第3話 太極と修行の成果

 ザクロが母の故郷、桜蘭オウランで暮らし始めて早6年の月日が流れた。

 叔母である母の妹メイファから功夫の手解きを受けたザクロは、徐々にその頭角を現し、今では桜蘭の女性武術家の一人として、知らないものはいないほど。


 そしてザクロではなく、ガーネットと名を改めていた。6年前の皇王陛下の沙汰により、本名のまま帰国することは叶わず、遠方の両親とも手紙でやり取りした結果、ようやく決まった新しい名をザクロもとても気に入っていた。


 東方では貴石のガーネットをと呼ぶようで、すっかり変わってしまった今の姿にもぴったりの名であった。


 そんな慌ただしくも充実した日々を過ごした桜蘭の朝日を拝むのも今日が最後だ。


 帰国の許しをつい先日に手紙で知らされたガーネットは即座に帰ることを決めた。


「それではメイファおばさん。本当にお世話になりました」


 早朝の汽車の駅。感謝の思いを込めてガーネットは頭を下げていた。小柄で母とは余り似ていない、叔母のメイファが名残を惜しむようにひしと抱きついた。


「ずっとうちに居てくれても良かったのに。帰ってしまうのね」

「すいません。オレ……じゃなかった。あたしには、ほっとけない幼馴染が国にいますから」


 背も小さいメイファと比べて、頭一つくらい高いガーネットもひしと叔母と抱き合う。ほわほわしてる柔らかな人柄の叔母だが、一方で武術の腕は達人級の彼女の修行についていくのは大変で、おかげで6年前より遥かに成長することが出来た。


「そうね……あれから6年もたったものね。それは気になることでしょう。いやぁ、今でも思い出すわね。甥っ子がまさか姪っ子になってたと知らされた6年前を」


 涙混じりに朗らかに笑う叔母との微笑ましい一幕のはずなのだが、ガーネットは六年間少しも容姿が変化しない叔母にこそ驚異を抱いていた。東方健康術、誠にもって恐るべしと胸に刻む。


「あ、これ姉さんから頼まれていた黄芩オウゴンから精製した漢方薬ね。忘れずに渡しておいて」

「漢方薬? なんの薬ですか?」

「えーと……解熱や清腸作用を促す効能をもつお薬よ。姉さんからのお手紙によると、ダルカさんが最近お酒の飲みすぎで体調を崩しがちらしくてね」


 父さん……あなたは何をやっているんですか?


 遠い故郷の強面の父の顔が苦痛に歪んでいるのが何故かガーネットの目に浮かんだ。皇王様を守護するお役目を命じられた者として、過度な飲酒を控えていた父に一体何があったのか。ガーネットは不安な思いに駆られつつ客車に乗り込んだ。


 茶巾の袋に入れられた母への届け物をしっかりバッグに仕舞う。やがて汽笛が鳴り響き、汽車はゆっくりと動き出した。


 




 桜蘭からローゼリアまでは汽車で三日はかかる距離だ。途中いくつかの停車駅を経て、もう少しでローゼリア領内に入ろうとしたところで、問題が発生した。


 落石により線路が塞がり復旧には数日かかると車掌からの知らせを聞いた。何か出来ることは無いかと、ガーネットが客車から降りようとすると爽やかな青年の声が呼び止めた。


「おや? どこへ行かれるのかな? 乗客は車内で待機するようにと車掌さんからお達しがあったはずだが」


 やたらとキザな言い回しに怪訝そうに振り返ったガーネットは目を見開く。

 肩口まで伸びた金糸の髪。空を写したかのような深く青い碧玉の瞳。整った顔立ちは気品が溢れ、爽やかな笑顔に白い歯が良く映える美青年だった。


「えーと、どうしたのかな? そんなに見つめられると困ってしまうよ。————可憐な芍薬の花を想起する、君のように綺麗な女の子からの視線なら特に……ね?」


 なんだこいつ……もしかしてオレを口説いているのか?

 余りにも歯が浮いた口説き文句に、警戒を強めるガーネット。身なりこそ旅行者のそれだが、浮世離れした雰囲気から察するに、お忍びで旅をする高貴な血を引くお方らしい。


「その服は桜蘭の伝統衣装、漢服ハンフーかな? もしかして武術の心得が?」

「え? ……はい。これでも武術家のはしくれ。何かお役に立てることがあればと思いまして」 


 叔母から餞別がわりにいただいた、菫色の拳法着に目を落としガーネットはしどろもどろに答える。その態度が自身なさげに映ったのだろう。金糸の髪の青年は、やれやれとかぶりを振った。


「線路を塞いでいるのは、小山ほどの大きさがある大きな岩石だ。女性のましてや君みたいな細腕で、どうにかなるなんてとても思えないけど?」

「ば……馬鹿にしないでください! 修行で岩を砕いたことだってあります。————功夫クンフーを舐めないでくださいな?」

「ほう? そこまで言うなら、本当になんとか出来るのだね?」

「何度も言わせるな! 出来るったら出来る!」


 しつこい美青年との応酬につい口調が荒くなる。はっと我に帰ったガーネットは赤面しつつ頭を下げた。恐る恐る顔を上げる。予想に反して青年は虚を突かれたように戸惑っていた。


「も、申し訳ございません。とんだ失礼を……」

「いや……僕のほうこそ悪かった。そういえば自己紹介もまだだったね。————トルマリンだ。訳あって桜蘭の視察からローゼリアに戻るところでね。お嬢さんの名前は?」

「あたしは……」


 名を名乗ろうとして、ガーネットは思いとどまった。改名したことを知っているのは両親と叔母、そして皇王様だけだ。それに、どうにも目の前の青年に初めて会った気がしない。


 あの日以来、会うことすらも叶わない幼馴染の顔を思い出す。想像の中で思い描くテュルキスの成長した姿と青年が何故か重なった。


(もしかして……本当にテュルキスなのか?)


