第十一回 心肝

 「一体なんてことを仰るんですか!!」

「まあまあ、言ってしまったものは仕方がないだろう」

 その夜、邸に戻って夕食を摂っていた宝燈に対し、韋黯は叫びました。

「あのですね、殿下。幾らなんでもやっていいことといけないことの区別くらいはつけて頂かないと困ります!」

「なんだと、ならばお前はどうなんだ。寡人に内緒で危ないところへ行こうとしていたではないか。お前は、義弟おとうとを思う義兄あにの気持ちも分からんのか」

「う、そ、それは…」

「大体、お前はいつもいつも寡人の心持ちを考えずに…」

「それは殿下も同じでしょうが!」

 前回、幽霊の女が出ると聞く廃宿へ肝試しに出よう、という韋黯の朋友についてお話ししましたが、あろうことが宝燈はさらに強引に着いていくことにしてしまったのです。

 故に韋黯は大層心配をして、強い言葉で彼を諌めているのですが、一方彼の方でも大切な義弟が危うい真似をしようとしていたと知っては、心中穏やかならずといったところ。結局のところこの日の水掛け論は、王尚父が近づいて来たのでお開きとなりましたが、これは全くどちらが悪いのか甲乙つけ難いと言ったところでしょう。


 さて、翌日のこと。その日夜明け前に起き出した宝燈は、俄に外へ出て冷たい水で沐浴し、身を清めてから宗廟に詣でます。そして、阿弥陀仏に向けてお経を唱えると、韋黯を起こして言いました。

「おい起きろ、今から太清観へ行くぞ。大徳の張真人にお目に掛かる」

「張真人、ああ郡王爺おじいさまと懇意にしていらしたという…」

「そうだ。お前とわたしが危ない所へ行く前に、加護の祈祷をお願いしに行くのだ。着いて来い」

「え、あ、はい!」

 太清観というのは、長安の大業坊にある立派な道観で、長きに渡り皇室にゆかりの深い伝統ある場所です。また、大徳の張真人は宝燈の祖父の代から修行を積み、今や金紫光録大夫、道録司の位を受けて都中の道士を束ねるというこの国でも随一の人でした。

 元来皇室の李氏は名を知らぬ人とて無い太上老君の末裔と聞こえし家柄で、また当代の天子は道教を重んじること大変厚くいらっしゃったので、張真人は特に崇敬され、「万事の修行を果たしたお方」として終了真人なる尊称まで賜っています。

「かつて張真人は、郡王爺と義兄弟の契りを交わされ、また代わって出家なさったほど我が家に縁の深い方だ。昨日使いを遣ってお伺いしてみたら、二つ返事で承知して下さったよ」

「高々こんなお遊びで…!?」

「まあ寧ろ、こんなお遊びだからだろう。お布施も不要と仰っていたからな。太子殿下の一件でお力になれなかった代わりに、ご奉公致しますだと。そういう訳だから、ほら、さっさと支度しろ。正装せよとは言わないが、見苦しくないくらいにはな」

 とこの様な調子で、二人はいつもの通り馬を駆って大業坊の太清観へと向かいました。


 大業坊の方へ馬を進めると、辺り一体に道服を着込み、盛んに呪言や経文を唱えつつ歩き回る者達が現れます。彼らは太清観にて出家し、仙人になることを目指す下っ端の道士で、今は都の中や近くにある霊場を巡って祈りを捧げる修行の最中でした。

 そして、そうした人々に出会った街の住民は、盛んに米やおかねを恵んでやる代わりに、自分の為に護符や簡単な加持祈祷をして貰うのです。

 閑話休題それはさておき

 道士達を避けつつ大業坊に入ると、まず目に入るのは立派な山門と、千里眼・順風耳の一対の神像です。朱塗りの柱に金や瑠璃七宝で装飾された豪奢な門の上には、純金の九龍をあしらった青地の大きな扁額が掛かっていて、枡ほどの大きさの文字で『太清観』と揮毫してあります。また、その隣には『開元某年月日 書賜太清観』と書き添えてあり、加えて『万機宸翰之宝』とありました。

