夏の雪冬の花
鷺 奈帆
第1話ことのはじまり
萩の花が風にこぼれる。
ひっそりと鈴虫が鳴いている。
ひとりきりで鳴く声は、ついさっき聞いものに似ていた。
熱い風呂に行く。
胸の奥は鉛を流し込んだように、冷たくて重くてムカムカする。
望みが叶った実感はまるでなくて、罪悪感でいっぱいだった。弱みにつけ込んだ。
額を冷たい壁に押しつける。
なんでこうなったかな。
花びらが落ちる音さえ聞こえそうな朝だ。
震えていた体は今は動かなくて、時々隠れるようにしゃくりあげる。
「...これしか方法がなかった。
でも、夏夜がいいっていうまで、もう触れないから。俺はこれから朝トレ行ってくる。あとで母さんが支度に来る。
今朝だけは全員揃うのが習いだから。」
返事はない。
それでも夏夜は聞いているはずだ。
息を止めるようにして。
こんな状況で眠れるわけがない。
裏門の前で一度大きく伸びをして、まだ涼しい空気を吸い込み走り出す。
いつも通りに行けば20分後には匠と合流する。
毎日のことなのに、今朝は気が重い。少しペースをあげた。
夢中で走ればすっきりするのかもしれない。
結局、隆は匠と肩を並べていた。
そのまま河川敷まで無言で走った。
先に口を開いたのは匠だ。
「大丈夫だったか?」
「....まぁな」
「やっぱさ、早く言っとけば良かったな。この先だって何かあるかわからない....ってか、とりあえず噛まれなくて良かったな。」
「噛むって…」
「ああ...そのくらいやりそうだろ。何がなんでも嫌だってなったら。夏夜だぞ。」
そういうことか。
いや、夏夜はそんな事はしない。
自分の立場はよくわかっているだろうから。
そのまま2人は日課のジムに入る。
早朝のジムは空いているとはいえ、視線が無かったわけではない。
見知った人が多いここでは知っているのだ。なぜこうなったか、なぜこのタイミングなのか。
すでにトレーニングを始めている綾女と目があった。
その視線が労るような様子で、すぐに逸らしてくれたから、隆は少しほっとした。
護りの月嶋
教えの久坂部
癒しの神崎
調ベの磁村
四家の起源は忍だったと聞いている。
戦国の混乱が終わり、大平の世になると公家や公義の側役だった。
一説には御庭番とも言われていたらしいという分家連中もいるが、ここまでは盛り過ぎだ。
政を行う立場の人物を、それぞれに得意とする分野を活かして守ってきたのは事実だ。
しかし側役とは言え、その名は歴史の表に載る形ではなかった。
どこにも属さず、ひっそりと。
やがて時代が変わり、以前の役割はなくなった時、この四家はこれまで担っていた分野を事業として成り立たせた。
そうやって、生きづらくなった現代を超えてきたのだ。
以前は厳しかった婚姻の制約も、今は随分と緩和された。
だから神崎の三女で、かつては称賛をあびた夏夜を月嶋家に迎えることができたのだ。
ひと昔前なら、夏夜は遠縁の後妻にでも入るか神崎本家に隠されるしか、選択肢はなかった。
今の夏夜には任務の期待はできないくて、
期待を集めたのは「かつて」なのだから。
18歳を迎える前日。
夏夜のこれまでも、この先も、一瞬で弾け飛んだ。
あれだけのトラブルで、それでも夏夜が助かったのは犠牲があったおかげだ。
野太い声で妹を呼ぶ声が、まだ耳の中にあった。
この任務は、無事に完了する。
誰もがそう思っていた矢先。ゲート前。
軽く手を上げた顧客に笑顔を返し、秋華はまわりを見回す。
イヤホンに夏夜の声が入ってきた。
「11時方向、男1名、アタッシュケースを持ってる」
周囲がピンと張った糸のように緊迫した。
声が聞こえると同時に、走り出した夏夜が見えた。
後を津島が追う。
秋華はまだ手を振っている顧客のSPに飛行機に乗り込み、滑走路へ出発するように通信した。
ゲートを出てからは他国だ。
滑走路へ出ればこの任務は終わる。
津島の後を機動隊が走る。
「夏夜!津島!伏せなさい!!」
そう叫んだのと爆発は当時だった。
耳の奥がビリビリする。
自身の傍に機動隊のジェラルミン盾が落ちていて、周囲は埃の舞い踊る中に伏していた。
任務のメンバーの人数とそっと数えた。
機動隊の怪我人は一名、軽症らしい。
秋華の脇に落ちていた盾は、その隊員のものようだ。
あの子達は...?
少し離れたところで起き上がった3人。
隆、匠、綾女、怪我はなさそうだ....3人?
