青木秋葉は一人で階段を上がれない。
「先輩が悪いです」
食後。リビング。テレビの前にて。
洗い物もそこそこに自堕落な時間を過ごしていた俺へ、秋葉から出てきたのはそんな言葉だった。
「……なんだって?」
「今日のことは、だいたい全部先輩が悪いです」
ちなみに、俺はソファに座っており、秋葉は俺に座っている。
座椅子代わりにちょうどいいサイズとのことで、食後、よくこうして俺は秋葉に寄りかかられていた。
「私が空腹で苦しんだことも、ソラニンを食べてしまう羽目になったことも。全部先輩が悪いです」
「今日はまたずいぶんな暴論をおっしゃいますね、秋葉さん」
「まずなんで今日遅れたんですか。いつももっと早くに帰宅するじゃないですか」
「さっき話しただろ。飯食べながら」
「聞いてませんでした」
「なんで自慢気なんだお前」
ない胸張りやがって。
構わず、秋葉は口を尖らせる。
「食事中だったんですよ再度説明を要求します」
「だから、ピクニックに行ってたんだって」
「はいそれ、それがそもそもおかしいんですよ。なんで平日の昼間に高校生が授業を受けないでピクニックに出かけてるんですか」
「じゃあ、なんで高校生であるお前も平日の昼間に授業を受けてないんだ」
「今、私のことは関係ありません。話をそらさないでください」
「あ、はい」
「もう一度聞きますよ。なんで午後、授業があるのにも関わらず先輩はピクニックに出かけたんですか?」
「春乃が誘ってきたから」
「説明になってません」
「なってると思うけど」
「先輩は春乃さんが唐突に地雷原へ行こうって言ったら、いつでもどこでもついて行くんですね」
「行くわけないじゃん、危ないし」
「じゃあなんで今日ピクニックには行ったんですか」
「春乃が誘ってきたから」
「……先輩は、もっと論理的な話ができる人だと思ってました」
「お前にその方面で失望されるのは業腹だから言っておくけど、別にふざけてるわけじゃないからな?」
むしろ秋葉の聞き方にこそ問題があるといえる。
俺は続けた。
「知ってるだろ。春乃はああ見えて口がうまいんだ」
「知ってますよ。春乃は見かけによらず成績もいいですし」
私もよく休日に外に連れ出されたりしました。
少し懐かしそうに秋葉は言う。
「そう。そしてそんな頭がよくて口がうまい奴がだ。筆頭不真面目な生徒である俺へ、魅力的なさぼりのプレゼンをしてきたとして、それを簡単に断れると思うか?」
「……普通に断ると思うんですけど。先輩の性格を考えれば特に」
「お前は俺を全くわかってない」
そういう評価は先輩としては光栄だが、変に期待されても今後が困る。
ここはしっかり言っておくべきだろう。
「言っておくが俺はお前が思ってるほど真面目な人間じゃない。時には学校だってさぼったりする」
「じゃあ私も言っておきますが、私は別に先輩がまじめな性格だから学校をサボらないと思ってるわけじゃないです」
「というと?」
「シンプルに学校を途中で抜け出して授業をサボるようなことができないチキン野郎だと思ってるだけです」
「純粋な暴言はやめよう」
「不純な暴力でも私はいいですよ」
「日本は暴力を禁止している国だ」
「多数決は数の暴力ですね」
「人類はみな平和であるべきだと俺は思う」
「人類の歴史は争いと競争でできていますが?」
「…………」
「…………」
頭の回転だけは無駄に早い返し。
俺の胸に頭をどんどんとぶつける秋葉。
どうやら今日はとことん当たり散らしたい気分らしい。
「先輩は、春乃さんに甘すぎなんです」
「そうか?」
「どうせ、今日帰宅が遅くなったのも、春乃の代わりに怒られていたんでしょう」
「よく知ってるな」
「長い付き合いですから」
春乃とも、先輩とも。
そういって秋葉は大きくため息をつく。
「見なくてもわかります。怒られるのが嫌で逃げ出した春乃と、春乃の分もしっかり怒られてる先輩。当たってるでしょう?」
「あー……まあ、そうだな。うん、大体当たりだ」
「大体ですか?」
「少し惜しい」
「少し?」
「逃げ出した春乃、怒られてる俺。――その二人を見て大爆笑していた夏希。これで、百点」
「……ああ、なるほど。そういうことですか」
「やっぱ夏希の奴、相当性格悪いよな」
