第五回 灯夜
「ひどく疲れたな」
「進物のお渡しは無事に完了致しました」
「うん、ありがとう。交渉も上手くいった…と思いたい」
「にしても、面白いですな。結婚したいと言えばいいとは」
「殿下もお人が悪すぎる。一番人が気にしてるところだというのに…ああ、これじゃ絶対笑われるな」
「お疲れ様でございます」
「(ただ…気になるのはこの書簡だ。邸を出る時に渡されたが、随分と念を押されたな。『必ず殿下にお渡ししてくれ』と)」
「韋大夫、間も無く王府です」
「ん、ああ」
韋黯が王府へ戻って来ると、既に玄関前まで出て来ていた宝燈が、ぱっと明るい笑顔で出迎えました。
「お帰り、
「ただいま戻りました」
「貴方が心配で、お着替えもせずにずっと玄関で待っていらっしゃったのです」
そうだぞ、と誇らしげに言って、宝燈はぽんぽんと彼の肩を叩き、労いの意思を示します。
「殿下、詳しい報告は中で。一先ずは丞相よりお預かりした書簡をお渡し致します」
「うん、確かに受け取った。
「は、はぁ…」
「
宝燈は、平服を手渡すとわざとらしく顔を顰めて言いました。
「早く着替えてこい。何しろ、今のお前は臭くてたまらんぞ」
「えっ!?そんなに臭いですか?」
「ああ臭い。
「ああ、なるほど…」
はやくしろよ、と言い置いて宝燈はさっさと奥に引っ込んでしまいます。渡された服からは、春の暖かさと涼しさが入り混じった、甘く爽やかな香りがしました。
「お待たせしました」
「おお、来たか。座れ」
いつもの服装に着替えて来た韋黯を、宝燈と王猛が居間で迎えます。
「丞相はなんと?」
「結婚できない哀れな若者にお恵みを下さるそうです」
「はっはっは。それは良かったのう」
「どうせ私は碁も弱くて科挙にも受からない四男坊です」
「いやいや、悪かった。これでも寡人はお前を高く評価しているのだ。だからそういじけないでくれ」
宝燈は相変わらず笑いながらも、なんとか韋黯を宥めようと声をかけます。一方かけられた方は、恥ずかしいやらむかむかするやらで、顔を赤くしてそっぽを向いてしまいました。
「で、肝心の…」
「ああ」
宝燈が書簡の紐を解き、広げて読み始めると、その様子を緊張した面持ちで二人が見つめます。
そして、程なくして彼らは主人の表情が激しく変化しているのを見出しました。目の色が驚きから鮮明な怒りへと移り、微細な手の震えが書簡を通じた二人の目に伝わって来ます。
「殿下、丞相はなんと…」
「やってきおった。…くそっ、分かってはいたが、まさか…」
宝燈は大きく息を吸って感情を落ち着かせ、結論を口にしました。
「楊釗を…あの博打屋を御史中丞に推薦してくれと言ってきおった」
御史中丞は、官吏の不正を告発し、政治を正す役割を持つ御史台の次官で、天子への上奏の管理も職掌する重職です。
「奴を職に付ければ、また無実の者が陥れられるだけではない。益々李乾坤の力は増し、朝廷を正そうとする者は居なくなる」
「太子殿下のお立場は、より危うくなる。追い落としの為の工作は更に進むことに…」
「その通りだ。李乾坤への最も雄弁な反対者は太子殿下だ。かつてと同じ様に、恐れ多くも皇太子を讒言して引き摺り下ろそうとしているのだろう」
宝燈は苦々しげに言って、王猛の方を見直しました。
「王尚父、どう思う?奴の党与と見做されるのはまだいい、だが、助言をして下さった太子殿下の害になる様なことは絶対に出来ない」
「……そうですな。一つ言えるとすれば、李乾坤は相当焦っている様です。お若い殿下にまでこの様に協力を求めるあたり、それが透けて見えています」
「焦っている?」
「はい。奴はもう大分老齢、寿命が残り少ない事を悟っているのです。そして、その衰えに乗じて他の大臣達に地位を奪われることを恐れています」
「だが、それが太子殿下を追い落とす事とどう繋がる?」
