第十三回 月見

 さて、あれほど鬱陶しかった夏は早くも過ぎ去り、時節ははや7月にかかろうとする頃。都にも秋風が吹き始め、暑さは春の盛りを除いて既に鳴りを潜めています。

 他方庭の藪からは鈴虫や蟋蟀が声を上げて、リンリンコロコロと歌を聞かせていました。

「……」

「殿下?」

「うわぁ!居たのか賢弟!」

「ずっと前から後ろにいましたけど」

「な、なんだ。居たなら声をかけろ…」

「だから声をかけたんじゃありませんか…干し柿を持ってきたので、いかがですか?」

「うむ、貰おうか」

 宝燈と韋黯は庭を見渡す広間に二人で座り込み、うっすらと明るく照らされた庭を眺めながら、干し柿を摘んでいました。

 しかし、宝燈の方はどこか心ここに在らずといった様子で、薄ぼんやりと柿を口に放り込みながらも庭をどこか虚に眺めやっているだけです。

「…殿下、殿下?」

「ん!?な、なんだ?」

「調子でもお悪いのですか?ずーっとぼんやりされていますが」

「いやいや!決してそんなわけではないぞ!うん」

「そうですか…?」

「強いて言えば疲れているだけだ!」

「疲れてるって…ははぁ、またいつもの様に魚玄機様の下へお通いになっているのですね?それは確かにお疲れになる」

 うんうん、と韋黯が頷くと、宝燈はかっと顔を赤くして立ち上がらんばかりに捲し立てました。

「違う!お前が勘ぐっている様なことはしていない!彼女とは、あくまで話をする程度の付き合いだ!」

「本当ですか?」

「ほ、本当だ!大体、寡人は…っ」

「?」

 お前の、という言葉が出掛かって慌てて止める。このところ彼はどうも感情を制御するのが下手くそになっている、と自分で感じていました。

「(あれもこれも彼女のせいだ。床の中で全部寡人のついてきた嘘を吐き出させて、本当を言わせようとしてくる)」

 彼にとってあの場所は、今までたった一人の秘密だったことを共有できる良い憩いとなってはいましたが、その分うちに秘めるということを拙劣にしてしまった様で、韋黯の様に心を許している者のそばに来ると、途端にそれが弾け飛びそうになるのでした。

「殿下?」

「…なんでもない」

 ほんのりと赤くなった顔を見られまいと、彼は露骨に顔と話を逸らします。

「そういえば、間も無く慣例の月見の宴が宮中で催される頃合いだな」

「はい。既に江夏王も列席せよとのご下命、内々に承っております。いずれ正式に聖旨が下りましょう」

「そうか…。去年は喪中ゆえ控えていたが、今年は列席せねばなるまいなぁ…」

「今年は川を船で降る趣向だそうです。かの雄大な渭水を降って離宮を目指し、その間に船の上で盛大に宴を催すとか」

「宴か…」

 このところそればかりだ。彼は心の中でそう言いました。喪中の頃の静かな暮らしが早くも懐かしく、贅を尽くした饗宴を厭わしく感じていたのです。

「…賢弟」

「なんでしょうか」

「…いや、やっぱりなんでもない」

「何ですか。気になるじゃありませんか」

「そ、そうやってにじり寄って顔を近づけるな!」

「痛い痛い!つねらないでくださいよ!」

「むー…まあいい。取り敢えず出る支度だけはしておく。お前も多分来るだろう?」

「今回は武官として護衛役に回ると思いますが」 「ああそうか、確かにお前はそういう役目だったな」

「まあそう言うわけですから、今回は同じ舟には乗れませぬ。素直に守られていて下さいませ」

「ふん、お前よりも寡人の方が弓はうまいからな。寧ろお前の方が守られる立場やもしれんぞ?」

「舟の上ではどうでしょうか。それに、天子様の前で武器は御法度ですから」

「ふん、面白くないことを面白くない面で言いおるわ」


 さてさて、時は流れていよいよ中秋の名月満ちたりという頃。宝燈は当日以前の如く天子の鳳輦に供奉し、ほぼ丸一日かけて渭水の上流に位置する離宮へ向かいます。そこには湊が併設されていて、今から一月以上前からずっと此度の月見の舟遊びの為の船団が停泊をしているのでした。

