押し殺して、この家で生きていくのだろうか。
長子に嫁いだという役目のためだけに。
そんな夏夜であって欲しくない。
遥から、連絡が来たのは夕暮れだった。
この時間までかかって....雨に濡れて寒かっただろう。
すぐにも駆けつけたくなる。
でも今は待つと決めた。
きっと帰ってくる、そう信じるしかないと思った。
隆の目覚めは日が昇る前だった。
一晩中時計の針を眺めて、朝方にうとうとしたらしい。
雨は上がったようだ。
思い切って正門に行く。夜半にきた遥からのメールには、秋華は朝になったら、一旦夏夜を帰宅させるつもりだとあった。
こんなに早くは来ないかもしれない。
でも、もし、夏夜が帰宅したら、自分が出迎えたかった。
朝日と一緒に靄が立ち昇る。
遥の車が門の前に着き、降りてきた夏夜が隆を見上げている。
肩のストールを掛け直してた秋華に促されて、夏夜はゆっくりと階段を上る。
登り切るまで待って、夏夜が口を開く前に隆は言っていた。
「おかえり。出かける時はあったかくして行った方がいい。風邪ひくだろ?」
「ごめ」
言いかけた夏夜に、自分の上着をかけ手を差し出す。
「手だけ....ダメかな?」
夏夜はちょっと躊躇ってから、手を載せた。その手を隆がそっと握る。
振り返ると秋華と遥が夏夜を見送っている。秋華が隆にゆっくりと頭を下げる。
隆はそれに目礼を返して、夏夜の手を引いて家に入った。
朝の冷気で、握った手は冷たい。
「朝、食べた?」
「うん。義兄様のホットケーキ。」
「そか、じゃ、あったかいお茶淹れよう。」
朝食の席、義父母はいつもと変わりなかった。
熱い紅茶に少しミルクを入れた。
出されたいつものカップは、夏夜が実家で使っているものと一緒だった。
この家族がどれだけ自分を気遣ってくれていたのか、やっと見えた気がした。
庭に隠れるのはもうやめよう。
今朝は晴れていたのに、昼過ぎから雨が降ってきた。
洗濯物を畳んでいると、春江が呟く
「あらまあ、隆さん傘ありますかしらねぇ?雨ですから、バスで帰ってくるはずですよ。」
夏夜は手を止めて答えた。
「あの、今朝もバイクで出掛けました。」
隆は高校2年で、昔から欲しがっていた中型バイクの免許をとった。
幼馴染みの三人に、親に買ってもらったのだろうとからかわれると、モデルのバイト代を全て貯金していたと笑っていた。
大学にはそのバイクで通っている。
「隆さんは夏夜さんが来てから、雨の中バイクを使うのはよしたんですよ。事故でも起こしたら、と思うのでしょうね。」
ちょっといたずらっぽく春江さんは笑う。
子どもの頃から隆を見ている春江さんは、何もかもお見通しなのだ。
でも、その行動の変化は夏夜のことだけではなくて、これから入るようになる任務にだって関わっているはずだった。
「バスは公園の通りの停留所ですか?」
「ええ。夏夜さん、傘お願いできますかしら?出かけるならレインコートを着てくださいね。」
素直に淡い若草色のレインコートを着て、バス停まで出かける。
ポケットに携帯と財布を入れ、杖を持つ。
公園通りまでは、緩やかな坂道を抜ければ間もなくだ。
坂道沿いに少し早いサザンカが咲いている。
どこかに金木犀があるのか、雨で香りが強く香ってくる。
バス停に着く頃には雨が止んだ。
「行き違ってはないよね...」
ふと、不安になった。夏夜の足の進みはゆっくりで、傘をさしながら濡れた坂道を下るのは、上がるより滑りやすく気を遣う。
坂を降り切る頃には息があがっていた。
バス停に着くと、公園の車止めに腰かけた。
思わず、はぁとため息が出た。
やがて到着したバスからリュックを肩にかけた隆が降りてきた。
「あれ、夏夜?」
少し驚いている。
「お帰りなさい。春江さんが雨の日はバスだって。傘、持ってきたけど雨止んじゃったね。」
「そっか、春江さんかぁ。あ、坂道きつくなかった?」
少し照れたみたいに隆は笑った。
「少し。」
夏夜が腰をあげようとすると、隆はそれを止めて
「ちょっと待ってて。」
そう言って公園内の自販機からココアを買ってきた。
「ミルクティー売り切れてた」
ボトルの蓋を開けて夏夜に渡す。
「あ、ありがと。」
隆も夏夜の隣に腰掛けて一口飲んだ。
夏夜は両手でボトルを包んで頬に当てている。
「外で飲むの、久しぶり。」
そう言ってニコリとしている。
夏夜がこんな風に笑うと、胸の奥がじわりと温かくなる。
まるで前みたいだ。
約束さえなければ、抱きしめたいくらいだ。
なんであんな約束したかな。
ココアを飲み終わると傘を持ち、手を差し出して
「帰ろうか」そう言った。
それがあまりに自然で、つい手を繋いだ。
帰る道々の隆は夏夜の言ったことを考えていた。
『外で飲むのは久しぶり。』だよな。
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