「先王の頃、奴は前太子殿下を讒言して自裁に追い込みました。理由は単純明瞭で、あのお方が英明で傀儡に甘んじる事が無かったからです」
「ははあ、わかった。自身に反発する権臣や、地位を狙う連中が、太子殿下の下に集まるのを恐れているのだな」
「その通りです。今の宮廷に、太子殿下ほどあらゆる面で優れた皇子はいらっしゃいません。寿王殿下は、武恵妃の御子で、生まれは申し分ありませぬが、遊び好きで政治を見る気はありませぬ。永王殿下は、才覚は申し分ございませぬが、お母君のお生まれは賤しく、天子の座に着くには貴族達が納得しないでしょう」
「故に太子を二度もすげ替えてやろうと言うのだな、あの男…」
「生まれも能力も共にと言う皇子は、そういらっしゃいません。首尾よく太子殿下を追い落とすことが出来たなら、後は適当な…そう、生まれだけは一人前の方を擁立すればよろしいでしょうな」
「奴の狙いはよく理解した。…だが、焦っているからといって、状況は変わっていないのではないか?それとも、他に何か策があると?」
「はい、殿下。奴は権勢を奪われたくない、と先程申し上げましたが、それが為に非常に猜疑心が強くなっております。そして、それは他の大臣達も同じ。元より利益で繋がった連中です、他人の粗を探して栄達を望み、他方自分が嵌められる事を恐れている。そこにつけ込みましょう」
「つけ込む?」
「殿下は一先ず、その書簡に賛成する旨正式にお手紙をお出し下さい。
「そうすれば、こちらは李乾坤の疑いから逃れられ、楊釗は自分の勢力を強められる。他方奴等の身内の潰し合いは加速し、太子殿下への危険は一度遠のく…」
「加えて、楊釗当人に恩を売る事もできます。近いうちに李乾坤の後釜として、暗躍を始めるでしょうから、恩を売っておいて損はありません。奴の死んだ後までの平穏も買えるやもしれませんぞ」
「…よかろう。寡人はその手紙に署名する。王尚父よ、諸々の工作は一任する故、好きにするがいい」
「謹んで」
「殿下…」
「賢弟、お前なら寡人が今何を思っているかわかるだろう」
「はい」
「…ならいい。お前にさえ理解してもらえたなら、それで十分だ」
宝燈は乱暴に墨を擦って、正式な絹に推薦状を直筆で書き、署名して王の印璽を押します。
「尚父、此方を丞相に」
「はい」
「ああ待て!それから、この汚らわしいものを門前で燃やしてしまえ」
「殿下、それは丞相からの書簡で…」
「…寡人はこんな物、二度と見たくない。ここまで我慢したのだ。この程度の我儘は通させろ」
「…分かりました。では、私が…」
「お前はここに居ろ。尚父、誰ぞに命じて、これを門前で燃やさせてくれ。…お前には今から碁の相手をして貰う。少し頭を冷やしたいのだ」
「はい」
「碁の勝負がついたら、弓の練習にも付き合ってくれ。今日はもう、何もする気が起きぬからな」
「…承知しました」
「さて、これで終わりだな。どちらが勝ったと思う?」
「見たらわかるでしょう!?盤面真っ白じゃ無いですか…」
はっはっは、と宝燈は勝ち誇った様子で笑いました。他方、それを見せつけられた韋黯は、呆れた様に後ろに倒れ込みます。
盤面は後手ー宝燈ーの圧勝でした。
宝燈は幼い時から様々な事に触れてきたお陰か、大変に多くの趣味を持っています。宴の余興に笛を吹いたかと思えば、今度は曲に合わせて一差見事に舞って見せたり、碁を打っていたかと思えば、
今回も案の定碁で韋黯を通算何百回目かの完敗に追い込んで、憂さ晴らしをしていました。昔から彼は、何か気に入らない事があると、臣下や奴婢を殴ったり、怒鳴り散らしたりする代わりに碁や象棋を持ち出して、義理の弟をこてんぱんにやっつける事で怒りを発散させてきました。
「もしかして、また強くなりました?」
「呉長史相手にも、だんだん勝てる様になってきたぞ」
「あの
「寡人は人の十倍の速さで物を覚えられるのだ。彼と初めて打ったのが、五歳の時だからな…。むしろ、それだけ長史が強いのだ」