 また、この月見は単なる季節の遊びではなく、当代の天子の御代がいかに平和で繁栄を謳歌しているか、天下万民に示す為の儀礼でもありますから、当然何もかもが壮麗豪奢に行われます。出発する離宮と到着地の離宮での宴は無論の事、天子の御座船や他の貴族士大夫の乗る舟さえも、この世に二つと無い程に目出たく贅沢に飾り付けられていたと言います。

 特にこの様なことにかけて李乾坤は天才の素養がありますから、天下からこの宴の為だけに万種の珍宝をかき集め、小さな丁度まで作り替えてしまう程でした。

 彼が誇らしげに語ったところでは、天子のお乗りになる御座船は、数十丁もある櫂一つ一つに至るまで朱塗りの上に金箔で装飾し、舳先には人一人を優に越す巨大な龍の頭を玉石と黄金であしらい、さらには船の上に周りを遙かに見下ろす二層の楼閣を建て、その柱一本一本に七宝と金箔で絡み合う龍を彫刻させ、更に二層に設られた玉座を取り囲む三方の屏風には、繁栄する長安の風景とその他四海の景勝地を描かせました。(この屏風はかの高名な呉道玄もかくやと言うほどの名品だったと言われていますが、惜しいことに当代には伝わっていないと言うことです)

 この上彼は楼閣に垂らす御簾を、細く削った宝玉で作ろうと目論みましたが、これを知った太子が即座に参内して天子にお目にかかり、かつて象牙の箸から殷朝の滅亡を見抜いた箕子の故事を引いて次の様に諌めました。

「かつて箕子は殷の紂王が象牙の箸を欲したことから、次は玉石の杯や皿、その上に乗せる山海珍味、挙げ句の果てには豪奢な宮殿などを欲しがり始め、最後には国を滅ぼすであろうと見抜き、また事実その通りになりました。紂王は才気煥発にして聡明な君主でしたが、この様に果ての無い欲を叶えようとした為に、三十代六百年続く盤石の殷を一代にして失ったのです。只今天朝は繁栄と太平無為の時代を謳歌し、天子様は無限の恩徳を天下に注いでお出でです。しかし、この様な宮廷の私事に尨大な国費を投じ、もしも李乾坤の言葉に従って、剰え玉の御簾などお造りになられては、今度は玉の御座船をお造りになるべしという上疏があるに違いありません。その様なことが続けば、万民は天朝を恨み、歴史ある李氏の天下は忽ち潰えましょうぞ」

 この苛烈極まる上奏を李乾坤は不敬至極、謀反として騒ぎ立てましたが、やはり賢明であった天子は是を容れて、玉石の御簾は却下なさったのでした。

 とはいえ、宴そのものが贅を尽くしたものであることに変わりはありません。この様に余計な話をしている間にも宝燈は離宮へと向かっているわけですが、その間彼は目で見る天子の隊列や、話に聞く宴の様子を聞いて感嘆しきりだったのですから。


 天子と皇后、並びに貴嬪達、そして皇子公主といった尊貴の人々、そしてその後に続く貴族や上位の士大夫達。何百輌もの車が列を作り、その周りを騎兵と歩兵が護衛して行きます。

「なあ、賢弟よ。一つ良いかな」

「なんでしょうか」

「どうも、このところ宴ばかりしている感がある」

「なんとなくお気持ちはわかります」

 宝燈は車を連れるよりも良いと言うことで、多くの貴人の中で唯一馬に乗っています。その姿は顔つきといい立ち居振る舞いといい真に凛々しく、沿道で見遣る人々はあれこそ本当に尊貴のお方であると感心し、一方御簾の隙間から彼を密かに見つめるお妃様なども、麗しさにため息を吐きます。

