第2話 家入りの儀式

 隆が部屋を出て行った。

室内は静まり返っている。

喉の奥で引き込むよう音がなり、息が漏れた。やっと息が吸えるような気がした。

体の右側を下にしたまま、肘と手首の間にできた薄い内出血を見つけなぞってみる。跡にはならなそうだ。

ぼんやりと8時に食卓と考える。

どうしてこんな事を考えているんだろう。

隆の気持ちは知っていたし嫌いではなかった。むしろ....

だから、こんな形になると思っていなかった。

もっと前に自分が言えばよかった?秋華が縁談なんて言い出す前に?言い出してからでも、隆と話していればきっと今こんな思いをしていなかった?

目の前がぼやける。

腕のアザがぼんやりと広がって、目を閉じた


 7時に隆の母様が、今朝からは義母になった人が迎えにきた。手に桐箱を抱えている。

この人とこんなに憂鬱に会うのは初めてだ。

「夏夜ちゃん、おはよう。お風呂を使って頂戴。今朝は準備したお着物を着てね。」


 体が音をたてて割れるような感覚だった。

それからは隆の激しい息遣いだけが暗闇の中に響いた事を思い出し、風呂を使っているのに、ゾクリとした寒気が背中を走った。

隆が体を離しても、彼が眠っていないことは気配でわかった。

お互いに息遣いを悟られないように、時間が経つのを待っていた。

朝方まで涙は止まらなかった。気づかれてはいけない。

声が出ないように堪えていた。


自分の存在がもう違ったものになった。

憧れた場所にはもう行けない。

もう価値が無いのだから。


終わっちゃった。

夏夜は一瞬でお荷物になった。

だから秋華は夏夜の縁談を募ったのだろう。

その中に隆の名前があった時、自分と隆の関係が変わった気がした。

橙子は夏夜の考えを否定したけれど、秋華が進めようとする縁談を止めることはしなかった。

このまま、自分は生きていくのだろうか。

隆の子を産むことだけが自分のいる意味なんだ。

何をされても受け入れるしかない。


 朝風呂が終わると、待っていた義母が着付けをしてくれた。

これも全て家入の儀式なのだ。

要は検められる。寝具と身体、害なす武器を忍ばせていないか。


 着付けなんてしたことがない。

夏夜ができるのは稽古着くらいだ。

その間、よほどグラグラしていたらしい。義母が励ますように言った。

「夏夜ちゃん、朝ごはんの時だけしっかりね。そのあとは隆も大学に行くし、少し休めるから。」

無言で小さく頷く夏夜に義母は話し続ける。

「この着物ね、私のお下がりなのよ。良いものだけどやっぱりちょっと柄が古いかしら。私もここに来た時この着物を着せてもらったのよ。お義母さまに。」

最後に帯をポンと軽く叩いた

「さっ、できた。」

正面に回って襟元を確認すると、にこりと微笑んでギュッと抱いてくれた。

先生に縋って泣きたかった。

今日からは先生じゃない。「お義母様」なんだ。

ありがとうございます。そう言おうと思ったのに声が出なかった。

そんなことは気にもせず、義母は廊下に声をかける。

「隆、お支度できましたよ。お入りなさい。」

廊下で待っていたらしい隆も正装をしている。

「じゃあ、あとはよろしくね。きちんと夏夜ちゃんをエスコートしてきてね。」

隆は頷いたが、夏夜と目が合うことはなかった。


夏夜は後ろからゆっくりと階段を降りてくる。

手すりに掴まりながらも、動作はまだぎこちない。

手を貸そうと手を伸ばし、ぐっと手を握る。

今朝、自分が約束したのだ。

夏夜がいいと言うまで触れないと。

相変わらず、彼女の視線は足元だけに向けられている。

客間には父と母が着いていた。

一礼して座に着く。

父が口を開く。「無事か」

続いて隆が応える。「恙無き月嶋のものです。」

「夏夜さん、この家お頼みいたします。永らく持ち堪えられませ。」

