第十回 冷夏

 「なあ、賢弟」

「はい、殿下」

「…夏の盛りに都に残るなど、自殺行為ではないか」

「だからこそ、天子様も離宮にお移りあそばしたのでしょうね」

 六月の初旬、都はいよいよ凄まじい暑さに包まれていました。地面からは延々陽炎が立ち上り、喧しく鳴く蝉さえも気温のせいかロクな姿を見せません。王府の庭の池の水も、冷たいというよりは温くなっており、水中には藻が大量に生えています。

「偶に降る雨も、なんというか冷たくない。とても生ぬるいのだ」

「その割には沐浴はお湯でなさるのですね」

「それとこれとは話が違う…のだが。まあ確かに、冷水に丸ごと浸かってしまいたい気分だのう」

 宝燈はふよんふよんと頭を揺らし、そばの茶碗をとって中身を口に含みました。頬は相変わらず上気していて、ぼんやりしているのか知恵も働いている様には見えません。

「そうですなぁ…」

 どうにかしなくては。韋黯は顎に手を当ててしばらく思案すると、そうだ、と手を叩きました。

「殿下、一つ面白い話がありますよ」

「何だ」

「怪談です」

「か、怪談?」

 宝燈の顔が少し青くなります。彼は太子の一件以来幽霊だとかそういうものを地味に恐れる様になっていました。

「これは、私の友人で蘇州の生員の趙という男が、この度めでたく歳貢に選ばれて都に登ってきた時に、私に聞かせてくれた話です」

「ほう?」

「趙が蘇州から長安へ登る途中、ここから二十里離れた先の村で宿を求めたのですが、そこの主人が言ったそうです。『実はこの近くに打ち捨てられた宿屋の建物がありますが、そこには幽霊が出るという噂です』と」

「ふむ」

「如何なる由来が、と問うてみると、『大昔の武徳年間の頃、科挙を受ける為都に登ってきた一人の見目麗しい生員があって、彼がその宿屋に嵐か何かで一週間ほど泊まり込むことになった。そして、その生員に宿屋の娘が惚れ込んでしまい、誘われるままに雲雨の情を交わした…』」

「階段ではなくて猥談がしたいのかお前は」

「いえいえ、違います。『そして、生員は『きっと会試に受かって進士となり、お前を妻として迎えるから』と約束し、涙で袖を濡らしつつ宿屋を出て行った。しかし彼は…』」

「落ちたんだな」

「はい。『彼は会試に落ちてしまった。郷里の人にも、娘にも合わす顔が無いと恥に苛まれた彼は、悩み苦しんだ末に河水に身を投げたのです。そして、それを知らぬ娘はいつまでも待ち続け、ついに待ちぼうけの末に首を括って死んでしまった…』と、ここまでが前振りです」

「長い!」

「まあまあ…。そして、その話を聞いた趙は妙な興味を起こし、夜半密かに村を出て付き人と共に二人でその廃屋へ向かったそうです。ここで一晩明かし、幽霊を打ち負かすことが出来たなら、きっと試験にも打ち勝てようとそういう思案です。そして、廃屋の蜘蛛の巣が張る部屋に入り、布団を敷いて眠ろうとした…」

「すると?」

「丑三つ時の頃、きしり、きしりと床を踏む音。誰だろうと思えば、燈明の灯りで長く伸びた女の影がある。そして、女の口がぶつぶつと動き、『子服様、子服様、お戻りになってくださいましたねぇ、子服様、子服様…』。がばと起き上がろうとしても、体が動かない。そして、すすすと戸が開くと、そこにいたのは…」

「そこにいたのは…」

 韋黯は息を吸い、宝燈が引き込まれたと見るやカッと目を見開いて、

「首は縄で伸び切り、眼球は半ば飛び出し、口からだらだらと涎を垂らした女の幽霊だったのです!」

「ひっ…」

「女は趙の上にのしかかり、顔をずいと近づけて、はあはあと息を吐いた、すると、『コイツジャナァァァァ!』」

「きゃああっ!」

「ガッと首を掴んでギリギリと締め上げ始める!『が、あ、っ』と苦しみながらも、趙が手元の剣の鞘を払って虚空を切り裂くと、女はフッと消える。…彼は、すぐに眠りこけていた付き人を起こして宿屋から逃げ、翌日息を切らして長安に入ってきた…とこういう話なんですが…」

