第七回 清明

 月変わって三月。遂に清明節の幕が開きます。この時節は、朝廷の公務はもちろん、王家の祭事、諸家との社交などの予定が前後の僅かな期間のうちに目白押しです。

 宝燈にとっては王として執り行う初めての務めであり、その資質を問われる重要な機会となるのでした。


 さて、三月に入ると俄かに都の大路には、高貴な人が乗る車や駕籠が溢れ、付き人達でびっちりと動く隙間もないほどに混み合います。

 というのも、先に説明した通り、清明節は家族を率いて先祖を祭り、墓に詣でるというのが目的の節句なのです。その為、全国に官吏や将軍として散っている京都の貴族の一門が、この行事の為に態々遠くから登ってくるのです。

 それは江夏王府とて例外ではありません。三月四日、清明節における宝燈の仕事は、五日の当日に向けて都へ登って来た、江夏王家の一族に引見するところから始まりました。


 「忠順侯様、ご到着ー!」

「ようこそいらっしゃいました」

 江夏王府の正門には、朝早くから沢山の駕籠や車がやってきては、人が降りて行って中へと吸い込まれていきます。

 彼らは皆先王や先々王の兄弟や子女で、それぞれが天子から爵位を賜り、地方で公務についていたのですが、この度の清明節、特に新王が初めて王家棟梁として務めを果たすお祭りとあって、ぜひご挨拶を申し上げなくてはと、はるばる京都へ登って来ました。

 王府では、この客人達を迎える為に部屋や食事の支度を長い時間かけて重ねてきましたが、それでも心の余裕を持つことは難しいでしょう。仮に彼らが宝燈の様に、下々の者にも慈悲深い君主であったなら、それも出来たでしょうが、生憎と彼らは大変模範的な貴族であったので、自身の家の奴隷相手に何かを斟酌する事は考えられないのでした。

「で、お客様方は皆部屋に入ったか」

「はい。西の方にてお休みになっておられます」

「ならばよし」

 一族が邸の中の宿室に入った後、宝燈は政庁を掃除させ、引見の支度をさせます。その間、自身は正装に着替えて身なりを整え、一部の隙もなく君主たる威容を纏います。

「それじゃ、行こうか、賢弟」

「はい」

 彼が政庁の大広間へ向かうと、直ぐに一族の集合を促す合図が送られます。

 すると、待機していた彼らは、速やかに政庁に集合し、王を迎えるべく待ちます。そして…

「郡王殿下のおなーりー」

「郡王殿下に拝謁致します。殿下、千歳千歳千々歳」

 朝廷をそのまま小さくしたかの様な大広間には、各地から参集した王家の人々が集まり、一斉に宝燈に向けて跪きました。

 彼らは皆爵位を持つ貴族とその子供達であり、それぞれ各地の知府や節度使、郡刺史などを務め、国を支えています。しかし、そうしたこの国の実際の支配を担う者達でさえも、宝燈との間には決して越えられない壁があり、その前ではこうして跪く以外に無いのです。

「面をあげられよ」

「ありがとうございます」

「郡王殿下に申し上げます」

 歓呼が終わると、一番前に立っている老人が、王座に向け進み出て、申し述べました。

わたくしどもは、この度先王の喪が明け、殿下が新王として、清明節の儀礼を執り行われるに際し、是非ご挨拶を申し上げねばと思い参上いたしました」

「これは痛み入ります。老大人おじいさま、忠順侯におかれては、益々意気の盛んなる事、お喜びを申し上げます」

「これは、ありがとう存じます」

 忠順侯李大寿は、先々王の弟にあたり、先王の叔父でもあります。既に還暦を大きく過ぎた彼は、王家の最長老として、他の一族からは老大人と呼ばれ敬意を払われていました。元々は一等伯爵だったのですが、長い間の忠勤が認められて、今は二等侯爵の爵位を受けています。