 これは、揮毫の書が天子御自らの筆であり、如何にこの道観が崇敬されているかを表すものです。宝燈は馬を降りると、韋黯共々山門に一礼し、側で道を掃き清めている童子に対し、江夏王が約束通り参ったから、その様に張真人に取り次いで欲しいと言い含めます。

 童子は近くの東屋に二人を案内して日差しを避けさせ、自らはお茶を出した後に張真人にご注進に及びました。

「直ぐにこちらへ堂の奥へ御案内しなさい」

 張真人は直ぐに左様命じ、直ぐに法官の称号を持つ位の高い道士を二人呼び寄せて宝燈を丁重に案内する様にと言い付けました。

 二人は広い境内を走って門の方まで行き、恭しく国礼を施し、宝燈と韋黯とを奥の方へと案内します。

「さあ、此方へお出で下さいませ」

「日除の傘までご用意頂けるとは、誠に恐れ入ります」

 さて、宝燈と韋黯は様々なお堂やら神像やらが立ち並ぶ境内を歩き、張真人のいる最奥を目指します。境内には、守門大師や城隍神、或いは初代天子の元で活躍した名将賢臣、はたまた長安の土地神などの立派な塑像やお堂が立っていて、そのいずれにも香が焚かれ、熱心に道士が祈りを捧げています。

 これが地方へ行くと、手入れもされずに荒れ放題といった道観も少なくはありませんから、この場所がやはりただの出家場でないことは事実と言えましょう。

 そして、道観の最深部にある、最も立派なお堂に着くと、道士二人が先へ行って張真人に宝燈が来たことを取り継ぎます。

「すぐにお通ししなさい」

 そう命じられて二人が宝燈と韋黯を招き入れると、張真人は膝をつき、礼を尽くして迎えます。

「無量寿仏!江夏王殿下におかれましては、御即位あそばしまして一年、この度は郡王として初めての清明節の儀礼も済ませられましたこと、心よりお喜びを申し上げます」

張老爺おじいさま、何卒お立ち下さいませ。あなたは小王わたくしのお祖父様と義兄弟の契りを結ばれ、また身代わりとして出家なさり江夏王家をお守り下さいました。本来ならば、もっと親しくご挨拶申し上げるべきところ、この様な仕儀と相成りまして、お詫びの言葉もございません」

 宝燈は張真人が自身の父祖と入魂の仲であったことから、礼を欠く様な振る舞いをせず、自らを下として彼に接します。一方で張真人も、聡明な宝燈のことをよく知っていますから、やはり此方もよそよそしくすることは無く、同じ血を引く家族の様に話しました。

「太子殿下の折は、誠に申し訳ありませぬ。お力になれず、小道も気に掛けておりました」

「いいえ、その節はご無理を申し上げてしまいました。元より太清観は天子様の庇護の下、皇室とこの国の安寧をお祈りする場所、太子殿下は天子様の勘気を被ってあの様に打ち捨てられてしまわれた。如何にお労しいこととはいえ、表立って行えば逆賊となってしまいます」

「ご賢慮を賜りまして、言葉もございません。そのお詫びと申しましてはなんですが、この度は誠心誠意ご奉公を致します」

「この様な些事に対し、誠に忝う存じます」

 さて、挨拶もそこそこに宝燈は要件を切り出し、自分と韋黯の身が幽鬼から守られる様、加持祈祷を請います。張真人は、当初彼がその様な場所に行くと聞いて怪訝な顔をしましたが、万事義侠の志から出るものと知ると、莞爾として笑ってこれを快諾し、必ずや身を守れる様に致しましょう、と答えました。

「では、支度を致しますので、殿下と韋殿は身を清められ、数刻の後に此方はお戻りあれ」

「ありがとう存じます」


 日が中天に達しようと言う頃、万事支度を整えた二人が堂に戻ってみると、張真人は三清大師の掛け軸の前で香を焚き、熱心に読経をしています。妨げまいと思った宝燈と韋黯が、声を立てずに床に座ると、不思議なことに張真人は、二人がやって来たことを悟って読経をやめ、振り返りました。

