第6話 家出
『だるい・・・』
毎朝、身体中がどんどん重くなる感じがする。
眠れない毎日は、夏夜の食欲も落としていった。
実のところ、隆と一緒にいる時間は多くはない。
隆は夜にトレーニングセンターに行って、それから自室でレポートや課題やらを片付ける。そうして寝室に来るのは0時過ぎ。
朝は5時には走りに出て行く。
大学は日によって出かける時間が違うが、大体3時〜4時には講義が終わることが多いらしい。
いつも隆は先に休むように言って自室へ行く。
あの日から本当に指一本触れることはない。
ふざけて手を引っ張ることも、軽く頭や背中を叩くこともしない。
大丈夫だと夏夜は自分に言い聞かせる。
それでも、ベッドに横になると嫌でも動悸がしてくる。
でも、眠らないなんて無理だ。
時々、自分の手がパタリと落ちた感じがして、引っ張られるように意識が遠のくが、隆がそっとベッドに入る気配を感じると、たちまち緊張感が襲ってくる。
震えないように自分の手をしっかり押さえ息を殺す。
やがて、また泥の中に落ちるように意識が朦朧としては、ビクリと緊張する。
もうひと月だ。
義母たちは食べたいものを聞いてくれるが、それすら浮かばない。
一晩でいい。ぐっすり眠りたかった。
夏夜は日中、自分のために誂えられた部屋か庭で過ごす。
義母も昼時にしか会わない。気を遣ってくれているらしい。
自室に閉じこもっていると、物音をたてないよう息を殺す自分が嫌だった。
そんなすふうで、夏夜にとっては庭の方が気のおけない場所だった。
幼い頃から逃げ込むのは庭だったし、豊かな自然の中で、母が教えてくれたことは不安なら木の多いところへ行くように、だった。
子どもの頃は木や花が綺麗だから母はそう言ったと思っていたが、秋華から家業の教えを受けるようになってからは、広いところが動きを制限しないところになるし、自然のある場所は、利用できるものが多いからだと知った。
だから、隆との事があってから、とにかく夏夜は庭に適当な場所を探した。
表から見えなくて、出来れば、家の中からも目立たないところ。
暖かくて良い香りのするところだったら、もっといい。
月嶋の家の裏手、南東に向いたところに欅の大木と塀に沿って梔子が立ち並ぶそこを夏夜は選んだ。
ここは隆の自室の下にあたるが、彼が学校に行っている時なら大丈夫だ。
事故後、学校に復学する目処が立たない中、とにかく高校の卒業だけはと、秋華は久坂部学園の通信制を申し込んでくれた。
リハビリのかたわら、休学した分の学業を終えるには、思ったより時間がかかった。
何しろリハビリの後は、体力も気力も身体中から抜けるような倦怠感が襲ってくる。朝と午後にリハビリをして、夕方ベッドに腰を降ろすと、橙子や秋華が面会が来るまで、こんこんと眠ってしまうこともしょっちゅうだった。
そんなところを橙子や秋華に見つかると、風邪を引くと随分と叱られながら、なんとか残り1年に必要な単位をとった。
この後、2ヶ月後の卒業試験を受ければ卒業になる。
天気さえ良ければ、ノートパソコンと教科書を持って裏庭に行くのが、隆が学校に行っている間の夏夜の日課だった。
すでに梔子は咲き終わり、大木の隣にはこれもまた見事な萩がある。風にさやさやと揺れる萩の細く葉は、自分の姿も隠してくれる気がした。
教科書を開いてみたものの、時々目が霞んで頭が痛い。きっと寝不足のせいだ。目線を下げると目の前がグルグル回るような目眩がくる。
思わずトネリコに背中をもたせかけ、ほんの少しだけと目を瞑った。
瞬く間に意識がストンと落ちていった。
午後の講義が休講になり、隆は自宅に帰ってきていた。
途中で、いつも行くカフェに寄って、夏夜が好きだったチーズケーキを買ってきた。帰宅する頃には母がお茶を入れる時間だ。
「おかえり。早かったのね。あらそれ何?」目ざとく母が指差す。
「チーズケーキ。休講になったから」
「そう。じゃあちょうどいいわ。お茶にしましょ?