母が言う。

「末永く、お仕えいたします。」

そう言った夏夜の声は小さい。

俯いたまま、そう言うように言われたから言っているのがよくわかる、抑揚のない声だった。

4人揃って白米と猪口の酒を一口ずつ口にする。

これで家入の儀式は終わりだ。隆は静かに息を吐き出した。

「やれやれ。面倒だ。こんな事をまだやるなんてね。

ともあれ夏夜、思うところはあるだろうが、我が家にようこそ。」

義父がのんびりと夏夜に声をかけて、そのまま朝食になった。

もっとも、夏夜にも隆にもいつもの気楽さはなくて、隆はもそもそもと朝食を食べた。

夏夜は儀式の一口から以後は進まなかった。


 部屋に戻るとすでにシーツは新しいものに変えられていて、昨夜の痕跡は無くなっていた。

着替えた隆が顔を出した。

「今日の講義は3時までだから、夕方に帰ってくる。

昼は母さんが何か準備してくれるから、

食べられるものあったら言った方がいい。

それから、その古臭い着物も変えて楽にしていいよ。

何かあったら携帯にな?じゃあ、行ってきます。」

そう言うと足早に隆は出かけて行った。

そのうちに、この家に長くお手伝いとして通う春江さんがきて、脱いだ着物を畳んでくれた。

「夏夜さん、おめでとうございます。隆さんの願いが叶いましたねぇ。隆さんの奥様が見られるなんて嬉しいことですよ。」

ニコニコと言いながらテキパキと慣れた手つきで着物一式を畳む。

『隆の願い?』

夏夜はぼんやりと春江さんの動きを見つめていた。


 昼も食欲はなかった。

お粥を少しとほうじ茶。口にできたのはそれだけ。

義母は心配そうだったが、何も言わずにいてくれた。

誰の目も見たくなかった。

隆は予定通り夕方に帰宅して、すぐにトレーニングに行くと言う。

「ジム行ってくる。その後に綾女と匠と会って来るから、少し遅くなるかもしれない。」

夏夜からの返事はない代わりに、そっと頷く感触はあった。


 Tシャツとランニング用スエットで賑やかな街中を走り、朝も行ったトレーニングセンターへ入る。

ここは月嶋が運営しているジムで、警備会社の社員や警護に入る職員の会員制センターだ。

夏も間近のこの時期は、走るだけですでに汗が噴き出る。

首のタオルで汗を拭い、メニューをこなす。

今日2度目のシャワーを浴びて、汚れた衣類をリュックに詰めた。

室内に設置してある冷水を一杯飲んで、近所の待ち合わせのカフェまで歩いた。

1番先に着いたらしい。

アイスコーヒーを買って窓際の席に着く。

もとより綾女はトレーニングの後は時間がかかる。匠はそろそろ来るだろう。

帰宅するまでに、夏夜が眠っていてくれればいいと隆は思った。

どうせ2人に色々言われるし、帰りは遅い。

夏夜だって自分がいない方が少しは楽だろう。


「お疲れー」先に来たのは意外にも綾女だった。

気に入りの冷たいチャイラテを手にしていた。

「めずらし...早いな。」

なんとなく綾女の手元を見ていた。夏夜ならホットのチャイラテだな。

「夏夜..来るわけないか」

「ん?まあな、なんか用事あった?」

「じゃないけどね。顔見たかった。神崎のお家より会いに行きにくいでしょ?」

「そうかな。初めだけだろ。夏夜が変わるわけじゃないし。」

「......泣いてなかった?」

「....初めてだから痛いだろうし。」

ボソっと話すと、隆の言葉に被せるように綾女が言う。

「あのさ、体感じゃなく!夏夜が泣いたんなら悔しいからよ?」

「俺のとこに来たことが......だよな?」

ふぅと息を吐き出した。

「隆のところにって言うか、こんな流れで、よね?隆だってこんな形で夏夜が来たことが、本当に嬉しい?

もっと色んな事を話して、たっくさんやりたいことをして、って事でしょう?

