第十二回 遊里
夏も暮れ方になり、夜になると蟋蟀や鈴虫が盛んに歌い始める時節。いつもの如く宝燈と韋黯が夕涼みをしていると、わたわたと王府の官吏が駆け込んできました。
「王様、王様!」
「どうかしたのか、そんなに焦って」
「実は今、寿王様のお使者が参っておりまして、主人より伝言を承っているから、江夏王様に申し伝えたいと」
「すぐにここへ通してくれ。あと、冷茶の用意も頼む」
「はい、直ちに」
「何事かな、賢弟」
「さぁ…」
これより少し経って、驚いたことにキチンと正装した使者がやってきて恭しく国礼を施し、宝燈に対して次のように申し上げました。
「この度我が主人寿王殿下は、郡王、国公以下宗室の者達を集めて、納涼の宴を催したいと仰せでございます。江夏王殿下におかれましては、是非ともご列席賜りたくとたっての仰せでございますれば、何卒」
寿王殿下と言えば、当代天子の后腹の御子、政治に興味を示さぬ一方詩文や歌舞音曲の道に通じた風雅な才人との評が高いお方です。
また、丞相李乾坤が長きに渡り太子にと願うのもこのお方である、ということからも彼の人柄が察せられようというものですが、それはひとまずこのくらいにして。
宝燈としては寿王の様な俗世に肩まで浸かって生きる者は余り好ましく思ってはいませんでしたが、かと言って親王ともあろう方からの正式な招待を無碍に断ることもできません。
「では、有り難く末席を賜ることに致しましょう。どちらまで行けばよろしいでしょうか」
「平康坊内北の、『蝶花楼』にて宴を開くと申しております」
「…分かりました。急なお声掛かりですので、少々準備に時を要しますが、必ず参上致します故、その様に申し伝え下さいませ」
宝燈は使者に幾らかのお土産を持たせて送り出した後、既に経緯を裏に控えて聞き取っていた王尚父に命じて外出の支度をさせます。
「なんとまあ、面倒なことを言ってきたものだ」
「お嫌ですか」
「心底嫌だね。
半ば吐き捨てる様に呟くと、彼は着替える為にさっさと奥へ引っ込んでしまいました。その様子を、本当のところを知らない韋黯はぽかんと、他方万事に通じている王尚父はお労しやという視線で見つめていました。
さて、随分と久しぶりだと言った様子で、宝燈は八人かきの駕籠に乗り込み、百人ほどの護衛と臣下を引き連れて北里、つまりは平康坊へと向かいます。元々彼の邸は都の東北にあるので、距離としてはそこまで遠くはありません。
韋黯は馬に乗って駕籠のお側に付き、大路に屯する無頼の者達が粗相をしないか見張っています。
「ほほう、これが夜の街か」
「ご存知ありませんでしたか」
「うむ。今まで繁華な街に夜出たことは無かったからな」
周りの建物には赤色や桃色の提灯が吊るされて辺りを幻想的に照らし出し、その中からは盛んに歌舞音曲と人の愉しむ声が聞こえてきます。
「綺麗だなあ」
「なるほど?」
「ああした紅楼が華やかな灯りで彩られ、その上には暗い夜の空。そして、月と星もまた輝いている。この世のものとも思えぬ風景よ」
「これが雨になったりするとなお美しゅうございますよ。雨粒に光が散らばって、朧に浮かび上がる様はとても…」
「…お前にも風雅の心があったとは意外だな」
「駕籠から引き摺り出されたいですか?」
と、この様な会話をしつつ、気がつけば一行は北里の中でも最も格式高い妓楼が集まる一隅に辿り着いていました。すると、にわかに奥の方から店のものと思しき人々がやって来て、この様に申し伝えます。
「郡王殿下のご来駕に際し、丁重にご案内申し上げよとの寿王殿下のご命令にございます。これより先は、手前どもが引き継ぎます故」
「はぁ…」
そう言うや、彼らは宝燈の駕籠をさっさと担いで中へ去って行き、他方韋黯を初めとした付き人達は慣例である、として拒まれ、ここで待つか帰るか選ぶ様に促されました。