ケーキなら紅茶かコーヒーがいいわね。
夏夜ちゃんは多分、裏の萩のところにいるから呼んできてくれる?」
「部屋じゃなく?あ、これすごくチーズの濃いやつだから、コーヒーが良いかも」
隆はケーキの箱を母に渡す。
「お天気が良くてあったかい日は大体庭よ。知らなかった?」
おっとりした様子ながら母の観察力は相変わらず鋭い。
これで古武術道では名の知れた人なのだ。けど日中の隆は真面目に学校に行っているのだから、知らなくて当然....とは思った。
昔、夏夜のぬいぐるみを投げた時も、密かに動揺していた隆を察知して、口を割らせたのは母だ。
裏庭に行く。
萩ってデカイ木の脇のモサモサしたやつだったかな。植物の名前にはあまり興味がない。
紅紫の花がたわわになり、細やかな葉が多いその場所に、夏夜の靴先が見えた。
今日は薄い青の長袖シャツにくるぶしまでの白いジーンズを履いている。
『脚、寒そうだ』
夏夜はよく眠っている。
寝室では聞くことがない、深いゆっくりした呼吸。
片手は教科書のページを押さえているが、シャープペンシルを持っていた右手は、体の横に落ち、掌が少し開いている。
草の上に落ちた銀色のシャープペンシルが陽を浴びて、キラリと夏夜の指先に光る。
『ごめんな。』
夏夜がベッドにいる時に、ほとんど眠れていないことは隆も知っていた。
息を詰めて、体を硬くして。
それを知っていながら眠れてしまう自分は無神経だと思う。
日々の生活で普通に体は疲れ、眠気はくる。
横になれば隣に夏夜がいることを意識しつつ眠ってしまうのだ。
立ったまま夏夜を少し見下ろして、隆は着ていたジャケットを足元にかけて室内に戻った。
「あら?夏夜ちゃんは?」
「寝てた。」
「外じゃ風邪を引くでしょうに...」
「1枚かけてきたよ。少ししたら迎えに行くから。」
「起こすのがしのびなかった?」
母が淹れたコーヒーを飲みながら思った。
『ホント、よく見てんなぁ..』
母もコーヒーカップを手にしてため息をついた。
「随分疲れが溜まってきているのよね。痩せちゃったし。秋ちゃんにお願いして少しお里帰りさせましょうか?」
「秋さんがいいって言うかな...まだ1ヶ月だ。」
「そこよねぇ。厳しい....ところが秋ちゃんの良いところだし、だから信用されるのだけど。あら、雨?いつからかしら。」
霧雨がカーテンのように降っている。
「隆、早く夏夜ちゃん...あら?この素早さは、いいわねぇ」
頬に手を当ててクスリと笑う。すで飛び出して行った息子の心根が優しいことはよく解っている。
夏夜は雨の中、歩いていた。
腕に触れた葉から水滴が伝い、目が覚めた。
あたりはいつの間にかしっとりと湿り、音もなく降る雨は少し寒い。
家に入らなくちゃ、そう思い足元を見ると、ジャケットがかけてあった。
ジャケットを手に取る。隆の匂いがした。
隆は昔からいつもふざけてて、すぐに手を引っ張って、そして優しい。
屋上で打った時も黙って叩かれてくれたのに....
まるで、眠れないのは隆が悪いみたいに...
毎晩そっとベッドにきて、そっと出ていくのに.....
あれから一度だって触れてこないのに.....
