第九回 示現
清明の宴からひと月ほど過ぎた小満の頃。都はすっかり夏の暑さに包まれていました。庭の花は短い栄華の時を終えて緑色の葉に主役を譲り、蛙をはじめとした生き物達が顔を出してあちこちを駆け回っています。
一方江夏王府では…。
「ぁぁぁ暑い!」
風通しの良い広間に寝転がって宝燈が叫びました。彼の服装は夏用の涼しげなものですが、中の身体が透けぬ様に多少布地が厚くなっています。
「はしたないですよ、殿下」
「…お前はいいのう、身分だとか仕事だとかにとらわれぬ自由人で」
「まさか、私は年中無休でお仕事をしているじゃありませんか」
韋黯は扇で自分を仰ぐと、大きな茶碗に注がれた冷茶をぐいとあおりました。その様を見て宝燈は赤くなった白皙の頬を更に赤くして、悠々としている様子の膝に無理やり頭を載せます。
「うわ、ちょっと殿下!」
「うるさい少し貸せ」
「暑いので嫌です」
抗議の声を聞き流し、彼はそのまま目を閉じてしまいます。もはや昼寝をしてしまおうという肚を隠すつもりも無いようで、彼はごろんごろんと体を転がしました。
「というか、暑くないんですか」
「暑い。だが、お前がすましていることの方が気に入らんのでなぁ」
「退いて下さい」
「あー、こら!こめかみの髪を引っ張るな!」
「お昼寝にはまだ早うございますよ!」
「うるさいうるさーい!仕事ばかりでもう嫌なんだー!」
ばたばたと暴れた後、さらに体温が上がったのかぐったりと宝燈は身体の力を抜きました。流石に心配になったのか、韋黯が茶を口元に持っていくと、手首ごと引っ掴んで飲み始めます。
「ぷは…夏場は本当に困る。元来仕事が多い上に、今年はまた別のものも入っているからな」
「前太子様の件ですか」
「左様。仮法要は済ませたが、盆に合わせてしっかりとした弔いをして差し上げたい。それで、今然るべき寺や道観に話を持って行ってはいるが…」
「いるが?何です?」
「あやつら、全く腰抜けよ。累は及ぼさぬ、布施は欲しいだけ包むと申しているのに、前太子様の件と知ると途端に門を閉じて逃げおる」
「あまり手広くお声をかけられるのも良くないと思われますが…」
「なんの、今更恐れることなど無いわ。今度は、ダメ元で張真人にも声を掛けてみよう」
「太清観のあの方ですか。確かに尊いお方ではいらっしゃいますが…」
「殿下、王大夫が御目通りを願っております」
「通せ」
服装も折り目正しく中に入ってきた王猛は、宝燈のだらしない態度を見て呆れ返り、頭を押さえて言いました。
「殿下、郡王ともあろうお方がそのような…」
「お説教はよいから。何用だ」
「…御命を賜りまして、左京の願寿寺の和尚に供養のお頼みを申し上げました」
「で、どうだった」
「布施白銀五百両と申しましても、やはり受けられはせぬと」
「千五百両とは申さなんだか」
「殿下、銭に塗れた法要など、先太子様もお喜びにはなりますまい」
「む…確かに仕方がないのう。どうするべきか…」
「…宜しいですか、殿下」
「ん、賢弟?」
「いっそ、品位や伝統に拘らず、真心から弔いを上げてくださる方を探しましょう。それこそ、高い布施や志納、浄財を求める高僧や道人などではなく、一銭、一杓の米も求めずに志にて来てくださる方にこそ、喜捨する価値もありましょう」
「なるほどのう。確かに、お前が申すのも一理ある」
宝燈は起き上がると王猛に対し、探し方を変えて品階ではなく志高き者を連れてくる様にと命じます。命を受けた老人が出ていくと、彼は義弟に向けて顰め面で言いました。
「尤も、百万千万の人が住むこの街だ。京師都城百里の中に、何人道人仏僧がいるか判ったものではないがな」
その後、宝燈と韋黯は宗廟に詣で、ご先祖様と先の太子の位牌に手を合わせ、線香と経をあげました。
「如是我聞 一時佛 在舍衛國 祇樹給孤獨園 與大比丘衆 千二百五十人倶 皆是大阿羅漢 衆所知識 長老舍利弗…」
彼の読経の様は若いながらも堂に入っており、読み違えや詰まることもなく最後まですらすらと読み切ってしまいます。そして、読み終えた後再び二人で手を合わせ、祖先に敬意を表すと共に太子の往生を願い申し上げました。
宝燈と韋黯は、例の清明節の日から日毎欠かさずこの習慣を続けています。中々法要先を見つけて差し上げられないことへのお詫びのつもりか、その様子に投げやりなところは無く、常に真摯でした。
