第7話 心のうちがわ  

この部屋に入るのは久しぶりだった。夏夜が月嶋へ行ったから。

通学鞄は机脇の棚に入れてある。

片付けられた机の片隅に使い込んだ仏和辞典。

その隣には隆、匠、綾女とウールーが一緒に写った子どもの頃の写真。

母との写真はその後ろに隠すように置いてある。

シーツを出そうとクローゼットを開けると、高校の制服がかけてあった。

自分の通っていた頃はセーラー服だったが、ブレザーに変わっていた。

『高校生だったのよね、まだ。』

一番下の棚から気に入っていた、薄いブルーに白い花が一面にプリントされたシーツと揃いの枕カバーを出した。

クリーニングの袋から出してベッドに敷く。

畳んであった羽毛布団を何度かバタバタと揺すって広げ、少し窓を開けて換気をした。

まだ雨が止まず寒いくらいだったからオイルヒーターもつける。

ふと、窓の外をみながら唇を少し噛んで考える。

ヒータからはチョロチョロとオイルが流れる音がし始めた。

この家から月嶋の家までは車で10分弱だ。歩いたら30分はかかるだろう。

まして、夏夜の足ではもっと掛かったに違いない。あんなに冷えて....


そろそろ夏夜が風呂から上がる。早く休ませたかった。

パジャマは結局、自分のを出した。


リビングに戻ると味噌の香りが漂っている。

味噌汁には大根とわけぎを散らしている。

小さなおにぎりと温めた小さい豆腐に大葉味噌をのせたもの、ほんの少しの香の物が細かく刻んで添えられている。

体に負担のない消化の良さそうなものだ。

秋華がキッチンに入ると同時に、夏夜が浴室から戻ってきて、所在無い様子でリビング入り口の手前で立ち止まった。

「お布団できているから。休みなさい。」

「...あの...ごめんなさい..」

ふぅとため息をついて秋華は

「湯冷めしないようにして。」

「はい」

蚊の鳴く様な声ってこういうのをいうのね。そう秋華は思った。

夏夜は疲れた様に部屋へ向かっていった。

「ほら秋。これ持っていけ。熱いうちに食べるように言ってくれ。こっちはお前の分。俺は先に休んでるから。」

遥に促されて食事の乗ったお盆を持った。味噌汁腕は秋華の分乗っていた。

「あなたも一緒に行かない?」

「あのなぁ、秋。『自分のことは自分で』ってよく言ってただろ?夏夜に。

ちゃんと伝わるから大丈夫だよ。」

「でも....間違ってしまったら、あの子また泣いてしまうわ。」

「その時はまたやり直せばいいよ。じゃ、ごゆっくり。」

そう言って遥は引き上げていく。とひょっこりと顔を出して

「間違ってしまった秋が泣く時は、俺の胸でね。」

もう一度秋華は大きくため息をついて、夏夜の後を追った。


ノックをして部屋に入る。夏夜の返事は待たなかった。

妹はまだ座ることもせず、ぼんやりと立っている。

「遥から。あったかいうちに食べてって。」

ベッド脇のテーブルにお盆を置いて、夏夜をベッドに座らせる。

「はい。ごめんなさい。」

ベッドに座らせたのは、食事を取ったらパ

タンと倒れてしまうのではないかと思ったからだ。

それほど、やつれて顔色が悪い。目の下の隈も痛々しい。

「いただきます。」

手を合わせて味噌汁碗を手にした夏夜の肩に、自分のかけていたストールを着せかけた。

夏夜が遥の食事を少しずつ食べる間、同じようにベッドに座り、秋華はじっと見守っていた。

事故からやっと戻った頬の色は、いまは青白い。

以前より目立っている鎖骨。その上にはまだ生々しい傷痕が見える。

「ご馳走様でした。」

そう言って夏夜は手を合わせた。

「美味しかった?」

「うん。なんだか....懐かしかった。」

少しほっとした様子の妹に秋華は続ける。少し落ち着けば多分大丈夫だろう。

「そう、良かった。少し話してもいい?」

夏夜が小さく頷いた。

「隆ちゃんは....優しくなかった?私は彼ならあなたを大切にしてくれると思ったのだけど」

「.....」

「あちらのお家のことは信じているのよ。少なくとも、小此木の家よりは。」

小此木の名を出すと夏夜の肩がピクリと反応して、秋華を見た。

少し迷ったように夏夜がいう。

「....お義父様もお義母様も...今までと変わらない。優しいの。一緒に食事して、お義母様は、私の好きなお料理をよく出してくれる。」

「そう。良くしてもらっているのね。」

「......でも、せっかく作ってくれるご飯を残しちゃうの。

隆はだんだん済まなそうな顔になる。困らせているのは夏夜なのに......」

子どもの頃みたいに自分のことを名前で呼んだことに気がついた。

「か...かやが悪いの...泣いたのも..一晩中眠らないのも....空港で失敗したのも!!津島パパも全部全部......私が..」

一息でそこまで言って、今の夏夜は肩で呼吸をしている。涙がポタポタと夏夜の手に落ちた。

夏夜が物心ついた頃にはすでに亡くなっていた父の代わりに、父の代から居た津島が夏夜を可愛がってくれた。

小さい頃から夏夜は津島をパパと呼んでいた。

もっとも、中学に上がるのを機会に秋華は「津島さん」と呼ぶようにさせていた。

秋華は、震えながら泣く妹の肩を抱き寄せた。

「夏夜。私、間違ってしまったのかしら。」

両腕で自分の体を抱えて泣く妹は、見た目よりもずっと骨張っている。

「ね…姉様は私が…もう嫌?役に立てないもんね.....」

秋華の体に悪寒が走る。

「夏夜......そんなふうに思っていたの?何も失敗なんてしてないのに?」

口の中が乾いて、話の邪魔をする。

「任務に就けないから縁談をすすめたと思っていたの?