「時に、武昌の老太太おばあさまはお元気でしょうか。父王卒去以来、お顔を合わせる機会が有りませんでしたので」

「義姉上様は、相変わらず矍鑠としてお出でです。心肝いとしいまごの殿下にお会いしたいものだと常々申しておりました」

「ご自愛なさる様、お伝え下さい」

「ははっ」

 李大寿の挨拶が終わると、今度はまた別の親族が進み出て申し上げます。一々挨拶を書き留めていては長くなりますから、名前だけを伝える事にしましょう。

 続いて挨拶を申し上げたのは李源という人で、先王の弟君にあたり、一等伯爵の位を受けています。

 今は益州の節度使を務めていて、人当たりの良い温厚な方との評判がある人物です。

 そこから更に先王の弟で二等伯爵の位を受けている李渾、李法、李泊、李漆などが続いて挨拶を申し上げ、自身の子供達、李環、李珍、李珊、李琢智、李琲などを紹介します。

 今度は先々王の弟の子供達が前へ進み出て、ずっと歳下の宝燈の長寿を祈ります。

 この系譜の人々は、京営遊撃の職を務める一等子爵の李汎成を筆頭に、皆子爵の位を受けていて、李潘、李汕、李沢南、李博涉、李淒、李淕などが居ます。そして、先程までの例に倣い、皆それぞれ自身の玉字輩の子供達を紹介し、挨拶する様に命じます。

 その一人一人に対して、宝燈は親しげに声をかけ、幾つになっただの、いずれどの様な職につきたいかだの、どんな師匠について勉強しているのかだのを聞いて、答えがあると喜びます。

 元々彼は親族に対しては余り気にする方ではなく、葬式で顔を合わせた者達でさえ、名前も顔も余り覚えてはいませんでした。

 それでも今こうして、この様に親しげに声をかけ、笑いかけてやるのは、わざわざ遠い地方から京都へ苦労して来たのだから、せめてそれに見合う処遇をしてやらなくてはという、彼なりの優しさ故だったのです。

「では、諸兄の方々、一先ずはごゆるりとご休息なされませ。お休みになられましたら、邸の者共に、朝安の春をご案内させましょう」

 全員の挨拶が終わると、宝燈は彼らに一礼して政庁を退出します。そして、裏に回ると王猛を呼び出して言いました。

「支度は出来ておるな」

「万事。お客様方には、心置きなく物見遊山をお楽しみ頂けるでしょう」

「宜しい」

 一見すると、もてなしの為に彼が様々な工夫を凝らした様に聞こえます。しかし、その目的は決して単なるもてなしではなく、出来うる限り親族をこの邸に置きたくないという、彼の正体がバレない様にする為の危機回避でした。

「一先ず、郊外の別荘までご案内しろ。温泉もあるし、花見に最適の場所もある。そこから先は任せる」

「はい」

 実を言えば、宝燈が王位を継承する事は、何の異議も無く平穏の裡に決したのではありませんでした。先王真永の子女は彼一人であった為、当然の流れとして王世子に立てられては居たのですが、十三歳というあまりに若い年齢から、王家の中からは不安の声が噴出し、先王の多い兄弟から立てるべきだという意見が無視できぬほどに大きかったのです。

 そうした意見や謀略を押さえ込んだのが王猛や、武昌で王領を統治する丞相范仲淹を筆頭とした先王の股肱の老臣達でした。

 そして、韋黯もそれらの謀略と粛清に少なからず関わりを有していたのですが、それはここで語る事ではないでしょう。

 兎に角、元から宝燈の地位はゆらゆらと水の上で揺れる氷の様に不安定なもので、その上女である事が露見したのなら、間違いなく王位を逐われるだけでは済まないでしょう。文字通り、嫌なものは遠ざけるに越した事はないのです。


 さて、引見の後は親族全員で歴代王の位牌が祀られている敷地内の宗廟に詣でます。

 初代昭王こと、揚州大都督李孝成以来、江夏王は当代の宝燈に至るまで七代を数えています。歴代王の遺骸は武昌郊外の王陵に葬られ、また長安郊外の皇族李氏一門の霊廟にも祀られるしきたりですが、そことは別に、日常的に拝する為の廟が邸の中に設けられているのでした。

 石畳が敷かれた質素な作りの建屋の中には、「贈正一品司空揚州大都督江夏昭王李孝成」と記された位牌を中央に、貞王と諡された真永までの六人の王の位牌が祀られています。

 先頭に立って中に入った宝燈は、祭壇の前に跪いて叩頭すると、自ら茶を供えて紙銭を燃やし、線香を炊きます。

 続いて他の親族達も同じ様に茶を供え、一人一枚ずつ紙銭を焼きます。

 今回の儀礼は、あくまでも都に登った時の挨拶ですから、簡単に済まされます。本番は五日の霊廟参拝で、天子の鳳輦に供奉し、数千人の皇族と共に郊外の霊廟で祭を行うのです。

