第十六回 撃鞠
天子の下に楊氏の娘、玉環が入内してから早二月ほど経った頃。冬の寒さが都の辻を吹き渡り、白雪の先触れが姿を表すのも間近と思われる時節ですが、都人が薄い壁の民家で寒さを忍んでいるのとは裏腹に、宮中の人々は温かい殿舎の中で栄耀栄華を大いに楽しんでいました。
玉環は当初美人として内に仕えることになったのですが、天子は忽ちにその美しさ、利発さ、聡明さに魅了され、彼女を空席であった貴妃に封じた他、その親類縁者悉くを取り立てて朝廷の重職に付けました。
また、貴妃の腹違いの姉妹達もそれぞれ国夫人の称号を受けて大いに権勢を振るい、朝廷の出世を望む人々はこぞって楊氏と縁を結ぼうとその邸に贈り物を届け、何分宜しくと頭を下げたのでした。
そして天子はというと、一度貴妃の元に忍んでいけば夜が明けても政庁に戻ってくることは無く、朝昼と常に彼女をお側に置いて、政務は李乾坤や楊国忠(あの博打打ちの楊釗です!)に委ねたきり、彼女を主役に演舞の宴を催し、国費を濫費して作り上げた優美華麗に首まで浸かって日々を送っていました。
とはいえ、この頃はまだ累代の天子が積み上げた遺産が残り、また天朝の威光が漢土はおろか蛮夷まで影無く届く太平無為の世でしたから、多少のことでは国の屋台骨は揺らぎません。しかし、心ある人士達は夜も明るい後宮の宴を見て嘆息し、李氏の天下の命数が近いのではと憂いを深くしていました。
宝燈は時折金珠公主のお召に従って宮中に赴き、お話し相手を務めることが相変わらず続いていましたが、彼もまたそうした王朝を蝕む退廃の気を敏感に感じ取り、最近は理由をつけて参内を辞退したり、鬱々とした気分のまま無気力に一日を過ごすことが増えていました。そんな気分を悟った韋黯は、一つ彼の好きなことで何か元気を出してやれないかと思案します。
「殿下、宜しいですか」
「賢弟…なんだ、一体」
「最近殿下はお力無く、ため息ばかりついておいでですが」
「ため息もつきたくなる。何しろ、最近の宮中の風紀紊乱は見ていられない。外朝はそれらしく整っているが、内廷に入って見よ。辺り一体がむせかえる様な酒と香木の香りで包まれていて、あちこちから酔った者どもの声が聞こえる。甚しきは女官に戯れかかった宦官が廊下でぶっ倒れて、そのまま嘔吐しているのだぞ」
「まあまあ、その位で。にしても殿下、最近は遠乗りにも行かれていませんし、どうですか、一つ運動をしに行きませんか」
「…気が乗らん。馬に乗っても気分が上がらんのだ」
「ただ馬に乗るのではありませんよ」
「何?」
「こちらをご覧下さい」
「…これは、
撃鞠とは、遥か西方の
四人一組となって戦うこの競技は、古くは戦の鍛錬として大いに栄え、当代でも男子女子を問わず馬に乗れる貴族の間では最も盛んな競技でした。
馬術には天才的な技量を持つ宝燈も、無論撃鞠は大いに好むところで、かつては十歳そこそこながらも練達の人々に混じって汗を流していました。
「だが、父王逝去以来寡人は碌に練習もしていない。恥をかくだけではないか?」
「であれば、今から私と練習しに行きましょう、殿下」
「しかし…」
「せっかく天子様が忌々しい後宮からお出でになって、伝来の競技をご覧になるのです。きっと王朝に尚武の古き良き気風を取り戻されようという大御心、応じなくてどうしますか」
「そ、そうか…うん!そうだな、臣下としては聖上の大御心を拝察し、しっかりと務めねばなるまい」
「そうですとも!」
その様なわけで、二人は久しぶりに馬を駆り、邸の外に出て汗を流すことにしたのでした。
都の外に出てしばらく馬を走らせると、林の側におあつらえ向きの野原があります。草の丈も短く、馬の脚を折るような大きな石が転がっているわけでもありません。よし、とここに決めた二人は、家人達に持って越させた太い柱を地面に打ちつけ、鞠を放り込む門を一つ作ります。
「では、攻守を後退しつつ練習しましょう」
「分かった。だが、危ない真似はするなよ。杖で触れていいのは鞠だけ、相手の身体や馬に触れてはダメだ」
「勿論。それから、馬を故意にぶつけたりするのも無しですからね」
「当たり前だ」
