第6話 呪いという名の重き枷
飛ぶように駆ける二人の主従。日の明かりも陰りゆく森の中では、周囲を飛び交う妖精の光だけが頼りだ。密集した木々の合間を縫って進んでいては間に合わないと判断し、東方の島国に存在したとされる忍びのように、木々の枝を飛び移りながらも前進を試みる。
禁域の森はローゼリアが建国される前から在る古い森だ。呪いの姫柘榴のみならず、不可思議な現象が昔から数え切れないほど起こってきた地なのだと、ガーネットの後ろを妖精の翅で飛行するマリンカが明かした。
「それがこの森が禁域とされた理由?」
「はい。最もそれは建前に過ぎず、何故立ち入りを禁じられたかは別に理由がございます」
一際太い枝に着地し息を整えるガーネットは、続きを促すようにマリンカに視線を送る。
先刻の会敵で蛇咬の後詰めを半分は減らしたものの驚異は去ってはいない。
加えて毒で蝕まれた体に体力はあまり残されてはいなかった。枝から枝への飛び移りも、太極の気を常に全身に行き渡らせねば維持することすらも叶わない。
明らかに消耗している主の背を労るようにマリンカが擦る。
水筒の持ち合わせでもあればよかったのだが、エスメルダの謀略を知っていたとはいえ、本当に決行するなどマリンカに取っても予想外だったらしい。
「大丈夫ですか、ガーネット様。……酷い汗です」
「……平気。功夫の修行ではもっと極限まで追い込まれたから。それで、別の理由って?」
「この地に生息する動植物は呪術の媒介として重宝されてきました。古森に今も残る太古の空気と土壌が、この地を長い年月を掛けて異界へと作り換えていったのです。ゆえに禁域とローゼリアの始祖達が定めたのでございます」
建国当初まで遡る森の成り立ちを聞かされ、ガーネットはそういうことだったのかと納得する。それよりも気になったのが呪術という言葉だ。
文字通り人を呪う術。ローゼリアでは既に失われて久しい古の邪法。皇王様を連れ去ったエスメルダが何故禁域の森に逃げ込んだのか。ガーネットはその理由に気が付いた。
「もしかしてエスメルダ様は……」
「古い呪術士の血脈を受け継ぐ者です。禁域の森に縛られた私を解放し、契約された主でもあります」
「そう……だったんだ」
全てが明らかになりようやく腑に落ちた。強きを挫き弱きを助くことに変わりはないが、それでも敵を知り己を知れば百戦危うからず。これから対峙する相手が呪術師の末裔だと識れたことで、いくらか気の持ちようも変わる。
「よし。一休みして体力も少しは回復した。迅速に確実に皇王様とテュルキスの安全を確保しよう。エスメルダ様が何処に潜んでいるか見当は付く?」
「呪われた姫柘榴の木の根本です。怨讐と怨嗟に塗れた人の気をそこから感じます」
「あそこか……。とにかく急ごう。こんなこと早く終わらせないと」
ガーネットはキラキラと光る妖精の群れの向こうを凝視する。森を塗りつぶす闇の奥。
忌まわしき姫柘榴が人の鮮血の色にも似た朱色の実を、闇を照らす灯りのように実らせていた。
「皇王様。恨みはございませぬが、そのお命頂戴いたします」
「……」
猿ぐつわを噛まされ声も出せない王は、碧い瞳を臆することも無く淡い緑髪の女に向けた。
目も覚めるような真っ白い装束に、古語で記された数え切れない呪言。死化粧にも似た発色が強い真っ赤な紅が、女をさながら鬼子母神を彷彿とさせる恐ろしいものに仕立上げていた。
呪術師エスメルダ。テュルキス殿下を呪いの術で魅了し、皇王妃となることを目論んだ張本人。しかし、その目論見は尽く失敗し追い詰められた結果が王の誅殺であった。
「父上! ご無事ですか!」
今まさに王の喉元に短刀が突きつけられる寸前。テュルキスが服を泥で汚しながら駆けつけた。余程急いでいたのだろう。金糸の髪には蜘蛛の巣が張り付き、整った顔も薮で切ったのか頬から血が滲んでいる。
「————これはこれは殿下。よくぞご無事で」
「エスメルダ! 馬鹿なことはよせ! 父上を解放してくれ!」
この後に及んで陳腐な言葉で説得を試みようとするテュルキスに、心底興ざめた元婚約者は眦を吊り上げた。蛙を一睨みする蛇のように、かっての婚約者を威嚇し立場を知らしめる。
「————そこから一歩も動かれませぬよう殿下。もし、わたくしの言いつけを破られるのであれば、手元が狂うかもしれませんわ」
ぐっと充てられた短刀の刃が王の首に血の線を刻む。王が喰む猿ぐつわに赤が滲んだ。
「父上!? くそっ……」
激情を振り切れそうな理性で抑えその場に留まるテュルキス。きつく握りしめられた掌には爪が食い込み血が滲んでいた。
「いい子ですわね、殿下。最もあの女もどきにうつつを抜かしていること。滑稽ではございますが」
「女もどき? ……誰のことを言っている?」
「幸せなお方。ロウファン武官のことがそんなに愛おしいのですか? ————幼馴染のことが?」
「ガーネットが……ザクロだって?」