 有爵者とその子供に資格を限ってもなおそれだけの数が集まる訳ですから、行列の華麗さは天下に並ぶものはありません。

 江夏王もその中に参列し、天子、諸親王に続く三番目の立ち位置で向かうのですが、その事は今述べる必要は無いでしょう。


 宗廟への参拝が終わった後、他の王家の人々は宝燈より暇を申し渡され、皆勝手に邸から出て物見遊山へと出かけて行きました。

 王猛をはじめとした少なくない使用人や部下がその案内に出てしまったので、急に邸が閑散として静かになります。

「はぁ〜疲れた」

「お疲れ様です、殿下」

「いや、まだ終わってはおらんのだがな」

 私室で宝燈は韋黯に向けて零しました。

「まだ一日目だ。これが後五日ほど続くわけだが、正直体が持つかどうかだな」

「殿下はお出かけにはならないのですか」

「行かん。踊り子や付き人を大量に付けて出掛けるのはあまりに面倒だ。普通に行く数倍疲れるわ」

 そう言って、彼は手近の茶碗を取り上げて中身を一気に飲み干します。

「ふぅ。それに、今日から三日間は寒食節だ。美味い食事ともおさらばしなくてはならないとはな…」

 清明節の行事に付属して、寒食節という行事があります。これは、その期間の間料理に火を使わず、作り置きしておいた冷めた食事を摂る行事で、春秋時代の明君、晋の文公の故事に因むとされています。

 昔からの伝統ある行事ではあるのですが、この様にひどく多忙な時に温かく美味い食事が取れないとあれば、意欲に大きな傷がつくのは避けられません。

「やれやれ、全く損をするものだ」

 そうぼやきながらも、生真面目に彼は夜向けの支度を始めるのでした。


 遊びに出ていた者達が帰って来たのは、日が傾いて都に夜の気配が忍びつつある時間でした。尤も半分は、単に休憩と軽食が目的で、夜もまた出て行こうとする腹づもりだったのですが。