「その調子で、詩や剣も身につけられたらよかったですね」
「あっ!?お前、言ってはならん事を言ったな!」
「本当の事じゃないですか」
「悔しかったら…」
「一回は勝ったことありますよ?十年前に」
「外周七十四目びっしり置石したアレを勝ち局と言うのかお前は!」
「好きなだけ置いていいって殿下が…」
ぎゃいぎゃい、と勝ち負けで喧嘩をするのも昔から変わりません。普段は大人びた態度で、英邁な君主としての態度を崩さない宝燈ですが、韋黯の前では途端に幼い子供に戻ります。
「大体お前はいつもそうだな!寡人相手に年上風を吹かせながら、それらしくした事なんて一回もないだろう!」
「私が用事で留守にしてる間、寂しくて寂しくて泣いていらっしゃったのは何処の義兄上でしたかね!?」
「うぐぐ…」
互いに頬を膨らませ、唸り声で威嚇し合います。その様子はとても君主と家臣には見えないのですが、その一方で、二人の家族にも等しい繋がりを表している様でもありました。そして…
「「はぁー…」」
二人同時に息を吐いて、肩を落とす。これが、いつもの通り、喧嘩の終わりでした。お互い相手を見合わせて、偶然同時についた溜息を指して、はにかみながら笑い合うのです。後は朝の様に手を握りあえば…今まで抱えてきた怒りも、辛さも、蟠りも、全部が解けて消えてしまうのでした。
「じゃ、次は弓の練習をしようかな」
「弓ですか」
宝燈は立ち上がって、邸の奥へと入って行きます。出た先には小さな中庭が作られていて、弓の練習をする為の的が、向こうの端に架けられています。
「当たりますか?」
「寡人は百歩離れた動く的を射抜けるのだ。この程度造作もない」
そう言い捨てて、宝燈は手元の弓を取ると、矢をかつがえて撃ち出します。その様子は無造作で、形も何もあったものではありませんが、矢は空を裂いて真っ直ぐに飛び、正確に的の真ん中を射抜きました。
「おお!」
「まだまだ」
続いて放たれた二の矢は、最初の矢と全く同じ軌道をなぞり、遂にはその尻に突き立ちます。ばきばき、という音をさせながら一の矢は後ろから中心まで、雷に撃たれたかのように割れて、二の矢が深く刺さりました。
「いつ見ても惚れ惚れする様な腕前ですね」
「ふふん。剣は下手くそだが、こっちは上手いんだぞ?」
「これで弓が強くなれば、本当に敵無しですね」
「元来李氏は北方の騎馬遊牧民と戦う事で力をつけた一族。むしろ、奴等に伍するために磨いた弓の腕こそが、我らの真骨頂のはずなのだ」
「まあまあ。時代の変化という奴でしょうね」
「時代ねぇ…そう変わりはせんと思うが」
「あれ?もういいんですか?」
「ああ。弓はずっと鍛えてたし、こんなもんで終わりでいい」
「はぁ…」
「今日はもう何もやる気せんから、あとは夜まで適当に時間を潰すことにした。お前も付き合えよ」
「えぇ…」
「いいじゃないか。どうせお前も暇だろうが」
「…暇じゃありません」
「じゃあ今日は暇にしろ」
「そんな無茶苦茶な…」
結局、韋黯は日が暮れて、夕飯時になるまで宝燈の遊びと暇潰しに付き合わされる事になるのですが、詳しく述べれば余りに時間がかかるでしょう。一先ずこの話はこれまで。
「お腹すいた」
「もう日暮れですからね。周りも騒がしくなって来ましたよ」
「壁の向こうからうっすら見えるな。高楼の提灯に火が入ってる」
「
「お腹すいて来た!」
「はいはい。もうじき鹿肉の膳が来ますから、辛抱して下さい。それじゃ、私はお暇を…」
「え?お前も食っていくんだぞ。勝手に帰るな」
「はい?」
「お前、鹿丸々一頭だぞ。二人でも食べ切れるか怪しいのに、寡人一人で食べさせる気か」
「いやでも…」
「普段から夕食をたかっているくせに、今日だけ遠慮とはお前らしくもない。安心しろ、腹一杯で動けないなら泊まっていけばいいからな」
にぱっ、と宝燈が笑みを浮かべます。それを見た韋黯は、げんなりとした気分でため息をつきました。