「私はいい人だと思いますよ、夏希」
「忘れ物を取りに行った俺をチクったのもあいつだったし」
「模範的な生徒の行動ではあるんですけど、それは間違いなく先輩への悪意でしょうね」
「自分はしれっと先に帰ってやがった」
「何か喧嘩でもしたんですか? ちゃんと謝ったほうがいいですよ」
「今回は何もしてないと思うんだけどなぁ……」
「最近はあまりこういうことなかったですけど、昔は先輩たちしょっちゅう喧嘩してたじゃないですか」
「そうだった」
「だいたいどっちかが耐え切れなくなって家に謝りに行くことになるんですから。私も変に気まずいのは嫌ですし。さっさと片付けてください」
「ほいほい」
とはいえ、別に心当たりがあるわけもないので適当な生返事になる。
まあ明日、学校に行くときにでも聞けばいいだろう。
しばらくの沈黙。
休日以外あまりテレビをつけない我が家は、基本静かな空気がほとんどである。
俺も秋葉もあまりしゃべるタイプではなかったし、沈黙が苦になるタイプでもなかったからだ。
器用に話しながらPCを叩く秋葉。
その頭に手を乗せ、スマホを見る俺。
秋葉の手が、いきなり止まった。
「先輩」
「なんだ」
「あのですね」
「うん」
「今日ですね」
「ああ」
「家に一人でいて、リビングで一人座っていて、先輩を待ってるときですね」
少し息を吸うように黙って、秋葉は言った。
「私――捨てられたんじゃないかって思ってました」
「は?」
スマホを見ながらだったから、理解が追い付かなかったわけではない。
聞き間違いかと思ったから、俺はただ聞き返した。
「……捨てる?」
「はい」
「誰が?」
「私が」
「誰に?」
「先輩に」
「……………なんで?」
捨てるとはどういう意味か。
私とはだれか。
先輩とはどの先輩か。
個別の単語は理解できているが、文章の理解が追い付かない。
聞き間違いではなかった。
しかし、よく考えても全くわからなかったので改めて俺は聞いた。
秋葉は「えっと、ですね」と俺に体重をかけながら言う。
「私って……ほら。一人じゃ何もできないじゃないですか」
「うん」
「即答ですか」
「実際そうだし」
一人で食事はおろか食事の準備すらできない。
挙句、電子レンジすら満足に扱えない人間など『一人じゃ何もできない人』以外のなんと表現すればいいのだろうか。
ちなみに秋葉は一人で風呂にも入れないので、基本一緒に入っている。
その話はまた後日する機会もあるとは思うが、とにかく、彼女がどれほど自分一人で生きていくことができない女なのかはわかってもらえると思う。
「で、それがどうしたの? 俺にとっては今更でしかないんだけど」
「いや、あのですね。だからですね。そのですね」
歯切れ悪そうに、早口で焦るように秋葉は続ける。
「そんな私にですね。見限りをつけてですね。『なんで俺があいつの世話なんか』『面倒だし時間取られるし、プライベートはないし』『そもそもどうしてあいつと暮らさなきゃいけないんだ』『もういいや、あいつは放っておいて外で遊ぼう』『そのまま外で恋人でも作って遊んでやろう』なんて、ですね。そんな風に先輩が思って、考えて、行動してしまったのではないかと、ですね。想像をですね。だから家に帰ってこないんじゃないか……なんて、そんなことを考えてしまいましてですね」
「……え、なんで?」
今更何を――という意味。
一つは、十年以上同居生活を送ってきた人間にお前は何を言ってんだという疑問。
二つは、百歩譲ってその考えはいいとして、いったいどうして人を椅子にしておきながらそんな申し訳なさそうなことを言えるのだろうか、という感性への疑問。
「なんで……でしょうかね。私も分かりません。いきなり不安になったんですもん」
「なんだそれ」
「おなかが空いていたからですかね」
「そんなわけないだろうに」
「ですよね」
かわいらしく「ふふっ」と笑う秋葉。
前へ向いているその整った顔は残念ながら、俺からは見えない。
「昔と違い、最近はこんな気持ちになったことはないんですけどね。誰もいない空間というのはやっぱり慣れません」
「そうか」
「自分の部屋に戻ってお仕事をしていればよかったですけどね。今日は……降りてきてしまいましたから」
