第十四話『唯一の持ち物』
温水で身体を洗うのは、気持ちが良かった。今まで町の近くにある川でしか身体を洗ったことにないセリカにとって、それは初めての経験だった。
よく分からない液体で泡を立て、身体と髪をルミナの手ほどきで洗う。身体の汚れが驚くほど綺麗になる感覚はある意味では快感に近いものがあった。
身体を綺麗にして、そしてタオルで身体を拭いた後、ルミナが用意した猫の寝間着を着てみると思いのほか意外と悪くなかった。
なにで作られたかセリカには分からなかったが、心地の良い感触が身体を包んでいて、心地が良かった。
その後、ルミナと一緒にセリカがシャワー室から出ていく。次は何をするのだろうかとセリカがルミナを見守っていると、彼女はタオルと櫛を持ったままノワールの元へと駆け寄っていた。
「ノワール! 今日もお願い!」
「いい加減、一人でやったらどうだ?」
「むぅ! ノワールがやった方が上手なんだもん!」
「はいはい、ならこっちに座れ。まったく……世話の掛かる子供だ」
「良いもん! 私は子供なんだから!」
ルミナが誇らしげに微笑むのに、ノワールが呆れたような笑みを浮かべる。
ルミナは持っていたタオルと櫛をノワールに渡すと、彼女はそのままベッドに座っていたノワールの足の間に座っていた。
「何してんだ? 二人とも?」
ノワールの足の間に座ったルミナが身体を小さく左右に揺らして、どこか楽しそうにしている。
「髪の手入れだ。ちゃんとやらないと髪が痛むからな」
セリカにそう訊かれて、ノワールはタオルでルミナの髪を拭きながらそう答えていた。
「髪なんてもう拭いたから問題ないだろ?」
「意外と拭き取れてないもんなんだよ。それに櫛で髪を整えないと髪が絡まる」
「ふーん……そんなこと、どうでも良い」
ノワールがルミナの髪を一通り拭き取り、そして櫛で彼女の髪をとかすのをセリカが椅子に座りながら眺める。
「むふー!」
心底心地がよさそうにルミナが満足そうな表情を作っていた。
そんな顔をしばらく見つめていたセリカは、なんとなくルミナに訊いていた。
「そんなに良いもんか?」
「うん! 女の子は髪が命ってセシアが言ってたの! それに櫛で髪を整えるのって気持ちいいんだよ!」
「髪が命、ねぇ……」
自分には理解できない話だとセリカは思った。
今まで生きることだけで精一杯だったセリカにとって、それは意味が分からなかった。
命は自分の身体を生かすもの。髪が命などという女の気持ちなど、セリカには理解のしようがなかった。
「セリカもやってみれば良いのに」
「私は良い。どうせ髪なんて整えても寝て明日になればいつも通りになる」
「朝もちゃんと整えるんだよ? 女の身嗜みは大事なんだって言ってたから?」
「朝もやんのかよ……というかなんでお前も不思議がってんだ?」
「セシアがそう言ってたの。あとダリアお姉さんも。私も最初は面倒って思ったけど、それも慣れたら好きになってたから良いかなって」
面倒だなと、セリカは思った。
確かに思い出してみれば、街を歩いている女は揃って身なりを整えていたような気がした。
それがルミナのような日々の手入れと知って、セリカは呆れて肩を落とした。
「なにが良いんだか、髪なんて」
「女ってのは、そういう生き物なんだ。お前もいつか分かる日が来る……きっとな」
そう興味なく呟いたセリカに、ノワールは苦笑していた。
しかしセリカはそう聞いても、ノワールの言葉を鼻で笑っていた。
「なに言ってんだか、私みたいな孤児にまともな人生なんてあると思ってんのかよ?」
「人生ってのは、なにが起きるか分からないもんだ」
そう言ってノワールがルミナの髪の手入れを終えると、彼女の肩を軽く叩いて終わった旨を伝える。
ルミナはそれを察すると「ありがとー!」と言って、彼のベッドの隣に置かれているベッドに座っていた。
「ほら、お前も来い。やってやる」
「あ……?」
突然、ノワールが手招きで自分を呼んだことに、セリカが顔を顰めた。
そしてノワールが手に櫛を持ったままなのを見て、セリカはその意図に気づくと鼻で笑っていた。
「私はいい、やめとく」
「一回くらい黙って整えてみろ。そうしたらルミナの気持ちも分かるかもしれないぞ?」
「そんなことしたって意味ねぇよ」
