第一章 生まれた意味

第一話『銀髪の少女』


 思い切り、殴られた。

 まるで風に舞う花弁のように、簡単に身体が吹き飛ばされた。

 殴られた頬に感じる痛みよりも先に、背中に衝撃が走る。それが自分が壁に身体を打ち付けたのだと理解する。

 反射的に肺から思い切り息が吐きだされ、そして満足に立てもしない身体が地面に落ちていく。

 全身を地面に打ち付けて、身体中にまた衝撃。そうしてようやく、殴られた頬に今更鋭い痛みが走り抜けていた。




「う……ぐっ……!」




 身体中が痛い。思わず、目から涙が勝手に溢れてくる。

 しかしどうにかして、この場から逃げなくてはならない。必死に身体を起き上がらせようとするが、自分の身体が思うように動かないことに赤髪の少女は苦悶した。




「手間をかけさせるんじゃねぇよ、クソガキがッ!」




 その声と同時に、腹部に鈍痛。まるで小石を蹴り飛ばすように、身体が蹴り飛ばされた。

 大人から放たれる渾身の蹴りの衝撃など、子供が耐えられる訳がない。何度も地面を転がり、そしてまた赤髪の少女は地面に倒れ込んでいた。




「人の物を盗むのは悪いことだって、親に教わらなかったのかぁ? あぁ、そうだった。てめえみたいなガキには教える親もいねぇか……」




 倒れながら、赤髪の少女が視線を声の方に向ける。

 この街ではよく見かける皮の鎧を身に纏い、腰に剣を携えた三人の傭兵がそこに立っていた。自分を痛めつけた二人の細身の男が顔を怒りに染める。そしてその背後に、大柄な男が傷だらけの自分を見ながら楽しそうな笑みを浮かべていた。

 助けは、呼べそうにない。街外れの住宅地まで逃げてきたが、運悪く彼らに見つかり人気のない路地裏に逃げてしまったのが運の尽きだった。この場所では、叫んだところで誰もくることはないだろう。

 いや、どちらにせよ助けを求めたところで自分を助ける人間などいる訳がない。

 この街に、孤児など腐るほどいる。気づけば見覚えのある子供が死んでいたなど、この街では日常茶飯事だった。

 生きる為には、手段を選べない。だから今日を生きる為に、自分は盗みをした。

 しかし全ての盗みが上手くいくわけではない。その日を食いつなぐ為に、自分が生きるために行うことには、必ずリスクがある。

 いつもならある程度逃げれば諦めてくれるのだが、今日は特別運が悪かったのだろう。赤髪の少女は、自分の運の悪さに嫌気が差した。




「ぐっ……!」




 しかしいつまでも殴られる訳にはいかない。赤髪の少女が逃げようと試みるが、意思とは正反対に身体は相変わらず思うように動かなかった。




「人のメシを盗むようなクソガキは死んだ方がマシだ! てめぇみたいなガキはさっさと死んだ方が街の為なんだよ!」




 倒れる赤髪の少女に、顔を真っ赤にして細身の傭兵の一人が怒りを露わにする。

 そしてその男がそう叫ぶと、彼は腰に携えていた短剣に手を添える。その光景に、もう一人の細身の傭兵が驚いた表情を見せていた。




「おいおい、こんなガキにわざわざ剣なんて抜く気じゃねぇだろうな?」

「うるせぇ! こっちはこのガキの所為で一口も食ってねぇ昼飯をダメにされてんだ! 腹の虫が治まるわけねぇだろうがよ!」



 いつの間にか、傭兵達が口論している。

 今のうちにと思い、赤髪の少女が身体を這い蹲らせながらこの場から逃げようと試みる。

 しかしその瞬間、頭部の激しい痛みと共に赤髪の少女の髪が強い力で持ち上げられていた。

 痛みのあまり、赤髪の少女が表情を歪める。だが痛みは治まることもなく、小柄な彼女の身体は持ち上げられるままに宙へ浮いていた。

 赤髪の少女が咄嗟に自分の髪を掴み、持ち上げた人間を睨みつける。そこで彼女は自分を持ち上げたのが大型な傭兵だったことを理解した。

 



「なぁ、嬢ちゃん。火って知ってるか?」



 

 何を当たり前のことを言っているのだろうか?

