第八話『あり得ないこと』
大柄の傭兵が声を高らかに笑いながら駆ける。ノワールから目標を変更して、彼がルミナの元へと向かっていく。
大柄の傭兵の予想通り、ノワールが自分の攻撃を受け流したことを利用できた。それにより、邪魔だったノワールがわざわざ自分からルミナへの道を開いてくれた。
おそらくノワールも、その意図に遅れて気づいただろう。まさか自分から目標をルミナに変えたとは、ノワールも思ってもいなかったに違いない。
しかし今更気づいても、もう遅い。大柄の傭兵は確信していた。ノワールが自分に対応する早さよりも、自分がルミナを殺す方が早いと。
そう思って、大柄の傭兵はルミナに向かって走る。ノワールが遅れて自分のところに向かってくる僅かな時間では、ルミナとセリカの二人を殺すことは難しい。ならば、一番自分の欲求が満たされる対象を殺すことを彼は最優先する。
大柄の傭兵が走りながら、剣を大きく振りかぶる。その時、すでに彼の目には呆けた顔で立っているルミナしか映っていなかった。
「まさか、あいつッ⁉ おい、ルミナッ! 早くそこから逃げろッ‼」
「あっ、セリカ! 今、初めて私の名前呼んでくれたっ!」
「だからそんなこと言ってる場合じゃねぇだろッ! 馬鹿かお前はッ! この状況見て分からねぇのかよ!」
呑気なことを口走るルミナに、セリカが驚愕する。
明らかに自分に向かって笑いながら剣を振りかざして走っている大柄の傭兵を見ても、ルミナは何も思わないのだろうか?
大柄の傭兵が狂ったような笑みを浮かべて走っている光景に、セリカは背筋を凍らせた。
ルミナを助けたくても、倒れている身体が思うように動かないことにセリカは苦悶するしかない。
そしてルミナの保護者だと思われるノワールが走ったとしても、到底間に合いそうにない。明らかにノワールが来るより、大柄の傭兵がルミナに攻撃するのが早い。
絶対にルミナが殺される。セリカはそう思ってしまった。そして気づけば、大柄の傭兵はルミナの目の前で剣を振り下ろそうとしていた。
「てめぇだけは殺してやるぅぅぅッ‼」
そう叫んで、大柄の傭兵が剣を振り下ろした。その後に起きる光景を想像して、セリカが思い切り目を瞑る。
しかしセリカがどれだけ待っても、ルミナが斬られることはなかった。ルミナから悲痛な声が聞こえないことに、セリカが恐る恐るゆっくりと目を開ける。
「はぁっ……?」
そして目の前に起きている光景に、セリカは目を大きく開けていた。
大柄の傭兵が振り下ろした剣が、突然現れた細身の剣によってルミナが斬られるのを防いでいた。
「おい。今、お前……ルミナに剣を振り下ろしたな?」
「なんで……お前どうやって……!?」
大柄の傭兵が、その光景に瞠目する。また同じく、セリカも彼と同様に驚いていた。
セリカは寸前まで確かに見ていた。ノワールが細身の傭兵達と戦っていたのを。そして彼が傭兵達を昏倒させた時、大柄の傭兵がルミナに剣を振りかぶっていた。
間に合う訳がない。ノワールが立っていた場所から、ルミナが立っていた場所まで距離がある。とても一瞬のうちに移動できる距離ではない。
しかしそこにはルミナを庇うように、ノワールが確かに立っていた。
「一体、何が起きたんだ……?」
目の前の光景が信じられず、セリカが眉を顰める。
人間業ではない。人間が決してできるはずがないことを、現実にしている。それはまるで――
「まさか、あの男も……?」
ふと、セリカの脳裏にある考えが過った。
しかしそれは、あまりにもあり得ないことだった。そんな人間がこの場にいる訳がない。噂程度にしか聞いたことがない、そんな人間がこの場にいるとはセリカには到底思えなかった。
「ノワール?」
