第7話 強きを挫き弱きを助く

 ————まるで象に拳を打ち付けているようだ。鼻の長い神聖な動物は見たことも無いが、ガーネットは鬼の硬い皮膚からそんなことを連想する。

 妖精が舞う新月の夜よりも濃い闇が覆う禁域の森の中。薄っすらと効く夜目を頼りに鬼と大立ち回りを繰り広げる。大木の幹ほどの厚さがある胴に果敢に掌底を叩き込むが、弾む肉塊が衝撃を雲散霧消させ決定打には至らない。


 追撃を試みようとしたその瞬間を、横合いから伸びてきた巨手に捕まりそうになり、腕と巨体の隙間を縫って離脱する。


「……つ。巨体の割には以外と素早い動作。怪異と戦うなんてことは流石に想定して無かったな……」


 頬を伝い落ちる汗を拭いながら、改めてガーネットは鬼の異形ぶりに目を見開く。

 身の丈はおよそ8メートルほど。丸太よりも尚太い腕と脚。全身を覆う青い体表に、膨らんだ胸元は淡い緑の体毛で覆われている。


 何よりも恐ろしいのはその貌。血走った鬼灯の如く朱い鬼眼。額からへそにかけて墨汁の染みのように書き連ねられているのは、人を異形に変えてしまうほどの呪いが込められた呪言の濁流だ。それが絶えず循環するかのように蠢き術を維持しているらしい。

 そこまでは気の流れを辿ることで看破することが出来た。


(つまり……あの異形の気を断つことさえ出来れば、鬼は倒せる?)


 桜蘭からの帰りの汽車で遭遇した落石事故。線路を塞ぐほどの大岩は太極の気を流し込むことで、木っ端微塵に砕くことが出来た。


 連戦で疲労が積み重なっているとはいえ、全身を巡る太極の気は未だ生命力に満ち溢れている。叔母からは人に放つことは堅く禁じられているが、鬼相手に使わない手は無い。


 ざっと狐月を描くように右足を回す。その秀麗な動作に呼応し、大地に根差す龍脈からガーネットの体に気が取り込まれた。


 腕を円を描くように回し、龍脈の気を全身に馴染ませる。東方に置いて龍は神の使い。魔を祓う象徴である。ガーネットが纏う気の変化に鬼が僅かにたじろいだ。


 カッと目を見開いたガーネットの双眸は、あの時と同じように普段は映らないものを捉えていた。万物に宿る気の流れ。それがはっきりと視界に映し出される。


 巨躯を誇る鬼もまた例外ではない。呪言が蠢く額から臍にかけて、蛆が湧くかのように禍々しい邪気が巣食っている。そして、核となった依代の姿も鮮明に浮かび上がった。


「なっ……。あれはエスメルダ様!? いったい何がどうなって————」

「危険です! 後ろに下がって!」


 後ろから掛けられた切羽詰まる警告。本能で後ろに退いたガーネットの眼前。鬼の巨腕が地面を穿ち黒い棘が地面を割るようにガーネットに迫る。


「……なにあれ」

「呪術です。目標に当たるまで追尾する呪い。頭上の木の枝に一時避難を!」


 言われた通り、跳躍して太い木の枝にぶら下がる。呪術は目標を見失い、大木の幹を穿って消滅した。


「なんて威力……」

「お怪我はありませんか。ガーネット様」

「大丈夫、助かったよマリンカ。殿下達は?」

「無事、森の外まで送り届けました。早馬でロウファン家にも知らせが届いたとのこと。ダルカ様率いるロウファン家守護役達が離宮へ救援に向かっております」

「父上が来てくれるなら安心だ。後は、鬼……じゃなくてエスメルダ様をお助けしないと」

「……そうですね。今までの行いは悪だとはいえ、私をこの森から救い出してくれたお方には変わりません。もう一人の主をお救いする為、手伝ってはいただけませんか」

「当然。————あたしの全霊を持ってエスメルダ様をお助けする!」


 気合を入れ直しガーネットは地面に飛び降りる。

 狙うは一点、呪言が蠢く濁流の流れだ。鬼の攻撃は一撃一撃が重い代わりに、躱すことは容易い。気迫を込めた踏み込みで一気に接近を試みる。当然、鬼も容易く接近は許さない。