どうせ明日には元の生活に戻る。そうしたら綺麗に髪を整えたとしても、すぐに乱れる。温水で綺麗にした身体も、数日経てば汚れる。
今、セリカが居るこの場所は夢を見ているようなものなのだから。
ルミナに声を掛けられ、ノワールに助けてもらい、そして宿屋で一宿一飯の恩を受けているだけ。
それは自分には到底手の届かないものと察していたセシアは必要以上に“慣れる”のは良くないと無意識に思っていた。
「意味があるか、ないか、じゃない。経験ってやつだ」
しかしノワールはセリカの言葉を小さく首を振って否定していた。
「……経験?」
「経験ってのは、それが多ければ多いほどその人の人生を変える。だからこそ、新しいことを経験するってのは大事なんだ。特に……お前のような子供にはな」
セリカが眉を寄せる。ノワールの言いたいことが彼女には理解できなかった。
だがセリカはノワールの言葉を聞くなり、不思議と胸の内に苛立ちを感じていた。
暗にノワールに言われているような気がした。自分には人生の経験が乏しいと。
「ったく……わかったよ」
それを察すると、馬鹿にされた気がしたセリカは渋々ながらノワールに歩み寄っていた。
そしてベッドに座るノワールの前に立つと、彼女はノワールを凝視していた。
「……私に変なことするんじゃねぇぞ?」
「はっ、子供が生意気なこと言うんじゃねぇよ」
ふん、と鼻を鳴らしてセリカがノワールの足の間に座る。
ノワールはセリカが座ると、彼は手慣れた手つきでセリカの肩まで伸びた髪にタオルを当てていた。
優しくタオルで髪の水分を取り、一通りにセリカの髪から水分を取る。そしてノワールは今度は櫛を彼女の髪に通していた。
がさつそうに見えて、ノワールの手つきが妙に優しいことにセリカは背中が痒くなるような気がした。
「手慣れてんな」
「ああ、ルミナが自分でやろうとしないからな。俺も長くやってると自然と慣れた」
「それも、アンタの言う経験か?」
「そうだろうな。俺も、まだ経験したことないことなんて幾らでもある」
「大人なのにか?」
「大人、だからこそだ」
最後の言葉は、よく分からなかった。しかしノワールがそれ以上のことを話さないことで、セリカは気になったが特に気に留めなかった。
思いのほか、悪くない。髪が綺麗に整えられていく感覚は、こそばゆいが嫌ではなかった。
セリカは心地よさそうに頬を緩める。その表情をルミナは嬉しそうに眺めていた。
「……ん? お前、これなんだ?」
ふと、セリカの髪を整えていたノワールが目を細めた。
「なんだよ?」
「お前の首にあるこれ、どうしたんだ?」
ノワールがセリカの髪を持ち上げると、彼女の首にネックレスが掛けられていた。
セリカのうなじから見えたのは、金色のチェーン。とても孤児の子供が付けているような物には見えなかった。
「ああ、これか。なんか知らないけど、物心つく前の小さい頃からこれだけ持ってたみたいだ。別に盗んだわけじゃねぇよ」
「別に疑ってない。気になっただけだ」
ノワールに髪を整えられながら、セリカが服の中に入れていた物を取り出した。
セリカが取り出したのは、金色のペンダントだった。簡素な形だが、高価な代物なのが見て分かる。
「これ、変わったペンダントなんだ。ここ押すと――」
セリカが手に持っていたペンダントの横の部分を押し込む。そうすると、彼女の持っていたペンダントが開いていた。
ペンダントが開いた中にあったのは、小さな竜のような紋章が描かれていた。またその小さな竜の目に、小さな赤い石が埋め込まれていた。
「変な絵だろ。これ、しかも私が持つと光るんだよ」
そしてセリカがそう言うと、彼女の持つペンダントの中に描かれた竜の赤い石が僅かに光っていた。
「わぁ……綺麗」
ルミナがセリカのペンダントを見て、目を輝かせる。しかしセリカが手を離すと、ペンダントの竜の目から輝きが消えていた。
「わっ、ほんとだ。光らなくなった」
「……見るからに高そうだな。売ろうとは思わなかったのか?」
セリカがペンダントを服の中に戻すのを見て、ノワールがそう問う。
「よく分からねぇけど、これは売ろうとは思わなかった。これは私の唯一の持ち物だからな」
ノワールの問いに、セリカは小さく首を横に振っていた。
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