第4話 綾女
綾女は、一旦トレーニングセンターに戻ってから愛用のロードバイクで帰宅する。
鍛えていても女子なのだから、と言う父の心配は、少しでも減らしてあげたいと思う。
駐輪場からを出て来ると、室内にいる秋華が見えた。
「こんな時間にメニューこなしているんだ」
秋華はスラリとしていて、濡羽色の髪が綺麗な人だ。
遥と並ぶと、見惚れるような組み合わせになる。そんな秋華に綾女は憧れている。
去年、夏夜の誕生日前日。
海外の要人警護のプランニングリーダーは秋華で、綾女たちもジュニアチームとして執行メンバーに組み込まれた時は、秋華に認められた気がした。
嬉しかった。
三日間の警護は順調に過ぎ、依頼人がゲートを潜るのを見送れば任務も終わりになる。
この後は、一日早い夏夜のバースデーを予定していて、三人の気持ちはそちらに向かっていたのは確かだった。
依頼人がゲートを潜る。
見送る秋華がはっと目を挙げた先には、夏夜と津島が走っていくのが見えた。ヘッドセットから秋華の指示が飛ぶ。
スーツの姿の男性がゲート目掛けてアタッシュケースを投げ、夏夜がケースをキャッチした...津島がそれをもぎ取ってゲートとは反対方向に投げて......
スローモーションの映像を見ているみたいに感じた。
瞬間、激しい耳鳴りが轟いた。
耳鳴りが収まるまで床に伏せた。
耳に手を当てたまま、動けなかった。
自分の傍を何かが転がって行った。
気がついた時には、埃が激しく舞う中、遥たちの姿が見えた。
電話をかけている秋華の足元にはジュラルミン盾が落ちていた。
ヘッドセットの単語だけが脳内に響く。「カヤ」「ツシマ」「ヘリ」
足が震えた。手の甲には擦り傷ができている。
爆発によって砕けた壁の破片のようだった。
夏夜たちはヘリで医療センターに運ばれたが、3人は医療センターに行くことは禁じられた。
それからは日々の長さが苦痛だった。
胸の奥がジリジリして、何度も橙子の携帯番号をタップしかけては止めた。
津島の葬儀以後、学校帰りに医療センターに寄ることが綾女の日課になった。
このセンターは神崎家が仕切る。
現センター長である神崎橙子は秋華の妹である。海外で実践的な経験をかなり積んできたと聞いている。
彼女はトラブルのあと、一週間して、夏夜の容態を綾女たちにやっと教えてくれた。
一週間経っても覚醒しない夏夜には、なんらかの後遺症が出る可能性が高い。
覚醒しても現場に戻れる望みは無かった。
身体的損傷からもそれは絶望的だ。
しかし、とりあえず左眼は角膜移植によって失明を免れた。
「だからね、出来なくなったことを悔やむより、免れた事を喜んで接してほしいの。夏夜が目覚めなくても。お願いできるかしら。」
それに綾女は勢い込んで頷いたが、上手くは笑えなかった。
I C U棟内に入ることが許可されて、少し乾燥した夏夜の手をそっとさするだけしか出来なかったけれど、その手が温かいことだけに安心しては帰宅した。
日に日に包帯が外され、夏夜が見えてくる。
頭部の手術もあったから、髪は短く切られている。
「緊急だったからだけど、ザッキザキじゃない…」
長い髪をいつもきりりと結んでいて、白い稽古着にとっても似合っていたのに。
この頃には呼吸器の音にも綾女は慣れて来た。
はじめの頃、この音を聞いているとこのまま息が止まるのでは無いかと恐ろしかった。無機質に定期的な音は夢の中にまで響いていた。
包帯を外して見えてきた夏夜の皮膚は、乾燥して生気がない上に、あちこちが紫や血のような赤が目立つ。引き攣れたような部分もあり、皮膚としての働きはあるのかと心配になった。
それから2ヶ月ほど経って呼吸器は外され、
さらに3週間程して匠と大急ぎでセンターに行くと、夏夜がぼんやりと目を開けていた。
連絡をくれた橙子からは、まだ話しかけないように指示を受けたから、言葉は交わさなかったけれど、ベッド脇の小さな椅子に座り、黙って夏夜の手を握る隆を見て、やっと安心したのを覚えている。
隆は夏夜の手を包んで、自分の額に押し当てていた。
隆の表情は手に隠れて見えなかったけれど。
匠と2人でメディカルセンターを出て、ジム近くのいつもカフェに入る。
暖かいチャイラテを飲んだら、カップを持つ手にはじめて涙がポトンと落ちた。その手を匠が握ってくれた。
その手の熱さから匠の目も潤んでいるのがわかった。
「今日のチャイ、美味しい......ね?」
「うん、すごく。」
窓際の席から小雨に濡れる街を見つめ、この街は綺麗な所だと思った。
匠は何も言わなかった。
そして数日後から夏夜の過酷なリハビリが始まった。
リハビリを始めてから、いつ面会に行っても眠っているようになった。
早朝トレーニングをいつもより長めに取った綾女は、自宅に戻り出かける支度をする。
夏夜のところで、一緒にプリンを食べよう!
瓶の底にたっぷりとカラメルの入ったのを買っていこう。夏夜が大好きな生クリームをいっぱいトッピングしたのもの。
午前中ならきっと起きているだろう。
ガレージから自転車を出して正門に向かうと、ちょうど秋華が父母に送られてくるところだった。
帰宅してすぐにシャワーを使っていたから、秋華の訪問には気がつかなかった。
「秋さん!」
オレンジ色のノースリーブに襟付きのシャツから伸びた手を振った。
「こんにちは。」
秋華も手を振りかえす。
今日の秋華はラップタイプの紺色のワンピースを着ていて、髪を後頭部にまとめている。
「パパに用だったの?」
「そうなの。これから少しバタバタしてお宅にもご迷惑をかけると思うから。たくちゃんのお家にも伺ってきたのよ。」
「仕事のことじゃないの?」
「ええ、夏夜の退院が今週末に決まったのよ。
それで....急だけど、夏夜の縁談を募ることにしたの。そうなると、おそらく綾ちゃんたちのところにも、色々問い合わせがあったりするでしょう?
あなたたちは夏夜と仲良くしてくれていたから。」
「退院できるの?!それですぐに縁談?ホントに?」
綾女はかなり驚いた。
夏夜がリハビリを始めて約一年。外科的に必要な手術は終わったらしい。
それでもまだ歩くのは杖を使っているし、高等部の復学だって決まっていない。
やっと退院なのにどうして?
そんな考えを秋華はわかっているようだ。
「綾ちゃん、シャツ可愛いわね。とってもよく似合っているわ。
あのね、夏夜には今までよりお洋服も含めて、選択肢はとても少なくなってしまったの。何度も環境が変わるより、少しでも早い方がいいのよ。」
「今でいっぱいいっぱいなの?」
夏夜の体の回復のことだ。
「ええ。あの子は限界まで頑張ったと思う。じゃ、ご迷惑をかけるかもしれないけど、よろしくね。」
秋華はにこりと笑うと、車に向かって歩き出した。その背中はシャンと伸びているが、無理をしているように綾女には見えた。
冷たいくらいさっぱりと言い切る秋華に、怒る気よりも寂しさを感じていた。
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