第3話 匠

 一つ歳下。

あらためて匠は考えてみる。


 夏夜は4つまで母親と共に海外で育った。

母親が夏夜を産んでまもなく、体の異変に気づき療養目的で渡航したのだという。

当時、神崎秋華は父の跡を継いだばかりで、体調の悪い自分が秋華の邪魔をする事を気にしたのだろう。

その母が亡くなって夏夜は帰国した訳だが、彼女に初めて会った時の印象は最悪だった。

まだ大学生の秋華に連れられ、久坂部家の経営する幼稚園に来た夏夜は、むっつりと口を結んで片手にウサギのぬいぐるみを抱えて立っていた。

夏夜と同年の子がおらず年齢の近い隆、匠、綾女が出迎えても、睨むように皆を見渡して挨拶をしない。

当時から姉御肌の綾女が

「ごきげんよう!あなたが夏夜ちゃんね。私は綾女よ」

そう言って手を差し出しても、夏夜は秋華のジャケットを掴んだままだった。

秋華が夏夜を前に押し出し挨拶を促す。「ね、夏夜ご挨拶して?」

すると夏夜は「Bonjour 」なんて返事をしたものだった。

秋華はギョっとして、日本語を話すように促したが夏夜は聞かなかった。


やりとりを見ていた匠は「なんて面倒な子が来たんだろう」と思った。

久坂部学園幼稚舎にあまり同年代の子がいなかった隆、匠、綾女は帰国した夏夜の存在を知り、その子が園にくると知った時、実はとても期待した。

それだけに面白くなかった。それは隆も同じだった。


 翌日から夏夜は幼稚園に通っては来た。

毎朝、姉の秋華が連れてくるけれど、困り果てているみたいだった。

綾女は毎朝根気よく、おはようを言いに行くが夏夜は相変わらずの挨拶だ。

そうして一日、歌も歌わず、絵本も読まず、うさぎのぬいぐるみを持って、1人部屋の隅に座っているのだった。

弁当だって食べるのを見たことがない。

今思えば、弁当は遥が作っていたのだろう。

一緒に食べるようになってから見た夏夜の弁当は、毎日可愛らしい工夫がたくさんしてあったから...秋さんじゃ無理だな。


 夏夜が園に来て一ヶ月くらいのことだったかな。と匠は考える。

その日、綾女が見ていた絵本を巡って夏夜がトラブルを起こした。

彼女の見ている絵本には、大きな山々の四季が描かれている。

それを見た夏夜は、大きく目を見開いて何か叫び、絵本を取り上げた。綾女が大声を出す。「やめて!今私が読んでいるのよ!」

すかさず、隆が夏夜から絵本を取り上げて綾女に渡した。

隆は怒っていた。

「お前、いい加減にしろよ!いつまでもボンジョルノなんて言ってないで日本語話せよ!こんなのだって持ってきちゃいけないんだぞ!」

そう言って夏夜のうさぎをもぎ取ると、床に力一杯投げつけた。

匠は思い出し笑いをする。ボンジョルノはイタリアだって。

うさぎを床に叩きつけられた夏夜はしばらく動かなかった。

室内の子どもたちは緊張して、成り行きを見守る。

あの子泣いちゃうよ。きっと喧嘩になるよ。

夏夜はうさぎを拾うと黙って外に出て行った。

泣いてもいなかったが、遥が迎えに来るまでずっと木陰に座っていて、翌日から園には来なくなった。

匠はなんとなく、緊迫感を運んでくる夏夜が来なくなったことにホッとしていた。

あいつ、もう来ないほうがいい。

面倒なんだもん。

もちろん、こんなことは誰にも言わなかったが。

しかしその後、夏夜の手をひいて園に連れて来たのは意外なことに、隆だった。


中学になって、ふと当時を思い出した匠は隆に聞いたことがあった。

すると隆は懐かしそうに少し照れながら、多分あの時からあいつが気になっていたと話した。

ぬいぐるみを床に投げつけた日から数週後、隆は母に連れられて、神崎家を訪れた。

夏夜の大切なぬいぐるみへの仕打ちは母に知れ、一緒に謝りに連れて行かれたのだ。

大学に行っている秋華は自宅におらず、代わりに遥がいた。

ふてくされて自分は悪くないと言ってみたものの、母に睨まれ謝ってこいと背中を押されて渋々庭に行くが、夏夜はなかなか見つからない。

やがて裏庭に出ると、こんもりと白くて大きな紫陽花が咲く中に隠れるように夏夜がいた。膝を抱えて泣いているようだ。

小さな声で「かあさま」と聞こえた。

「お前、泣いてるの?俺がうさぎを投げたから?お前も悪いけど俺もうさぎ投げて、ごめん。」

口をとんがらせて一応は謝った。

すると、大きな目にいっぱい涙を溜めて夏夜がしゃくりあげながら話す。