そうやって納得して結婚したなら、私は何も言わない。隆のお家にだって気楽に行けるわ。新婚さんを冷やかしにさ」

「そっちか。でも、秋さんの考えていることは別だったしこのタイミングを外したら、どうなったと思うよ?」

「そうそう、又従兄弟の失礼なやつに取られちゃう!」そう言って買ってきたアールグレイとキッシュを置いたのは匠だった。

「たく、遅い。おかげで綾女に怒られてる!お前とおんなじこと聞くしな。」

「で?おんなじ事答えたんだろ?痛くて泣いたってさ。」

「隆って、頭良いんだか悪いんだかわかんないわ!夏夜の事、考えて考えてだと思えば、初めは痛いからだって。ホント間抜け。」

「そんなところが隆の隆たる所以ってね。」

「好き勝手言うなぁ。二人とも。ホント、しかたないだろ?」

手の中のカップを軽く揺する。

小さい頃から一緒にいる二人は、隆の思いを知っている。

綾女だって悪態をつきながら悲しそうだ。

こんなタイミングで夏夜を手に入れなければならなかった迷いも焦りも後悔も。

人気の減ってきた窓の外を眺めてから、隆は体を椅子にもたせかけた。

ここは窓からひとつ置いて植木鉢が並び、意外に道ゆく人からは隠れている。

店内も程よくざわついていて邪魔が入らず話せると思った。


 秋華が夏夜の縁談を募っていると聞いたのはひと月前だ。

「それは知ってる。」そう言おうとした綾女の口を匠の手が塞ぐ。

黙って聞こう、ね。


夏夜は神崎家の三女だから、当初、縁談はかなり多かったらしい。

隆は帰国した父からその情報を聞いた。帰国の機内で秋華と話したと。

「夏夜は家を出されるらしい。

一昨日から縁談を募って、もう3組の面談があるようだ。この話には当然、小此木の家も飛びついてきたと言っていたよ。」

少し苦笑している。

「小此木?だってあいつは従兄弟だろう。」

その名前を聞いて、少しイラつきを感じながら隆は父に返していた。

小此木家は神崎の分家だ。

そこの長子である又従兄弟殿と分家殿は以前から夏夜を介して、本家に近づこうと躍起だった。

「正しくは又従兄弟だよ。法律を学んでいるなら結婚にさわりがないことはわかるな。」

「......」隆は言葉を飲み込んだ。

『こんなに早く?まだ退院して一か月じゃないか。まだ19歳じゃないか。高校だって卒業していないじゃないか。これから大学だって、試合だって、仕事だって......』

そこまで頭の中で考えをこねくり回して気がついた。

試合はもうできない。仕事はもっと無理だ。

「で、お前はどうする?お前にも資格は十分あるが?」

「俺は........」

「隆、どちらにしても覚悟はしなさい。神崎の総代はハッタリなんて言わないよ。

夏夜を出すと言ったら出す。もちろん、これからのことをよく考えた上のことだろうがね。」

「いつまでに決めるのかな」

少し声が上ずったかもしれない。

「さて、そこまでは聞かなかったな。しかし秋華が良いと思う相手がいれば決まる。夏夜の意向は加味されない。それはわかるな?」

父はそう話して書斎に入って行った。


匠と綾女はジッと聞いている。続けて良いようだ。

「で、先週エントリーした。」

「エントリーって...」綾女は呆れた視線を投げてよこした。

「ふうん。で、髪を染め直して行ったわけだな。その時点で何人いた訳?応募者は。」

髪のことを言われ、うるさいと匠を殴るふりをしながら隆は答える。

「8人。」

「8人!?マジか......」

群がるねえと少し軽蔑したように匠が笑う。

神崎に限らず、四家との婚姻にメリットを考える輩はいまだに多い。

「金曜に父と神崎の家に行ったんだ。そしたらさ、書類を見ながら秋さん言うんだ。」

その場には、夏夜と親代わりの姉の秋華とその夫の遥が居た。

「お申し込みありがとう、月嶋の総代。

まず、皆さんに伝えていることから話しますね。

夏夜は妊娠しにくいの。

空港の事故で腹腔内にも損傷があったから、左の卵巣は無いんです。

簡単に妊娠はできないと思うけど、月嶋のおじさまたちはそれでも良いですか?