 既に東の市では提灯を灯し、歌舞音曲の声が聞こえ始めています。街の人出も、心なしか普段よりも多い様に思われ、賑わいも更に増していきます。

 案の定門前では、夜も遊びを重ねたい者と、その位は慎もうと留めようとする者がぶつかり合い、仲裁にも関わらず争いが始まっていました。

 格の高い者達が乗り出してなんとかこれを収めましたが、王家の格は強かに傷つけられた事でしょう。

 慎み派の筆頭だった李汎成は、他の兄弟達の不始末を宝燈に詫びました。

「構わないですよ。まさか、駕籠の持ち手をへし折ってしまうわけにもいきませんからね」

 笑って許した宝燈でしたが、それでも失望は否めません。

「のう、賢弟。やはり寡人には王たる器が無いのだろうか」

「まさか。殿下には間違いなく明君たる素質がお有りですとも」

「ふん、世辞のうまいことだ」

 彼は冷め切った焼餅を摘みながら、夜の庭を見回しました。もう既に花は満開となり、香りはどこまでも匂って来ます。

「早く終わらぬものかのう」

 そう言って彼は眠りに付くのですが、深夜に今度は遊びから泥酔して帰って来た輩に叩き起こされる事になるのです。

 ひとまずこの話はこれまで。


 翌朝。つまりは清明節の当日、宝燈は宮中に参上する為に早起きして支度を整えます。

 先ほども述べましたが、今日はわざわざ天子御自らが皇族を率いて霊廟に参拝なさる大行事があります。欠席は無論、遅刻する事も絶対に許されません。

「殿下、落ち着かれてはいかがでしょうか」

「落ち着いていられるか!聖上の御出座があるのだぞ!」

「いずれにしても殿下が邸を出るのはまだ先のことです。落ち着いて下さいませ」

「だが…」

「殿下、一番上の者が毅然とした態度を見せねば、下もまた揺れ動きますぞ」

「う…分かった」

 少しして、次々と一族の者達がやって来て、出立の挨拶を申し上げます。それらは身分の順に行われ、高い者ほど後の時間に行く事になっていました。

 全ての挨拶に、威厳ある態度で左様せいと応じ、皆が出終わった後に漸く自身が出立する時が来ます。

「付き人は誰だ」

「王大夫でございます。私は留守を守ります」

「賢弟、お前が付いてこないとやる気が出ぬ上に不安で仕方がないぞ」

「李氏の祭事に他家の者、それも身分の低いわたくしめが立ち入る事など叶う筈もございませぬ故」

「はぁ…可愛げがなくなったのう、お前」

 門前には郡王の様な高位の皇族が乗る豪奢な八人かきの駕籠があります。

 周りには籠の担ぎ手や、彼を守る衛士などが三十人以上控えていて、それらを率いる王猛は正装して馬に乗っています。

「では、殿下、出立致しましょう」

「うむ」

 宝燈が駕籠に乗ろうと前は踏み出すと、同時に留守を預かる者達が頭を下げて見送ります。韋黯も拝礼して送り出そうとすると…

「賢弟」

「はっ…!?」

 いつの間にか前にいた宝燈がぎゅっと彼の体を抱きしめて、耳元で囁きました。

「行ってくる」

「…は、はい。行ってらっしゃいませ」

 にこりと笑って手を振り、宝燈は駕籠に乗り込みます。

「出立!」

 単に可愛らしい少年に抱きつかれただけなのに、何故か心が揺らぎました。彼がその訳を知るのは当分後の話なのですが、ここではまだ秘密にしておく事にしましょう。


 さて、それから時が過ぎて夕刻、いやもう日は沈み切って星がちらつき始める頃合いです。宝燈も客人も居ないとあって、留守を守る韋黯はやる事が何一つ無く、延々と暇を持て余していました。

 すると、俄に門前に激しい蹄の音が幾つもやってくるのが聞こえました。何事かと思い飛んで行くと、そこに居たのはなんと他ならぬ宝燈でした!

 彼は酷く急いで戻って来た様で、顔は紅潮して額に汗が浮かび、ぜいはあと苦しげな声を漏らしています。

 周りの護衛達も同様で、馬を全速で走らせる主君に付き合わされて、ふらふらになっていました。

「一体何があったんですか!?」

「あ、賢弟…いや、ちょっとな…」

 慌てて韋黯は冷たいお茶を持ってこさせ、半ば身体を抱えるようにして彼を邸の奥へ連れて行きます。

「わざわざ馬で戻ってくるなんて…」

「いやはや、四十里単騎駆けは身体に堪える。済まないが、月影も休ませてやってくれ」

「それは典厩が既に。それで、どうして戻って来たんです?」

 運ばれて来た大椀一杯の冷茶を一気に飲み干して人心地つけると、彼は姿勢を直して言いました。

「参拝の時にとんでもない事が起きてな。急いで教えようと思って帰って来たんだ」

「その位急な事でしたか」

「うん。暇乞いもそこそこにな」

 二杯目の茶に口を付けながら、宝燈は戻って来た事情を話し始めました。


 天子の鳳輦について長安を出た宝燈は、護衛の兵士や付き人を含め一万人以上の列を成す一行の中央に陣取って、霊廟が位置する郊外の離宮に向かいました。

 その列の壮麗さは正に古今稀なほどで、先頭の騎兵は天子の証である黄色の布に巨大な龍の刺繍がされた錦の御旗、その隣に四神幡を翻らせ、深紅の衣で着飾っています。

 また、各親王や郡王は自身の称号を縫い取った色とりどりの恩賜の旗を掲げ、瑞獣があしらわれた駕籠や馬車に乗っています。

 五色様々の旗が林立する中、一際大きな黄金の鳳輦に天子が座し、その後ろには楽隊が絶えず音楽を奏でて儀礼に華を添えます。

 毎年の恒例ではあるのですが、年を経るたびに贅沢豪奢なものとなり、特に李乾坤が丞相となってからはさらにそれが顕著でした。無論眉を顰める者が居ないではなかったのですが、敢えて諫言する勇気のある者は一人もいません。

