黒崎冬香にとって、秋は好きな季節だという
「――おかえりなさい」
「ただい……」
ま、と、最後まで言えなかった。
帰宅後。自宅。つまりは玄関。
なんだか知らないまま、彼女は帰宅後三つ指をついて僕を出迎えてた。
「先輩、おかえりなさい。本日もお勤めご苦労様です」
「…………」
なぜか和装。なぜか着物。
見慣れない目の前の光景に思わず固まる。
なんとなくこの光景を外に見せるべきではないと判断。
僕はドアを後ろ手に閉めた。
「本日は、いかがなさいますか?」
「……いかが?」
「はい」
スッと伏せた態勢から、顔を見せる。
細目に開かれた目元、きりりと尖る口元。すうっと一本と覆った鼻筋に透き通るほどに切れな柔肌。
そして、口を開く。
一瞬のためらいもなく、秋葉は言った。
「ご飯にしますか? 風呂にしますか?」
「…………」
「それとも……わ・た・し?」
「…………」
……は?
数秒経過。
そのまま空気が死んで、秋葉は元の態勢に戻る。
また指をつき、地面に頭を落として言う。
「ご飯にしますか? 風呂にしますか?」
「…………」
「それとも……わ・た・し?」
「…………」
脳の処理が全く追い付いていない。
帰宅早々……何を言ってるんだこいつは。
「あの……」
「はい」
「秋葉」
「はい」
「……お前、なにしてんの?」
だから、聞いてみた。
意図から意味から全部まったく、これっぽちもわからないので。
だから、聞いてみた。
「何してるっていうか……え、何その恰好、どうしたの? なんかあったの?」
「……先輩」
「あ、はい」
「質問の意味が分からないです」
「俺は、お前が意味わからないです」
「日本語が奇妙なことになってますよ」
「今のお前に比べれば些細なもんだ」
少し落ち着きを取り戻してきた頭を落ち着かせつつ、聞く。
「……で、ごめん。聞こえなかった。秋葉、さっきなんて言った?」
「またまたー、そんなこと言っちゃって。察しのいい後輩はわかります。私に言わせたいんですよね?」
「じゃあ訂正する。視覚情報が強すぎて聴覚がまったく機能してなかった」
なんなら、 目の前のこいつが言っている意味をほとんど理解できていない。
故に、まだまともに機能しているかどうかすら怪しい。
「仕方ないですねー。じゃあ、もう一回だけですよ」
飽きかけているのか、ところどころ粗さの見える着物の着こなし方がある。
それが、きれいな作法と相まってとてもアンバランスで……こう、とても変になってくる。
秋葉は、また頭を下げる。
「――ご飯にしますか? 風呂にしますか?」
「…………」
「それとも……わ・た・し?」
「…………」
大変残念なことに、もう一度聞いたところでセリフが変わることはなかった。
もちろん、それを一蹴して聞かぬふりをして、すべてを無視することはできる。
というかいつもならそうする。少しの迷いもなく、ためらいもなく。
即座、瞬時に俺はそうする。
だから――これはちょっとした気の迷いなのだ。
「……あのさ」
「はい」
「それってさ」
「はい」
変わらず真剣まなざしで、切れ長の目はまっすぐ俺を見据えていて。
その瞳は、俺を見つめていて、そして、俺は聞く。
少し、唾を飲み込んで、間を取って俺は聞く。
「最後の『わたし』を選んだりすると……どうなるわけ?」
気の迷い。
間違い。
その理由は明らかに今日の会話。
帰り際。黒崎とした会話が原因だ。
あいつが『あんなこと』を言ったせいだ。
しかしそんな事情など露も知らない秋葉。
予想外だったのだろう。
俺の反応と質問に対し少し驚いたような表情を見せつつ、しかしすぐに口を開く。
「……どうなるって」
その変化に乏しい表情の中で少しの妖艶さが醸し出されている。
頬をほんの少しだけ赤らめながら、秋葉は言った。
「そんなの……決まってるじゃないですか」
……ああ、なるほどやはり。
もしかすると、黒崎の言った通りなのかもしれないな、と改めて俺は、今日の放課後のことをしていた。