仕事には、確かにもう就くのは難しかった。でも違う。

私...私は..あなたが好きな人にまで遠慮して時間が経つのは嫌だった。

その上、この家の名前をあてにする人のところに行かせるのは、もっともっと嫌だった。...だって小此木の.....」

その後は口に出すことはできなかった。

以前から本家への野心を隠しもしない分家は、その長男を夏夜のいる、本家の近くに編入させて、近づけようと画策していた。

その長男の彗亮も、叔父の計画に大乗り気なのも気に食わない。

遅かれ早かれ夏夜に近づいてくる。

空港での出来事は、あの家には絶好の機会だっただろうから。


秋華は賭けをすることにした。

縁談相手を募って、夏夜を大切だと思う人に託す。

案の定、小此木の叔父は飛びついてきたし、彗亮は子供ができなければ凍結卵子でも体外授精でもいいと軽くいう。

凍結卵子が悪いわけではない。簡単に扱われるなんて嫌だったのだ。

秋華にしても遥にしても、今だからこそ夏夜自身を大切だと思う人と、夏夜が想っている人と結ばれて欲しかった。

周りから見れば、乱暴なやり口だったと言う自覚はある。だって目当ての相手は一人しかいないのだから。

帰国際の機内で、月嶋の家長に夏夜の縁談を話したのち、隆が縁談に名乗りをあげるまで、秋華は気が気ではなかった。

夏夜が自暴自棄になってしまったらどうしようと思い、予想より申し込んでくる家が多いことにも内心とても焦った。

だから、体の回復のこと、妊娠のことまで話し、目当ての人間以外をふるい落とした。

早く、託せる人の元に夏夜をいかせなければ。

なるだけ急いで、月嶋へ嫁がせた。

夏夜の傷を大きくしたとも思う。

夏夜は黙って月嶋へ行った。

古くからつながりのある四家には昔からの仕来りがあり、それをよく知っている秋華は夏夜が迎えた家入の儀式の夜、一睡もできなかった。

夏夜は泣いていないだろうか?

隆は優しく扱ってくれただろうか。

自分を恨むようになるかもしれない。

それでもいい。

こうでもしないと、夏夜は隆に想いすら伝えずに生きていく。

そう思って縁組の経緯をあえて説明せず、夏夜を送り出した。

それなのに。

夏夜は秋華を責めるどころか、役立たずになったと自分を責めている。

だから遥はちゃんと話せと言っている。

「夏夜、彗亮と隆ちゃんなら..他に好きな人が居たの?」

夏夜が姉を見上げる。目にはまだ涙が溢れている。

「私は...あなたは隆ちゃんが好きなんだと思っていたけど違っていた?

それに、月嶋の人たちの方があなたを大切にしてくれるって思って.....

だって早く決めないと彗亮が近づいてくるから…

あなたのことを、他人がとやかく言うのは許せなかった。

ごめんね。うまく言えない.....

でも、隆ちゃんならずっと夏夜を大切にしてくれるって、守ってくれるってそう思って....そのままの夏夜が幸せでいて欲しかったから…」

夏夜が秋華を見つめて涙をポロポロこぼしながら、ゆっくりひとことずつ区切るように話す。

「.....隆のそばは..嫌じゃない..。でも....退院したらホントに..す...すぐで....もうダメ..なんだって.....」

「いつも言葉が足りなくて厳しいばっかりね、私は。

お願い、好きな人と幸せになって?夏夜が幸せでいてくれるなら、私はどう思われてもいいから。」

夏夜が頭を横に振っている、

どうしてだろう。頬を暖かいものが伝って止まらない。

下を向いてはいけない。

弱みを見せてはいけない。

父の跡を継いで、もう何年も泣くことなんてなかった。

自分の中に、まだこんなに涙があるとは思ってもいなかった。

妹がこんなに愛しいなんて....

気がつくと夏夜が秋華に抱きついていた。秋華も夏夜の背中を抱きしめる。


『戻って来ない..』

遥は寝室で、いつまでも空いたままの秋華のスペースを見ていた。

「先に休む」とは言っても、急に帰ってきた夏夜の様子と自信無さげな秋華のことは気がかりだ。

足音を忍ばせて義妹の部屋にいってみる。

そっとドアを開けると妹に覆いかぶさるように眠っている秋華がいた。

これじゃ、二人とも風邪をひく。

『俺も全く過保護なダンナで義兄ちゃんだ。』

そっと秋華を起こす。頬に涙の跡が付いていた。

「いけない....寝ちゃった。」

小声で言いながら夏夜に布団をかけ、明かりを消した。

夏夜は子どものように寝息をたてている。


遥と秋華は自室へ引き上げた。

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