 行列は余りにも多人数だったので、向かうのにとても長い時間をかけ、急ぎはしたものの霊廟のある離宮に到着する頃には、既に日は中天を過ぎていました。

 一行は一度離宮に立ち寄って休息し、身を清めると今度は徒歩で霊廟のある山へ登ります。廟は道観に倣った形式で建てられ、入口の門には「天朝不易」の扁額が掲げられていました。

 中へ入ると、通路の脇で何百人もの道士達が夜を徹して読経し、鉦鼓を打ち鳴らし、香を炊いて歴代の皇祖らの霊を弔っています。

 香と紙銭を燃やす煙は天の雲まで届き、読経と鉦の声は長安まで聞こえてくるかと思われる程に盛大でした。

 建物の中には歴代の天子と、その係累として皇族の一門と認められた人々が祀られています。中央に高祖、その左隣に名君文皇、右隣には景皇と諡された高祖の父親の大きな位牌が置かれ、以降左右にずらりと皇族の名前が刻まれた位牌が並べられています。

 段の前には霊を供養する灯明が置かれ、毎日道士によって火を絶やさぬ様油が継ぎ足されていました。

 最初に天子とその皇子たる諸親王が参拝し、然るのちに世襲江夏王を筆頭とした郡王が、その後に国公以下の者達と続きます。

 宝燈の順は二番目の群、しかも筆頭として線香を焚き、祭文を読み上げます。この場においては、いかに李乾坤といえども彼の下に付かざるを得ません。

 そして、彼は若年に似合わずこの役目を全く文句の付けようが無い程に、上手くやってのけたのでした。


 さて、参拝の儀礼自体は何事も無く終わり、天子や諸親王が離宮へと戻られ、他の皇族達も続こうとしていた時の事。

 この事件については、宝燈の言を直接ここに書くとしましょう。

「寡人も駕籠に乗り、離宮へと帰ろうとしていたのだが…。そうしたら、不気味な声が聞こえて来たのだ。曰く、『誰かこちらに来ておくれ』とな。声は全く唐突で、駕籠の中にいてもはっきりと耳元で聞こえたんだ。…そして、不気味とはいっても、どこか威厳のある、抗えぬ声だった。もしもこれが幽鬼のそれだとはっきりわかったなら、寡人は決して駕籠から出はしなかっただろう。…声を聞いた後、寡人はすぐに王尚父を呼び出して駕籠を降り、他の皇族達が戻る列を外れて、声のする方向へと向かったのだ」

「列を抜けて来たのですか」

「うん。まあ、側から見れば初めて京都の外に出たおのぼりさんが、物珍しさに惹かれたと映ったのだろう。偶々、廟の山の木も花盛りの頃だったからな。誰も止めはしなかった。まあそれで、だ。尚父を連れて山の裏手に回ってみると…これが恐ろしくてな、打ち捨てられた墓場があったのだ」

「墓場!?」

「そう、墓場だ。石は苔むして久しく、位牌は地面に倒され、所々にバラバラになった骨が散らばっている有り様だ。木々は枯れかけていて、カラスが不気味に鳴いていた。…よもや霊廟の裏手にそんな場所があるとは、誰も知らなくてな。恐る恐る倒された位牌を拾い上げて、名前を確かめた」

「一体誰の物だったんですか」

「廃太子庶人李瑛殿下の物だった」

「はいたっ…!?」

「…元太子ともあろうお方が、お労しい限りだ」

 李瑛とは、今から十七年前に、李乾坤の陰謀によって地位を追われて庶人に降格され、挙句自裁を命じられた二番目の皇太子です。李乾坤は寿王をその後に据えようと画策していたのですが、叶わずに李享が擁立されたのでした。

「他にも、鄂廃王、長楽廃公主他、連座して処断されたと聞いた諸皇族の位牌や遺骨が散らばっていたよ。そう愕然としていた時、『ようやっと来てくれたな』と、またあの声が語りかけてきおった」

「……」

 気がつけば、韋黯はすっかり宝燈の話に聞き入っていました。興味深げな顔で続きを催促します。

「声は言った。『寡人の名前を知っておるか』と。こう答えた。『はい、前太子殿下で在らせられます』と」

「それで!」

「するとだ。目の前にぼやあっと影が出てきてな。影は形を取って人の姿になった。その人は頬は痩せこけて髭は伸びていたが、顔は聖上によく似ておいでだった。そして、服装も皇太子の衣装を着ていらっしゃった」