宝燈は月影に跨り、韋黯は雪影に乗ってそれぞれ毬杖を構え視線を交錯させると、
「では行くぞ。一瞬で勝負を決めてやる」
「守りきって見せますとも」
「言ってろ…やぁッ!」
「はッ!」
二人とも一気に馬を前へと駆け出させ、鞠を奪おうと杖を伸ばします。が、
「貰った!」
「しまっ、」
そこはやはり馬術に熟達した宝燈が上を行き、体の軽さも相まって、月影は雪影よりも早く鞠の側へと到着し、そのまま彼は一気に力を込めてそれを門へと打ち放しました。
「くそっ!」
急いで馬首を巡らす韋黯ですが、宝燈はそのまま前へ全速力で走り抜け、二度目の打ち込みを放ちます。そして、大きく弧を描いて飛んだ鞠は、そのまま門を飛び越えて奥の草むらに転がり落ちました。
「やった!入ったぞ!」
「くっ、そっ!」
「ふふん、賢弟よ。お前はまだまだ青二才だな。寡人に挑むにはあと百年の修行がいるぞ」
「なんの、これからです!」
結局二人は数度攻守を変えて戦いましたが、韋黯が勝利を挙げることは一度たりともできなかったのでした。
「いったた…身体中が悲鳴を上げていますよ」 「大丈夫か?落馬するなよ?」
帰り道、韋黯は酷い疲労によって、馬に乗るというよりしがみ付くのがやっとの有様でした。
「にしても、殿下の乗馬の技量は相変わらず神技ですね。改めて思い知りました」
「うむ。寡人が月影に乗る時はまさに人馬一体、勝てる者などおらん」
「流石ですよ…」
「時に賢弟、我らは二人だが試合は四人で出るのだろう?」
「はい。四人一組で登録し、抽選で選ばれた別の組と対戦します。成績や技量が優秀な者には身分を問わず褒賞を下賜されるとか。また、馬を持たぬ者には何千頭もいる御厨の馬をお貸し下さるそうです」
「そうか。では、他の二人はどうする気だ?」
「肝試しの時の二人を誘ってあります。明日、お屋敷に参上して練習に参加してくれると」
「そうか、なら安心だな」
肝試しの時の二人とは、蘇州の生員でこの度都に登ってきた趙と、知県の息子である馮六郎です。二人は韋黯の友人で、彼が親しく付き合いを交わしていました。
「…いや待てよ。寡人はあの時、二人に偽名を使ってしまった。このままでは嘘がバレてしまうぞ」
「その辺りは問題ありません。あちらにキチンと言い含めておきます。彼らは気のいい奴らですから、親しげでも無礼を働くことは致しませんよ」
「そ、そうか。なら良いな」
明日王府に参上した二人は、果たして韋黯の言う通り、宝燈が嘘をついたことを笑って水に流した上で、積極的に練習にも付き合ってくれました。趙生員は意外にも乗馬の心得がある様で、宝燈程ではないものの其れ相応の腕前を見せ、下手くその極みである韋黯や馮を何度も負かしました。
「趙殿はお強いのだな」
「昔から練習しておりましたから」
「くそっ、あの二人が組んだら俺たちに勝ち目はねえぞ!」
「大丈夫だ馮。殿下の乗馬の癖は一から十まで俺が知ってる!そこを利用したら…」
「よし、次はお前だ賢弟。大言壮語を実現してみせよ」
「えっ、あっ、いやその…」
「問答無用!!」
と、この様な調子で練習は続き、なんとか下手っぴな二人もある程度ものになりました。そして、遂に天覧試合の日がやって来たのです。
「それではこれより、聖上ご臨席の下、撃鞠の天覧試合を執り行う」
長安郊外の離宮には古くから広い馬場があり、天子や皇族が乗馬の練習に用いてきました。今、そこは試合に出る選手とそれを見に来た貴族や士大夫の関係者で満たされており、天子ご臨席なのも相まって、冬の寒さも感じられないほどの熱気に包まれていました。
「うむ、此度は十の組が参加を表明した。故に、二組ずつ五試合執り行う。最も多く点をとった選手には、褒美として御厨の名馬を授ける。次いで、最も多く点を取って勝利した組には、全員に銀二十両を授ける」
「凄い人手ですね」
「うむ。ご婦人方も、この寒さの中よくおいでになったものだ。恐らくこれは雪がちらつくぞ」
宝燈と韋黯達は、出場する馬が繋がれている厩に向かい、各々どの馬にどの順番で乗るかを確認していました。撃鞠とは、時間ごと六つの