さて、例のことどもが済むと、二人はまた母屋に戻るのですが、やはり暑気には耐え難くまたぶうぶうと年少の義兄が文句を漏らしはじめます。耐えかねた韋黯は大きくため息を吐いて、
「では、気晴らしにお出かけになりますか。川にでも遊びに行かれれば、多少は涼しくなるのではないかと」
子供を嗜める様な口調です。普通ならば、彼がかなりの皮肉を込めてそう言っていることに気がつくかも知れません。しかし、宝燈の反応は…
「よく言った!行こう、馬を引いて来い!」
目を輝かせ、にこにこと笑いながら外へ走り出て行きます。
「おいおい嘘だろ…?」
藪から蛇をつつき出したか、と言った顔つきで韋黯は顔を抑え、小さく呻き声を上げました。
汗だくの服を着替えて馬に乗った二人は、特に当てがあるわけでもなく京都の外を目指しました。じりじりと照りつける日差しと、辺り一面を包み込むむわりとした湿気が、ねばねばと体に纏わり付いてきます。
元来長安の街は盆地にあり、その為に夏は熱がこもって百万人の民草は皆暑さに苦しむのですが、今年はどうも常軌を逸しているようでした。
「のう、賢弟。知っておるか」
「…何ですか」
「聖上はな、洛陽まで行幸あそばすおつもりのようだ」
「はあ…」
「…狡いとは思わぬか?寡人達はお許し無く都から離れられぬと言うのに」
「殿下、不敬ですよ」
「不敬なものか。こんな、暑さ…まともな者ならすっ倒れておる」
既に腰に下げた水筒は空になっていて、何処かの井戸で汲みたいと思ってはいても、中々清水のある場所は見つかりません。
「ここにはありませんが、確か地方には氷室というものがあると聞きますな。冬の雪をとっておいて、夏に使うとか」
「なにぃ、そんなよいものがあるのか…。是非あやかりたいものだな」
「この夏場には、宝玉よりも貴重と聞きますが」
「構わん…なんとか、手に入れ…」
「殿下!?」
あまりの暑さに宝燈は馬上で体勢を崩し、危うく落馬しそうになります。これではとても京都の外に出るなど覚束きません。何処かで水を飲ませ、身体を冷やさなくては、と韋黯が彼の身体を押さえつつ見回すと、小さな民家の中に、ふと荒れ果てた仏寺の門が目に入ります。
「殿下、殿下。あそこのお寺の軒先をお借りしましょう」
「う、ううん…」
韋黯は力を振り絞って、宝燈とその馬を操って門を潜らせ、その後は馬からおろし、自らおぶって茅葺の本堂の前まで行きました。
「どなたか、いらっしゃいませぬか。私は江夏王の配下にて、韋黯と申す者!たった今、門前にて郡王殿下が暑気に当てられ、お倒れになり申した。もし宜しければ、軒先をお借りしたく存じます!」
すると、茅葺の本堂から穴だらけの袈裟に泥で汚れ、擦り切れた衣を纏った、見るも見窄らしい長い髭の老僧が裸足で出てきました。
「おお、これはこれは、江夏王様とは。これは一大事にござる、直ちにお水と手ぬぐいをご用意致します故に、本堂にお入りあれ」
「ご門跡様でいらっしゃいますか」
「ご門跡などと、愚僧はこの通りの未熟者です。ささ、お早う」
僧侶の案内で本堂の中に入り、戸を閉めると不思議と外の暑さが和らぎ、涼しげな空気が肌にあたりました。
「しばしお待ち下され」
僧侶は宝燈を寝かせると、水を持ってくると外へ出て行きます。本堂の中は薄暗く、釈迦如来の坐像の周りにも蜘蛛の巣が張る位の古び様でしたが、韋黯は不思議と見苦しいとは思わず、何処か清らかな雰囲気さえ感じました。
「お水をお持ちしました。どうぞ」
「ありがとうございます」
盆の上に置かれた二杯の水の内、一杯を僧侶が宝燈に飲ませ、韋黯は自分で口を付けます。不思議なことにその水は、この暑さだというのに生温くはなく、新雪の溶けた流れから汲んだように冷たく、また味の芳しさといったら仙界の玉液かと思われるほどでした。
「これは、正しく甘露ですな!」
「王様も間も無く目を覚まされましょう、その間にもう一杯持って参ります」
「いや、誠に有難いことです」
彼が盆を持って出て行くのと入れ違いに、宝燈が目を開けて身を起こしました。
「ううん…あれ、ここは…」
「お気付きですか、殿下」
「ああ。確か、都の外に出ようとして…暑さで気を失ってしもうたか」
「はい。側にございましたこちらのお寺の住職様にお世話になっております」
「お目覚めでございますか、郡王殿下」
僧侶は盆の上に水を入れた碗と甘瓜の実を載せて戻ってくると、それを宝燈に奉って国礼を行います。