「狐狸の類ではありませんか?」

「獣臭くはなかったし、言葉遣いにも太子たる風格と気品があった。まあ、寡人はお会いした事が無い故何ともというところだが。それで、『前という事は、当代は異なるのか。今は誰が太子なのだ』と問われたので、『忠王殿下で在らせられます』と。『李與か。李帽かと思うたが、朝廷にもまだ心有る者が残っておった様だ。其方の名を聞かせておくれ』、『江夏王李宝燈でございます。父は貞王…敢えて諱を犯して申し上げますが、李真永でございます』。そうすると、『そうか、真永の子か。寡人が陥れられた時、権臣に諂う事無く、張九齢や李與共々寡人を庇ってくれたな。貞とは似合の諡よ』」

「確かに、先王をよくご存知の辺り、本物の前太子っていう感じがありますね」

「それで、『この度は何故に小王わたくしをお呼びになったのでしょうか』とお訊きすると、『かつて母を同じくする弟や、妹共々濡れ衣を着せられ、三族は皆殺しの憂き目にあった。その後も名誉と位階さえ奪われた寡人は、霊廟の裏に打ち捨てられて、弔う者も無くこうして他の者共と共にここに居る。しかし、このまま怨みを抱いて怨霊と化し、李朝に祟りを成すのは寡人の望むところではない。だから、どうかお前に寡人達を供養して貰いたいのだ』と」

「殿下、それは…!」

「いや、分かっておる。濡れ衣である事は天下の誰もが知るところだが、前太子殿下は大逆の罪人、まともに弔えば寡人も罪に問われる。王尚父もそう言って寡人を諌めていた。だが、父王も生きておればお引き受けしただろうと寡人は思った。あの気骨ある父王の事だ、決して放っておく事は無かったろうと。だから、その…」

「まさかそれで、お引き受けした上で持って帰ってきたんですかっ…!」

「そのまさかだ」

「な、な、なんて事をっ!」

「しーっ、しーっ!大きい声を出すな。第一、お引き受けすると申し上げて、持って行かずに放っておく事など出来はせんだろう。何、位牌をいくつか持ってきただけで、遺骨は折を見て密かに取りにやらせる。露見するような心遣いは無い」

「…本当に気をつけてくださいよ!」

「無論だとも。で、それから、もう一つある。『もしも供養をしてくれたなら、いずれ何かの形で礼をさせてもらう。供養も、盛大でなくて良い、遺骨を箱に収め、経を上げてもらうだけで満足だ』とそう仰った。まあ、その位なら容易と思ってお引き受けしたのだ」

「だとしても、迂闊が過ぎるでしょう。どこで誰が見ているかわかったものでは…」

「一応周りを兵士に見張って貰っていたから、まあ大丈夫だと思いたい。それに、わざわざ寡人に声をかけて下さったのだ。お応えしないのも申し訳が無いだろう」

「それで、急なお帰りはそれが理由ですか」

「まあ平たく言えばそうだ。表向きは宴の支度の最後の仕上げという事にしたが、正直言って他の皇族達と一緒に離宮に泊まるのは面倒だし、さっきの事を問い詰められるのも嫌だったのでな。と、もう一つ」

「何ですか?」

「いや、そのだな、失礼なのは承知なのだが…ゆ、幽霊を見たせいで震えが止まらなくてな…すぐにお前の顔を見たくなった」

「怖かったんですか?」

「ちが!…わない。正直まだ身体が震えてる」

「…もっとこっち来ます?」

「…うん」

 小さく答えて、宝燈は猫の様に身体を寄せて、韋黯にもたれかかります。

「のう、賢弟」

「はい」

「大の男の振る舞いでは無いと思うか?」

「別にそうとは思いませんよ」

「こら、気軽に撫でるな。寡人はお前の兄でもあるし、主君でもあるのだぞ」

「じゃあやめますか?」

「……続けろ。但し敬意を持ってだ」

「こうですか?」

「…まあよかろう」


 さて、この様な次第で清明節当日は終わった訳です。他にも悲喜交交様々な事があったのですが、ここに述べると長くなっていけません。

 一先ずこの話はこれまで。待ちに待った宴の話に移りましょう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る