「…なんというか、とても視線を感じるぞ賢弟」

「まあ、仕方ないのではありませんか」

「ちょっと隠れさせてもらう」

「…本当に器用に馬を操られますね殿下は」

 その視線に居た堪れなくなったのか、彼は武官の装いをした韋黯とちょうど重なる様に馬を操り、見事その体の裏手に隠れます。そして、そのまま出発地の離宮へと辿り着いたのでした。

 離宮へ辿り着くと、まずは月が出てくるまでに少々の社交を伴う宴とあれこれの段取りがあるのですが、その様な煩わしいことはさておいて。

 日が沈み月が登るという時、宝燈は突如天子のお呼び出しを受けます。何事か、と思い急いで御前に伺候すると、次の様にご下命がありました。

「いよいよ船を出すというところに来たが、どうだ。其方も朕と同じ船に乗らぬか」

 天子と同じ船に席を賜わるというのは本当に名誉なことで、本来ならば外臣と皇族の中間である宝燈には考え難い処遇です。

 恐る恐る李乾坤の顔を見てみると、どの様な思惑があるのか彼は何も申し上げること無く、泰然と構えています。

「(正直、虎の穴に飛び込む様な気がしてならぬ)」

 しかして、たってとのご下命ですから断るわけにはいきません。

「望外の名誉、謹んで、お受けいたします」

 彼が奉答すると、天子は満足げに頷かれて、玉座から数えて三人目の場所、皇后、太子のその次に座る様にと命じられました。その正面には賢妃、寿王、そしてまさかの李乾坤が着きます。

「(これは…下座の方が遥かにマシだったか…!)」

 時既に遅し、止むを得ぬこととはいえ、彼は最も嫌いな男と見つめあった状態で船を出さねばならぬということになったのでした。


 「いよいよ出港でございますな、韋大夫」

「うん。私達の任務は護衛だから、最後まで気を抜かない様に。特にあの御座船、天子様の他皇后様、貴妃様に公主様も御乗り遊ばしている。絶対に狙わせるわけには行かぬ」

「ははっ!」

 韋黯が同じ舟の兵士達に声をかけると、彼らは緊張した面持ちで作業を続けます。そして、日が沈みきり月が山々の峰から顔を出し、川面を行く風が時代に弱まってきた頃。

「御出座!」

 大音声と共に幾つもの銅鑼がジャーンと打ち鳴らされ、それを合図に皇族や貴族達の乗った幾つもの大船の艫綱が外され、川の流れに乗って動き出しました。

「こちらも出航だ!」

「応!」

 周りの兵士を満載した護衛船団も動き出し、付かず離れずの距離を保ちつつ水上を滑って行きます。

「わぁ!凄い、綺麗ねお父様!」

「そうじゃなぁ、はっはっは」

 幼い公主を膝に抱きながら、天子は至極満足の体で、この煌びやかな宝船の航行と、同じく天を照らす中秋の名月を見つめたのでした。


 「ふーむ…」

「どうかなさいましたかな江夏王殿」

「いえ丞相、月に見惚れていただけです」

 御座船の中、既に天子も交えた宴の盛り上がりの中、宝燈は押し黙って外を見つめていました。

「宝燈よ、何か気にかかることでもあるのか」

「その様な…」

「いや、気を使うことは無い、そのままに申すがよい」

 天子の御下問に嘘をつくことはできません。

「実は、この度臣わたくしの義弟が衛士の役を相勤めておりまする。天下泰平の御代、何事も無いとは存じておりますが…臣一人主上の御前に座する名誉を賜り、また酒食や歌舞、名月を楽しむのに少々気が咎めまして…」

「ふぅむ…なるほど、其方は余程その義弟とやらを大切にしておるのだな」

「はい。歳も身分は違えど、生まれた時より共に苦楽を共にして参りました者。どうか、彼にもこの宴の分け前に与らせたいのです」

「……」

「では、陛下。この宴果てました後、衛士達に酒と肉、そして褒美を幾らか下賜なさいませ。特別の機会と致しますれば、皆も喜びましょう」

「うむ、そうしよう。丞相が左様手配するように」

「それでよいな、では其方も心ゆくまで楽しむが良い。杯を与える」

「ご厚恩、感謝申し上げます」

 杯を受けつつ、やはり彼は釈然とせぬものを感じていました。李乾坤がそんなに殊勝なことを言い出すとは…財を貪り権を専らにする以外にも能があるのかという、あまり良くない疑問でしたが。