「これは、お帰りなさいませ」

「お邪魔をしてしまったのではありませんか」

「とんでもない。ささ、こちらへどうぞ」

 堂の中央に座を用意し、二人がそこに座ると、張真人は宝燈の頭に手をやって何やら呪文を唱えます。すると、不思議そうに目を見開いて、彼に尋ねました。

「殿下、一つお聞きしてもよろしいですかな」

「何なりと」

「今しがた、殿下の纏われている気を調べる為、一つ呪文を唱え申し上げましたが、只ならぬものを感じまする」

「なんと」

「この堂に間になられた時から、ごく弱いものではありますが、清らかにして不可思議なる気配を覚えましたが、今それは益々強うなっておりまする」

「……」

「何か、心当たりでもございませぬか」

 張真人の問いに、思い当たる節があったのか、宝燈は答えます。

「実はこの佩玉を、夢中にて先太子殿下より賜りまして御座います」

 そう言って彼が懐からあの佩玉を出して張真人に手渡すと、張真人はひどく驚き、震える声で言うには、

「なるほど、これはまことに霊妙な力を持っておる様です。恐らくは、幾千年の長きに渡り、霊山にて万物の精気を浴びて非常に強い力を宿し、この世に至って掘り出され、人界に流れ着いたので御座いましょう」

「その様な、大変な宝物であるとは存じませなんだ」

「いやはや、仕方の無いことにござる。どうやらこの宝玉は、長きに渡って紅塵に染まり、また供養されぬままこの世に留まられた先の持ち主の怨みを受けて、すっかり神通力を弱めております。しかしながら、全く失われるには至っておりませなんだので、今一度まじないにて俗世の気を抜いてやり、石を清めてやれば忽ち元の如き力を取り戻し、殿下の身を確かに守ることができましょうぞ」

「では、どうかお願い致します」

「では、恐れながら」

 張真人は宝燈から宝玉を受け取ると、片手を翳して呪文を唱え、穢れを祓い気を送り込みます。すると、俄に玉が光を放ち始め、どんどんと眩しくなっていきます。そして、あまりの光に二人が目を閉じてしまった時、

「終わりましたぞ」

 張真人が言いました。恐る恐る目を開けると、なんと言うことでしょうか、ついさっきまではどこかくすんだ印象であった宝玉が、今では五色の光を放つ透き通った見事な姿へ変わっています。

「なんと、これがあの宝玉の真の姿でしたか」

「お手にとって、よくご覧下さいませ」

 不思議なことに、光り輝く宝玉の片面には先程までは無かった「破邪顕正」、そしてもう片方には「至誠通天」と古い文字が刻まれていました。

「これは、せんせい、貴方が刻まれたものですか?」

「いいえ、此方は元より宝玉の内に秘められていたもの、思うに、先の太子様が殿下に対し、この様に生きられよと仰せなのではありませんか」

 夢の中で、阿弥陀仏の後光を受けながら自身に話しかけた太子の姿を思い起こし、宝燈はなんとも不思議なことだと感嘆を禁じ得ません。

「この宝玉は、今や神通力を取り戻しました。ですが、長い間世俗の栄華に触れますと、いずれまた曇ってしまうことでしょう。その時は、一度斎戒沐浴され、三日三晩宗廟にてこの宝玉に経を上げられませ。勿論その間、肉食や淫蕩、或いは金銭や利得にまつわることとは縁をお切り遊ばし、その時だけは自らを出家した者としてお祈り下さいませ。さすれば、一度曇った宝玉はすぐに輝きを取り戻し、殿下を危難よりお守りするでしょう」

「まことに、お礼の言葉もございませぬ」

 その後、張真人はごく簡単に災難を祓う法を二人に授け、またいざという時の為の護符を四人分書いて渡します。これで単なる悪霊程度ならば、簡単に退けられよう、と彼は二人に告げ、お布施も取らぬままに山門へまた案内をさせました。

 そして、最後に二人が出て行こうとした時、

「お待ち下さいませ、此方我が師より預かりまして、殿下にお渡しせよとの仰せにござります」

 二人の見送りに出て来た若い道士が、懐から包みを取り出して宝燈へ渡します。

「張老爺が?なんだろう…」

 開けてみると、中には見事な赤色の腰帯が入っています。

「こ、此方はなんでしょうか!?この様な見事な品を頂く道理は…」

「我が師によりますと、それは茜香羅と申しまして、西域の国の女王が殿下の父祖たる昭王様に献上したもの。そして、我が師がそのご子孫たる殿下のお祖父様と、義兄弟の契りを結ぶ際に賜ったとのことです。なんでも、暑い日に締めれば忽ちのうちに体は涼を得て、また汗も引いて良い香りが漂うとか」