 直感に過ぎないが、奇しくも幼馴染と同じ髪色と瞳の色がその事実を裏付けているようにも思える。この場で己の正体が露見したらどうなるか————

 恥ずかしさでどうにかなりそうなのは、確実だった。


「ん? どうしたのかな?」

「えー……失礼しました。あたしの名前はピンイン……です」

「ピンイン……不思議な響きの名前だね」


 咄嗟に浮かんだ偽名は元の名を桜蘭の言葉に読み替えたもの。言語に明るくなければまず気づかれることも無い。ようやく自己紹介も済んだところで、トルマリンはガーネットの腕を自然に掴んだ。


「ふむ。この白魚のような手で大岩を……ねぇ」

「ま、まだ疑ってるのですか?」

「————いや。そこまで自信があるのなら任せよう。僕もなるべく早く国に戻りたいのでね。それにしてもピンイン柘榴か。フフッ」

「何かおかしなことでも?」

「……初めて聞く名なのに、初めて聞いた気がしなくてね。それじゃ車掌さんに事情を説明しようか」


 曖昧にごまかすトルマリンの後にガーネットも小首を傾げながらついていく。車掌室を訪ねた二人は被害と危険確認という名目で許可を貰い、その足で事故現場に向かった。

 汽車の先頭車両の目と鼻の先に、でんと鎮座する岩盤の塊。まともに撤去しようとすれば、間違いなく数日を要するだろう大岩を、人の拳でどうにかするなど不可能に思える。少なくともトルマリンはそう考えているようだった。


「それで、どうやってこれをどかすつもり? 本当に拳で砕くのかい?」

「危険ですので、離れてくださいな」


 大岩の前で構えたガーネットは目を瞑り瞑想状態に自我を持ってゆく。

 陽と陰、陰と陽。女の身でありながら、男の精神をその身に宿すガーネットの在り方はまさに太極そのもの。


 集中しながら思い出すのはメイファとの厳しい修行の日々。

 その教えが鮮明に耳に蘇る。


『いい? ザクロ。万物全てに気は宿っている。生物であれ、木や草、花、そして路傍の石ころ一つに至るまでね。それは、人間の場合もっと複雑な流れを持っているものなの。陰と陽の螺旋が生み出す太極。二つの性が混じりあう貴女は稀有な存在なのよ。————気の流れを誰よりも深く感じ取れる素質が眠っているのだから』


 深く、深く沈み込むガーネットの精神。己の奥底に眠る二つの気を知覚し、体中隅々にまで行き渡らせた。一つは陽の気。元々備わっていた力強い男の気。もう一つは陰の気。生命の神秘を司る母性にも似た女性の気。


 本来ならば子を為す時にしか交わらない二つの流れがうねりを上げて、ガーネットの体内を駆け巡った。

 静かに目を開ける。両目は川面に波立つ波紋の如く世界を捉えていた。

 視界に大岩を捉える。岩盤の中央、そこだけ気が通っておらず無理に気を流し込めばどうなるか、火を見るより明らかだ。


 ざっ……と右足で狐月をなぞるように円を描く。ガーネットの全身に気が満ちた。


「破ッ!!」


 大岩の中央の一点を両掌による掌底が撃ち抜く。大岩はまたたく間に亀裂が入り粉々に砕けた。


 発勁はっけい。功夫の奥義の一つであり本来であれば、全身の筋肉の収縮による衝撃を淀みなく伝導する技である。


 だが、ガーネットの放つそれはただの衝撃ではない。太極と化した己の身から迸るうねりにも似た気の奔流を叩き込むものだ。


 ゆえに人に向けて放つことはメイファから固く禁じられていた。


「……これは、驚いた。凄すぎて理解が及ばないけど」

「全身で練り上げた気を一点に流し込んで、大岩の気の流れを断ち切りました。後は見ての通り」

「それだけじゃ何が起きたのかもすら分からないけど……。とにかく助かったよ。残骸の撤去と線路の修復も早く終わりそうだ」

「だから言ったでしょう。大岩くらい砕けると」

「……うん、疑って悪かった。いやぁそれにしても大した腕前だよ。もし良かったら、ローゼリアの武官として働く気はないかな?」

「は、はぁ。あたしが……ですか?」


 まさかの仕官への誘いに戸惑いを隠せない。だが、これはチャンスだった。

 素性を偽ったままでは幼馴染との再会など叶いそうも無かったから。しかし、武官として働くのであれば、いずれ全てを打ち明けて再会することも夢物語ではなくなるかもしれない。

 ————断る理由は無かった。


「分かりました。あたしでよければ喜んで」

「そう言ってくれると思ったよ。よーし、そうと決まれば忙しくなるぞ。それじゃ僕は仕事が出来たからこれで。————また会おう、ピンインザクロ

「————え?」


 去り際にトルマリンの口から紡がれた己の偽名が耳に残って離れない。

 それは名乗った真意まで見透かされているようで、ガーネットは得体のしれない悪寒に襲われた。


 もしかして……オレは何か間違いを犯したのか? と。

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