「済まないが、付き人は中へ入れないのか」
「その様な慣例でございますので」
当然韋黯も付いてくるものと思っていた宝燈は困惑の声をあげますが、そうこうしている内に妓楼の入り口まで駕籠は運ばれ、いらっしゃいませ、と言う声と共に御簾が上げられてしまいます。
「…なるほど、どうやら一人きりか」
これ程までに不安を感じたことはなかっただろう。彼は内心そう思いつつ、光溢れる楼内に足を踏み入れたのでした。
さて、楼の中に入るとすぐに宝燈は他の建物を見下ろす高層階へと案内されます。吹き抜けになっている廊下の向こうには、夜の闇で真っ黒に染まった城壁と、その中で星空の様に光を放つ長安の街が広がっています。
「さあ、殿下。こちらへどうぞ」
「失礼致します」
案内されたのは、そうした美しい風景に三方を囲まれたとある広間。恐らくは、この楼の中でも最も上等な宴の場でしょう。宝燈が控えめにその中に入ると、すでにその場には美酒美食が揃えられ、艶やかな妓女達を側に置いた皇族達が待っていました。
「おお!よく来たな江夏王!」
「ご無沙汰しておりました、寿王殿下。お招きに与かりまして、光栄の極みと存じます」
「いやいや、今日は無礼講だ。それに、其方はこの場では余に次ぐ爵位の持ち主。若いとはいえその様に畏まるな」
寿王は車座の一番奥にどかりと座り込み、既に出来上がっているのか赤ら顔で、衣服は乱れつつあります。しかし、それでも端正な顔立ちや気品が損なわれている様子は無い辺り、やはり彼も皇族なのでしょう。
「江夏王殿下は寿王殿下のお隣にお座りになられませ。
その様に宝燈に声を掛けたのは、飛州伯の地位にある李道福という中年の人物でしたが、彼について詳しく述べる必要は無いでしょう。また、他にもこの場には上下あれど多くの皇族が参列していましたが、その細かい説明も読者の皆様には必要ありますまい。
彼が席に着くと、寿王が改めて乾杯の音頭をとり、列席の人々は口々に「天子万歳、殿下千歳」と叫んで盃を干します。宝燈の盃には酒の代わりに茶が満たされていましたから、彼は冷静なままそれを見届けることができました。
一通りの乾杯と祝辞の様なものが済むと、後は適当に酒池肉林の酒宴が始まります。並べられた美酒美食の贅沢さといったら、とても筆舌では味わいきれませぬし、集められた妓女達の艶やかさや卓越した
試しに宝燈は、並べられた料理の中から鶏の煮込み料理に手をつけてみましたが、つやつやとして光沢のある見た目の肉は、中身も厚く歯応えがあり、一方味は醤油と麦芽糖の甘さと
「美味しい…」
思わず彼が感嘆の声を漏らすと寿王は大いに喜んで、
「江夏殿、そちらは山東の徳州より聖上にも献上される
「はい!ありがとう存じます」
「ささ、好きなだけ召し上がられよ。尤も、食べすぎると胃の腑に血が巡って、酒令の時に眠り込んでしまわれるやも」
寿王の冗談に座は爆笑に包まれます。他方ダシにされた方は堪りません。思わず赤面して顔を背けてしまいます。
「あら、郡王様。どうかなさいました?」
「な、何でもない!他の方についてやってくれ」
「ですが、給仕が
「だからっ…!」
「まあ…」
一人の妓女が彼に近寄って、口元についた食べかすを拭って差し上げようとすると、まるでりんごのように頬を赤くした可愛らしい顔が目に入ります。
純真な幼さを濃く残しながらも、宛ら美玉の様に輝くばかりの美しさ、思わず妓女はぽーっとして見つめてしまいます。
「…その、寡人に何か」
「あ、いえいえ!失礼をいたしました。お口元に食べ残しが…」
「あ、ああ!すまぬ。拭おうとしてくれたのだな」
そんな初心な様子を見て、寿王以下この場の大人達が放っておく訳がありません。いずれも皆風雅の遊びに長じた才子佳人ですから、いっそこの場は彼の為に設けたのだと思う様にして、通の振る舞いと言うのを身をもって教えてやろうとします。