 他方その頃。衛士として船団の一番外縁に舟を漂わせている韋黯達は、暗闇の川岸を警戒しつつも、段々と気が抜けてきていました。

「隊長、隊長も如何ですかぁ?」

「うん…ってこら!酒を飲むんじゃない!」

「えぇ、でもああやってお上の方々は楽しんでおいでなのに、なんで俺たちはダメなんですか?」

「当たり前だろう。俺達は衛士だ。護衛役だ。護衛が酒を飲んで、有事に盾とならぬではどうしようもあるまい」

 外縁は川の中央を航行する船から随分と離れて、宴を楽しむ人々の煌めきを遠目に臨む暗闇の中にあります。少し離れた川辺には大昔に積み上げられ、今は叢生い茂る堤防があるのですが、その辺りは墨を流した様な真っ黒な夜が広がるのみで、時折月明かりで薄ぼんやりと木々の影が浮き出るだけです。

「…ん?隊長、あれを」

「どうした」

 そんな時、一人の兵士がふと川の隅を指さしました。韋黯がその方向に目を向けると、何か布の様なものがちゃぷちゃぷと浮き沈みしつつ、こちらは流れてくるのが見えます。

「なんでしょうか?」

「わからない。船が近くなったところで、熊手で引っ掛けよう」

「…よいしょっ…!?隊長、これは…!」

「…!?なんだ、これっ」

 その時彼らが感じた恐ろしさをどう言い表すことができるでしょう。川を流れてきた何か、それは官服を着せられた首の無い男の骸だったのです。水を吸って肌の色は白くなり、鮮やかな色だった深紅の服は血でどす黒く染まり、背中には「天誅」と記された布が強引に縫い付けられていました。