 答える気もない。赤髪の少女がその問いに、何も答えずに鋭く睨み返す。

 しかし大柄な傭兵は赤髪の少女の顔を見ると、心底楽しそうな笑みを浮かべた。その表情は、とても歪な笑みだった。




「嬢ちゃんは悪いことをした。盗みは良くねぇ、だからこの俺が罰を与えてやる」

「旦那! そいつは俺のッ!」

「うるせぇ、こいつは俺がやる。なんだ? お前、俺に文句でもあんのか……?」




 先程まで短剣を抜こうとしていた細身の傭兵が大柄の傭兵にそう言われるなり、表情を恐怖で酷く歪ませる。

 そしてしばらく間を開けて、その男は小さく舌打ちしながら「文句は……ねぇよ」と呟いていた。

 その答えに満足したのか、大柄の傭兵は鼻を大きく鳴らす。そうして彼は、徐に掴んでいた赤髪の少女を大きく目の前へと投げ捨てていた。

 投げられた身体を地面に打ち付けて、全身に走る痛みに赤髪の少女が顔を歪める。

 しかしその表情が、大柄な傭兵を満足させていたのだろう。彼は着ていた皮の鎧から“何か”を取り出すと――“ソレ”を倒れている赤髪の少女に向けていた。



 “ソレ”は――紅玉の宝石だった。



 小さな丸い宝石。小指の先程度の大きさしかない、小さな宝石だった。

 傭兵が持つには、あまりに部相応な代物。それは赤毛の少女の素人目から見ても、大層高価な代物だというのが一目で分かった。




「旦那ッ⁉ そんな代物、一体どこでッ‼」




 しかし大柄な男が宝石を取り出すなり、彼の後ろにいた細身の傭兵達が揃って驚いていた。

 何をそんなに驚いているのだろうか、赤髪の少女が大柄の男が持つ宝石を怪訝な表情で見つめるだけだった。




「何度か試し撃ちをしたんだが……まだ人には使ったことがねぇんだ。俺はガキが泣き叫ぶのを見るのが好きでたまらねぇ……特に女のガキの泣き声を聞くと興奮してきちまう」




 今から自分のすることを想像したのだろう。大柄の男が恍惚の表情を見せる。

 さぞかし気分が良いのだろう。大柄の男は、饒舌に少女に語り始めていた。




「知ってるか? こんな小さな石を持っているだけで、人間は火の魔法が使えるんだ。それで俺がコイツをお前に向けているってことは、頭の悪いガキでもどういう意味か分かるよなぁ?」




 そこで、赤髪の少女はようやく理解した。目の前の大柄の男が持っている宝石の正体を。まさか自分が実物を見る日が来るなどとは、夢にも思わなかった。


 そして同時に、理解してしまった。


 間違いなく、自分はこれから“死ぬ”のだということを。

 死に対する実感など、なにもない。ただあるのは、これから起きることへの恐怖心だけだった。




「悪いことをしたら、償うのが常識ってやつだ。なら……これはお前の罰だ」




 大柄の男が、赤い宝石を赤髪の少女へ向ける。そして彼の持つ宝石が僅かに光を灯していく。

 その光を見て、赤髪の少女は思わず見惚れていた。宝石の持ち主とは正反対に、ただ美しく輝く紅玉の光に目を奪われる。

 それがこの後、自分の命を刈り取りに来る。きっと目の前の大柄の男が言うには、火が出るのだろう。

 その火が、自分の身体を焼く。きっと信じられないくらい痛いのだろう。思わず、泣き叫ぶかもしれない。想像すると、凍るような感覚が赤髪の少女の背中を走り抜けた。

 そしてようやく――赤髪の少女は理解した。これが“死の恐怖”なのだと。




 死にたくない。死にたくない。死にたくない。




 赤髪の少女の頭の中で、その言葉が駆け巡る。

 まだ自分は何もしていない。何の為に生きているのかを、まだ知らない。何をする為に生まれたのかを、まだ知らない。ただ生きているだけの自分の命に、意味があったのかを知るまで――死にたくない。

 そう思う赤髪の少女の視線の先で、大柄の男の持つ宝石の光が強くなっていく。

 そして赤髪の少女が迫る死に、思い切り目を瞑った瞬間――そんな彼女に声を掛けた人間がいた。




「ねぇねぇ、そんなに傷だらけでどうしたの? もしかして思いっきり転んじゃった?」




 この場に、似つかわしくない声が聞こえた。とても澄んだ、ひとつの穢れのない、無垢な声色だった。

 話し掛けられるなど微塵も思っていなかった。目を瞑っていた赤髪の少女が、思わず声の方に顔を向ける。




「すごく痛そう……私もたまに転んじゃってノワールにすごく怒られちゃうからわかる。でも、あなたみたいな大怪我は私もまだしたことないけど……」




 その視線の先にいたのは、綺麗な銀髪の少女だった。心の底から心配そうな表情を見せながら、その少女がしゃがむと痛々しそうに赤髪の少女の傷を見つめていた。

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