「江夏殿、お料理はもうご満足ですかな」
「は、はい。その、いずれも美味しゅうございました…」
「それはそれは。何より…では、これより改めて酒宴を始めよう!酒と諸々の道具を!」
「かしこまりました」
折を見て主人である寿王は、回りの妓女や
「ではこれより先は、真の宴。華の蝶花楼に相応しいか否か、自らの才覚にて問われるが宜しかろう」
彼がそう告げると、集まった人々はそれぞれ不敵な笑みを浮かべ、あらん限りの教養を駆使して洒落た振舞いをしようと智慧を絞ります。
他方宝燈は、知識学識は兎も角土壇場の機転は彼らに及ぶべくもありませんから、不安げに辺りを見回しました。
「それでは、先ずは一つ。酒令の前に
「では、卒時ながら妾が…」
「ほほう、魚玄機殿か。ならば、不都合は無い」
進み出た妓女を見れば、顔立ちは道観に祀られている西王母のそれに似て、立ち居振る舞いは宮廷の公主の如く瀟酒、それでいて妓女特有の艶やかさを辺り一面に振り撒いています。
「それでは始めましょう。まず第一は…」
さてさて、酒宴の段と相成りましたが、唐土にてそのままお話しするにはいざ知らず、
この頃酒宴と申しますのは、実は食事と酒を共に楽しむと言うのではなく、ひとまず食事は食事としておいて、それが終わった後に酒と共に楽しむものでございました。(この場では言葉の利便を鑑みていずれも宴と申し上げております)
そして、この酒宴というものに付き物でございますのは、酒令と呼ばれる遊戯です。これらはサイコロを使った簡単なお遊びから、決まりに従ってゲームや話を繋いでゆく律令、さらに即興でおお題に合った詩歌を詠む著辞令など実に様々なものがありましたが、これらに共通していたのは負けた者や失敗した者が罰として酒を一杯飲むというルールです。
こうした酒令は、単なる才能だけでなく行う人の教養や
話を戻しますと、手始めに玄機は
これらは簡単な遊びですから、皆気軽に参加し、妓女や他の列席者と戦ったり、他人の勝負を見てあれこれと言ったりして楽しむことができました。
「さて、次は江夏王殿が親ですぞ」
「う、うん。わかっているよ」
「にしてもここまで殿下はほぼ全て勝ちのまま通されていらっしゃる。恐らくは、何某かの天運に恵まれておいでなのだろう」
「だが、今回は負けるわけにはまいりませぬぞ」
と、この様にお喋りをしながら勝負をするのですが、不思議なことに宝燈が参加したところでは彼が酷い負けをするということは一度も無く、子になれば彼は必ず勝っていて、親の時も一人か二人に負けるくらいのものでした。
「さあ、勝負…ってげえ!至尊宝!」
「なんと、まさか引き当てなさるとは!」
周りの人々は彼の引きの強さに皆どよめいて、不遜にもイカサマを疑う者もありましたが、全く無いとわかると諦めて罰杯をを受けます。
「(韋黯とやっていて鍛えられていたからか?いや、引きの強さは普段からお経を上げていた功徳ということなのか)」
彼としては少々苦笑いもので、あまり引きが強くても却って他の参加者の不興を蒙ることにもなりかねませ んから、程々になって欲しいと思わずにはいられませんでした。
「それでは、牌九はここまでと致しましょう」
玄機が手を叩くとあたりの喧騒が止み、また列席者達が彼女に注目します。
「牌九は如何でしたか?」
「楽しめはしましたが、少々心残りでしたな」
「何がです?」
「江夏王殿が大変お強く、彼が作られる名句を拝聴出来なかったことです」
この声に場はまた盛り上がり、彼の大層な引きの強さを揶揄う声で溢れます。
「はっはっは、江夏殿は流石に何かを持っていらっしゃる様だ。だが、小王としても江夏殿の見事な詩歌を拝聴したいものだのう」