胸の奥が重くて息が苦しいほどドキドキし始めて、立ち上がると勢いがついて居ても立ってもいられなくなった。
それからずっと歩いている。
靴はぐっしょりと水を含んで、いつの間にか片方がなくなっている。
すごく寒い。
それでも実家であるはずの玄関のインターホンは押せなかった。
『どうして帰ってきちゃったんだろう....姉様、きっと怒る......
それに無断で出てきちゃった。』
どうしよう....立ち尽くす間に涙がジワリと溢れてくる。手の甲で雨の滴と涙を拭った。
「夏夜なの?」
インターホンから聞こえてきたのは、思いがけず秋華の声だった。
体がすくむ。
返事ができずにいると、パシャパシャと軽い足音がして、傘をさした秋華が駆け寄ってきた。
「...監視カメラに夏夜が写っているって、ハルが言うんだもの。
靴は?こんなに濡れて......隆ちゃんには、言ってきてないのね。」
周りを見回して夏夜が一人でいることを確認すると姉が言う。
すっかり玄関の監視カメラの存在を忘れていた。
ひとまず、足を拭いて姉に家に入るように促される。
玄関には義兄がタオルを持って立っていた。
実家なのに、夏夜はここに来てしまったことに戸惑っていた。
「隆には俺から電話しておく。まずは風呂に入れ。」
遥は電話をかけてくると部屋を出て行った。
「夏夜、わかっていると思うけどあなたと隆ちゃんの縁組は家同士のことなの。お互いの家の信用問題になるんだけど?」
「....」
「里帰りにはまだ少し早いし、何よりあちらに断りなく来るなんて....」
夏夜には何も言えない。寒さと後悔で頭も回らない。
「秋、今はそれくらいにしておけ。」
戻ってきた遥が遮った。
秋華はため息を大きくついた。
「夏夜、隆には連絡がついたから。今日は泊まって行け。ほれ、風呂行ってこいよ。ちゃんとあったまるんだぞ」
押しつけるように、バスタオルを夏夜の手に持たせた。
ちらりと伺うように秋華を見た夏夜は、叱られた子どもみたいに体が縮こまっている。秋華の目を避けるように浴室に入った。
夏夜が浴室に入るのを見送って、腕組みをした秋華は口を開く。
「もう!ハルは夏夜に甘いわ。勝手に泊まって良いなんて言って。」
「いや、月嶋家次期総代様の許可は取ったぞ。」
「私はまだ許可してないけど?夏夜にも言ったけど、ランランランの結婚じゃないのよ?」
「おっ、ランランランの結婚って可愛いこと言うな」
遥は笑っている。秋華は鼻から大きく息を吸って息を出す。
「これじゃあ、あの子なんて言われるか......」
「秋、あの痩せ具合見ただろう。相当まいっていると思う。」
真顔で続ける。
「あれじゃ、月嶋の家が新妻に無理させているみたいに思われる。
とにかく体調のことは隆たちも心配している。」
そんなこと、夏夜が一月で随分やつれたのは秋華にもすぐにわかった。
気づかないはずがないじゃない。
急なことばかりが続いて、妹にはかわいそうだったと思う。でも、外野が動き出したから、だから...眉間にシワを寄せたままの秋華に 「今夜だけでも。オネガイ」
ふざけて手を合わせながら、本気で遥は言った。
腕組みのまま突っ立っている秋華のそばを、「あったまる食い物がいるな。」
キッチンに入りがてら、遥は耳元で「ちゃんと話せ。」とささやいて行った。
遥はとにかくなんでもこなす。仕事も掃除も料理も。
今もいそいそとキッチンへ行き、冷蔵庫をのぞいて早速何か始めた。
秋華も家事はするが料理はかなりというか、危険なくらいに才能がない。
とにかくいまは夏夜に何かと思っても、食材を無駄にするのは目に見えている。
だから、遥がキッチンで何か見繕ってくれるのは助かるのだ。
多少ごまかされた気がしないでもないけど。
ため息をついて『パジャマとベッドの準備しておこう』そう思って夏夜の使っていた部屋へ入っていった。
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