6年前、この地に共に踏み入った罰で、桜蘭に旅立って以来、消息も分からない守護役見習いの友が今の守護役の正体と告げられ、困惑するテュルキス。
謹慎が解けた後も、父上から堅く会うことを許されず、その消息を探す為だけに桜蘭へ視察の名目で供も連れずに向かったのだ。
結局、ザクロの名を尋ね歩いて探したが見つからず、心残りのまま帰国することになったのだが————
(……そうか。あの
思い出すのは帰りの汽車で偶然出会ったガーネットのこと。
名乗られた偽名もそうだが、その姿、立ち振舞い、身に纏う空気に至るまで初対面だという気がしなかった。
今となってみれば、その直感は正しかったのだ。なぜなら彼女は幼馴染である彼の変わり果てた姿だったのだから。
「だから君は
正確には違う事情ではあるが、テュルキスはそう思うことにした。
あのようなことになったのは、彼があの時飲み込んだ呪われた姫柘榴の実のせいだろう。ザクロが止めなければ、女体化の呪いを掛けられていたのは僕だったかもしれないと。
真実を知ったテュルキスは危機であることも忘れて穏やかに微笑んだ。
「なにか、おかしなことでも?」
「いいや。懐かしいことを思い出しただけさ。6年前、呪いの姫柘榴と禁域について僕に教えてくれたのは君だったね? エスメルダ。言葉巧みにこの禁域に導いたのは、僕も女にするつもりだったのかな?」
「いいえ、この姫柘榴はあくまで呪物です。守護役見習いの性別が反転したのはまた別の要因。もっとも、あの時殿下がこの実を飲み下してさえいれば、このように手を汚すことも無かった訳ですが」
「どちらにせよザクロ……ガーネットは僕に取って命の恩人か。なら、もう迷うことも無いな」
テュルキスは深く息を吸い込んだ。この場で助けは見込めない。それに国の危機に立ち上がらず何が次期皇王か。情けない自身と決別する為、得物を見定める獣のように敵意を剥き出しにする。
「言ったはずです。そこから先一歩でも動いてみなさい。父君の首から血が噴き出してもよいのですか」
「いや、それはごめんだね。————父上、上手く避けてくれよ」
会話で意識をそらしながら密かに抜いていた護身用の短剣を腰の捻りだけで投擲する。
狙いは王を拘束するエスメルダ。狙い通りに一直線に標的に向う短剣の切っ先はエスメルダの顔を向いていた。
「くっ」
その危うい美貌が傷つくのを嫌ったのか、エスメルダは短剣の軌道から横にそれる。
その機を逃さずにテュルキスは距離を詰め、王の手を縛る縄を儀礼剣で断ち切った。
「やってくれましたね、殿下————」
「ここまでだ、エスメルダ。これ以上、罪を重ねるのはやめてくれ!」
「もう、今更遅すぎるのですよ。わたくしの手は血に塗れております。かくなる上は」
エスメルダが懐から取り出したのはあの呪われた姫柘榴の実だった。
まるで生きた心臓のように波打つそれを、呪術師はひと思いに飲み下す。
「いったい何を……」
「フフッ。生まれる前からこの身に刻まれてきた呪言。それを解き放つのですよ。云わばわたくしはこの為だけに生かされてきたようなもの。呪術師を迫害した皇王家に、復讐を果たすためだけに」
うっ……と苦悶の声を発し、エスメルダはその場で倒れ伏せた。
女の体から呪が溢れ、体が変化していく。赤くただれた皮膚が新陳代謝を繰り返し、硬質なものに次々と張り替えられていく。
華奢な女の肉体は骨格から作り変えられ、その額には雄々しい角が生えた。
膨張する肉体に白装束がちぎれ飛び、それでも生まれ持った性の特徴は残したかのように顕になった胸が体毛で覆われる。
————東方の伝承に伝わる鬼。視察の旅で偶然目にした絵画に描かれた怪異を、現実に目の当たりにしテュルキスは腰が抜けた。
「エスメルダ……なのか?」
怪異は応えず、裂けた口から鋭く尖った牙を覗かせる。
鬼灯のごとく赤い鬼眼が愉悦に歪む。塵芥にも等しい人を怪力で絞め殺そうと、鬼が巨腕を無造作に伸ばす。が、上空から飛来する漆黒の影が鬼の腕を蹴り弾いた。
「……なんとか間に合った。殿下! ご無事ですか!」
「あ……ああ。僕も父上もなんとかね。君こそ無事で何よりだガーネット」
「いえ、申し訳ございません。あたしは殿下の専属の守護役なのにお側を離れてしまい……」
「お二人供! そんなことを言い合っている場合ですか! 殿下、こちらへ。とにかくこの場から離れます! ガーネット様、時間稼ぎを。殿下と皇王様の安全を確保した後、応援を呼んで参りますので」
「了解だよ、マリンカ。この化け物の相手はあたしに任せて!」
全身から太極の気を滾らせたガーネットがその身一つで怪異と渡り合う。
羽衣を纏った天女のように空を舞い、拳を蹴りを鬼に見舞う。マリンカに急かされながら離脱するテュルキスは、苛烈で美麗なガーネットの戦いぶりに思わず息を飲んだ。
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