 再び地面に打ち付けられる鬼の両拳。正面二方向から迫る黒い棘を、震脚で蹴散らし懐に飛び込んだ。


「エスメルダ様。あたしは貴女を悪い人だと承知した上でお助けします。————犯した罪をどうか生きて償ってください」


 その声が鬼に取り込まれたエスメルダに届いたかどうかは分からない。けれど劫火を宿したかのような鬼眼から一滴の涙が溢れたのは、果たしてガーネットが極限状態で視た幻だったのか。


 石像のように固まった鬼の呪縛から彼女を助ける好機は今しか無かった。

 左足を後ろに引き、右足で狐月を描く。

 大地から噴き上がる龍脈の気を両手の掌に集中。それは清らかな清流が流れる様を思わせる不浄を祓う聖気と化す。


「穿ち……貫け!」


 両掌を構え鬼の巨躯に向かって砲弾のように飛び出す漆黒の影。

 黒い絹糸のように闇の中でも光沢を放つ黒髪が後ろに流れる。どう……とガーネットの放った発勁が鬼の腹に命中した。


 太極の気と龍脈の気が合わさった聖気が撃ち出される。不浄を祓う清涼なる気が鬼の体を駆け巡った。

 悍ましい貌で苦痛の表情を浮かべる鬼。その巨躯は見る見る内に縮んでいき、鬼の腹がぱっくり割れる。幼子のように眠るエスメルダが顔を覗かせるが、未だ鬼との繋がりが生きているのか、臍の尾のような呪言が剥き出しのまま再び依代を取り込もうとしていた。


「鬼の気は寸断したはずなのに、これじゃまだ足りないの!?」

「いえ、確かに絶たれております。————後は妾に任せるがよい」


 衝撃で弾き飛ばされたガーネットと入れ替わりで、マリンカが短刀を構えて突っ込んだ。

 狙うは一点。エスメルダを縛る数多の呪術師が紡ぎ解き方も忘れてしまった片結びの呪。


「もう一人の主よ。不本意ではあろうが、今お救いいたす。————不浄よ、妾に傅くがよい!」

 

 横薙ぎに振るわれた短刀の一閃は、狙い誤らず依代と鬼を繋ぐ呪を断ち切った。

 現し世に顕現する楔を失い、鬼は空気に融けるようにその姿が薄くなる。

 鬼が消え去った後には呪いから解放されたエスメルダが気を失って倒れていた。


「ふむ……。どうやら怪我もなさそうじゃな。……けほん。全く、どちらの主も仕えていて、驚かされることばかりですね」


 どちらの主にも聞こえることのないよう呟かれたマリンカの正直な思いは、風に乗って何処かへと消えてゆく。それは呆れと、感嘆と、称賛が入り混じった複雑な感情の吐露だった。


「マリンカ! エスメルダ様は?」

「ご無事です。余程疲れていたのか、よく眠っておいでですよ」

「……そう。なんとか助けられたね」

「はい。これも全てガーネット様のお陰でございます」

「たはは……面と向かってお礼を言われると照れるもんだね。うん? あれは————」

「おーい!? 無事かい!? ガーネット!! マリンカ!!」


 



 守護役を引き連れたテュルキスが、こちらに向かって走ってくる。

 どうやら離宮を襲った賊共もなんとか鎮圧出来たようだ。あられも無い姿で倒れているエスメルダには、布が被せられロウファン家の守護役達が森の外へと運んで行った。

 それを見届けたガーネットは心地よい疲労感を感じつつ、救援に駆けつけたテュルキスに駆け寄ろうとして……ぺたりと地面にへたり込んでしまった。


 側付きの少女は慌てて主の体を支える。


「ガーネット様!? 大丈夫ですか!?」

「……ごめん、流石に体力が限……界」

「こんなになるまで無茶をして。……彼女は僕が背負うよ。マリンカ手伝ってもらえるかい?」

「勿論でございます。脇から支えますので、後は殿下に」

「ああ、任せて欲しい。……よっと」


 全力を使い果たして眠ってしまったガーネットを背負い殿下が立ち上がる。まるで歳の離れた兄が、眠り込んでしまった妹を迎えに来たかのような、優しい光景。


「6年前も気絶してしまった君をなんとか背負って、この森から脱出したのだったか。……そういえば、やけに軽かったな。あの時の君も」


 テュルキスはあどけない寝息を立て眠る彼女を起こさぬように呟いた。マリンカは聞かない振りをして、そっと二人の後に続いた。

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