「……ああ、そうだな」
そう。
一人で何もできない青木秋葉は、一人で階段を上ることができない。
別に足に不自由があるとか、そういうことではない。
細いながらもしっかりと足はついており、歩くことは可能だ。
彼女はただ――人工物の段差を複数回上ることができない。それだけの話である。
単純に上がり方がわからないのだ。
それでも無理に階段を上がろうとすると、酔って吐いてしまうほどに。
これは俺と出会う前からずっと変わらない秋葉の習性で、性格で、性質だ。
「甘いですね、先輩」
「何が?」
「昔とは違います。最近、調子のよい日は二段であれば問題なく上がれるようになりました」
「何も自慢になってないな」
「簡単な段差であれば、もう一人でクリアできますし」
「そうかいそうかい」
「成長ですよ。えへん」
「秒速1段の一般人類に比べて、年速0.2段のお前がなんでそんなに偉そうにしてるのか、俺はわからない」
軽く、彼女の頭を小突く。
そんな風に冗談めかして言うものの、こんなこと、別に慣れてしまえばどうということはない。
食事にしろ、用意や世話についても、別段迷惑に思ったことはなかった。
「……去年、秋葉と暮らすってなった時も行ったけどさ」
そして。
そのまま俺は秋葉の頭をなでながら。
撫でながら、少しだけ震えている秋葉を落ち着かせるように、俺は言った。
「そりゃまあ、負担にならないかと言われば嘘だし、もうちょっと自分でできるようになってくれるとありがたいし、なんならむかつくことだってたくさんだし、嫌いにあることだってあるけど」
「はい」
「今、秋葉がいること自体に対して迷惑だとか、出ていけだとか、あるいは邪魔とか捨てるとか。そういうことは思ったことない。今後も思うことはない」
「そう……ですか?」
「もちろん。秋葉が自分のことを自分でするようになってくれるなら助かる。でも助かるだけで、だからどうってわけでもない。俺が秋葉を助けているのは俺が勝手にやってることで、それだけだ」
「…………」
「俺はここにいるよ」
若干震えが止まりかけた彼女へ、俺は続ける。
「例えば、秋葉が俺のことを嫌いになったり憎くなったり。もしその逆が起こったりしても、俺は秋葉と一緒にいる。秋葉が一人で家を出ていけるようになるまで、近くにいる」
「……はい」
「俺は秋葉が問題なく生きていけるまで一緒にいる。秋葉は俺と一緒にいる。離れるつもりはない」
「……はい」
「約束、忘れてないからな」
「……はい。私もです」
確かに約束、していただきました。
そうつぶやいた時、もう震えは止まっている。
呼吸もいつもの調子に戻っている。
胸にあたる彼女の温度と体温も変わりない。
そして、彼女がPCを叩く音がいつもの音に戻った。
「すいません、先輩。とても面倒くさいことを言ってしまって」
「いいよ別に」
「すいません、先輩。面倒くさい彼女みたいなことを言って」
「だからいいってば」
「すいません、先輩。まるで面倒くさい女がよく言うみたいなことを言ってしまって」
「……いやだから」
「すいません、先輩。まるで自己承認欲求の多い女が暇つぶしがてら彼氏に愛の強さを確認するためにメンヘラぶってみたみたいな感じを出してしまいまして」
「…………」
「すいません、先輩。まるでめんどくさい女がSNS上で不幸アピールをして男にかまってもらおうとしているみたいな感じを出してしまって」
「さっきからの、君は一体誰を傷つけようとしているの?」
それ、多分一番傷ついているのあなたですけど。
そういった俺の言葉を受けてなのか、「ふふっ」と上品に笑った彼女は
「すいません、先輩」
と、また枕の言葉を並べ、笑顔になって言った。
「私――とても面倒くさい女なんです」
やはり、その笑顔は今まで最もきれいだと思う笑顔の一つだった。
「……あ」
そして、デジャブ。思い出す。
その笑顔から、秋葉の笑った顔から。
俺は思い出す。
「秋葉」
「何ですか先輩」
そして、俺は言う。
最後の報告を、最後の幼馴染に言った。
「俺、彼女できた」
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