当初取り合わぬ腹積りでいた宝燈でしたが、寿王がそうした揶揄に乗ってしまったので、思わずぎょっとして見直してしまいます。
「そ、そんな。小王は浅学非才の身、下手くそな詩文で場を醒ましてしまうやも…」
「いいえ、その様なことはございませぬぞ!かの哲王殿下のご子息でいらっしゃるのですから!」
「そうとも、お父上はこの国随一の大文人でいらっしゃった!」
偉大な学者としても名を残した父王を持ち出されては、もう後には引けなくなります。げんなりとした心持ちではありましたが、彼は覚悟を決めて月明かり差し込む窓辺に立ち上がり、朗々と歌い始めました。
月の青みを帯びた光に照らされた白皙の頬、外を眺めながら淀みなく歌い上げるその声、詠じるは華やかな後宮の姿を詠じた亡国の
「……」
「…あの」
「はっ!いや、これは…」
「…その、御気分を悪くされましたら、申し訳ありません。何しろ無教養なもので…」
「い、いやいや!これはお見事、まこと江夏王の名は虚しく伝わることは無かった!」
「左様左様」
思わず宝燈の姿に見惚れていた寿王は、慌ててそれを覆い隠すために場を繕い、豪放な笑い声を上げます。他方妓女達は、すっかり魂を抜かれてしまった様で、中には気の利いたお返しをすることも忘れて、月明かりをぼんやりと見つめる者さえありました。
「で、では、次の酒令に移りますわ…」
玄機が再び口を開き、それに合わせて皆また頭を切り替えますが、何処か歯に物が挟まった様に集中できません。そして、これは夜遅くなり、それぞれが泊まる部屋に引き取った時まで変わることがなかったのでした。
「不味い、結局帰る機会を逸してしまった」
宴が果てた後、宝燈は一人部屋でそう呟きました。元々彼は韋黯を待たせていることもあって、宴が終わったなら直ぐに引き返そうという心算でいたのですが、帰ると言い出す前に寿王に「費用は持つから泊まってゆけ」と押し切られ、結局は使者も立てられないまま宿泊することとなってしまったのです。
「賢弟や尚父がさぞ怒るだろうなぁ…」
そうぽつりと溢すと、彼は物憂げに窓の外を眺めます。
相変わらず夜に映える都の姿は美しく、歓楽の声は遥か高楼の上にあるこの部屋にも響いていました。
「…寝るか。考えても仕方が無い」
手近の布団を引き寄せて、寝巻きにも着替えず潜り込もうとしたその時、
「江夏王様、宜しいでしょうか」
「その声は…魚殿か?」
「はい、御前に出ても宜しゅうございましょうか」
「構わない。入っておいで」
彼が言うと、玄機がすすすと引き戸を開けて中へ入ってきます。その装いは先程の華美な服ではなく、白く薄い寝巻き姿です。白磁のように滑らかな肌に紅を刺した唇、品よく束ねられた髪の毛と濡れた黒い瞳。思わず彼はその艶姿に係と唾を飲み込みます。
「な、何用かな」
「何用…とは」
「いや、その。君の様な婦女子が、この様な夜に男の部屋を訪ねて二人きりと言うのは、あまり外目から見ても良い物ではあるまい。用事を済ませたら、疾く戻られよ」
「…では、『用事』にかからせて頂きますわ…」
「え…んむっ!」
振り返った途端、宝燈はしなだれかかってきた彼女に唇を奪われて、そのまま抵抗出来ぬままに押し倒されてしまいました。
「ぷぁ…な、何をするのだ!」
「王様…ここがどこだか、まさかご存知でないとは多さにならないでしょう?」
「し、知っている、知っているが…!」
「なら、もう何も仰らないで下さい…」
「や、やめろ…っ」
彼にとって、こうした雲雨の事は多少知ってはいても、今まで自分がそうすると言うのは全く想像の埒外にあったので、困惑と羞恥のあまり顔を赤くしてしまいます。
しかし、そうした反応は却って彼女の心を燃え立たせてしまった様で、もう一度口付けをした後、衣服を脱がせようと中に手を入れてきました。差し込まれた手が動く度に、彼は甘い声を上げて悶えることしか出来ません。そして…
