黒崎冬香は運動が得意

 起床。目が覚める。

 体を起こし、簡単なストレッチ。寝ぼけたままに足を開く。体重を落とす。

 だんだんと意識が覚醒。

 部屋隅にある小さな冷蔵庫を開けて冷たい水を飲み干した。


 昔から、朝はそんなに得意ではない。

 だが、仕事のせいか、俺以上に得意ではない奴のせいか。

 多分その両方のせいで、自然、目が覚める術を手に入れていた。

 

 500の水で喉を一気に潤すと、ジャージを雑に着る。

 今日聞く音楽を選びながら洗面台に行き、顔と歯を磨いて外に出た。


「今日は早いんだね」


「…………」

 

 ジャージ姿の黒崎冬香。

 彼女が笑いながら、そこに立っている。


 なんでお前がここに。

  

 という言葉はあえて言わなかった。


 その恰好を見れば、十全にわかる。

 黒崎は俺と同じ、ジャージ姿だった。

 名前に合わせたのか、黒を基調としているそのスポーティな格好はとても似合っている。


 批判代わりにため息一つ。

 これ見よがしに吐いて見せる。


「……はぁ」


「すぐ体の空気を入れ替えるその意思は感心だ」


「…………」

 

 相変わらず皮肉が通じない奴だ。


「しかし、深呼吸ならもっと胸を張ってするべきだ。そんな猫背じゃ酸素も大して補給できてないぞ」


「うるせえ」


 無視をするように足をひねってシューズの感触を確認。

 首と足首を経練りつつ、軽い準備体操をする。

 そのままイヤフォンをポケットにねじ込んだ。


「……くっくっ」


「なんだよ」


「やはり君はいい奴なんだなと思ってね」


「……は?」


「優しいな。モテるわけだよ」


「意味が分からん」


「こっちの話さ」


 それだけ言って、彼女は走り出す。

 方向はいつものコースとは真逆であった。

 しかし、そちらを選ばない理由が特別あるわけでもない。

 また俺は、一つ、肺の中の空気を入れ替えて彼女の後ろをついて行った。


「体力には自信があるんだ」


「ふーん。じゃあ勝負でもするか?」


「いいね。今日の昼ご飯はどうだい?」


「ベタだな」


「王道だよ」


「王道ね」


「どうする?」


「悪くない」


 そんな掛け合いをしつつ、俺たちは走った。




 数キロメートル先。

 いつもの場所。公園。ベンチ。

 先ほどまで自信ありげだった彼女はもういない。

 黒崎は肩でしていた息を整えるように呼吸をする。

  

「……体力、あるんだ、な」


「そうでもない」


 謙遜じゃなく本心から。

 そう答える。


 二日に一回程度。

 無理ないペースで走っていれば、だいたいこんなもの。

  

 実際、体力テストなんかでは、やはり全体的に運動部の後塵を拝する。

 春乃なんかと比べれば間違いなく足も遅い。

 自分の運動能力が高い意識はそんなになかった。


「……はぁ、はぁ」


 むしろ、こいつの体力が分かりやすくなかった。

 それこそ、どうして勝負を仕掛けてきたのか疑いたくなるほどに。


 俺は自分用に買ったペットボトルを黒崎に投げる。

 器用に彼女はそれを片手で受け取った。


「……別に、僕も、体力が、ないわけじゃ、ないんだけど、ね」


「とりあえず飲めよ」


「ああ……。そう、だな」


 ごくごく、と。

 勢いよく喉に水を流し込んでいく。

 飲み干し、そのまますぐペットボトル俺に返す。

 一気に半分ほど軽くなったそれに対し、一言ぐらい言おうと思ったが、しかし、どうせ残っても捨てるだけだ。

 俺は残りを飲んで近くのごみ箱に投げる。無事。入る。


「nice shoot」


「どうも」


「……はぁ、うん。疲れた」 


「…………」

 

 見慣れた黒崎とは違う姿。

 汗を拭い、深くベンチに腰掛けて言うその姿は、何だろう。少し面白い。


「お前も弱ったりするんだな」


「当たり前だ。僕も人間だよ」


「その割には、普段から人間っぽさがないわけで」


「別に。あんなの演出だよ。そういう風に見えるようにふるまっているだけさ」


 疲れているのだろう。

 いつもより少し、乱暴に答える。


「ああくっそ。胸が痛い。血の味がする」


「そもそもお前、運動得意なんじゃなかったのか?」


「苦手ではないと思ってるよ」


「経歴と体力見る限り何かスポーツやっていたようには見えないけど」


「失礼な奴だな。言っておくが僕は昔、それなりの大会で賞を受賞したこともあるんだぞ」


「そうなのか」


「嘘は言わない。キャンパス内で一着だった。文句なくね」


 ふふん、と胸を張る。

 しかし脱力しているからか、その破棄はいつも以上に見えない。


「一着ね」


「断トツだったよ」


「ちなみに競技は?」


「BINGO」


「スポーツじゃなかった」

 

 なんなら大会でもない。

 というかアメリカでもBINGOってあるんだ。知らなかった。


「あれも立派な競技だろう?」


「……競技ではないかな」


「ほう。では競技の定義はなんだ。僕は辞書通り、競い合うことだと思ってるが、君の解釈は違うのか。それはおもしろい。さあ聞かせてくれよ。広辞苑に乗っているよりも高尚な定義を持っているというのなら、さぞ、僕の勉強になるだろうさ。答えたまえ」


「いやだから……。BINGOは運動神経関係ないし」


「そもそも運動神経なんて言葉を使っている君に運動のセンスを揶揄されたくはないね。そんな神経など人体にはない。正確に『脳と筋肉をつなぐ末梢神経』というべきだ。浅学菲才。君は本当にこの国で教育を十年以上設けている人間かい?」


「ああもう。うるせえうるせえ」

 

 なんなんだ、ほんと、こいつ。

 理性的な奴だと思えば、途端、感情的になったり。

 一緒に居ればいるほど、扱い方がわからなくなる。

 

 まるで煙と反しているような、不思議な感覚。

 相も変わらずの黒崎冬香だった。

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