場面移って夕方。数時間前。
数か月前に比べ、日が長くなってきたとはいえ、 放課後残って二時間も作業すればあたりはすっかりオレンジになる。
俺は最上階である四階からゆっくり通り、自分のクラスに向かう。ドアを開けた。
「もう終わったのか」
「ああ」
「あと少し待ってくれ。きりがいいところまでやり切りたい」
「おう」
教室の中、何かしていたのだろう。
俺を待つだけの時間をただ無為に過ごすほどの女ではないことは、この数日一緒に過ごしただけで十分に分かった。
少し程度松野は問題ない。こちらも仕事が残っていないことはないのだから、それでも片付けつつ待つとしよう。
◇◇◇
先の決意を持った一時間後。ようやく俺たちは帰路についていた。
こいつの言う『少し』というのが、だいたい一時間であること。
それが分かっただけでも今日は収穫だった、そんな前向きなのか後ろ向きなのかわからない判断は保留にした。
「それにしても」
「ん?」
隣を歩く黒崎は鞄を丁寧に持ちつつ、口を開く。
「君が――生徒会に所属しているとは思わなかったよ」
今、思い出したかのように。
そんな調子ではあるものの、しかし本心なのだろう。
少なくとも、遠回しな嫌味ではないことはわかった。
「そんな意外か?」
「君は基本、自ら進んで行動を起こすタイプには見えない」
端的に言えば――と、黒崎は続ける。
「平和主義者――という奴だよ」
過度なほどね。
そんなことをつぶやきつつ、彼女は言った。
「まだ一か月弱の付き合いだがな。それでもこうして一緒にいる時間が長いと相手のことは十全にわかるものさ」
俺のほうをじっと見つつ、黒崎は笑う。
「君は今の平穏を愛し、普通を愛し、普遍を貴重なものとしている。例えば、この数日、君は毎日、寸分変わらない服と道と時間で学校を往復している。付き合う人間も話す人にも変化はない。人間関係がひどく閉鎖的といえる」
「さすがだな」
さすが、人をよく見ている。
「反対に、変化や変動、異常や非日常に対し、とても敏感だ。敏感でそれを拒否している。君はきっと、テリトリーに自分が理解できないものを受け入れるのが嫌いなんだ」
「否定はしない」
「僕に対し、過度に敵意を持っているのもそれが理由だろう?」
「わかってるならぜひやめてくれると嬉しいよ」
「それは無理な相談だ」
僕には僕で、ちゃんと目的があるんだから。
――目的。
それを俺は知っている。
この嫌がらせのような行為と関係にいったいどんな裏があるのか。
それらの訳は理解している。なっとくとは別に。
「君みたいな貴重なサンプルを僕が放っておけるわけがないんだ。こればっかりはおとなしく付き合ってもらうよ」
「……へいへい」
わかっていたが、つかみどころの見えない奴だ。
間違いなく苦手なタイプで、不穏の原因。
ただ、今更この関係性を否定し、再構築するのも時間がかかる。面倒だ。
「僕としては、君がもう少し彼女たちと距離を開けてくれると嬉しいんだがな」
「……彼女たち?」
「とぼけるのかい?」
「…………」
確かに。
さすがにこれはやりすぎか。
黒崎に視線を戻すことはなく、俺はつぶやく。
「夏希たちは……幼馴染だからな」
「だとしてもだよ」
黒崎は続ける。
「そもそも、この関係だって、そうだ。恋人関係になった理由だって、君は十分に理解しているだろう?」
「……ああ」
「だったら一度、彼女たちと距離を取ることが最適解だとは思わないのか?」
「…………」
「彼女たちは君の幼馴染。僕は君の恋人。その関係の差を僕は作った。そこにどんな意味があるのか。君は本質的に理解していないらしい」
「……意味?」
「教えてあげよう」
足を止めた俺の前。
黒崎は数歩先に歩き振り向く。
「恋人というのはお互い恋愛関係にある存在のこと。海外にはあまりないけれど、この国では一般的な言葉で定義可能な関係だ」
「ああ」