昔じゃないけど、妊娠しないから返しますっていうのは困るから。

それに背中には皮膚移植の跡があります。

左の脚はこれ以上の回復は無理だと聞いています。

その他は縁談が決まった方に詳しくお話しすることにしています。」

毛先を軽く巻いたサイドの髪を耳にかけながら淡々と話す秋華は、恐ろしいくらいにっこりと微笑んでいた。

秋華の隣で自分の右手を握っていた夏夜の左手には力が入り、白いほどになっている。

こんな話を縁談相手が来るたびに聞いているのか?夏夜は。

隆は思わずその疑問を秋華に言っていた。

「ええ、そうね。本当のことですもの。ただ、妊娠しにくいと言うことは、よそのお家ではあまり問題にならないかもしれませんね。

我が家との縁戚関係を当てにするお家には。

でも、月嶋のお家には重要じゃないかと思うの。隆さん、あなたは月嶋の長子ですから。」

突き放すような言い方だった。

父は何も言わないが、代わりにチラリと隆を見た。

「お前は覚悟は?」そう言われた気がした。

少しの沈黙の後、秋華は話し出した。

「今まであった縁談のうち、長子が来たのは月嶋家を入れて5人です。3人は辞退したの。いまだに長子の役割は重いから仕方がないのでしょうね。」

「すると、残った一つは小此木家ですか?」

隆の父が返す。

「ええ、あの家はそうことはわかりやすいですから。」

膝の上で手を組んでいた遥が答える。夏夜は俯いたままだった。


「いつの時代だよ」

むっつりと匠がいう。冷静で穏やかな匠にしては珍しい。

「だから一旦置いて返事をすることにした。」

「その場でいいっていうのは簡単だし、隆の気持ちは決まっていても.....

一応おじさまとおばさまとも話すべきよね」

綾女はほっそりと整った顎に人差し指を置いてつぶやく。


 案の定、帰宅すると月嶋の分家連中から色々と連絡があったらしい。

「叔父なんて、子どもを産めない女を入れて家を絶やすのかって、すげー怒ってんの。」

本当に苦笑ものだ。そして、夏夜の噂はすでに相当広まっているらしかった。

「んで?おじさんはなんて?秋さんの前では何も言わなかったんだろ?」

匠はキッシュをパクつきながらきいた。

「父は夏夜を心配してた。夏夜のハンデにいろいろ言ってくる親戚連中は多いだろうから。」

「小此木さんちの失礼な又従兄弟は、秋さんになんて答えたのかしら。」

「不妊治療があるから大丈夫だってさ。体外受精がいいだろうって」

「はぁ、そうきたか。まあ方法としては確かにだけど、自分の精子には絶対自信があるのかね?やっぱり失礼な奴だ。不妊って言っても女性だけの問題じゃないのになぁ。男にも原因あること多いし、もともと人間は不妊の生き物だし。」

匠が言う。

「へぇ?そうなの?」綾女は首を傾げている。

「犬とか猫とか発情期ってあるだろ。人間みたいに年中発情期なのはあんまりいないよな。

俺はね、隆たちがそうなった時に周りの人間は夏夜を責めると思うと腹たつな。それに夏夜だって、自分をあらためて責めるだろ?」

「発情期って言葉は引っかかるけど...まあ確かに。いずれ、それも考えなきゃいけない立場なのはわかっているつもりだよ。でも、それよりも俺はその辺のやつには.....てか、妊娠とかそんなことよりも、夏夜が居てくれることが大事だと思った。いや?なんだか上手く言えないもんだな」

残ったコーヒーを飲む隆を、匠が目を細めて眺めている。

『その辺のやつには、触れさせたくない』だ。

綾女がほぅと息をつく。

『こんなに思ってくれる人がいても、今の夏夜はそれどころじゃないね』

「とにかく、そんな不妊体質の人間が、このメンツでおんなじ年で、近くにいるって貴重だな。あ、夏夜は一つ下か。」そう言って匠は席を立った。

三人は帰途につく。少し歩くと綾女の声が追いかけてきた。

「ねぇ!隆!落ち着いたら奢ってよ!!」

綾女の声に軽く手をあげた返事をして、家に向かって歩き出した。

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