とはいえ、流石に江夏王府といえど都に十六頭の馬を置いておく余裕は中々ありません。宝燈と韋黯の分の馬は厩から連れて来たのですが、馮と趙の分に関しては止むを得ず天子の軍馬をお借りすることになったのでした。
「まあ籤引きをした結果寡人たちの出番は最後だ。それまではゆったりと試合を観戦しようではないか」
「それが…どうも最終戦の相手に嫌な予感がするんですよね」
「というと?」
「最終戦は郭子儀という人が率いる組らしいのですが…この人の名前から言い知れない威圧感を覚えます」
「ふうむ…」
さて、この予感は当たるのでしょうか。ひとまずこの話はこれまで。
馬の準備を終えた面々は客席へと向かい、自分達の前の試合を見物にかかります。
参加者の名簿を見てみると、なるほど今回の展覧試合には其れ相応に名前の知れた猛者が多数参加している様で、いずれが勝つかなかなかに予想し難いものがありました。客席を見ると所々で誰が勝つかの賭けが行われていて、人々が言うには、武科挙に受かっただけではダメだ、やはり経験が無ければ勝てまいということでした。
「ということは、武科挙にさえ受かっていない我々に勝ち目は到底ないと言う事だな、うん?」
「正味私もそう思ってます」
「だが、それで勝つから面白いのではないか」
「それよりも、ほら。試合始まりますよ」
試合場では四対四の組同士で激しい争いが繰り広げられています。一人が杖で鞠を前へと弾くと、先回りして確保しようと敵味方の馬が争って走り、絡み合う様にして向かいます。
そして前へ向けて思い切り手を伸ばし、鞠を奪い合うわけですが、馬に乗っているものですから自分の手足のようには行きません。下手に手綱を引いて馬を混乱させ、落馬してしまう者もあります。
このような調子で試合を見ていると、宝燈の予想した通り小雪が舞い始めます。あまり強くなって視界が不明瞭になると、白い鞠を見失ってしまうことにもなりかねません。
「皆鞠探しに苦労をしているな。このあと積もって仕舞えば転がらなくもなる」
「流石にそこまではないと思いますが」
「第五試合に出られます方々、控え室にてご準備を願います」
「よし、行こう。必ず勝とうじゃないか」
「「「応!」」」
「第五試合。相対しまするはー江夏王、李伯明殿下が組と、京営参軍郭子儀殿が組ー!」
ジャーンと銅鑼の音が響き渡り、会場に八騎の騎兵が入場します。辺りの雪はだんだんと強くなり、会場の土も薄白色に染まって来ました。
宝燈が月影に跨り先頭を行くと、その向こう側には見事な葦毛の馬に乗った男がいます。身の丈六尺は下らないであろう長身で、腕は丸太のように太く、長く伸びた髭はかの関帝を連想させます。かっと見開かれた目は鋭くこちらを見据えていて、明らかに只者ではないとわかります。
「あれが郭子儀殿か」
「はい」
「貴公…江夏王殿下に間違いござらんか」
「いかにも郭将軍」
「はあっはっは。まこと、名は虚しくは伝わらぬ、漢の張良の様なお方だ」
暗に女の如く柔弱であると謗られたととった宝燈は激怒し、顔を紅潮させます。必ずや勝ってくれようと毬杖を握りしめ、強い視線を相手に向けました。
「では第一、始めい!」
「やぁぁぁぁあ!」
開始合図の銅鑼が鳴るや、宝燈は馬を駆って真ん中に向かい、そこに置かれた鞠を確保しようと動きました。
「ふん!!」
他方それに対抗して子儀も馬に合図を送り、前へと走り出します。
「殿下!くっ、散開するんだ!」
これを見た韋黯達は急いで散開し、相手の組と同じ様に連携の構えを取ります。鞠の取り合いはかくして、事実上の一騎討ちとなったのです。
「くっ、速さは互角か!」
「ふむ、なかなか速いな」
そして、双方の毬杖が鞠に伸びる、という時、
「やぁぁぁあ!!」
「なっ!」
子儀は地の底から響く様な大声を上げ、宝燈と月影を威圧しました。そのあまりの迫力に、たまらず月影はいななき、危うく宝燈は落ちそうになります。
「貰った!」
その先に彼は高く鞠を打ち上げて後ろの味方に投げ、そのまま
「くそう、馬を威圧するとは!」
危うく落ちかけた宝燈が歯噛みしますが、その様なことはしてはならぬとは決まっていません。自分の甘さを悔いるより他に有りませんでした。