「しかし、これは元来祖父が老爺にお与えになったもの。そんな大切な品を、子孫の小王が奪うわけには…」

「『かつて先々代の江夏王様から恩顧を受けた小道のもとに、再び江夏王様が、あの様な宝玉を携えておいで下さった。これもまた、何かの結縁と存じ、今ここに累代の宝物をお返し申し上げる』と。ですからどうか、お受け取り願います」

「…では、その様な仕儀ならば。ありがたくお受け取り致します。何卒、張老爺には厚く御礼を申し上げておいて下さい」

 こうして二人は道観を出て邸に戻り、肝試しの準備を整えます。その間如何にして王尚父を誤魔化すかという密かな戦いがあったのですが、これは述べるには値しないでしょう。一先ずは肝試しの日、二人が件の廃宿に辿り着いたところからお話を再開致します。


 その日、宝燈と韋黯は二人轡を並べて都を出て、しばし馬を街道に沿って走らせました。すると、ややあって鬱蒼とした竹林が現れ、それを抜けた程近くに酷く荒れ果てた宿屋の建物が見えます。

 二階建ての建物は、あちこちに穴が開き、木の柱には虫が食い、直ぐ側には吊り下げられていたであろう提灯の残骸が転がっていました。

「あれか」

「の様ですな」

 二人が示し合わせて建物に近づくと、おうい、いらっしゃったぞ!と声が聞こえて、中から趙生員と馮六郎が出てきます。二人とも先に赴いて、あれこれと支度をしていた様でした。

「賈殿、まさか本当にお出で頂けるとは」

「光玉と呼んで構わない。こちらが横柄というのに、其方だけ礼を尽くさせるのも良くないから」

 にこやかにそう言って、宝燈は馬を降ります。そして韋黯を振り返り、

「些少ながら、肉と酒を用意致した。酒はいずれ劣らぬ名酒でござれば、お二人に」

「いやいや、これは有難い。今夜は、共に飲み明かしましょうぞ」

 と、そのようにして四人は建物へ入り、一階の恐らくは広間であったろう場所に溜まりました。

「二階は床が腐っております故、危のうございます。一階のこの部屋にて過ごしましょう」

「ちなみに、趙殿が女に遭遇したというのはどの部屋なのですか?」

「…恥ずかしながら、失念をしまして…」

「「「………」」」

 このような次第ではありましたが、一先ず四人は日が暮れるまでゆるりと過ごし、それぞれ持ち込んだ骨牌や馬弔トランプ象棋シャンチーなどをして遊びます。

 先に述べた通り、こうしたお遊びでは宝燈が頭抜けておりますから、凡そ何を戦っても彼が勝ちます。最初はこの御曹司に良い思いをさせてやろう、という腹づもりで相手をしていた二人も、そのうち腹に据えかねて本気で戦ってはみますが、ものの見事に打ち負かされてしまい、言葉もありません。

 しかしながら、宝燈が強いのはあくまで盤面の上だけの話で、参加者同士の駆け引きが必要な遊戯ゲームになるとてんで弱くなってしまいます。

 特に、幾銭かの小銭を賭けて双六などが始まると、彼は忽ちのうちに負け始め、最終的には百銭ほどまで積み重ねてしまいました。場慣れした韋黯が介入し、賭博を取り下げさせたから良いものを、彼が居なければ宝燈は少からぬ銀子を損したことでしょう。とは申しましても、これは決して本道の話ではございませんから、途中で打ち切ることにしまして、夜半へと時を送ります。


 さて、夜半になると遊びは今度は酒と肴をつまむ酒宴へと変わって行きます。まずはそれぞれ酒杯を掲げて乾杯し、その後は酒令を交えた宴へと入ります。

 と言っても、年若い人が多い上場所が場所ですから、あまり難しいものが出されるでもなく、上手くいかずとも大量の罰杯を課せられるでもなく、和やかなうちに進みます。

 そして、それぞれ皆酒や食べ物をお腹いっぱい口にし、誰からともかく眠りについてしまいました。宝燈も無意識のうちにのそのそと寝転がってすやすやと寝息を立て始め、その隣に寄り添う様に韋黯も眠ります。