「二年前ですかね、殿下の狩った猪を頂いたことが有りましたが…」
「結局食べ過ぎでのたうち回ってたな、お前」
「今回もそうなりたくはないんですけど」
「案ずるな。ちゃんと血は抜いてあるし、孫厨師ならきちんと解体して、美味いところを持って来てくれるぞ」
「その美味いところが食べ切れない程多いって話をですね…」
「失礼致します、殿下」
「お、できたか?」
「はい。お夕食をお持ちしました。ですが…」
「ああ、一番上等なところは林にくれてやれと言ったな。そうしてくれた様で何よりだ」
「何度も殿下にお礼を申し上げておりました。久しぶりに家族に良い物を食べさせてやれる、と」
「それは重畳…とはいえ、そんなに給金が少なかったかな…」
「まあまあ。出来たと言うのですから、今は堪能しましょうよ」
「そうするか。それじゃ、ここへ持ってきてくれ!」
「はい」
宝燈が命じると、広間に置かれた食事用の卓の上に、次々と料理が運ばれて来ます。大きくも、細かい模様がついた高い陶磁器の皿にお椀。そこには、天子には劣るとはいえ、普通の庶民では一年に一度食べられるかどうかというくらいの、贅沢な料理が山と盛り付けられていました。
「鹿の肉ですから、あまり小細工をしても仕方がありませんので。素直に、柔らかく脂の乗ったところは焼いて、香辛料を入れた汁で味付けを」
「ほほぉ…肉の中を鮮やかな赤色に保つ腕、見習いたいものだな」
「硬い肉は野菜共々煮込んで
「素晴らしい!よく分かってるじゃないか」
宝燈は自分好みの料理が沢山出てきたことに至極満足といった様子で、一刻も早く食べたいと気が急いています。
「そういえば、量が少ない様な…」
「残りは味をつけて干し肉にしてございます。何しろ、前の様に食べ過ぎで倒れられてはと」
「英断ですな」
「おい、なんで今寡人を見ながら言い切ったお前」
「いえ、その様な事は。さ、いただきましょう」
「うまく逃げおったな、この」
毒見役とばかりに、韋黯が箸を付けると、宝燈も競う様に同じ皿から肉を摘み口に運びます。普通ならば、身分の違う者同士が同じ皿から食事を取る事は殆ど無いのですが、この邸ではいつもの事です。
「ん、うまい!やはり自分で獲った物は特に美味いな」
「あ、ちょっと!喉に詰まりますからそんなに頬張ろうとしないでください」
「いや、失敬。米とよく合うものだからな…それに、この羹もいける。寡人の好みに合った優しい味付けだ」
「色々な物を煮込んで味を出してますね。鹿だけじゃなくて、他の動物の味もします」
「これで良い酒があれば…」
「まだお早いですね」
「おのれ〜」
結局のところ、お腹いっぱい好きなものを食べられるという事は、どんな贅沢にも勝るものなのでしょう。今日の夕食は欠片も残る事は有りませんでした。この話はこれまで。
「げふっ。いやー、食った食った」
「私もお腹いっぱいです」
「じゃ、寝る支度をしよう。お前はいつもの部屋に行くといい。寡人が風呂から出るまでに、寝間着とかの支度をしておくんだな」
「はーい」
「…言っておくが、覗こうなんて考えるなよ?」
「男の沐浴を見て何が楽しいんです?」
「…そうか、ならいい」
そう言って部屋を出ると、宝燈は邸の奥まった場所にある湯殿へ向かいます。貴人の沐浴には付き物の侍女や係の者は誰一人として連れてはいきません。連れて行くわけにはいかないのです。
湯殿の入り口には、使用中であることを明確に示す赤い布が引っ掛けられていて、この布がある間は、誰であっても近くに立ち入る事さえ許されません。その規定は、韋黯に対してさえ絶対のものでした。
「………」
引戸を開けて中に入ると、そこから先は彼だけのーいえ、彼女だけの空間です。宝燈にとって、何も偽らない、自分自身に戻る事ができるのは、眠る時を除けばこの時だけなのです。