「ただ、たいして幼馴染という関係はひどく不安定だ。何歳のころから知っていれば幼馴染なのか。どの程度一緒に居れば幼馴染なのか。どの程度の付き合いで幼馴染なのか。すべてあいまいなんだ」
その通りだろう。
実際、それを具体的に数字で定義することは難しい。
自分は幼馴染と思っていても、相手からすればそうではないことだってある。
「だから、僕は君の恋人になった。わかりやすく定義された関係を周りに示すためだ。その効果は実際相当にあっただろう?」
思い起こす。
「俺、彼女できた」と言った後。
幼馴染たちが見せた反応と言葉を想起する。
そして、実際、それらはわかりやすく反応が変わった。
「それにだ」と黒崎は続ける。
「君たちの関係はな。――とてもいびつなんだよ」
「いびつ?」
「歪んでいるといってもいい」
異常ともな。
黒崎は続ける。
「世の中、閉鎖的な地域を除いてだ。小学生、幼稚園からの付き合いの友人関係が、一体どの程度継続するか知っているか?」
「……さあ」
調べたこともない。
「――1%」
力を籠めるように、彼女は言う。
「幼いころからこの年まで、友人関係を継続している人間は100人に1人。その中で仲が良く、一緒にいるのが当たり前で、加え異性同士で、学年違いな関係性――これはいったい何パーセントになるんだろうね」
「……あくまでも可能性だろ」
「その通り、これは可能性の話でしかない」
「偶然ってこともある。俺がたまたま運がいいだけかもしれない」
「ああそうだね。君の運がいいだけかもしれない。0%でない限り、君たちの幼馴染のような関係性はこの世にあるのだろう。それを指さして糾弾するほど僕も愚かじゃない」
――でもね。
日も暮れる時間帯。
そのオレンジの太陽を背景にしながら、黒崎は目を細めている。
俺に数歩ずつ、近づきながら言った。
「――その全員が現在、たまたま同じ高校で、たまたま同じ生徒会で、たまたま一緒に仕事をして、その時間のほとんどを共有しているなんてこと、君は本当にあり得ると思うかい?」
「…………」
「挙句、三人とも、君に一定以上の好意を向けている。家族としてならの友愛なら、まだ理解できる。が、しかし明らかに男性として君を見ている」
「…………」
「今更、彼女たちの気持ちに気づいていないふりをする必要はないよな?」
また一歩。俺に迫る。
俺との距離が縮まる。
「……ああ、そうだな」
肯定――とも否定とも取れない返事。
そう俺は判断する返事。
「だが、君は――彼女たちの気持ちに応える気はない」
「どうかな」
「当たり前だ。君は立場上、彼女たちを愛してはいけない。深くかかわりすぎてはいけない」
「ああ」
「にもかかわらず、幼馴染たちに対し、友人以上の強い気持ちも持っている」
黒崎は、興味津々といった表情のまま、ついには俺の胸に寄りかかりつつ、言った。
「君は――彼女たちをどうしたいんだ?」
「…………」
ついに心臓の鼓動を聞くように、体重をかけてきた黒崎。
それを、少し抱えるようにして俺は持つ。
間違いなく聞かれている――この高鳴った音を、聞かせないように、せめてもの抵抗をする。
妖艶に笑いながら、黒崎は「まあいい」とつぶやく。
「どちらにしろ、彼女たちは離れられない。離れることができない。君から離れて息ができない」
繰り返す。
「そして、君も彼女からは離れられない。そのまま彼女たちを拒絶するようでいて、近くにいるのだろう。見守るように、見つめるように。まるで……そう。監視するように」
言葉をしみこませるように、黒崎は繰り返す。
「そんな君と彼女たちの一方的な関係性を見て」
その黒目がちな瞳は、深淵を除くように。
「そんな君たちの偏重な関係性を、横から覗いていて」
そして、黒崎冬香は言った。
「それを――『歪んでいる』と言わんとして、他に何といえばいいんだい?」
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