「ほ、ほほう、そそ、そうか…」

 気丈を装ってはいますが、彼の体はカタカタと震えています。持っている茶碗の中身には波紋が立ち、身に付けた佩玉の金具が音を立てていました。

「如何ですか?涼しくなりましたか?」

「ま、まあまあだのう。な、何もせぬよりは良いだろうが…と、ところで賢弟、包子が欲しくないか?蒸したてのやつ」

「要りませんよ、暑いんだから」

「む、むむむぅ…そ、それでだ。趙という男はどうしているのだ?生きておるのか?」

「この話自体がひと月ばかり前の話ですから、もちろんそりゃ生きてます。というか、これから会いに行くところですよ」

「何?それはどういう用事だ」

「…聞きたいですか?」

「……いや、やっぱりやめー」

「廃宿に行くんです、友人と三人で!」

 返事は言葉ではありませんでした。一秒後、凄まじい速度の平手打ちが彼の頬に炸裂し、小気味良い音を立てたのです。


 「お前は一体何を考えているんだ大馬鹿者め!」

「だからといってひっ叩く必要は無いじゃないですか…」

 少し後、長安の南の方を目指して、二人は喧騒の中を歩いていました。

「というか、殿下がなんで付いて来てるのか未だに分からないんですけど。怖い話して半泣きで私を叩いて出て行ったかと思ったら、急に質素な服に着替えて付いてくるなんて」

「寡人も、未だにお前の目的がよく理解できんな。ここまでに詳しい説明を聞いたが、本当に大馬鹿者としか感想が出てこぬわ」

「…さては殿下。怖い話を聞いてお一人になるのが」

「もう一発、今度は拳を喰らいたいか?」

「いいえ、失礼しました」

 宝燈は、普段の絢爛豪華な服装から、質素な着流の様な服装に改め、冠も何処にでもいる若い士大夫のような地味なものにしています。

「で、結局のところ何がなさりたいのですか」

「お前の友人達を説き伏せて愚行を止めさせようというのだ、寡人は」

「やっぱり夜一人は怖いから行かないでほしい、でも怖いもの見たさがちょっとある、とそういうわけですか」

「…ふん!」

「あいたァ!なんで踏みつけるんですか!?」

「大きい油虫が地面を這っていたのでな」

「それは私の足が泥で汚れただけです!」

 と、いつも通りのやり取りをしつつ行くと、二人は待ち合わせ場所に決められた酒楼のある坊まで辿り着きました。

 辺りには雑然と建物が立ち並び、元の整然とした区画の面影は全くありません。路はそれこそ車や駕籠が難渋する程に狭苦しく、中には人一人通ることができるかさえも怪しい隙間もありました。

「気を付けてくださいね、この辺りは特に治安が悪いですから」

「う、うむ」

 長安という街は、人口が増えるにつれて段々と昔の秩序を失い、今や城の城壁もさして意味を持たなくなった、とは前に申し上げましたが、特に南の方は城の中から既に秩序というものが無くなっています。こうした複雑怪奇な市街地には、高密度で小さな建物がひしめき合い、中の下から下の下まで実に多彩な人々が暮らしています。

 こうした下町は韋黯にとっては慣れた場所でしたが、都の東北という最も高貴な場所に住まう宝燈にとっては全く未知の世界です。付き人兼護衛たる彼が気を揉むのは当たり前のことでした。