一枚一枚服を脱ぎ、床の上に置かれた空の葛籠の中に入れて行きます。顔と同じ、透き通る様な真っ白な肌が露わになり、細く華奢な身体一つが服の中から現れました。
「…全く大きくなった気はしないな。喜ぶべきか、悲しむべきか」
ほんの僅かに膨らんだ自身の胸を見ながら、宝燈は小さく呟きました。声の中には、男性としての振る舞いと、消しきれぬ女性としての感情が入り混じっていて、喜びとも悲しみとも取れない、滲んだ複雑な色を作っていました。
さらに奥の戸を開けると、そこが浴場になっています。戸で遮られていた蒸気がふわりと溢れ出して、宝燈の身体を包みます。ぴた、ぴたと音を立てる、すこし冷たい木の床の感触と、この温かい蒸気は、彼女が一番に好むものの一つでした。
「(相変わらず、浴槽の温度は熱めだが…肌寒い日には丁度いいな)」
万事贅沢には冷淡で、王の威儀を整える為のものさえ好まない宝燈が、唯一諫めも聞き入れずに強引に押し通した贅沢。それが、温かいお湯での頻繁な沐浴でした。
そもそもこの時代、まず温かいお湯に自宅で浸かる事ができる事自体が大変な贅沢です。長安の各地には公衆浴場があり、料金を払って使う事ができましたが、庶民から比較的高位の官吏まで、お湯に浸かる事ができる機会はそのくらいのものでした。
加えて言えば、確かに上は天子から下は奴婢に至るまで、沐浴自体は誰でもするのですが、大体が五日に一回かそこらで、それ以上という人間も、一度の他は長く伸ばした髪を洗うのが中心で、全身丸々洗う事はあまり有りません。
そんな世の中で、宝燈は二日に一度、間を開けても三日に一度はこうして湯に浸かり、身体を洗っていました。宝燈の風呂に使う薪代が、都の江夏王府の財政でかなり大きな部分を占めていた事は間違い無いでしょう。
「(倹約倹約と言っても、これだけはどうしようもない。王府の財政が傾いている訳じゃないし、許してくれても良かろうよ)」
この辺り、やはり彼女は紛れもない王侯貴族なのでした。
ぬか袋などを使って体の垢を落とした後、深めの浴槽に身を沈め、薄ぼんやりと天井を見上げます。
「(こうしていると、やはり、お父様と一緒に入っていたことを思い出すな)」
父王が亡くなってから、宝燈はずっと一人で沐浴をしていたので、不思議と考えを巡らせる事が習慣になってきます。
「(知る者を増やしたくないとはいえ、自分自身で子供の身体を洗ってやる王侯など、後にも先にもお父様だけだろうな)」
彼女にとって、亡くなった父王と共に風呂に入るのは、身分からすれば奇特な事でしたが、嫌な事ではありませんでした。自分と父の他は誰もいない空間で過ごす時間は、とても貴重な家族の時間であったからです。
「(普段は厳格で、身分の上下に厳しいお父様だったけれど、この時だけは、何処にでもいるお父様だった)」
手に湯を掬って顔を映すと、波紋の中に昔の思い出が浮かぶとでも言うのでしょうか。彼女は、澄んだ湯の中に、すでに去ってしまった家族の面影を追いかけました。
「(動かなくなった父上の前で、尚父はわたしに何と言ったかな。…そうだ、『一刻も早く宮中へ向かって下さい。聖上に申し上げなくてはなりません』そう言っていたな)」
その時こそ、父王と過ごした時の終わりであり、少女としての宝燈が深い眠りについた時でした。まだ温かみの残る父の手を離し、涙を流すいとまも無く、幼い彼女は王とならざるを得なかったのです。
「(如何に、分家の者共に付け込ませまいとはいえ、随分と酷い手を打ってくれたものだな)」
悲しみにざわめく心を押し殺し、震えながら天子に上奏したあの日。あの日から彼は江夏王となり、父王に代わって国を治め、臣下を率い、務めを果たさなくてはならなくなったのです。
「(思えば一年間、よくも耐えられたものだ)」
父王を見送り、新王として国の政治や祭祀を執り行い、知らない事を学び続けた。楽しみを封印し、ただ良き王たらん、誇り高き君子たらんと進み続けた。そんな一年間を、まだ子供である自分が耐えられたのは何故だろうか。彼女の心中に、そんな問いが浮かびました。