「ルミナ、少し後ろに離れてろ。セリカって子と一緒にいてやれ」
「……わかった」
ノワールにそう言われて、ルミナが小走りで後ろに下がっていく。そしてセリカの元に行くと、彼女はまたノワールの後ろ姿を見つめていた。
「おい、ルミナ。あの男、まさか……」
「珍しく、怒ってる」
「は? 誰がだよ?」
「ノワールが、怒った」
ルミナが見つめる先を、セリカが見つめる。その先には、ノワールと驚く大柄の傭兵がいる。
ノワールの背中を見ていたルミナとセリカには、彼の表情は分からない。
しかしノワールと対峙していた大柄の傭兵は見ていた。彼のその表情を。
目を鋭くさせ、怒りを孕んだノワールの表情は、有無を言わせない威圧感しか感じられなかった。
「口で言うだけなら見逃してたが、それをやった以上はもう駄目だ。お前は――俺の境界を越えた」
防いでいた大柄の傭兵の剣をノワールが剣で弾き上げる。
そしてノワールは身体を左に捻ると、左足を軸に回りながら右足で大柄の傭兵の胴体に向けて蹴りを放っていた。
ノワールが現れたことで唖然としていた大柄の傭兵に、彼の攻撃を防ぐなどの対応は咄嗟にできなかった。彼の蹴りにより、大柄の傭兵は蹴り飛ばされ、壁にその身体を打ち付けていた。
「……図体がデカいだけあって頑丈だな。かなり強く蹴ったのに気を失ってない。大したもんだ」
痛みに苦しむ大柄の傭兵を見据えながら、ノワールが冷たい視線を向ける。
「なんで……どうしてだ……? 間に合う訳がない……! あそこからお前が間に合う訳がないッ……!」
壁に身体を預けながら、痛みに堪える大柄の傭兵が声を震わせていた。
大柄の傭兵は、確かに確信していた。ノワールが間に合わず、自分にルミナが殺される光景を彼に見せつけるはずだった。
それなのに、なぜそのノワールが目の前にいるのか?
あり得ない。大柄の傭兵はそうとしか思えなかった。
起きるはずがない。人間だけの力だけでは決して成し得ない出来事が起きている。
「ま、まさか、お前は――‼」
その時――大柄の傭兵は察してしまった。目の前の青年――ノワールが何をしたのかを。
そう思った瞬間、大柄の傭兵はノワールに怯えてしまった。こんな場所にいる訳のない人間がいることを否定するように、彼は怯えた表情で無意識に叫んでいた。
「なんで“石持ち”が! なんでこんな街に“魔石使い”がいるってんだッ⁉ ふざけんなッ⁉」」
「俺が魔法なんて使える訳ないだろ? 魔法石なんて貴重な物、俺が本当に持ってると思ってるのか?」
しかしノワールは大柄の傭兵の言葉を冷たく否定していた。
壁に倒れ込んでいる大柄の傭兵に、ノワールが歩み寄る。そして彼は抜いていた剣を鞘に収めるなり、それを腰に戻していた。
唐突にノワールが剣を収めたことに、大柄の傭兵が怪訝な表情を作る。
そんな大柄の傭兵だったがノワールの表情が一向に変わっていないことに、彼の背筋は不思議と凍りついていた。
「それに俺が魔法を使えるか使えないかなんて、どうでも良い。今はお前がルミナに剣を振り下ろしたことだ。お前の歪んだ性癖なんて微塵も興味はないが、ルミナに実際に手を出したことは見過ごすわけにはいかない」
そう言って、ノワールが大柄の傭兵に向けて右掌を向ける。
「お前は誰かを痛ぶって殺すのが好きみたいだ。だから俺も、お前を真似しよう」
「や、やめろッ! 俺になにするつもりだッ⁉︎」
「誰かの命を取ろうとするってことは、自分の命を取られても文句は言えない。それくらい、お前も分かるだろ?」
ノワールが大柄の傭兵に右掌を向けた時、彼の右掌に僅かに赤い光が灯っていた。
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