「酒楼というのは、あれのことか」

「ええ、そこの二階で待ち合わせをしているんです」

 二人は通りに面した古ぼけた一軒の酒楼に足を踏み入れました。中は埃っぽく、無造作に卓が並べられていて、数名の酔漢のんだくれが管を巻くか突っ伏しています。

「へい、いらっしゃいまし…おお、こりゃ韋四郎の旦那じゃあありませんか。お久しぶりでさ」

「待ち合わせなんだが、趙と馮が来ていないか」

「へい、お二人なら、お二階でお待ちですよ。お連れ様もご案内しやしょう」

「殿下、後は打ち合わせの通りに」

「…分かっている」

 店主に案内されて階段を登ると、そこは一回よりは幾分かマシな形に整えられています。開け放たれた窓からは日差しが入り、足を動かすと宙を舞う埃の中を光の槍となって貫き通しました。

「おう、遅いぞ兄弟!」

「随分と待ったぜ俺たちゃよう」

「いやあ、悪かった」

 韋黯は席に座って待っていた二人の男、ー蘇州の生員趙政、字を義山、かたや涼州の知県の六男馮尚、字を恵達ーは親しげに韋黯に笑いかけ、立ち上がって肩を組みました。

「で、お前さん相変わらず科挙には落ちたのか」

「遂にお前にも先を越されっちまったな、趙」

「おうともさ、俺はじきに員外なんかじゃあねえ、本当の京県尉になってやるぜ」

「行ったところで龍禁尉だろ、お前さんは」

 馮尚と韋黯がゲラゲラ笑うと、趙は顔を赤くして盃を干します。その様子を宝燈は少し羨ましげに見つめていました。

「(そういえば、寡人には同年の友人などおらなんだ。…同格の友誼を持つのも、韋黯一人きりだし…)」

 そう寂しさに浸っていると、趙政と馮尚が彼の存在に気が付き、物珍しげに見つめて言いました。

「なあ、兄弟。お前さんの連れだが、あの綺麗な方は何処からお連れなさったんだ?」

「顔つきもそうだが、所作やら雰囲気やらが明らかにここら辺には不釣り合いだ。どこのやんごとなき人なんだ?」

 そう問われると、韋黯は予定の通りに答えます。

「あー、この方は俺の父上のご縁で知己になった人で、さる貴族の御子息だ。今回、例の肝試しの話を申し上げたら、殊の外興味を示されてな。こうしてお連れ申し上げたというわけだ」

「ええと…金稜応天府、寧国公の縁に連なる者で賈宝善、字を光玉と申します。この度は、約束も無く押しかけてしまい、誠に申し訳ありませんでした」

 ほんの僅かな申し訳なさを滲ませて宝燈が頭を下げると、その美しさと愛らしさに二人は魂を抜かれた様にぽーっとなってしまいます。

「とまあ、そういう訳なんだ。ひとつ、話を聞かせてやってはくれまいか」

「あ、ああいいとも!それじゃ、賈殿、お席へどうぞ!」

「ありがとうございます」

「いやいや、身分の高いお人が敬語など。もっとぞんざいで宜しいのですよ」

「そ、そうですか。では…コホン、ありがたく。よろしくお願いする」

 

 さて、席に着いた四人は、適当に食事を摘みつつ、趙政の話を聞きます。彼の話は大体が韋黯が宝燈に語って聞かせたものと同じでしたが、やはり実際に見た者の話というのは、実感がこもっていて恐ろしさもひとしおというものです。

 特に話の最後、彼が実際に首を絞められた証として、生々しく残った二つの手の痕を見せると、宝燈は話が本当であると実感し、再び恐ろしさで震えました。

「それで、この度例の女幽霊を祓ってやろうとこういう訳なのですよ」

「ど、どういうわけなのだそれは!」

 話が終わった後、趙政がそう結ぶと、宝燈は話の繋がりがわからぬとばかりに言いました。どうしてよりにもよって、態々死地に飛び込もうというのか、という非難の意志がこもっています。