「…そうだな、分かっているよ。…みんな、お前のおかげだ」
その答えだけが、唯一口から零れ落ちました。
「おーい、出たぞ」
「また長いお風呂でしたね」
「せっかく沸かしたものだからな、元を取りたいのさ」
出て来た宝燈は、勿論女だと知られない様に気をつけてはいますが、その他は気を抜いたゆるい寝間着姿です。既に簪も抜いて髪をばらけさせ、完全に寝に入る姿勢でした。
ただ、風呂から出て来たばかりだからでしょうか、頬は桃色に薄く上気していて、髪の毛は僅かに湿り気を帯びています。その上ゆるい寝間着姿ときていますから、その艶かしさは男と知っていても妙な欲望をかき立てずにはおきません。
「え、あ、その…殿下」
「ん?」
韋黯は自身のうちにある欲望に気がつき、遂に目を背けてしまいます。勿論その様な事には鈍感な宝燈ですから、彼が自分にそんな思いを抱くとは考えもしません。寧ろ、韋黯の鈍感さを自分を棚に上げて、心中非難する程でした。
「いえ、なんでもありません。それで、部屋は」 「昔の通りだ。寡人の部屋の隣で寝るといい」
「なるほど…」
「部屋はいくらでもあるというのに、お前が強情だから未だに空き部屋だぞ」
「言ったじゃないですか。私には…」
「分かってるよ。お前は、家族の住んでいた家を守らなくてはならないからな」
宝燈は前々から韋黯に、王府に間借りして住む様にと言ってきましたが、彼はそれを辞退し続けていました。一応彼は長安城内の南に小さいながら、しっかりとした家を持っていて、普段はそこから江夏王府に通っているのです。
その家は韋叡が長安勤務になっていた頃に拝領したもので、今は韋家の身分に比べて遥かに手狭になっていましたが、それでも韋黯にとっては幼い日々を過ごした、江夏王府と並んで大切な場所なのです。
「私にとっては、王府の様な大きな邸よりも、ああ言う小さな家の方が良いのです」
「ふぅん…」
そうこうしているうちに、二人は互いの部屋の前に辿り着きました。
「じゃあ、おやすみ」
「はい。また明日」
宝燈は、他よりも多少豪華な装飾がされた扉を開けて、寝室に引っ込み、それを見届けた韋黯も自分の部屋へと引き取りました。今日は疲れている、寝台に入ればすぐにでも眠り込んでしまうだろう。韋黯はそう思っていました。
「眠れない」
一人寝台で韋黯は呟きました。正直なところ、身体は酷く疲れていますし、時間も遅いのです。にも関わらず、韋黯は全く眠れず、何度も寝返りを打ちました。
「(やっぱり、気になることがあるからか)」
彼の脳裏に浮かんだ疑問は、どうやら解決されるまで眠りを許すつもりは無い様でした。
「(とはいえ、自分から話しかける訳にもいかない。もう殿下がお眠りになっているかもしれないし)」
そう思いながら彼が、薄ぼんやりと月明かりに照らされた天井を見上げていると、
「賢弟、まだ起きているか」
自分の頭上から、小さな声が聞こえました。
「殿下」
声のした方に意識を動かすと、どうやら寝台の真上に開けられた小窓からの様でした。二人の眠る部屋は、一つの小窓によって繋がれていて、そこを通じて会話をすることができます。そこには複雑な龍の透彫が施されていて、お互いの顔を見る事は難しい作りになっていました。
宝燈が寝室をこの部屋に定めたのも、部屋を覗かれることなく隣の部屋と会話ができるからで、お互い便利になる様にと、彼の使う寝台を窓の真下に置かせたのでした。
「そうか、まだ起きているか」
「…何か、ありましたか」
「いや、特に何かあった訳じゃない。…その、今日はありがとうな。寡人のわがままに付き合ってくれて、嬉しかった」
「……その、殿下」
「ん?」
この際だ、聞いてしまおう。韋黯は心の中にあった疑問を直接口にしました。
「殿下、もしも私が今日の事を断っていたら、どうしていましたか?」