「暑気にあてられて気を失っておいでのご様子でしたので、僭越ながら此方にお運びし、必要な処置を致しました。郡王殿下に対し、御無礼の段は平にお詫びいたします」
「とんでもありません。国礼も免じます故に、ご主殿におかれましては、面をあげられませ」
宝燈は老僧の手をとって助け起こすと助けてくれた礼を述べます。
「いや、まことに助かりました。ご主殿にお助け頂けねば、
「いやいや、これも御仏様の思し召し、因縁の巡り合わせというものでございますよ。郡王殿下は日々勤行し、功徳を積まれたお方と見えます。その様なお方にお目にかかれましたこと、愚僧の方こそ今世一期の栄誉にございます」
そう言って彼は持ってきた冷水と瓜を勧め、自らは下がって控えました。
「では、ありがたく頂戴いたします。あむっ…これは、こんなに美味い瓜は、今までに食べたことがありません」
大きな瓜の肉は口に含むと味に満ちた水が広がり、心地よい冷たさと甘さが口の中を満たします。先ほど飲んだ水も甘露でしたが、瓜はその何倍も美味で、甘い物にはうるさい宝燈さえも心から唸らせるものでした。
「ご主殿、此方は何処の種のものでございますか」
「愚僧は不勉強にて、まことに申し訳ありませぬが…ですが、この瓜は毎年気まぐれに二、三実をつけるだけで、その他は全く出来ないのでございます。その代わり甘さはこの国のどの果実にも劣りませぬぞ」
説明を聞いているのかいないのか、宝燈は夢中になって瓜にむしゃぶりつき、皮まで削り取る勢いで果肉を食べ尽くすと、ゆっくりと食べていた韋黯の方にも物欲しげな視線を送ります。
「むー…」
「…差し上げませんよ」
「何も言っていないではないか!」
「目が欲しいと仰っていました!」
「ほっほっほ、気に入って頂けて嬉しゅうございます。…では、この瓜はございませぬが、今一つよく大きな実をつけた西瓜がございますので、井戸水にて冷やしてお一つ差し上げましょう」
「本当か!…ううん、いや、感謝の言葉もありませぬ。暑気あたりを助けて頂いたのみならず、この様なもてなしをして下さいまして、本当にありがとうございます。…失礼ながら、ご尊名を承りたく存じます」
「愚僧は法名を智遠と申します。この寺にて一人御仏の教えを学んでおります。…時に、郡王殿下」
「どうかなさいましたか」
「まことに恐れ多いことながら、一つお願いを書いて頂けませぬか」
「何なりと仰って下さい。ご主殿は小王の恩人でございます」
「実は先日、江夏王府の前を通りましたところ、宗廟に尊貴な方の気配を感じました。しかし、生ける者のそれではなく、恐らくは未練あってこの世に留まりし幽鬼の類ではないかと思われましたが…。何か、お心当たりがあればお聞かせ願えませぬか?」
智遠の言葉を聞いて、二人の顔がこわばります。確かに辺りの寺院や道観に法要の頼みをしてはいましたが、あくまでそれは秘密裏のもので、この様な鄙びた寺の僧侶が知っていようはずもありません。
さては李乾坤の命を受けて、何か探ろうというのではと疑いの芽が出ます。しかし、少し考えた後に宝燈は、あくまでこの寺に世話になったのは偶然のことであり、また自身を助けてくれた大恩ある人の頼みであるからと正直に事情を話しました。
「実は、先の太子様の位牌とお遺骨が、皇室の宗廟の裏手に打ち捨てられているのを見つけ、密かに持ち帰り我が家にてお祀り申し上げて居たのです。そして、盆の時節に合わせて正式な法要を差し上げようと各地の高僧や真人の方々にお願いをして参りましたが、皆罪人の太子とあって引き受けてくれませぬ。そして、今いかにすべきかと考えておりましたところで…」
「…なるほど、斯様な事情がおありでしたか。いやはや、まことにお労しいことにございます」
「は…」
「もしも愚僧でよろしければ、一度宗廟に参り、御前にて経を上げさせて頂きたく存じますが、いかがなものでしょうか」
「まことですか!」
「はい。今すぐにでも王府にお伺いし、法要を致します」
その申し出に宝燈は喜び、すぐにでも王府に戻って支度をし、迎えの駕籠を寄越すと言い出して、韋黯を連れて本堂から出て行きます。
「大丈夫ですか、殿下」
「何がだ」
「いえ、あの様な僧侶、見た目も怪しく素性も知れませぬ」
「口を慎め。寡人はあのお方に命を救われたのだぞ」
「いえ、それは分かっていますが…」