その後、休憩を挟んで試合は続きましたが、その形勢は全く五分五分で、宝燈の組が勝てばその次は相手が制する、の繰り返しでした。雪はますます強くなり、馬も足を取られて危うくなる場面が多くなります。
「くっそ、これでは勝っても引き分けですな…」
「いいや。この最終区切を不利な側が制した場合、特別の決まりで不利な方の勝ちになる。絶対に勝つぞ」
「行きましょう殿下!」
「おう!」
すでに四人は汗だくで疲れ切り、体からは湯気が立ちそうなほどです。一方子儀らの組もそれは変わらない様で、ぜえはあと肩で息をしています。
「馬はどうします?」
「無論月影に乗る。このために温存してきたのだから」
「承知しました」
「それでは、これが最後!始めい!」
再びジャーンと銅鑼の音が鳴ります。そして、再び双方の馬がダダッと駆け出し、鞠を確保しようと動きます。
「いヤァ!」
「ぬぅっ!」
雪の中、月影は全速で駆けて中央に転がる鞠を狙います。一方子儀の馬は雪に慣れていない様で、若干速さが衰えていました。
「貰った!」
馬の差に今度は乗り手の卓越した技量が乗ります。宝燈は即座に自身が鞠を制するであろうことを見切り、韋黯のいる方向へカッと思い切り打ち放しました。しかし恐ろしいことに、子儀は鞠を制されることを早くも宝燈の一秒前に見切り、その短い時間で馬首をめぐらし、一心不乱に韋黯に向けて駆けたのです!
「賢弟!」
「はいっ!」
しかし、卓越した連携は何も相手の専売ではありません。韋黯は既に、自らの義兄の膂力と体力を完璧に把握しており、鞠がどこに落ちるかを悟るとすぐに雪影を駆ってそこへ向かいます。
「若造!!!」
「怖いものか!!!」
「四郎を助けろ!」
「郭将軍、こちらへ打たれよ!」
双方の組が雪の中を駆け回り、互いの仲間を支援しようと激しく競り合います。そして、韋黯と子儀の距離はぐんぐんと縮まって行きー
「捉えた!」
「何!」
「賢弟!」
「はい!」
彼が全力で鞠を打つや、宝燈がそれを確保し、更にそれを趙、馮へと回します。そして、相手の組を振り切り、遂に馮が鞠を門の中に叩き込みました。
「勝負あり!左方、江夏王!」
「見事であったぞ、李宝燈!」
「ありがとうございます、陛下!」
天子からお褒めの言葉を賜り、宝燈は興奮と喜びとで真っ赤になった顔で奉答しました。そんな彼に、子儀が近づいてきて言います。
「くぅ、やるじゃないか。見かけによらず、お強いのですな」
「郭将軍…いえ、決して寡人一人の力ではありません。あの三人無くしては、決して勝利は得られなかったでしょう」
「なるほど…仲間との絆というのも、馬鹿にはできんですな、はっはっは」
かくして、四人は見事勝者として天子に拝謁し、それぞれに玉帯や鞍などを下賜される名誉に浴したのでした。
「いやぁ、お疲れ様でございました」
「あぁ、ありがとう。皆」
邸に戻って服を着替えた後、四人は勝利の祝いとして小さな宴を催しました。王府の名前で美酒が用意され、温かな肉料理などが供されます。
「それにしても、真に郭子儀将軍は手強いお方でしたな」
「全くでございます」
「うむ。寡人も馬術は長安一と自惚れていたが、どうやらまことにそうであったようだ。ははは」
「それは経験の差です、殿下。あと十年もしたら、きっと郭将軍とて及ばぬ名手になられましょう」
「十年、そうか、十年か…」
十年後となれば、自分はもう二十四歳になります。男であれば青年、まだまだ若者と言われる頃ですが、未婚の女であればもはや年増と言われてしまう年齢です。かつて詩人の中に、男と女はそれぞれ牡丹の木と花だ、と評した者があったことを彼は思い出し、うんうん、と頷きました。
「賢弟」
「はい?」
「十年後、寡人はどうなっているであろうか」
「…そうですね。きっと、今よりもお美しく凛々しくなられて…そして」
「そして?」
「いえ、なんでもありません」
「気になるではないか!」
この様な調子で宴の夜は更けていきます。十年後、二十年後、彼の偽りの身がどうなっているかはわかりません。しかし、今この一時だけは、宝燈は幸福だったのでした。
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