 他の二人も気が付かぬうちに目を閉じ、いびきをかいてうつ伏せになったり仰向けになったりして臥し、いつの間にか部屋は静寂に包まれました。

 夜更け。草木も眠る丑三つ時のことです。

「ん…んんぅ?」

 ふと宝燈は暗闇で目を開けると、辺りを見回しました。穴だらけの障子戸の前には、そこを塞ぐ様にして韋黯が眠っていて、趙と馮は二人とも隅の方でいびきをかいています。

「(お茶を飲みすぎたからかな…こんな時間に目を覚ましてしまったし…でも、一人ではばかりに行くのも怖い…)」

 仕方ない、韋黯を起こそう。起こしてついてきてもらおう、そう思って彼の元へ行こうとした時。

 ぎしり。

「…?」

 ぎしり、ぎしり。

「(足音っ…!)」

 慌てて口を抑えて息を殺し、障子戸を伺うとゆらりと不気味な影が月明かりに照らされて浮かびます。浮かんだ影は、ボサボサの長く伸びた髪の毛に不自然に折れ曲がった首を映し出していて、その様はかつて聞いた件の幽霊そのものです。

「………」

 わずかに涙さえ浮かべつつも、彼はひたすら幽霊が去るのを待とうとしていました。どうか、部屋に入ってきてくれるな。そう願っていました。しかし…

「ひひひ…」

 喉の奥から搾り出す様な笑い声と共に、さささと障子が開くと、見るも悍ましい姿の幽霊が中へ入ってきたのです!

 髪は振り乱されてシラミだらけ、首はあらぬ方向に折れ曲がり、口からはタラタラと血混じりの涎が垂れる。そして目の球は首を括ったからか半ば飛び出てあらぬ方向を見つめている。

 そんな異形を目にした宝燈の心中は、言葉ではとても書き表せません。

「ひひ、あら、ようやっとおいでになられましたか。懐かしや、わたくしがどれほどの思いで、ここで待っていたとお思いでしょうか…」

 異形はニタリと韋黯を見て笑い、その上に跨って顔をとっくりと見ようと首を伸ばします。一方宝燈は、恐怖の洪水から泳ぎ出て義弟を救おうとしますが、金縛りのせいか満足に体が動きません。

「…さあ、ようやっと一緒になれます…さあ、さぁ…」

 そして、韋黯の首に血の気が無い腕がかけられたその時、

「ふざけるな!!」

 宝燈の金縛りが解け、そのまま彼は信じられない速さで側の宝剣の鞘を払い、韋黯の上に跨る女を斬りつけました!

「ぎゃあ!」

 その悲鳴で韋黯、趙、馮の三人も目を覚まし、部屋の中に幽霊の女が入り込んできたことを悟ります。

「賢弟、早くこっちへ!」

 宝燈に言われるまま彼は起き上がり、護身の護符を巻きつけた剣を抜き放って構えました。他方斬り付けられた女は、宝燈が帯びている清らかな気に押されて飛び退き、真っ黒な血を滴らせながら恨めしげな眼光を向けてきます。

「おのれ、これはいかなる次第にござりまするか。貴方様をお待ち申していましたのに」

「本当は其方とて分かっていようが。お前の待ち人は永久に来ぬと!」

「嘘をお言いでないよ。あの方は約束して下さったの、状元に及第をして、妾を迎えて下さると。宿の娘から、立派な士大夫の内儀にして下さるって」

「…幾年待たれたのか。百年、いやそれ以上か。今や帝も代わり、世は移ろい、其方の生きた時代を知る者は誰一人としておらんのだ。なのに何故、この様に今の世にしがみつくのじゃ」

「男に何が分かる!!」

 女は宝燈に向けて叫びます。怨みと怒り、そしてなお捨てられぬ愛情のこもった凄絶な叫びは、同じ心に覚えがある彼の心を貫きました。

「お前達はいつもそうだ。女の心など気にも留めず、木が古い花を振り落とす様に切り捨てる!お前達は知るまい、お前達と言う古木が季節ごとに捨てる牡丹の花一人一人が、生涯をかけて咲いたお前の為の花だと言うのに!」