「いやいや、天下の大丈夫たるもの、女の幽霊に負けたとあっては名前が廃ります故、なんとか取り戻したいとそう考えているのです」

「この男、最初は震えていたくせに、喉元過ぎたと見えて、後になれば空元気を出してあんな女幽霊などなんぼのものじゃ、と息巻いていたのです」

「で、その因果で俺がこんな話に付き合わされる羽目になったのですよ」

 あっはっは、と三人で笑い合う若者達でしたが、一方で一番若い者にとっては気が気ではありません。彼は内心穏やかでないどころか、動揺を隠すのに必死でした。

「(話自体も恐ろしいが、そんなところに賢弟が行く方がもっと恐ろしい。絶対に行かせたくはないが、かと言ってそれで賢弟の名誉が傷ついたり、芳友との仲を損ねたりするのも…)」

 王世子の頃ならば、我が儘を押し通すまでぎゃあぎゃあと叫んでいたでしょうが、彼は郡王になってからは多少の分別が付く様になっていました。しかし、その所為で韋黯を引き留めるのに却って躊躇いが生まれてしまうのです。

「な、なあ韋四郎さん。ちょっといいかい?」

「は、はい?」

 宝燈は小さく彼の袖を引っ張り、二人から見えない位置まで連れて行きました。そして、耳元で囁きます。

「おい、聞いてないぞ。これ、本当にまずい話じゃないのか」

「正直言って、私もそう思います」

「じゃあ何で断らないんだ」

「断れませんよ、今更。今まで何度も止めて、寧ろ言うごとに頑なになってしまったんですから」

「…お前、ちょっとした軽い気持ちで命を捨てようとするなら、寡人は承知せんぞ。邸に閉じ込めてでもやめさせてやろうか?」

「いやいや…違いますって。確かに付き合いもありますけど、何より友達が危ないところに行こうとしてるのを、指咥えて見てられませんよ。連れ戻せないならせめて…」

「むぅ…」

 韋黯が今までに友人と交わしたやりとりを詳しく話すと、不承不承宝燈は納得した様に頷きます。

「(止められた分だけ止まらなくなる、か。男というのは難儀な生き物だな)」

 内心そう思った彼ですが、決して口に出しはしません。一段と誇り高い士大夫のこと、臆病と見られるのがどれだけ屈辱的か理解できないこともありませんし、止められないならせめて共に行こうとする韋黯の義侠心は多少好ましくも思えます。

「仕方ないな、では寡人にも考えがある故、好きにさせてもらう」

「え?」

 言い捨てて先に戻ると、韋黯も慌てて後を追います。

「おかえりなさいませ」

「すまない、少し身内の話があってな」

「それで、どうするんだね」

「三日後の満月の夜に、廃宿に三人で泊まる。付き人は外で待たせておいて、中にいるのは俺達だけだ」

「う、うーん…」

「どうした兄弟、妙に煮え切らないな」

 韋黯がちらちらと自分の方を窺ってくる視線を悟った宝燈は、彼が先程のやりとりで葛藤しているのを悟ります。

「(怖がってるわけでもなく、寡人が為に躊躇っているのか)…分かった」

「ん?どうかなさって…」

「寡人も行こう」

「はい!?」

 この申し出は、彼以外の三人をして大いに驚かせました。韋黯は元より、趙政と馮尚も、信じられないとばかりに目を丸くしています。

「えっと、その、賈殿はどういった御心で…」

「この隣の韋黯は、寡人にとって大切な友人なのだ。万一のことがあっては困る。かといって、此奴の義侠心を否定して、君達から離してしまうのもそれはそれで角が立つ。というわけで、寡人が一緒についていくのが一番いいと思ったのだ」

 にこり、と告げるその横顔を、韋黯が驚きと複雑な顔で見つめています。今すぐ彼は主人を裏へ連れ込んで諌め倒したいところでしたが、先程自分が述べた理屈をそのまま使われていること、自分自身も危険に飛び込もうとした主人に対する後ろめたさがあることから、諌めることもできません。

「あ、あのですね、ちょっと…」

「さ、話を進めよう。三日後だったな?」

「え、ええ。ですが…」

「案ずるな、しっかりと手を打つから」

 そう言って彼は強引に話を進め、遂に同行することを承知させてしまいます。

 果たして、一行はどの様な目に遭うのでしょうか。続きは次回にて

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る