「あ、あぁ…頼む、もう、やめてっ…!」
「可愛らしい…まるで、女子の様な声を…女子?…まさか…!」
「あっ!」
玄機はふと胸板の感触に違和感を覚え、既に乱れた上着を広げて、きつく晒しで覆われた
「…よもや、この様な…」
「………」
万事休すと悟った宝燈は、抵抗をやめて絶望的な表情で目を瞑りました。全ては一巻の終わり、そう悟り切った表情で。
「…王様?」
「…なんだ」
「その、『これ』は一体、なんでしょうか」
「…見ての通りだ。寡人の正体…今まで、生みの親の他は誰も知らなんだ」
冷然と言い放ち、宝燈は玄機の下からするりと抜け出ると、黙って服装を整え始めます。全てが露見した今、頭は寧ろ冷静に回っていました。
「何故、その様なことを…」
「寡人にも分からない。こうなる様にお決めになった父王は亡くなられた。…それに、寡人自身、王になるまでは自らの立場を疑うことも無かった。こう言うものなのだ、とそう思い込んでいたのだ」
「………」
「…さあ、もう良かろう。これで分かった通りだ。寡人には、お前と一夜を過ごすことはおろか、本来こうしてこの場にある資格さえ無いのだ。…全てを欺いて、嘘をついて生きてきたのだからな」
「……あの、」
「強請るか?脅すか?好きにするといい…どうせもう、寡人は終わりだ。歴史ある王家も、寡人の愚かさ故に絶える。そうだ、元より分かって…!」
「違います!」
「……」
唐突な叫び声に驚いて、宝燈が玄機の方を見直すと、彼女は怒りと哀しみを噛み締める様に体を震わせています。
「王様、妾は、妾は…決して、その様なつもりではありませぬ…許されぬ御無礼を働きはしましたが、決して、貴方様を傷付けようとは…」
「…済まなかった。元より、何も知らない其方に当たり散らす故は無かった。客としての無礼、許して貰いたい」
何を思ったか、涙を浮かべる玄機を彼は優しく抱き寄せ、その背を撫でて宥めてやりました。
「…きっと、寿王殿下のお気遣いだろう。其方は、この蝶花楼第一の妓女。本来なら、寡人の様な登楼仕立ての素人に付く女では無い。其方にとっても不本意であったことだろうな」
「その様なことはございません。…確かに、お話があった時は驚きましたが…こうしてお顔を合わせてみると、とても麗しく、そしてお優しい方だと…」
「…長安指折りの美女に褒められるとは、同じ女としては冥利に尽きる…。すこしは、自分のことが好きになれそうだ」
「あの、王様」
「…なんだい?」
「御無礼は、本当にお詫び致します。まさか、そのような事情がお有りとは露知らず…」
「いや、其方は悪くない。…寧ろ、何も言わず嘘をついていたのは寡人の方だ。じきに身分を失うかもしれぬ故、償いに何かして欲しいことがあれば、今のうちに申せ」
「…妾は、お客様の秘密を漏らすことは、例え天地がひっくり返っても致しませぬ。ですから、ご安心なさいませ。ですが…もしも、お願いを聞いて頂けるのなら、一つだけ」
「申してみよ」
「…どうかこれからも、妾に逢いに来て頂けませぬか。これからもお顔を拝見して、お話をして、王様のことをもっと知りとうございます」
「…良かろう。その位ならば、お安い御用だ。其方の義侠の心に、感謝する」
この様な仕儀で、二人きりの夜は明けていきました。この二人が床の中で、一時だけでも『女同士』でどの様な話をしたのか、敢えて細かく記すのも野暮でございましょう。
ただ、確かなことは李宝燈という人間の心が、魚玄機という希代の妓女の心をしっかりと捉え、また玄機の存在が孤独に苦しむ彼の心の奥底に、一筋の光を降ろしたと言うことでしょうか。
翌朝。まだ日が昇ったばかりの頃、宝燈は玄機に見送られて部屋を出て、まだ目覚めぬ他の客達を起こさぬ様に妓楼の入り口へと出ました。元々彼は誰かに邸への使いを頼み、迎えを寄越してもらう腹積りだったのですが、ここで思わぬ人物が彼と鉢合わせします。