「……確かにそうだ。男女の道を木に例えるのなら、男は幹で女は花だ。男は年月を経るごとにより大きく、より栄達するというのに、女は一時の美しさに己の全てを賭けねばならない。例えそれが、必ず失われる様な、一炊の夢であったとしても」

「何よ、お前は、お前は…」

 宝燈は剣を収め、ゆったりと女に近寄って声をかけます。

「殿下、危のう…!」

「口を挟むな賢弟!…今だけは、今だけは何も言ってくれるな」

 そう言うと彼は、いえ、彼女は歩を進めてまた言葉を紡ぎました。

「…寡人の名前は、李宝燈と言う。だが、あなたになら、寡人がどんな人間なのか分かるのではないか」

 その目線は真っ直ぐに伸び、あの見るも無惨な姿から逸れることもありません。そして、女の表情は不審から驚きへ、驚きから信じられぬと言ったものへと移り変わっていきます。

「そんな、そんな、お前は…お前は…」

「…突然押しかけてしまったこと、剣を抜いて斬りつけてしまったこと、お詫びのしようも無い。だが、一つだけ。…お前は今は一人ではない、寡人にもお前の気持ちが、千に一つくらいは分かる…と思う」

「あぁ、あぁ…貴方様は…貴方様は…」

 宝燈の指先が、控えめに差し出された女のそれに触れると、ぽわ、と言う音と共に蛍の様な光が満ちていきます。

「…分かっておりました、ええ、分かっておりました…。もうあの方はこの世にはいらっしゃらない、絶対に結ばれぬことは無いのだと…」

「…そう諦められるな。もしも、宿世からの途切れぬ縁があるのなら…またいずれ、愛し人に会う機会も巡ってこよう」

 そして、一際眩しい光が辺りを真っ白に染め上げ、何も見えなくなります。

「殿下!」

 韋黯が叫ぶと、光は収まってゆき、また元の暗い部屋が戻ってきます。そして、ただそこには、双眸から涙の流れを落とす宝燈が、黙然と立っているだけでした。


 さて、翌日の夜のこと。無事邸に帰り着いた二人は、張真人から事情を聞いたのか王尚父にたっぷりとお小言を賜り、めちゃくちゃに絞られた後、いつもの様に庭を眺めつつ団欒のひと時を過ごしていました。

 宝燈の腰帯はあの日張真人から返却された茜紅羅の帯で、確かにその言葉の通りひどく蒸し暑い熱気の中でも、彼は汗一つかいておらず、部屋の中はなんとも言えぬ馥郁とした香りに包まれていました。

「趙と馮の二人は、無事に帰り着けただろうか」

「ご心配無く。今しがた、この通り手紙が届きました。皇室に連なる郡王殿下とは知らず、数々のご無礼平にご容赦をと」

「何、無理に願いを聞いてもらったのは寡人だからな。彼らにはよくよく礼を申さねばなるまい。明日誰ぞに命じて、涼となる物でも贈らせよう」

「二人も喜びましょう…ところで」

「何だ?」

「昨夜、殿下はよくあの幽霊を恐れずに行けましたな。…正直、気が気ではありませんでした」

「あ、あぁ、そのことか!…その、まあ徒らに恐れるのもどうかと思ってな!」

「それに、何やらお気持ちがわかるとか…」

「う、そ、それは…」

 宝燈は、ついにバレてしまったか、と内心穏やかではありません。今まで彼には隠し通してきたことです、今さら長い嘘が露見して、嫌われたくはないのでした。

 しかし、一方で心の奥底には、いっそ溢れ出る思いのままに動いてしまえ、と言う声もあるのです。その方から見れば、寧ろこの危機は長い間の重さを除く良い機会ではないか、とさえ思われるのでした。

 いずれにしても、鼓動は早鐘を打ち、白皙の頬は薄赤色に染まり、もじもじと視線を向けながら韋黯が何を言わんとするのかを待っています。そして…

「さては殿下…」

「う、うん…」

「恋をして、フラレでもしましたか!」

 べちん、という可愛らしい音ではありません。ごすん、という鈍い音が響き、続いて何かが倒れる音が…。

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