「…どうした、急に」
「いえ。その、心配だったんです。この一年間、ずっとお辛かったでしょうから」
「………」
「先王薨去の直後、私は殿下に酷い事をしましたね。…殿下になく暇も差し上げず、王尚父と一緒に宮中へと引っ張って行きました」
「……」
「それから先の一年、殿下はずっと王として励まれてきました。…今日の様に遠乗りに行く事も、私と遊びに出る事も無く。弱音さえ、私以外の…いえ、私に対しても。臣下の前では見せませんでした」
「……」
「でも、私には分かります。殿下の御心は、深く深く傷ついておいでだと。…父親がいなくなった事を泣く暇も、寂しさを満たす事さえも出来なかった。いいえ、私達がそれを奪ってしまったのです」
「なるほど…お前は、そう思っていたのか」
「ですから…」
「今日付き合ってやらないと、私が壊れてしまうとでも思ったか」
「……」
そこで宝燈は言葉を切り、それきり返事をしなくなります。その代わり…
「賢弟、少し出て来い」
韋黯の寝室の戸を叩く音がして、その後からくぐもった宝燈の声がしました。
「はい、お待ち下さい」
急いで戸を開けると、肌寒い春の夜の冷気が身体に沁みます。一方、宝燈は厚めの溫袍を羽織って寒さを防いでいました。
「付いてこい」
「え、寒いんですけど…」
「いいから!」
彼は強引に韋黯の手を掴んで外へと連れ出しました。
「ここならよかろう」
宝燈はそのまま韋黯を半ば引きずって、邸の内と表を繋ぐ橋の上へと連れてきました。眼前に広がる大きな池には、空へと登る月が映りこみ、夜に咲く花達を照らし出しています。
「どうしたんですか」
「いやなに、お前の疑問に答えてやろうと言うのだ」
「……」
「賢弟、寡人の目を見ろ。…そうだ、目を逸らしてはいかん」
「はい」
「いいか、賢弟。まず、一つ目の誤解を解いてやる。今日寡人が遠乗りに出たのは、決して辛さを紛らわせる為ではないぞ」
「……」
「…寡人は、身体が鈍る、馬が走りたそうにしてる。そういう風に説明した。そして、それ以上の理由なんてどこにも無い」
「そんな…」
「なんたって、今寡人は辛くなんてないからだ」
「……」
「遠乗りをしようとしたのも、今日お前を無理矢理付き合わせたのも、みんな寡人のわがままに過ぎん。だって、長いこと喪に服して、政務ばかりしていれば、誰だってそうなるだろ」
「そう、だったんですか」
「そして二つ目。…確かに、父王が亡くなった時、寡人は辛かった。お前や尚父を恨んだ事もある。だが、そんな気持ちは今はもう無い」
「どうしてです?」
「お前が居たからだ。何もかもな」
「……」
「悲しい気持ちも、辛い気持ちも、それはそれとしてある。だが、お前はずっと寡人の側に居てくれた。言葉は少なくても、ずっとそうしてくれていた。寡人にとっては、それで十分だ」
「……」
「それに!お前如きが寡人の気持ちを測れると思ったか?自惚れるでない、寡人は常人の十倍の才能がある。心だって十倍強いのだ」
「……はい」
「心配はいらんよ、韋黯。これまでも、これからも、寡人はお前の前で我慢した事は無い。辛かったら辛いとお前には言うし、泣きたい時は胸を借りよう。今までだってそうしたはずだ。少しの間泣いて、そのまま眠る。そうすれば、どんな悲しさも寂しさも、いつの間にか溶け去ってくれるよ」
そう言って、宝燈は韋黯を優しく抱き締めました。お互いの温もりが、不安を溶かし、曇りを散らしていきます。
「殿下、これからも、私は貴方と共に歩みます」
「…そうだな、よろしく頼むよ」
韋黯が後ろへ手を回すと、宝燈は嬉しそうに微笑みました。
かくして、江夏王府のある一日は終わり、また新しい一日が始まります。
李宝燈の人生はまだ、始まったばかりでした。
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