「…賢弟!?」
「殿下、おはようございます」
朝霧の中、ふらふらと歩いてきたのは、誰あろう韋黯その人でした。
「お前、こんな所で何を!雪影はどうした、他の者は!?」
「…暫くは花街の入り口でお待ち申し上げておりましたが、どうやらお泊まりになる様だと合点したので、他の者達と雪影は先に帰らせ、私一人殿下をお待ち申し上げることにしたのです」
「そ、それにした所で、一晩中花街の前で立っていたのか?」
「何しろ、門衛が厳しく、決して入ることは相成らぬと。そこで、ずっと立ったり座ったりして機会を伺い、隙をついてここまでやって来られたという訳です。…きっと殿下はお気づきではないでしょうが、大変でしたよ。夜半に筵を敷いて眠ろうとしたら、にわか雨にやられてしまって…」
そう言われて宝燈が足元を確認すると、うっすらと湿っていて、確かに雨が降ったと分かります。また、心なしか目の前の韋黯の服装も、朝と雨水とで薄く湿り気を帯びている様でした。
「…馬鹿な。お前も帰れば良かったのだ、何も言わずに邸を留守にする主人など待たずとも良いのに…。それを、こんな、泥と雨水まみれになってまで、何故だ…」
「この服を着ていたので、強引につまみ出されることも無かったですが、下手を打てば乞食として獄に下されていたやもしれません。いや、この有様でも単に身を持ち崩した官吏にしか見えませんが」
「う、うぅ…馬鹿、大馬鹿者…」
「…あぁ、その、どうかお泣きにならないで下さい。その、私の独断でしたことですし…ああ、参ったな、この装いじゃ、殿下に変な噂が立つやも…」
「それを言っているのではない!」
彼は韋黯がずっと待っていてくれたことに嬉しいやら怒るやら照れるやらで、気持ちの整理がつかずとにかく子供の様に半泣きで怒鳴るしか出来ません。しかし、兎に角も厩番に命じて自分の乗ってきた月影を引いてこさせると、二人でその鞍の上に跨ります。
「…今日だけ特別だ。しっかり捕まっていろよ」
「は、はい…」
ぶっきらぼうにそう言いながらも、彼は韋黯が腰に手を回してくるのを拒みはしません。手綱を取ってゆっくりと馬を歩かせ始めました。
「…詳しくは話さぬが」
「何ですか?」
「…詳しくは話さぬが、別に何も無かった。それだけだ」
「…なるほど、承知しました」
にこやかに韋黯が笑みを浮かべると、宝燈はほんのり頬を染めて俯きます。何故だか分からないが、彼にそうしたことを揶揄われると無性に腹が立つ。そんな顔でした。
「ところで、どうしてお前は待とうと思ったのだ?他の者は帰らせて、自分一人でだ」
「そうですね…まあ、王尚父に言い訳をするためでしょうか」
「というと?」
「殿下お一人でのお帰りならば、叱責を賜るのは殿下だけです。ですが、私と二人で帰れば、私が共犯として殿下を唆し申し上げた、と言い訳ができるではありませんか」
「…そう言う気の利かせ方は嫌いだ。怒られるなら、寡人一人で十分だと言うのに」
「申し訳ありません。…でも、待っているのも悪いことばかりではありませんでしたよ」
「というと?」
「昨夜の何時頃でしたか…とても綺麗な歌声が聞こえました。透き通る様な、優しい声で詩を歌う声が。一体どの様な方が歌っていたのか、是非一度お会いしたいものです…って、殿下。どうなさいました?」
「五月蝿い!!も、もうこれ以上、今回のことを寡人の前で口に出すな!」
と、この様な具合で彼の初の登楼は終わったのでありました。後日、遊里にはちょっとした不思議な噂が立つことになるのですが、それはまた別のお話となるのです。
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