「かやが、いけないの。お話し.....わからない悪い子だか...ら。お姉様はか..かやが嫌い...なの....」

なんだか、よく意味がわからなかったが、園で見る不機嫌な夏夜とは違って、思わずギュッとしたくなるほど小さい子に見えた。

だから、そのまま手を引いて室内に戻り、一緒に園に行こうと話したと言う。

どうやらその朝、姉の秋華と喧嘩になったらしく、食事も放棄した夏夜に遥も手が付けられないようだ。

夏夜はまだしゃくりあげている。

そんな様子を、母はじっと見ていて、膝をついて夏夜を抱きしめた。

すると、夏夜は大きな声で泣き始めた。母も泣きそうに見えた。

女の子ってあーんあーんって泣くんだ。隆はそう思っていた。

しばらく泣くままにさせてから、母はゆっくり噛むように話はじめた。

「我慢してたのね。いっぱい泣いていいの。あのね、秋華ちゃんは夏夜ちゃんのこと、嫌いなんてことないのよ。

秋華ちゃんも、本当はあなたたちのお母様に会いたくって仕方がないの。

橙子ちゃんも一緒よ。

だからあなた達三人はおんなじ気持ちでいるのよ。そのうちにお姉様達にお母さまのお話を聞くといいわ。

今度、おばちゃんのおうちにいらっしゃい。お菓子を焼いてあげるわ。」

帰り際、遥と母はなにか話していた。


神崎家から戻る道々、母は夏夜のことを教えてくれた。

夏夜は父親と会えなかったこと。

母親を看取ったのは、家族で夏夜一人だった。

産まれてすぐに他国に行った夏夜は、秋華と暮らすのも初めてで、日本語にも少し不慣れであること。

夏夜が日本に来てまだひと月も経っていない。

そして、例のうさぎは夏夜の母の手作りの品だった。

「隆が本当に強い子なら、夏夜ちゃんに優しくできるようにならなくてはね。今日はちゃんと謝れて偉かったわ。」

そう言って隆の頭を撫でた。

「なんかさ、夏夜がかわいそうで。だから俺たちで守ってやれたらいいなって思った」

そんな風に言った隆は、いつからか俺たちではなく「俺が」に変わっていったんだ。近くていればよく見えていた。


 隆、匠、綾女はファッション誌のモデルなんてやっていたから、隆たちの周りにはいつも人が絶えない。学校でも通学の時もだ。

1歳違いということもあってか、夏夜はいつもちょっと離れている。

隆は夏夜をすぐに見つけては、少し強引に手を引っ張って、3人の中に入れる。

そうやって綾女とふざける夏夜を、隆の母と稽古をする夏夜を、隆は見守って来た。そんな2人を匠も綾女も当たり前に受け入れて来たのだから。

でもしかし、隆が夏夜に告白をすることはないまま時間が過ぎた。

匠は時々、早く言えよと言って来たけれど。


 年々、夏夜は凛とした姿が際立つようになっていった。

きっちりと束ねた長い髪。姿勢の良さは稽古の賜物だ。学校の成績だっていつもトップだ。

しかし、夏夜がより際立ったのは任務の才能で、秋華と遥に厳しい家業の教えを受けていた。

要人警護では天才と言われる遥のプランニングの隙を埋め、6歳にしてプランナーの片鱗を見せ始めたとして知られる存在だった。

隆の母に習う古武術の技能と動じない胆力も手伝って「業界の申し子」だなんて言う者もいた。

それだから、夏夜は隆たちのように、年頃特有の華やかな方を向くことはほとんどなかった。休日は一緒に出かけもするしトレーニング後のカフェにもいく。

しかし、隆や自分に必要以上の笑顔でくっついてくる女の子と比べると、ちょっと違っていた。

空港のトラブルさえなければ、それは言い方を変えて、そのまま続いたのかも知れない。

『ま、起こってしまったことは仕方がない』

あんな状態から、夏夜はなんとか1人で歩いている。

匠からすれば、奇跡に等しい。

「奇跡って言うと、夏夜の努力を見てないみたい」と綾女はいう。

確かにそうだ。夏夜は頑張った。本当に。

しかし、世間の目はそうではなかった。

あっという間に、夏夜はかつての存在になってしまった。

この世界での順位はすぐに変わる。実績だけがものをいう。

そして起こった縁談。大急ぎの家入の儀式。他家での生活。


 綺麗に空が晴れ渡り、星が見える場所まで来ると匠は空を仰いて呟く。

怖がらなくていいんだ、夏夜。

俺たちはいままでとおんなじように隣にいるんだから。

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