全速で大路を走り抜けて王府に戻ると、彼は王猛に指図して法要の支度を整えさせ、尊い僧侶を迎える礼をもってすることを決めます。急に言われた王猛は困惑顔でしたが、主君からたってとの言い付けですから、拒む訳にもいきません。
すぐに手際良く儀式の準備を終わらせて、お迎えの為に八人かきの駕籠も回させ、さあ出発だと言う時に、門前に来客がありました。
誰かと思い出てみると、そこに居たのは先程とは打って変わった立派な出立の智遠法師でした。長い白髭は良く整えられ、袈裟も衣も功徳を積んだ高僧のそれであるとはっきり分かります。
「これはご主殿、態々のお運び恐縮です」
「なんの、郡王殿下にご足労願ったのです、今度は愚僧が出向くべきでしょう」
智遠は身を清めた後すぐに宗廟に通され、丁重に諸王の位牌に拝礼すると、燈明を灯して線香を焚き、読経を始めます。その所作には一点の曇りも間違いも無く、長い間厳しい修行を続けてきたことが窺えました。
「南無阿弥陀仏」
と題目を唱え、長大な経文を何も見ずに一心に暗誦し、宝燈達共々手を合わせて太子の往生を願います。三人は最後まで共に法要を行い、智遠が全ての儀式を終えた時には、既に辺りは夕暮れ時になっていました。
「ありがとうございました、ご主殿。あの様に素晴らしいお経を聞いたのは初めてです。この都の気位ばかり高い寺院の僧侶に勝ること幾万倍でしょう」
「いやいや、愚僧の働きなど大したことはありませぬ。それよりも、殿下の先の太子様を供養奉ろうという厚いお心こそ、真に尊いものでございますよ」
そう言って智遠法師は、宝燈が用意した高額のお礼も、寺を立て直すための喜捨も受け取ることなく、悠然と去っていきます。その様子を見届けた邸の人々は、あれこそ真の高僧というものだと感心しきりでした。
さて、その夜。一人床に入った宝燈は不思議な夢を見ました。ふと気がつくと彼は寝室ではなく、清らかな池と、良い香りのする蓮の花が咲き乱れる美しい場所に居ました。
風は涼しく、空は青く晴れ渡り、辺りから小鳥の囀りも聞こえてきます。
「一体ここは何処だろう」
そう独り言を呟くと、背後から声をかける人があります。
「また会ったな、江夏王」
「あなたは、太子様!」
先太子李瑛は、まるで付き物が剥がれたかの様な温和な表情で立っていました。宝燈の礼を押し留めると、彼は優しげな声で謝辞を述べます。
「貴公のお陰で、寡人も無事に旅立てるというものだ。感謝の言葉も無い」
「いいえ、皆全て智遠と申します法師のお陰、小王は単にお膳立てをしたに過ぎませぬ」
「智遠?…ああ、そうか。あのお方はその様に名乗って、貴公の前に表れなさったのだなあ」
「と、言いますと…」
すると、遥か西方から太陽と見紛う程の明るい光が雲をかき分けて差し込み、二人を照らしました。そして、その中央にはとても大きな人影が見えます。
「お出でになった様だ。…寡人はもう、行かねばならぬなあ」
「太子様、まさか、法師様は…」
「さらばじゃ、江夏王。この恩は決して忘れぬ、褒美を遣わす故、取りに行くが良い。…願わくば、生きている時に見えたかったぞ」
李瑛はふわり、と浮き上がりそのまま雲の向こうへと姿を隠し去ります。お待ちを、と宝燈が手を伸ばすと、急に辺りが真っ暗になり、気が付けば彼は朝日差し込む部屋の寝台の上にいました。
「まさか、あの方は…」
その後、彼は急いで韋黯共々例の寺まで全速力で馬を走らせました。しかし、そこにはただ荒れ放題の草地が広がっているだけで、建物など何もありません。
「…辺りの住人に聞いてみましたが、やはりこの界隈に寺など昔から無かったと」
「…左様か」
韋黯の報告を聞いた宝燈は、黙然と叢を見ていましたが、ふと何か輝くものを見つけ、手に取ります。
「これは…太子様の身につけておられた、佩玉…」
透き通る様な翡翠で作られた飾りは、まるで今ここに持って来られたかの様に美しく輝いていました。
「…ありがたく、頂戴致します」
そう呟いて、彼は最後に手を合わせ、深く頭を下げました。
「邸に帰ろう、賢弟」
「は、しかし宜しいのですか」
「うん、もう良かろう。太子様も無事に逝かれたのだからな。…そうだ、帰りに西瓜でもあれば買い求めよう」
「は、はあ…」
かくして、この不思議な出来事が夏の始まりとなったのでした。続きは次回にて。
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