「一体誰の骸なのだ、これは…」

「ひとまず引き上げましょう。なにか、持っているかも」

「刃物で首を刎ねられたらしいな…ん?おい、この骸の懐を見ろ」

「これは、丞相府の牌符です!『右丞相陳景勝』…隊長、着ている服の色と補子から見ても、恐らくは…」

「陳義烈副丞相か…!くそ、確かに今日はいらっしゃらなんだ!」

「どうなさいますか!」

「どうもこうも天下の一大事だ!しかし…宴がおじゃんになれば、天子のご威光にも傷が…よし、分かった。おい!」

「はい!」

「すぐに松明を振って変事を隣の舟へ伝えろ。一度太子様に事をお伝え申し上げ、指示を仰ぐのだ」

「承知しました!」

「お前はご遺骸を筵で包んでおけ。後で埋葬しよう」

「了解です」

 陳副丞相の事を読者の方々は覚えておいででしょうか。彼はかつて清明節の宴に顔を出し、李乾坤の背後にピッタリと貼り付き、その意向を窺う腰巾着の様な男でした。

 しかし彼は、李乾坤の下で政務を処理することで栄達して右丞相、実態としては副丞相の地位に登り、丞相府に常駐して李乾坤の代わりを務めるまでに出世をしていました。

 …それ故に恨みを買ってしまったとすれば、何とも皮肉と申せましょうが。


 さて、この様な不穏なる凶事が起こっていることなど露知らず、宝燈は天子の御座船で宴に近侍し、主に幼い公主様のお相手を務めていました。

「のうお主」

「なんでしょうか公主様」

「男にしては佳い見目をしておる。いずれわらわの近侍に取り立ててやっても良いぞ」

「光栄に存じます、長平公主様」

「これ、金珠。その者は建国の功臣の末裔にして、江夏王たる者。その様に横柄な態度を取るでない」

「仕方ないのう…まっこと惜しい、李氏でなければ妾の駙馬おっとにしても良いというのに」

「まだ十歳なのに何を申すか」

 公主李金珠が不満気に頬を膨らませると、座は笑いに包まれます。そんな折、

「何…ふむ、分かった。直ぐに指示をする故…」

「どうした太子、何事があったか」

「供奉せる船にて少々厄介ごとが持ち上がった様子。陛下の宸襟を騒がせ奉るも無粋なれば、暫し座を離れて事を治めて参りまする」

「左様か。では、できるだけ早う戻って来るのだぞ」

「はっ」

 宝燈は太子の顔を見て、ただならぬ事態が起こったのだと明敏に察し、韋黯を心配して表情が曇りました。

「のう江夏。どうかしたのか、顔色が悪いぞ」

「いえいえ、なんでもございません、公主様」

「其方がそう暗い面持ちでは、面白うもなんともない。軽い余興でも誰ぞにさせてみてはどうか」

「されば、この李乾坤に一案ございますぞ!」

 待ってました、とばかりに李乾坤が膝を乗り出します。

「おお、其方は丞相のじい、何か趣向があるのか」

「はは。では失礼して」

 彼は卓の反対側ーつまり宝燈達が座る側ーに回って立ち、これ見よがしに旗を振ります。

 すると、どんどんという太鼓の音がしたかと思えば、向かいの舟に幾つかの的が用意され始めました。

「なるほど、船の上での弓遊びというわけだな」

「はい、陛下。ここに蟇目矢を用意致しました。これを紅に付けて的を射るのでございます。さすれば、流れ矢で人を傷つける心遣いもございませぬ」

「よかろう、ここにおる江夏王は弓の名手、また寿王や他ならぬこの朕も弓では相当の腕を持つと自負しておる。どうじゃ、最も多くの的中を得たものには褒美を取らそうぞ」

「やったぁ!お父様、妾、妾にやらせて!」

好好よいぞ、よいぞ。だが先ずは他の者の腕を見てからじゃ、のう?」

「むー、わかりました。江夏、其方の番はいつじゃ」

「お待ち下さい、今くじを…あっ、どうやら最後の様ですね」

「では初めに、寿王殿下より弓をお取りくださいませ」

「朕は金珠が引くのを手伝って進ぜよう」

「本当に?嬉しいわお父様!」


 と、この様な形で弓遊びが始まりました。この時天子の御座船は河の真ん中を走り、その正面に四つ連ねて的を乗せた舟が走ります。その間は凡そ十五間ほど離れていて、さらにそこから斜め遥か後ろを韋黯達護衛の舟が川縁を追走しています。

「では、寿王よ。第一の矢を放てい」

「はは」

 寿王は蟇目矢を一本掴んで紅の壺に浸けると、そのまま流れる様な動作で的を狙って射ました。

 ピー、という甲高い鳥の声の様な音を立てて矢は見事直線に飛び、的の中心にあたります。

「的中!中央」

 おお、という感嘆の声が上がる中、寿王は次々と矢を放ち、四つのうち三つを真ん中に、残りの一つを左命中という好成績を収めました。

「(流石、というより最後はあえて真ん中を外したな。あそこまで自然にやるとほとんど気がつかないが)」

 宝燈は天子と公主の顔色を見つつ、その様に考えました。

「では次、泰王殿下ー…」

 その様な形で競技は進んで行き、上手いも下手もそれぞれの成績を収めてゆきます。しかしながら、天子と公主を憚ってか、全部的中の成績を収める者は有りませんでした。


 それから少し後のこと、韋黯達はと言えば載せていた遺骸を太子の命で他の舟に移し替えると、同じくその指示で川縁ギリギリの位置で舟を走らせます。

「出来れば早めに遅れを取り戻したいな。もう少し早く漕げないか」

「向かい風ですから、少し難しいかと。一旦休憩をお許し頂けませんか」

「わかった、構わない」

「韋大夫、あれは何でしょうか」

「ん?」

 その時、目の良い兵士が見つけたのは、そこから遥か遠く、暗闇の中御座船を待ち構える刺客の姿だったのです!