「秋!ヘリを呼べ。夏夜とおっさんだ」
遥からの声で我に帰る。
空港内の壁らしい瓦礫の中に横たわっていたのは妹と津島だった。
任務のメンバーは速やかに遥のそばに動いた。動かない2人の心肺蘇生をはじめている。
「隆達はそのまま待機して」
秋華はそう指示を出す。
橙子につながるまでが長い。1コール鳴るはたびに指先は冷えていくようだ。
「橙子、ヘリをお願い。二人、夏夜と津島よ。」
「GCSは?」
「all 1よ。 2人とも」
「わかった」
30秒も経たずに携帯は切れた。遥のそばに急いだ。
夏夜と津島はピクリとも動かない。
2人の間だけ時間が止まったようだった。
ジワリとした出血の溜まりはスローモーションのように広がっていく。
救命救急センターのオペ室に入ってからすでに数時間経っている。
ヘリには遥が付き添った。
現場の対応は警察庁になる。立ち合いは秋華がしなければならない。
スーツの男は自身も破片となって吹き飛んでいた。アタッシュケースは囮で、体に爆発物をまとっていたのだろう。
センターについてまもなく、それまでなんとか蘇生処置で保っていた津島は静かに息を引き取った。
ヘリの中で、一度は意識を取り戻したという。
遥から血で汚れた包みを渡された。内ポケットにあったという。
「さすが、オッサンだよ。最期に口の端で笑ってた....」
そう言った遥の目線はぼんやりとして、どこをみているのか秋華にはわからなかった。
まだ亡くなった後の処置は終わっていない。
秋華は長い息をそっと鼻から出していた。
聞き慣れた声がひとつ消えた。
「お嬢、笑えよ」
殉死した父の跡を継いでからそう言って、背中をドンと力強く叩く、大きな手のひらに何度も励まされてきた。遥を秋華の夫として連れてきたのも彼だった。
もしかしたら、あと一つ無くなるかもしれない。
父母も津島も秋華を置いて逝ってしまった。
その上....
オペ室の扉が開き、スクラブ姿の橙子が来た。キャップの額には汗が滲んでいる。
血で汚れたグローブを外して入り口付近のゴミ箱に少し乱暴に投げ入れる。
「夏夜のこと。来て。」
颯爽と歩く後ろ姿を見て、「医者なんだ」と当たり前のことを考えた。
医師が使う面談室。
室内にはシャーカステンとデスクトップPC、少しの文房具がおいてあった。
秋華と遥に仕草で椅子を進め、橙子は立ったままシャーカステンの電源を入れた。
手にしているレントゲン写真をスイと挟むと橙子はテキパキと話し始めた。
「とりあえずの検査は終わった。損傷は左に集中している。
津島さんのおかげで、右はかなり救われてる。
でもね、左の眼球は破片の傷が大きくて諦めるしかない。
左肩から肺の損傷。左肺の機能は今までの半分くらいになる。
肩はいずれ皮膚の移植をする。
それからね、ここからが相談なんだけど....左の下腿、かなり深いのよ。
骨というよりは膝の神経が回復するのかどうか、際どいところね。
今は輸血をしつつ、腿と左肺を同時にオペすることになる。
左足は医師としては残さない方がいいと思う。今後のことも考えるとね。」
「.........俺は橙子の見解に賛同。秋、お前は?」
「残さない方がいい、とは切断という事?」
「ええ。オペしても壊死の可能性があるし。将来義足を作るにも邪魔になる。」
「100%無理?」
「姉さま、簡単に言ってるわけじゃない。私だって一緒なのよ?」
秋華は机を見つめたまま、目を瞑る。
「お願い。何とかして。もし1%でも可能性があるなら..」
「姉さま.....」
「これ以上無くしたら、あの子生きていけないわ...
眼も!自信も!夢も!名声も!そんなで助かって良かったって夏夜は思う⁈
あなたの足は義足の邪魔になるから取ったんだって......そう言うの?」
叫ぶように一気に言って、最後は聞こえないくらいの声だった。
姉の訴えを橙子は黙って聞いていた。
静まり返った部屋の中、時計の秒針だけが響くように音を立てている。
「秋.....今言った言葉をオッサンに言えるか?」
遥は津島のことを敬愛を込めて「オッサン」と呼ぶ。
秋華は瞑った目に力を込める。
「オッサンが盾になった命だぞ。自信も夢も名声もかなぐり捨てたって夏夜は生きなきゃいけない。それこそ死に物狂いでもな。」
「.......」
口を開きかけて返す言葉がないことを秋華は知った。
橙子も目を瞑って眉間に皺を寄せ、机に肘を付き、両こめかみ辺りを親指でグイグイと押している。考え込んでイライラしているときにする動作だ。
目を開けると秋華から目を離さずに言った。
「わかった。とりあえず残そう。
でも、壊死の徴候があれば、相談なしでやらせてもらう。医師として夏夜の意思も姉様の意思も聞けない。」
そう言うと、大股でオペ室へ戻って行った。
手術室の使用灯が再度ついた。
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