「なっ、大変だ!直ぐに鐘を打たせろ!舟を川縁寄せるんだ!矢を射られる前に奴らを捕らえろ!」

 韋黯は絶叫し、傍の兵士達を連れて川縁に飛び移り、一目散に走り出します。が、身につけた鎧は重く体力が持ちません。

「くそ、クソッ!貴様ら、何をしている!」

 せめて狙いを自分に逸らさねば!それだけを思って叫んだ瞬間。

 ピーヒョロロロ、という甲高い音を立てて、闇を切り裂いた蟇目矢が刺客の肩を正確に射抜いたのです。

 誰の矢だ、そう思って見直すと…

「よしよし」

 御座船で不敵な笑みを浮かべた、宝燈の姿があったのでした。


 さて、この様なことになる少し前に時間を巻き戻してみましょう。

 弓遊びが進んでいき、遂に宝燈の番がやってきました。

「(ふうむ、距離は大体十五間、風が船に対して向かい風であるから…)」

 彼は弓に矢をかつがえてざっと計算すると、そのままろくに狙いを定める素振りもなく矢を放ちました。

「おお!」

 しかし、その矢は風に煽られて軽く曲がる軌道で的に吸い込まれ、見事中央に命中します。

「すごい!見事じゃ江夏!」

「ありがとう存じます」

 次いで二の矢、三の矢と彼は流れる様に矢を放ち、これも少々派手な軌道を描いて的に当たります。この辺り、どうやら彼は魅せ方というものを心得ている様で、ただ命中させるだけでは物足りぬとばかりにその技量を披露しました。

「(さて、次が最後か)」

 そして、いよいよ最後の矢、という時。彼も他の参加者と同じ様に的の中心からずれたところに狙いを定めようとしたその瞬間、彼の眼の中に常ならぬものが映り込んだのです。

「(…なっ!あれは、鏃の光だ!)」

 月明かりに照らされていたとはいえ、この時の彼の眼力、そして即座に判断をする力はやはりずば抜けていたでしょう。彼は矢をかつがえてから射るまでの数秒の間に、自分を狙う暗殺者に逆に狙いを定め、その弓を引く手に向けて的確に矢を放ち、その男が自身の正面に来る前に見事射抜いて見せたのでした。

 当初、無辺世界あらぬところを射たと見えた矢は再び風に煽られて軌道を歪め、最終的には刺客の腕を潰して倒します。彼らにしてみれば、非力そうな彼が何十間あるかわからぬ遠距離でありがらも、矢を当てて見せたことは正しく不可思議な事であったでしょう。これこそ、かの呂奉先が見せたという、轅門射戟えんもんにげきをいるの神業にも劣らない妙技でした。


 「なっ、何だ今のは!」

「馬鹿な!この距離で見えるだと!」

 一方骨を砕かれた刺客たちは堪りません。慌てて一人を抱えて逃げようとしますが、そこに今度は韋黯の率いる衛士達が駆けつけて来たので、それもままなりません。戦おうにも数が違い過ぎますから、止むを得ず怪我をしたものを見捨てる他にないのでした。

「逃げた者を追うんだ!」

 彼はその場で命じると、御座船の方を見直します。過ぎ去っていく船に乗る宝燈は、薄く笑っている様に見えました。


 「ふむ、残念だったな江夏。途中まではよかったのに」

「少々、酔ってしまった様です」

「だがそれにしても良い腕だ。私が弓を引くときに、手伝わせてやってもよいぞ!」

「謹んで」

 公主様のお褒めに預かりながら、彼は考えました。

「(寡人はいいが、賢弟が無事で良かった。あやつが見えねば、確信が持てぬうちに死んでいたであろう)」

「宝燈、惜しかったのう。次は期待しておるぞ」

「はは」

 その後も宴は続いたわけですが、これより先は何事も無く平穏のうちに事が運びます。少なくともこの頃において、李氏の天下は全く揺るぎなく、また天下の民もその事をよく理解したのでした。

 今回はこれまで。

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